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title: "洛陽伽藍記校注 · 建春門"
description: "洛阳伽蓝记是北魏杨衒之撰写的佛教历史地理著作，由范祥雍校注。该书成书于东魏武定年间，主要记述北魏都城洛阳佛寺的兴衰景象，反映了佛教在北魏时期的繁荣状况。书中详细记载了洛阳城内外的寺庙布局、建筑规模及宗教活动，同时涉及政治、经济和社会变迁，具有极高的史料价值。作为中国佛教史和古代城市研究的重要典籍，它不仅是研究北朝佛教传播与寺院经济的关键文献，也是了解中原文化变迁的珍贵遗产。"
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建春門內御道南，【校】吳集證本此條雖提行，但仍低一格，與下文均作為景林寺之子注。有勾盾、【校】吳琯本、漢魏本、吳集證本勾作句，同。典農、籍田三署。籍田南有司農寺。御道北有空地，擬作東宮，晉中朝時太倉處也。太倉南【校】太平寰宇記三、元河南志三皆作「西南」。有翟泉，周迴三里，即春秋所謂王子虎、晉狐偃盟於翟泉也。氷猶澄清，洞底明靜，【校】綠君亭本靜作淨。鱗甲潛藏，【校】吳琯本、漢魏本、真意堂本藏作泳。綠君亭本注云：「一作泳。」辨其魚鼈。【校】吳琯本、漢魏本、鼈作鱉，同。高祖於泉北置河南尹，中朝【校】吳琯本、漢魏本、真意堂本中上有晉字。時【校】吳集證本無時字。步廣里也。

> 建春門の御道の南側には、勾盾・典農・籍田という三つの役所があった。籍田の南には司農寺があった。御道の北側には空き地があり、もともとは東宮を建てる予定地で、晋の中朝時代には太倉があった場所である。太倉の南には翟泉という泉があり、周囲は三里ほどで、春秋時代に王子虎と晋の狐偃が翟泉で盟約を交わしたという故事の場所である。水は今も清らかで、底まで澄み切って見え、魚や亀などの生き物が潜んでいるのがよくわかる。高祖はこの泉の北側に河南尹を置いたが、それは中朝時代の步広里の跡地である。

泉西有華林園，高祖以泉在園東，因名【校】元河南志三名下有為字。蒼龍海。華林園中有大海，即漢（魏）【校】各本皆作漢。按天淵池為三國魏所鑿，見注。漢東京無天淵池，此漢字不合，疑是魏字之誤。天淵池，池中猶有文帝【校】吳集證云：「文字上疑脫去魏字。」按上漢字乃魏字之誤，故此逕云文帝，並無脫字，吳說未允。九華臺。高祖於臺上造清涼殿。世宗在海內作蓬萊山，山上有僊人館。上【校】吳琯本、漢魏本上作山。有釣臺殿，並作虹蜺閣，乘虛來往。至於三月禊日，季秋巳【校】吳琯本、漢魏本巳作良。綠君亭本、真意堂本作九。吳集證云：「按古人春秋脩禊，皆用上巳，各本誤也。」按秋禊用上巳，各書未見，吳說不知何據。辰，皇帝駕龍舟鷁首，遊於其上。【校】吳琯本、漢魏本上作山。海西有藏冰室，六月出冰以給百官。海西南有景山【校】玉海一百六十歷代殿名後魏有景陽殿，似即此殿。若然，山字疑當作陽。殿。山【校】吳琯本、漢魏本、真意堂本無山字。按據下「山西有姮娥峯」句例，當有山字。東有羲和嶺，嶺上有溫風室；山西有姮娥峰，峰上有露寒【校】吳琯本、漢魏本露寒作寒露。按羲和嶺與姮娥峯相對，溫風室與寒露館亦相對，此文似以作寒露為是。館，並飛閣相通，凌山跨谷。山北有玄武池，山南有清暑殿。殿東有臨澗亭，殿西有臨危臺。

> 泉の西には華林園があった。高祖は泉が園の東にあることから、この泉を「蒼龍海」と名付けた。華林園の中には大きな海があり、これは漢（魏）の天淵池である。池の中には、いまだに文帝の九華台が残っている。高祖はこの台の上に清涼殿を建てた。世宗は海の中に蓬莱山を築き、山の上には仙人館があった。その上には釣台殿があり、また虹蜺閣が作られ、空中を往来できるようになっていた。 三月の禊の日や、秋の終わりの巳の日には、皇帝は龍の形をした舟に乗り、その上で遊んだ。海の西には氷を貯蔵する室があり、六月になると氷を取り出して百官に支給した。海の南西には景山殿があった。山の東には羲和嶺があり、嶺の上には温風室があった。山の西には姮娥峰があり、峰の上には寒露館があった。これらはすべて飛び回廊でつながり、山を越え谷を渡っていた。山の北には玄武池があり、山の南には清暑殿があった。殿の東には臨澗亭、殿の西には臨危台があった。

景陽【校】吳琯本、漢魏本、真意堂本陽下有觀字。山南有百果園，果列作林，【校】太平御覽九百六十五引此句作「果別作一林」。林各有【校】御覽有下有一字。堂。有僊人棗，長五寸，把之兩頭俱出，核細如鍼。【校】御覽鍼作針，同。霜降乃熟，食之甚美。俗傳云出崑崙山，一曰西王母棗。又有僊人桃，其色赤，表裏照徹，得霜即熟。【校】吳琯本、漢魏本、綠君亭本、真意堂本作「得嚴霜乃熟」。太平御覽九百六十七作「得霜乃熟」。亦出崑崙山，一曰【校】御覽曰下有西字。王母桃也。

> 景陽山の南に百果園という場所があり、果物が種類ごとに林を作っています。それぞれの林には建物があります。仙人棗というナツメがあり、長さは五寸（約15センチ）ほどで、手に持つと両端がはみ出るほどです。種は細く、針のようです。霜が降りると熟し、食べるととても美味しいです。民間伝承では、これは崑崙山から来たもので、西王母の棗とも呼ばれています。また、仙人桃があり、色は赤く、内外ともに透き通っています。霜が降りると熟します。これも崑崙山から来たもので、西王母の桃とも呼ばれています。

柰林【校】唐鈎沈本柰改作果。南有【校】曾慥類說六有作百，誤。石碑一所，魏明帝【校】魏明帝之明字疑當作文，說見下「為其羽翼」注。所立也，題云「苗【校】水經穀水注作茅，下同。類說作苗，與此同。茨之碑。」高祖於碑北作苗茨堂。永安中年，莊帝習馬射於華林園，百官皆來讀碑，疑苗字誤。國子博士李同軌曰：「魏明英才，世稱三公（祖），祖（公）【校】各本公祖皆作祖公，此蓋倒誤，今正。幹、〈仲〉【校】各本皆有仲字，此脫去，今補。宣，□〈為〉【校】吳集證本亦空格，各本皆作為，今補。其羽翼，但未知本意如何，不得言誤也。」衒之時為奉朝請，因即釋曰：「以蒿覆之，【校】類說作「以蒿芝」，誤。故言苗茨，何誤之有？」眾咸稱善，以為得其旨歸。

> 柰林【校】<note>唐鈎沈本では「柰」を「果」に改めている。</note>の南に【校】<note>曾慥『類説』六では「有」を「百」としており、誤りである。</note>石碑が一つあり、魏の明帝【校】<note>魏の明帝の「明」の字は「文」であるべきかもしれない。詳しくは下記の「為其羽翼」の注を参照。</note>が建てたものである。碑には「苗【校】<note>『水経注』穀水の注では「茅」となっており、以下同様。『類説』では「苗」としており、これと同じである。</note>茨之碑」と記されている。高祖は碑の北側に苗茨堂を建てた。永安の頃、荘帝が華林園で馬術の稽古をした際、百官が皆やって来てこの碑を読んだが、「苗」の字は誤りではないかと疑った。国子博士の李同軌が言った。「魏の明帝は英才で、世に三公（祖）、祖（公）【校】<note>各本では「公祖」が「祖公」とあるが、これは倒置による誤りであろう。今、正す。</note>幹、〈仲〉【校】<note>各本には「仲」の字があるが、ここでは欠けている。今、補う。</note>宣が、□〈為〉【校】<note>呉集証本でも空格となっている。各本では「為」としており、今、補う。</note>その羽翼となったと称されている。ただ、その本意がどうであったかは分からないので、誤りだとは言えない。」衒之は当時、奉朝請であったが、すぐに説明した。「蓬（よもぎ）で覆ったから、『苗茨』というのである。どこに誤りがあろうか。」皆はこれを称賛し、その趣旨を得たものだとした。

柰林【校】唐鈎沈本柰改作果。西有都堂，有流觴池，堂東有扶桑海。凡此諸海，皆有石竇流於地下，西通穀水，東連陽渠，亦與翟泉相連。若旱魃為害，【校】吳集證本害作虐，云：「各本作害，誤。」穀水注之不竭；離畢滂潤，陽穀【校】吳集證云：「穀當作渠。」泄之不盈。至於鱗甲異品，羽毛殊類，濯波浮浪，如似自然也。

> 柰林の西に都堂があり、そこには流觴池がある。堂の東には扶桑海がある。これらの海々はすべて石の洞穴によって地下を流れ、西は穀水に通じ、東は陽渠に連なり、翟泉ともつながっている。もし旱魃が害をなせば、穀水を注いでも尽きることがなく、雨が降り注げば、陽渠に流れ出ても満ちることがない。また、鱗あるものや甲あるもの、羽あるものや毛あるものといった様々な種類の生き物が、波に漂い浮かび、まるで自然のままの姿のようである。