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title: "洛陽伽藍記校注 · 平等寺"
description: "洛阳伽蓝记是北魏杨衒之撰写的佛教历史地理著作，由范祥雍校注。该书成书于东魏武定年间，主要记述北魏都城洛阳佛寺的兴衰景象，反映了佛教在北魏时期的繁荣状况。书中详细记载了洛阳城内外的寺庙布局、建筑规模及宗教活动，同时涉及政治、经济和社会变迁，具有极高的史料价值。作为中国佛教史和古代城市研究的重要典籍，它不仅是研究北朝佛教传播与寺院经济的关键文献，也是了解中原文化变迁的珍贵遗产。"
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平等寺，廣平武穆王懷【校】吳琯本、漢魏本無王懷二字。捨宅所立也。【校】吳琯本、漢魏本、真意堂本無也字。在青陽門外二里御道北，所謂孝敬里也。堂宇宏美，林木蕭森，平臺複道，獨顯當世。

> 平等寺は、広平武穆王の懐が屋敷を捨てて建てたものです。青陽門の外二里、御道の北にあり、孝敬里と呼ばれていました。堂宇は広く美しく、林木はもの寂しく茂り、平台と複道は、その時代においてひとり際立っていました。

寺門外【校】吳集證本外下有有字。按法苑珠林五十二伽藍篇亦有有字。金像一軀，高二丈八尺，相好端嚴，常有神驗。國之吉凶，先炳祥異。孝昌三年十二月中，【校】吳集證本無中字。按珠林無中字。此像面有悲容，兩目【校】珠林無兩目二字。垂淚，遍體皆濕，時人號曰佛汗。京師士女空市里往【校】珠林無里往二字。而【校】說郛四無而字。觀之。有【校】珠林有下有一字。比丘以淨綿拭其淚，須臾之間，綿濕都盡，更換【校】說郛無換字。以它綿，【校】吳琯本、漢魏本此句作「更以他綿換」。珠林作「更以他緜換拭」。俄然復濕，如此三日乃止。【校】珠林下有至字，屬下句。明年四月，爾朱榮入洛陽，誅戮百官，死亡塗地。【校】珠林下有至字，屬下句。永安二年三月，此像復汗，士庶復往觀之。【校】珠林作「京邑士庶復往觀視」。五月，北海王【校】珠林無王字。入洛，莊帝北巡。七月，北海大敗，所將【校】吳琯本、漢魏本將誤作陁。江、淮子弟五千【校】珠林千下有「餘人」二字。盡被俘虜，無一得還。永安三年七月，此像悲泣如初。【校】珠林初下有汗字。每經神驗，朝夕（野）【校】珠林夕作野，義似長，今從之。惶懼，禁人不聽觀之。【校】珠林之作視。至十二月，爾朱兆入洛陽【校】珠林無陽字。擒莊帝，【校】珠林、說郛帝下重帝字。崩【校】吳琯本、漢魏本、真意堂本脫崩字。於晉陽。在京【校】珠林無在京二字。宮殿空虛，百日無主。唯尚書令司州牧樂平王爾朱世隆鎮京師，商旅四通，盜賊不作。建明二年，長廣王從晉陽赴京師，至郭外。世隆以長廣本枝疎【校】吳琯本、漢魏本無疎字。遠，政【校】吳琯本、漢魏本無政字。行無聞。【校】吳琯本、漢魏本聞作問。逼禪與【校】吳琯本、漢魏本、真意堂本與作位。廣陵王恭。〈恭〉【校】吳琯本、漢魏本、綠君亭本、真意堂本重恭字，是。今據補。是莊帝從父兄也。正光中，為黃門侍郎，見元义【校】吳琯本、漢魏本、真意堂本义作義。照曠閣本、吳集證本作乂。秉權，政【校】吳琯本、漢魏本政下有多字。歸近習，遂佯啞不語，【校】吳琯本、漢魏本無不語二字。不預世事。永安中，遁於上洛山中，【校】吳琯本、漢魏本無山中二字。州刺史泉企執而送之。莊帝疑恭姦詐，夜遣人盜掠衣物，復【校】吳琯本、漢魏本、真意堂本無復字。按通鑑考異引亦無復字。拔刀劍欲煞【校】各本作殺，同。之，恭張口以手指【校】通鑑考異引指作拈。舌，竟乃【校】吳琯本、漢魏本、真意堂本無乃字。按通鑑考異有乃字。不言。莊帝信其真患，放令歸第。恭常住【校】吳琯本、漢魏本、真意堂本常住二字作往。龍華寺，至時【校】吳琯本、漢魏本、真意堂本無時字。照曠閣本時作是。世隆等廢長廣而立焉。禪文曰：「皇帝咨廣陵王恭。自我皇魏之有天下也，累聖開輔，重基衍業；奄有萬邦，光宅四海。故道溢百王，德漸無外。而孝明晏駕，人神□〈乏〉王（主）。【校】吳琯本、漢魏本、真意堂本□王作乏主，今據補。吳集證本作□主。故柱國大將軍、大丞相、太原王榮地實封陝，任惟外相，乃心王室，大懼崩淪，故推立長樂王子攸以續絕業。庶九鼎之命日隆，七百之祚惟永。然羣飛未寧，橫流且及，皆狼顧鴟張，岳立基趾。【校】吳琯本、漢魏本、真意堂本趾作址。吳集證云：「基址二字疑是棊峙之誤。魏書李騫釋情賦中亦有既雲擾而海沸，亦岳立而棊峙之語。」丞相一麾，【校】吳集證本作揮。大定海內。而子攸不顧宗社，讎忌勳德，招聚【校】吳集證本聚作散，云：「當從各本作聚。」輕俠，左右壬【校】案壬字原本漫漶作士，今據綠君亭本、真意堂本、吳集證本作壬。吳琯本、漢魏本作王，亦壬之譌字。人。【校】吳琯本、漢魏本無人字。遂虐甚剖【校】吳琯本、漢魏本剖作割。心，痛齊鉗齒，【校】吳琯本、漢魏本、真意堂本鉗齒作「齒劍」。豈直金板【校】吳琯本、漢魏本、真意堂本、吳集證本板作版，同。告怨大鳥感德而已！於是天下之望，俄然已移。竊以宸極不可以【校】各本以作久。吳集證本作以，與此同。曠，神器豈容無主，故權從眾議，暫馭兆民。今六軍南邁，已次河浦，瞻望帝京，赧然興愧。自惟薄寡，【校】吳琯本、漢魏本、真意堂本薄寡作「寡薄」。本枝疎遠，豈宜仰異【校】吳琯本、漢魏本、真意堂本、吳集證本異作冀。天情，俯乖民望。惟王德表生民，聲高萬古。往以運屬殷憂，時〈遭〉多□難，【校】各本此句作「時遭多難」。吳集證本與此同。今從各本補，空格當刪。卷懷積載，括囊有年。今天眷明德，民懷奧主，曆數允集，歌訟【校】吳琯本、漢魏本訟作詞。同臻。乃徐發樞機，副茲竚屬，便敬奉璽綬，歸於別邸。王其寅踐成業，允執其【校】吳琯本、漢魏本、真意堂本其作厥。中，雖休勿休，日慎一日，敬之哉！」【校】吳琯本、漢魏本、綠君亭本、真意堂本下重「敬之哉」三字。恭讓曰：「天命至重，曆數匪輕，自非德協三才，功濟【校】吳琯本、漢魏本濟作齊。四海，無以入選帝圖，允當師錫。臣既寡昧，識無光【校】各本光作先。吳集證本作光，與此同。遠，景命雖降，不敢仰承。【校】吳琯本、漢魏本承作忝。乞收成旨，以允愚衷。」又曰：「王既德膺圖籙，僉屬攸歸；便可允執其中，入光大麓。不勞揮遜，致爽人神。」【校】吳琯本、漢魏本、真意堂本、吳集證本人神作「神人」。凡恭【校】吳琯本、漢魏本、綠君亭本、真意堂本凡恭作「恭凡」。讓者二（三），【校】各本二作三，今據正。於是即皇帝位，改號曰普泰。黃門侍郎邢子才為赦文，敘述莊帝枉煞太原王之狀。廣陵王曰：「永安手翦強臣，非為失德。直以天未厭亂，逢【校】各本逢上有故字，吳集證本無，與此同。成濟之禍。」謂左右「將詔【校】吳琯本、漢魏本、真意堂本詔作筆。吳集證云：「何本作筆，非。」按資治通鑑一百五十五作「因顧左右取筆」，則筆字自可。來，朕自作之」，直言：「門下，朕以寡德，運屬樂推，思與億兆，同茲大慶。肆【校】綠君亭本肆作賜。案通鑑作肆。眚之科，一依恒式。」廣陵杜口八載，至是始言，海內庶士，咸稱聖君。於是封長廣為東海王，世隆加儀同三司尚書令樂平王，餘官如故；贈太原王相國晉王，加九錫，立廟於芒嶺首陽上。舊有周公廟，世隆欲以太原王功比周公，故立此廟。廟成，為火所災。有一柱焚之不盡，後三日，雷雨，震電霹靂，擊為數叚（段）。【校】綠君亭本、真意堂本、吳集證本作段，是，今正。柱下石及廟瓦皆碎於山下。復命百官議【校】吳琯本、漢魏本議作設，非。通鑑亦作議。太原王配饗。司直劉季明議云：「不合。」世隆問其故。季明曰：「若配世宗，於宣武無功；若配孝明，親害其母；若配莊帝，為臣不終，【校】吳琯本、漢魏本、真意堂本終作忠。按通鑑作終，與此同。為莊帝所戮。以此論之，無所配也。」世隆怒曰：「卿亦合死。」季明曰：「下官既為議臣，依禮而言。不合聖心，俘翦【校】通鑑俘翦作「翦戮」。惟命。」議者咸歎季明不避強禦，莫不歎伏焉。世隆既有忿言，【校】自季明不避強禦至此十七字，吳琯本、漢魏本無。綠君亭本注云：「一本無季明不避強禦十七字。」季明終得無患。初，世隆北叛，莊帝遣安東將軍史仵【校】綠君亭本仵作五，注云：「一作忤，下同。」張合校云：「案魏書爾朱兆傳作下都督史仵龍，官異。」按通鑑作安東將軍史仵龍，與此同，當即據之。龍、平北將軍楊【校】綠君亭本注云：「一作羊。」吳集證云：「案魏書仵作五，楊作羊，毛本殆據書以校此也。又源子恭傳作史仵龍。」按通鑑楊作陽。文義，各領兵三千守太行領，【校】各本領作嶺，古通用。侍中源子恭【校】吳琯本、漢魏本源作原。鎮河內。及爾朱兆馬首南向，仵龍、文義等率眾先降。子恭見仵龍、文義等降，亦望風潰散。兆遂乘勝逐北，直入京師，兵及闕下，矢流王室。【校】室字各本同。張合校本作屋，疑誤。至是論功，仵龍、文義各封一千戶。廣陵王曰：「仵龍、文義，於王有勳，於國無功。」竟不許。時人稱帝剛直。彭城王爾朱仲遠，世隆之兄也，鎮滑臺，表用其下都督□瑗【校】綠君亭本瑗上無空格。吳集證云：「按魏書列傳有竇瑗裴瑗二人，未知孰是，未敢臆補。」按通鑑逕作「表用其下都督為西兗州刺史」，不著姓名，是此上缺文，北宋時已然。為西兗州刺史，先用後表。廣陵答曰：「已能近補，何勞遠聞？」世隆侍宴，〈帝〉【校】吳琯本、漢魏本、吳集證本有帝字，是。今據補。每言「太原王貪天之功，以為己力，罪有【校】吳琯本、漢魏本、綠君亭本、真意堂本有作亦。合死。」世隆等愕然。自是已後，不敢復【校】吳琯本、漢魏本無復字。入朝。輙專擅國權，兇慝滋甚。坐持【校】吳琯本、漢魏本持作符。按通鑑亦作「坐符臺省」。臺省，【校】吳琯本、漢魏本、真意堂本省下有掾字。家總萬機。事無大小，先至隆第，然後施行。天子拱己南面，無所干預。

> 寺門の外に金の像が一躯あり、高さは二丈八尺で、その姿は端正で美しく、しばしば神の験（しるし）があった。国の吉凶は、まずこの像に前兆として現れた。孝昌三年十二月の中旬、この像の顔に悲しみの表情が浮かび、両目から涙を垂らして、全身がすっかり濡れたので、当時の人々はこれを「仏の汗」と呼んだ。都の男女は市や里を空にして見物に訪れた。ある比丘が清らかな綿でその涙を拭うと、たちまちのうちに綿はすっかり濡れてしまったので、別の綿に取り替えたが、たちまちまた濡れた。この状態が三日続いてようやく止んだ。翌年の四月、爾朱栄が洛陽に入り、百官を誅殺し、死者が地面を覆った。永安二年三月、この像が再び汗をかき、人々はまた見物に訪れた。五月、北海王が洛陽に入り、荘帝は北へ巡幸した。七月、北海王は大敗し、率いていた江・淮の子弟五千人はすべて捕虜となり、一人として帰れた者はいなかった。永安三年七月、この像は初めのように悲しみ泣いた。神の験があるたびに、人々は朝夕におののき恐れ、禁じて人に見せなかった。十二月になると、爾朱兆が洛陽に入り、荘帝を捕らえ、晋陽で崩御した。都の宮殿は空虚となり、百日の間、主がいなかった。ただ尚書令・司州牧の楽平王爾朱世隆だけが都を鎮め、商人や旅人は四方に通じ、盗賊は起こらなかった。建明二年、長広王が晋陽から都へ向かい、城外に到着した。世隆は長広王が血縁的に遠く、政治的な功績も聞こえないとして、禅譲を広陵王恭に迫った。恭は荘帝の従父の兄にあたる。正光年間、黄門侍郎であったが、元乂が権力を握り、政務が側近に帰するのを見て、口がきけないふりをして語らず、世事に関わらなかった。永安年間、上洛の山中に逃れたが、州刺史の泉企が捕らえて送った。荘帝は恭が偽っているのではと疑い、夜に人を遣って衣服を盗み取らせ、さらに刀剣を抜いて殺そうとしたが、恭は口を開けて指で舌を指し、ついに語らなかった。荘帝は恭が本当に病気だと信じ、屋敷に帰ることを許した。恭は常に龍華寺に住んでいたが、その時、世隆らは長広王を廃して恭を立てた。禅譲の文は次のとおりである。「皇帝が広陵王恭に諮る。わが皇魏が天下を有して以来、累代の聖人が開き輔け、基を重ね業を広め、万邦を併せ有し、四海に光宅した。ゆえに道は百王を超え、徳は限りなく及んだ。しかるに孝明帝が崩御し、人神ともに主を欠いた。ゆえに柱国大将軍・大丞相・太原王栄は、地は実に陝を封じ、任は外相として、心を王室に尽くし、崩壊を大いに恐れ、ゆえに長楽王の子攸を推して立て、絶えた業を継がせた。九鼎の命が日に隆んに、七百の祚が永からんことを願った。しかし群飛は未だ安んぜず、横流はまさに及び、皆、狼のように顧み、鴟のように張り、岳のように立ち、基趾を築いた。丞相が一麾すれば、大いに海内を定めた。しかるに子攸は宗社を顧みず、勲徳を讎忌し、軽侠を招き集め、左右に壬人を置いた。ついに虐は剖心よりも甚だしく、痛は鉗歯に斉しく、ただ金板が怨みを告げ大鳥が徳に感ずるのみにとどまらない。ここにおいて天下の望みは、たちまち移った。窃かに思うに、宸極は以て曠しくすべからず、神器は豈に主無きを容れんや。ゆえに権に衆議に従い、暫く兆民を馭した。今、六軍は南に邁り、すでに河浦に次し、帝京を瞻望し、赧然として愧を興す。自ら薄寡を惟い、本枝疎遠にして、豈に宜しく天情を仰ぎ異にし、俯して民望に乖くべけんや。惟うに王は徳は生民に表れ、声は万古に高い。往に運は殷憂に属し、時に多難に遭い、巻懐すること積載、括囊すること有年。今、天は明徳を眷み、民は奥主を懐い、暦数は允に集まり、歌訟は同じく臻る。乃ち徐に枢機を発し、この竚属に副い、便ち敬んで璽綬を奉じ、別邸に帰せん。王はその寅に成業を践み、允にその中を執り、休むといえども休まず、日に一日として慎み、これを敬せよ。」恭は譲して曰く、「天命は至重、暦数は匪軽、自ら徳が三才に協い、功が四海を済うにあらずんば、以て帝図に入選し、允に師錫に当たること無し。臣は既に寡昧にして、識に光遠無く、景命は降ると雖も、敢えて仰ぎ承けず。乞うらくは成旨を収め、以て愚衷を允せよ。」また曰く、「王は既に徳が図籙に膺り、僉属の攸帰する所なり。便ち允にその中を執り、大麓に入り光めん。遜を揮うに労することなく、人神を爽にせしめよ。」恭の譲ること凡そ二たび、ここにおいて皇帝の位に即き、号を改めて普泰と曰う。黄門侍郎の邢子才が赦文を作り、荘帝が太原王を枉げて殺した状を叙述した。広陵王は曰く、「永安は手ずから強臣を翦った、失徳の為にあらず。ただ天が未だ乱を厭わず、成済の禍に逢ったのみ。」と。左右に謂って、「詔を持て来い、朕自らこれを作る」と言い、直ちに、「門下、朕は寡徳を以て、運は楽推に属し、億兆とともにこの大慶を同じくせんことを思う。眚を肆くの科は、一に恒式に依れ。」と。広陵王は口を杜ざすこと八載、ここに至って初めて言い、海内の庶士は、咸な聖君と称えた。ここにおいて長広を東海王に封じ、世隆は儀同三司・尚書令・楽平王を加えられ、余官はもとのまま。太原王に相国・晋王を贈り、九錫を加え、芒嶺の首陽の上に廟を立てた。旧に周公の廟があり、世隆は太原王の功を周公に比べようとして、ゆえにこの廟を立てた。廟が成ると、火によって災いを受けた。一本の柱が焼け残り、後三日、雷雨があり、震電霹靂が数段に打ち砕いた。柱の下の石および廟の瓦は皆、山下に砕け散った。また百官に命じて太原王の配饗を議させた。司直の劉季明が議して云く、「合わず。」世隆がその故を問うた。季明が曰く、「もし世宗に配せば、宣武に功無し。もし孝明に配せば、親しくその母を害せり。もし荘帝に配せば、臣として終らず、荘帝の為に戮せられたり。これをもって論ずれば、配する所無し。」世隆が怒って曰く、「卿もまた死に合う。」季明が曰く、「下官は既に議臣と為り、礼に依って言う。聖心に合わずんば、俘翦は惟だ命に従う。」議者は咸な季明が強禦を避けざるを歎じ、歎伏せざるは無かった。世隆は既に忿言があったが、季明は終に患い無く得た。初め、世隆が北に叛いたとき、荘帝は安東将軍の史仵龍、平北将軍の楊文義を遣わし、各々兵三千を領して太行領を守らせ、侍中の源子恭が河内を鎮めた。爾朱兆が馬首を南に向けるに及び、仵龍・文義らは衆を率いて先に降った。子恭は仵龍・文義らが降ったのを見て、また望風に潰散した。兆はついに勝ちに乗じて北を逐い、直ちに京師に入り、兵は闕下に及び、矢は王室に流れた。ここに至って功を論じ、仵龍・文義は各々一千戸に封ぜられた。広陵王が曰く、「仵龍・文義は、王に勳ありといえども、国に功無し。」竟に許さなかった。時の人は帝の剛直を称えた。彭城王の爾朱仲遠は、世隆の兄である。滑台を鎮め、その下都督の□瑗を西兗州刺史に用いることを表したが、先に用いて後に表した。広陵王は答えて曰く、「已に能く近く補う、何ぞ遠く聞くに労せん。」世隆が侍宴のとき、帝は毎に「太原王は天の功を貪り、以て己の力と為し、罪は死に合う。」と言った。世隆らは愕然とした。これより以後、敢えて復た入朝しなかった。輙ち専ら国権を擅にし、凶慝は滋甚であった。坐して台省を持し、家に万機を総べた。事は大小と無く、先ず隆の第に至り、然る後に施行した。天子は拱己して南面し、干預する所は無かった。

永熙元年，平陽王入纂大業，始造五層塔一所。平陽王，武穆王少子。詔中書侍郎魏收等為寺碑文。至二（三）【校】各本皆作二。按孝武帝奔長安，在永熙三年七月，十月京師遷鄴，見本書卷一永寧寺條及魏書出帝紀。此文下亦言奔長安及遷鄴事，則二字必為三字之誤，今正。年二月五日，土木畢工，【校】吳琯本、漢魏本、綠君亭本、真意堂本工作功，同。帝率百僚作萬僧【校】說郛四僧作人。會。其日，寺門外有石象【校】各本象作像。吳集證本作象。同。無故自動，低頭復舉，竟日乃止。帝躬來禮拜，怪其詭異。中書舍人盧景宣【校】吳琯本、漢魏本盧景宣譌作靈景。曰：「石立社移，上古有此，陛下何怪也？」帝乃還宮。七月中，帝為侍中斛斯椿所使，【校】照曠閣本使作逼。奔於【校】吳集證本無於字。長安。至十月終，而京師遷鄴焉。

> 永熙元年、平陽王が大業を継承し、初めて五層の塔を一つ建てました。平陽王は武穆王の末の子です。中書侍郎の魏収らに命じて寺の碑文を作らせました。二年二月五日に土木工事がすべて終わり、帝は百官を率いて万僧会を開きました。その日、寺門の外にある石象が理由もなくひとりでに動き、頭を下げてはまた上げることを、一日中続けてやっと止まりました。帝は自ら拝礼に来て、その不思議な様子を怪しみました。中書舎人の盧景宣が言いました。「石が立ち社が移ることは、上古にもありました。陛下、どうして怪しまれるのですか。」帝はそこで宮殿へ戻りました。七月に、帝は侍中の斛斯椿に迫られて長安へ逃れました。十月の終わりに、都は鄴へ移りました。