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title: "選擇傳弘決疑鈔 · 問曰一切眾生皆有佛性等事"
description: "選擇傳弘決疑鈔是日本淨土宗高僧釋良忠所著的重要佛教典籍。該書撰寫於日本鎌倉時代，是對淨土宗根本教典選擇本願念佛集的權威注釋與闡發。其核心內容在於系統闡釋淨土宗的教義精要，特別是對本願他力、念佛往生等核心概念進行了深入辨析與決疑，旨在堅固行者對淨土法門的信心。此鈔在日本淨土宗教義體系中佔有承前啟後的關鍵地位，被視為理解與弘傳淨土思想，特別是良忠一系法脈的權威依據，對後世影響深遠。"
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### 問曰一切眾生皆有佛性等事

> 問うて曰く、すべての衆生に仏性があることなどについて。

文中有二。一明二門出離。二其聖道下。望末法機。斥聖道𭄿淨土。初中有二。先問。次󷨽。󷨽中亦二。一初至火宅。正󷨽𭃡問二何者下。判二門難易。以行聖道𭄿淨土矣。問。此問意云何。󷨽。一切眾生。內有佛性外遇諸佛。內外因緣。彼此和合應當作佛。何至于今乆在生死。故致此問也。皆有佛性者。涅槃經云。一切眾生。悉有佛性。如來常住。無有變易。又云。凡有心者。皆當作佛已上。應值多佛者眾生設具佛性。若不值佛者。不可顯此理。而眾生無始流轉三道。諸佛無始示現八相。設𨿽人身佛教希有。何不值佛聞法也。若值佛聞法者。云何不顯本有佛性。乆乆流轉三界六道。大悲滿足之如來。難化能化之諸佛。継踵唱覺。吾等障重。未預開化。難問之意𭰹慚愧耳。輪迴生死者。別指分𫨻生死。文云輪迴。亦云火宅故言火宅者。如法華云三界無安。猶如火宅。眾苦充滿。甚可怖畏。󷨽曰依大乗聖教等者。問。此󷨽意者。為許一切眾生中。有不值佛者。若云許者。生死無始。輪迴已乆。而於其中。誰無見佛聞法之緣若不許者。眾生無數。種類非一。何妨亦有不值佛者。文云不得二種勝法。既云不得。測知應許不值佛者。󷨽。案此󷨽意。即許應值多佛之問不反詰故。理極成故謂生死無始故。設眾生𨿽多。一一皆有猒苦之心。佛性內薰。佛出外多。故知眾生皆應值佛。但於值佛。有結緣眾。有當機眾。今無當機現益之者。以為不得。揔而論之。一切眾生皆應值佛。故妙樂云。眾生無始恒居三道。於中誰無一毫種類已上。又大師云。即自思念。我身無際已來。共他同時發願。断惡行菩󷨊道。他盡不惜身命。行道進位。因圎果熟。證聖者。踰於大地微塵。然我等凡夫。乃至今日。虚然流浪。煩𢙉惡障。轉轉增多。福慧微微。若對重昬之臨明鏡也。忽思忖斯事。不勝心驚悲歎者哉已上。我等昔日發心修行。乍具恒沙宿善妙因。愚惜身命。虚受辛苦。得󷑆無期。只由惜身命矣。問。何置能別之言。云依大乗也。󷨽。傳云。立二門者。偏大乗意也。小乗不明淨土故。今為立二門別云大乗也。有云。小乗不論佛性。今既顯佛性之二門故。別云大乗也。問。良由已下十二字文點如何。󷨽。傳云。自死字如次至排不由可讀也。排。拂也。有云。自法字如次至得不由可讀也。排。開也。讀異意一也。其聖道一種等者。正望末法。行聖道𭄿淨土中有三。一斥。二𭄿。三寄無聖道現證。以𭄿淨土。初中二。一者道理。二文證。道理中有二由。一行時。去聖遙󷡳是也。謂釋迦去世。經一千五百餘歲。大小聖人。皆從滅沒。誰人示津是故難證。二斥機。理𭰹解微是也。謂人法二空。其理甚𭰹。見濁增機。其解微劣。何輙得悟。是故難證。如十地燈論云。難證有四種。一解微難證。非聞慧境界故。二難見難證。非思慧境界故。三離念難證非世間修慧境界故。四非心地難證。非報生善得修道智境界故。此乃示現三界心心數法。分別世間修道智。非境界故。是誰境界。實智境界。何非餘境。以出世間無漏法。非世閒有漏智境界故略抄。其聖道門。今時難證者。㨿此等義也。凡佛法修行。必量時機。若違時機。即失法利。故安樂集引正法念經云。行者一心求道時。常當觀察時方便。若不得時無方便。是名為失。不名利何者。如󷲆濕木以求火。火不可得。非時故。若折乾薪以覓水。水不可得。無智故已上。一由去大聖遙遠者問。去聖遙遠。二門是同。如何偏為聖道難證之由也。󷨽。聖道難行故。末法彌難證。淨土易行故。末法猶易往也。是故。󷓟後遙遠之旨。二門雖同。而依時分難證之義。其失專在聖道一門也。問。上世未必賢。末代未必愚。至如夫獲白玉於青山。得玄珠於赤水。成王豈可不勝於文武也。遂使隋朝智者破梁光宅。唐代遍覺斥陳真諦。乃至其例不可外求。攝論渡漢土已來百有餘年。人皆依別時意文。廢西方行後善導懷感出世。撰疏製論。破之會之。念佛興行于今強盛也。何依時分強論堪不。󷨽。於如來滅後。有正像末三時。謂有教行證名正法。有教行無證。名像法。有教無行證。名末法。末法之中無證明矣。約三時是大分明義。若約大機其證非無。而今就多分機。宜簡末世時也。但世之理亂。人之賢愚。𨿽暫興行。終是凌遲。况出世之理。無漏之道。日日𮕱减。觸目皆是也。二由理𭰹解微者問。聖道理𭰹者。即以淨土為屬淺近。若尒。念佛。則是終窮之極談。他力之妙術也。是佛法中最勝。何為淺近。󷨽。證理之道。二空為先。若依此義。聖道甚𭰹。若㨿濟凡秘術淨土為𭰹。謂佛願難思。濟凡異他。何言淺近。傳云。此有一往再往之二義。言一往者。念佛淺行。而普摂󴧸機。故𭄿念佛。言再往者。念佛𭰹行。故普化一切五逆謗法。乗佛願故皆得往生。化其極惡唯佛境界。故玄義云。佛密意弘𭰹。教門難曉。三賢十聖。弗測所󴜝已上。故知此法果分極理例如般若二空之理以為第四藏。揔持之滅重罪。以為第五藏也。二文證中。我末法時中億億眾生等者。問。起行修道未有一人得者之義。何不亘淨土耶。又彼經無此文。如何。󷨽。此取意文。謂月藏分第九云於我滅度。後五百年中諸比丘眾。猶於我法。解󷑆堅固。後五百年於我之正法。禪定三昧。得住堅固。後五百年。於我法中。讀誦多聞。得住堅固後五百年。於我法中。多造󷘳寺。得住堅固。後五百年。於我法中。闘諍言議。白法隱沒。󰡷减堅固已上。五五百中。戒定慧學。在於前三。然證聖道。不出三學。末法無證。其義明焉。淨土出離。既通法滅百歲之時。何云未有一人得者。故次引淨土經。證當今利益也。又日藏分第六護持品云。何者名為末法世時。謂讀誦人無。不依於波羅提木又。道中行若不坐禪。則不能得於三摩提。乃至。不得第四之果。乃至。不得寂滅三昧。是則名為末法世時已上。當今末法等者。指經云我末法。即釋當今末法。若約此意。可屬上文。又為顯淨土門化末法機。即釋當今末法。若約此意。可屬下文。斯乃釋尊。遙鑒未來。而記聖道之難證。道綽曲考時代。而𭄿淨土之易往也。正屬文者。釋上經文。問。法華云。於末法中欲󵘸是經等。唯識義引善見論云。末法之中有懷子法師。國王聞斯法師言證聖果。又引律云。末法之中有佛弟子。尒時國王。遇一比丘。發心受戒證聖果。比丘亦證聖果已上。准此等󵘸。末法中有聖道利益。豈非與今相違乎。󷨽。今約多分更所不󴎯末法之中。少分亦有聖道利益也。當今末法者。於佛滅後明正像末。即有多󵘸。一云。正法五百年。像法一千年。依月藏分等。二云。正法千年。像法五百年。依悲華經三云。正像各千年。末法一万年。如大悲經羣疑論三引之。四云。正像各五百年。如大乗三聚懺悔經等。具如玄記。今以此三時。配此土時代。即有七󵘸。且出兩󵘸。一法上師等依周異記云。佛當周第五主󷘏王滿五十一年壬申入滅。若依此󵘸。從彼壬申。至道綽入滅。唐大宗貞觀十九年乙巳凡歴一千五百九十四年。然綽公時年八十四遷化計入末法十一年綽公誕生。二󷲰長房依魯春秋云。佛當周第二十主匡王班四年壬子入滅若依此󵘸。從彼壬子。至貞觀十九年。凡歴一千一百九十三年。若依此󵘸。道綽在世。猶在像法也。是故。天竺聖教中。依月藏經等云正法五百年。晨且書藉中。依周異記云壬申入滅󵘸。道綽在世當末法也。二𭄿淨土中。初唯有等者。標淨土易入次是故下。直引文證所以略理證者。教證之中兼有其道理。本願化惡人故謂今時眾生。三學無分。無聖道證。淨土不尒。𨿽無三學。乗佛力。故猶得出離。如迦才云。若自知有定慧分者。即於此方修道求無上道。若自知無定慧分者。則須修淨土門。就淨土中求無上菩提已上。大經云者。正雖引第十八本願。而兼觀經下品生意。兩經十念。同本願故。斯乃約造惡機顯念佛力用也。三又復下。寄無現證𭄿淨土中二初明聖道出離當時無人。次是以下。正明對造惡機。苦勵往生也。初文中若㨿大乗等者。聖道門中有大小乗。其中大乗以證真如實相妙理。而為所期。然其理甚𭰹。措心猶難。况證悟易真如實相第一義空者。眾生淨心也。即上所言之佛性異名也。大乗止觀云。此心。即是自性清淨心。又名真如。亦名佛性。復名法身。又稱如來藏。亦號法界。復名法性已上。若論小乗修入見諦等者。小乗出離者。經三道四果。出三界六道也。言三道者。見道前三向。修道前三果後三向。無學道第四果。言四果者。須陁洹果断見惑離惡趣。斯陁含果断欲六品思。一來生欲界。阿𨙻含果盡欲下三品思不還生欲界。阿羅漢果断上界七十二品思。生證有餘。死入無余。而今文。三道中略無學道。四果中略前二果。故云乃至也。言𨙻含断五下者。阿𨙻含果断益欲界之惑。故名断五下。五下分結者。一身見。二戒禁取見。三疑。四欲貪。五嗔恚也。俱舎二十一云。何緣此五名順下分問也。此五順益下分界故謂唯欲界得下分名。斯五於彼能為順益。由後二種不能超欲界。設有能超。由前三還下。如守獄率防羅人故󷨽也。言羅漢除五上者。阿羅漢果断上界惑。此名除五上。五上分結者。一色貪。二無色貪。三掉舉。四慢。五無明也。又論云如是五種。若未断時。能令有情不超上界。順益上界故。名順上分結已上。無間道俗未有其分者。大小乗證。親見今時。若道若俗。無其人也。縱有人天等者。問。人天果報。非是出要。今何舉之置大小聖道之後釋其難得之相也。󷨽。人天果報。𨿽非出要。而舉有漏善果猶難。况顯無漏勝道不易也。五戒十善者浮囊易破。六欲四州。果報難受。當來之報。非惡者何。何故毀戒。五濁極增。起惡恒現。譬如雨󷗿。造罪猛利。譬如暴風以是因緣。故毀破戒品也。又曽未措心者解不堪大乗。未有其分者解不堪小乗。持得甚希者解不堪人天。若論已下。解今機當躰。次是以下。正𭄿往生中。縱使一形造惡等者。問。既是一形造罪凡夫如何專精但能繫意常能念佛也。󷨽。凡夫之人。由貪嗔以造罪。由淨心而念佛。念佛造罪𨿽互間𮦀。而由意樂隨犯隨懺。佛願力。故罪障自滅。終感佛󷲗也。問。穢土人天。猶以善生。淨土妙處造惡何生。依之韋提夫人。恐有餘𠎝障不得往生。善導大師。制捨諸惡我亦如是。設雖念佛。數起罪惡。何得往生。󷨽。上品下生。猶許其人善心數退惡法數起。况於中下六品人耶。但至止惡道理者。二門同存此旨然聖道門。除其惑障。顯實理。故其障難晴。隨教教談。或送三生六十劫之時節。若積四生百劫之行業。然今教意。本自起惡造罪凡夫。𨿽存諸惡莫作之理。而數忘數退。𭰹可慚愧。就如是機。彌慿他力本願。就如是機。󳇐信自身罪惡。常能念佛。期臨終暮。即現其人前誓願不虚。必坐華臺也。問。今文同上所引。縱令一生造惡之文。然彼文既云臨命終時十念相續此約臨終。今文即云常能念佛。常言所顯。定是平生。前後相違其義何會。󷨽。彼文即引第十八願。若尒。彼文不必局臨終十念。乃至言中。上盡一形無闕。平生念佛同𠬧。釋家探願意約平生之行者釋常能念佛也。問。誰知今家釋。廽心已後。宣常能念佛。迴心已前。云一形造惡。󷨽。凡夫之習。善惡二心。交𮦀不定。前念作惡。後念念佛。前念念佛。後念作惡。而付道理。恐惡勵善。薰習熟利。成往業時。惡業漸漸微薄。念佛漸漸增長。一虚一實之道理。終滅惡業。生淨土也。但若起於罪無過之思。縱𨿽念佛。不可往生是邪見故。故祖師云。十惡五逆尚信得往生。不犯小罪惡人猶生。况善人哉云云。

> 文中には二つの段がある。第一に、聖道・浄土の二門による出離を明かす。第二に、「その聖道」以下で、末法の機に向けて聖道を斥け、浄土を勧める。初めの段には二つの部分がある。まず問いを立て、次に答えを示す。答えの中にもまた二つある。第一に、初めから「火宅」に至るまでで、先の問いに直接答える。第二に、「何者ぞ」以下で、二門の難易を判別し、聖道を行じて浄土を勧める。 問う。この問いの意はどういうことか。 答える。一切の衆生は、内に仏性を有し、外に諸仏に遇う。内外の因縁が互いに和合すれば、まさに仏と成るべきである。それなのに、どうして今日に至るまで久しく生死の中にいるのか。故にこの問いを発するのである。 「皆有佛性（すべて仏性を有す）」とは、涅槃経に「一切衆生はことごとく仏性を有す。如来は常住にして、変易無し」と説かれ、また「心ある者はみな、まさに仏と成るべし」とある。 「応値多佛（まさに多くの仏に値うべきなり）」とは、衆生が仮に仏性を備えていても、もし仏に値わなければ、この理を顕わすことはできない。しかるに、衆生は無始より三道（煩悩・業・苦）を流転し、諸仏は無始より八相を現示してきた。たとえ人身を得て、仏法に遇うことは希有であっても、どうして仏に値い法を聞かないことがあろうか。もし仏に値い法を聞けば、どうして本有の仏性を顕わさず、久しく三界六道を流転するのか。 大悲満足の如来、難化を能化する諸仏が、相継いで覚りを唱えるのに、我々は障りが重く、いまだ教化にあずからない。難問の意は、深く慚愧するばかりである。 「輪廻生死」とは、別して分段生死を指す。文では「輪廻」と説き、また「火宅」とも説く。故に「火宅」と言うのは、法華経に「三界に安きことは無く、火宅の如し。衆苦充満し、甚だ怖畏すべし」とあるからである。 \*\*答えに曰く「依大乗聖教等（大乗の聖教に依る）」\*\*と。問う。この答えの意は、一切衆生の中に、仏に値わない者があることを許すのか。もし許すならば、生死は無始にして、輪廻はすでに久しい。その中で、誰が仏を見、法を聞く縁が無いというのか。もし許さないならば、衆生は無数にして、種類も一つではない。どうして仏に値わない者があるのを妨げようか。文には「不得二種勝法（二種の勝法を得ず）」とあり、「得ず」と言う以上、仏に値わない者があることを許すと推測できる。 答える。この答えの意を案ずるに、すなわち「応値多佛」の問いを許し、反詰しないのは、理が極めて成立しているからである。すなわち、生死は無始であるがゆえに、たとえ衆生が多くとも、一人一人みな苦を厭う心があり、仏性が内に薫じ、仏の出現が外に多い。故に、衆生はみな応じて仏に値うべきであると知る。ただ、仏に値うことに、結縁の衆と当機の衆とがある。今、当機として現に利益を受ける者がいないので、「得ず」とするのである。総じて言えば、一切衆生はみな応じて仏に値うべきである。故に妙楽大師は「衆生は無始より常に三道に居る。その中で、誰か一毫の種類無きことあらん」と言い、また大師（善導）は「すなわち自ら思念す。我が身は際限無きより、他と同時に発願し、悪を断じ菩薩道を行じた。他は尽く身命を惜しまず、道を行じて位に進み、因が円かにして果が熟し、聖を証した者は大地の微塵よりも多い。しかるに我ら凡夫は、今日に至るまで虚しく流浪し、煩悩・悪障は転々と増し、福慧は微々たるものなり。重き昏れを明鏡に臨むがごとし。忽ちこの事を思い計れば、心驚き悲歎せずにはいられない」と言っている。 我々は昔、発心して修行したが、あたかも恒沙の宿善の妙因を具えていた。しかし愚かに身命を惜しみ、虚しく辛苦を受け、得道の期は無かった。ただ身命を惜しむがゆえである。 問う。どうして「能別（よく別つ）」の言葉を置き、「依大乗（大乗に依る）」と言うのか。 答える。伝に曰く「二門を立てるのは、偏に大乗の意である。小乗は浄土を明かさないからである。今、二門を立てるために、別して大乗と言う」。ある説には「小乗は仏性を論じない。今、すでに仏性を顕わす二門であるので、別して大乗と言う」とある。 問う。「良由已下（良によりて已下）」の十二字の文の読み方はどうか。 答える。伝に曰く「『死』の字より順に『由』に至るまで読む。『排』は払うの意」。ある説には「『法』の字より順に『由』に至るまで読む。『排』は開くの意」。読みは異なるが、意味は一つである。 \*\*「其聖道一種等（その聖道一種）」\*\*以下は、正しく末法に向けて、聖道を行じて浄土を勧める中に、三つある。第一に斥ける、第二に勧める、第三に聖道の現証の無いことを寄せて、浄土を勧める。初めの中に、二つある。第一は道理、第二は文証である。道理の中に、二つの理由がある。「行時（修行の時）」とは、「去聖遙󷡳（聖を去ること遥かなり）」である。すなわち、釈迦の去世より一千五百余年を経て、大小の聖人はみな滅没し、誰が道を示そうか。故に証り難いのである。第二は機を斥ける。「理深解微（理は深く解は微なり）」である。すなわち、人法二空の理は甚だ深いが、見濁の増した機の解は微劣であり、どうして容易に悟ることができようか。故に証り難いのである。 十地燈論に曰く「証り難きに四種あり。一に解微にして証り難し。聞慧の境界に非ざるが故。二に見難く証り難し。思慧の境界に非ざるが故。三に念を離れて証り難し。世間の修慧の境界に非ざるが故。四に心地に非ざる証り難し。報生の善、修道智を得るの境界に非ざるが故。これは三界の心心数法が、分別の世間修・道智の境界に非ざることを示す。誰の境界ぞ。実智の境界なり。何ぞ余の境界に非ざる。出世間の無漏法は、世間の有漏智の境界に非ざるが故」。 「其聖道門、今時難証（その聖道門は、今の時節に証り難し）」とは、これらの義に基づくのである。およそ仏法の修行は、必ず時と機とを量るべきである。もし時と機に違えば、すなわち法の利益を失う。故に安楽集に、正法念経を引いて曰く「行者が一心に道を求めんとする時、常に当に時と方便とを観察すべし。もし時を得ず、方便無ければ、これを失と名づけ、利と名づけず。何となれば、湿木を以て火を求むれば、火は得べからず、時に非ざるが故。乾薪を折りて水を探れば、水は得べからず、智無きが故」。 \*\*一由去大聖遙遠（一に大聖を去ること遥かなるによる）\*\*について。問う。聖を去ること遥かなるは、二門同じである。どうして偏に聖道が証り難い理由とするのか。 答える。聖道は難行であるがゆえに、末法にはいよいよ証り難い。浄土は易行であるがゆえに、末法にもなお往生し易い。故に、聖を去るのが遥かであるという旨は、二門共に同じと言えども、時分によって証り難いという義は、その失は専ら聖道の一門にあるのである。 問う。上世が必ずしも賢いとは限らず、末代が必ずしも愚かとは限らない。例えば、白玉を青山に獲、玄珠を赤水に得るが如し。成王はどうして文武に勝ることができようか。遂には隋の智者大師が梁の光宅寺の法師を破り、唐の遍覚大師が陳の真諦を斥けた。その例は外に求めるまでもない。摂大乗論が漢土に渡来してから百有余年、人々はみな別時意の文に依って西方の行を廃したが、後に善導・懐感が世に出で、疏を撰し論を製してこれを破り会し、念仏は興行し、今に強盛である。どうして時分によって、強いて堪え・堪えざるを論ずるのか。 答える。如来の滅後には、正法・像法・末法の三時がある。すなわち、教・行・証あるを正法と名づけ、教・行あって証なきを像法と名づけ、教あって行・証なきを末法と名づける。末法の中には証が無い。三時を約すれば、これは大分明らかな義である。もし大機を約すれば、その証は無いわけではない。しかし今は、多分の機を取って、末世の時を簡ぶのである。ただ、世の治乱、人の賢愚は、一時的に興行しても、ついには衰退する。まして出世の理、無漏の道は、日に日に減損するのは、目に触れるところ皆そうである。 \*\*二由理深解微（二に理は深く解は微なるによる）\*\*について。問う。聖道の理が深いとすれば、すなわち浄土を浅近なものとすることになる。もしそうならば、念仏は終窮の極談、他力の妙術であり、これこそ仏法の中の最勝である。どうして浅近と言うのか。 答える。証理の道は、二空を先とする。もしこの義に依れば、聖道は甚だ深い。もし凡夫を済う秘術に基づけば、浄土が深い。すなわち、仏の願いは思いはかり難く、凡夫を済うことは他に異なる。どうして浅近と言うのか。伝に曰く「これに一往・再往の二義あり。一往には、念仏は浅行であり、広く機を摂する。故に念仏を勧める。再往には、念仏は深行であり、あらゆる五逆・謗法の者をも普く化する。仏願に乗ずるが故に、みな往生を得る。その極悪を化するは、ただ仏の境界のみなり」。故に玄義に曰く「仏の密意は弘く深く、教門は曉り難し。三賢十聖も、その所詮を測ること能わず」。故に知る、この法は果分の極理である。例えば、般若の二空の理を第四蔵とし、総持の滅重罪を第五蔵とするが如し。 \*\*二文証中（二の文証の中）\*\*。「我末法時中億億衆生等（我が末法の時の中、億億の衆生）」について。問う。起行修道して未だ一人も得る者無しという義は、どうして浄土に亘らないのか。また、かの経にはこの文が無い。どういうことか。 答える。これは取意の文である。すなわち、月蔵分第九に曰く「我が滅度の後、五百年の中、諸比丘衆は、なお我が法において解悟堅固ならん。後五百年、我が正法において、禅定三昧、住して堅固を得ん。後五百年、我が法中において、読誦多聞、住して堅固を得ん。後五百年、我が法中において、多く塔寺を造り、住して堅固を得ん。後五百年、我が法中において、闘諍言議、白法隱没し、減損して堅固ならん」。五百五百の中、戒・定・慧の三学は前の三つにあり。しかるに聖道を証するは、この三学を出でず。末法に証無きは、その義明らかである。浄土の出離は、すでに法滅の百歳の時にも通ず。どうして「未だ一人も得る者無し」と言うのか。故に次に浄土経を引いて、当今の利益を証するのである。 また、日蔵分第六（護持品）に曰く「何をか末法の世時と名づく。謂わく、読誦する人無く、波羅提木叉（戒律）に依らず、道中に行ぜず、坐禅せずんば、則ち三摩提を得ること能わず。乃至、第四の果を得ず。乃至、寂滅三昧を得ず。是れを則ち末法の世時と名づく」。 「当今末法（当今の末法）」等とは、経の「我末法」を指して、すなわち当今の末法を釈する。もしこの意に約せば、上文に属すべし。また、浄土門が末法の機を化することを顕わすために、すなわち当今の末法を釈する。もしこの意に約せば、下文に属すべし。すなわち、これ釈尊が遠く未来を鑑みて、聖道の証り難きを記されたのであり、道綽が曲く時代を考量して、浄土の往生し易いことを勧めたのである。正しく文に属するには、上の経文を釈する。 問う。法華経に「末法中に於いて是の経を説かんと欲す」等とあり、唯識義には善見論を引いて「末法の中に、懐子法師あり。国王、この法師の言を聞いて聖果を証す」とあり、また律を引いて「末法の中に、仏弟子あり。爾の時、国王、一比丘に遇い、発心して戒を受け聖果を証す。比丘も亦聖果を証す」とある。これらに准ずれば、末法中にも聖道の利益がある。どうして今の説と相違するのか。 答える。今は多分を約して、更に末法の中の少分の利益を論ぜず。末法の中にも、少分には聖道の利益があるのである。 \*\*「当時末法（当今末法）」\*\*とは、仏滅後に正法・像法・末法を明かすに、すなわち多くの説がある。一説には、正法五百年、像法一千年。月蔵分等に依る。二説には、正法一千年、像法五百年。悲華経に依る。三説には、正像各一千年、末法一万年。大悲経の如し（群疑論三にこれを引く）。四説には、正像各五百年。大乗三聚懺悔経等の如し。詳細は玄記に在り。今、この三時をこの土の時代に配するに、すなわち七つの説がある。二つの説を取り出せば、第一に法上師等が周異記に依り「仏は周の第五主穆王満五十一年の壬申に入滅す」と言う。もしこの説に依れば、その壬申より、道綽の入滅（唐の太宗・貞観十九年乙巳）に至るまで、凡そ一千五百九十四年を経る。綽公は時年八十四で遷化したので、計算すると末法十一年目に綽公は誕生したことになる。第二に長房が魯春秋に依り「仏は周の第二十主匡王班四年の壬子に入滅す」と言う。もしこの説に依れば、その壬子より貞観十九年に至るまで、凡そ一千一百九十三年を経る。もしこの説に依れば、道綽在世はなお像法にある。故に、天竺の聖教の中では月蔵経等に依り正法五百年とし、震旦の書籍の中では周異記に依り壬申入滅説を取るので、道綽在世は末法に当たるのである。 \*\*二勧浄土中（二、浄土を勧める中）\*\*。初めに「唯有等（唯だ有り）」で、浄土の易入を標す。次に「是故（是を以て）」の下で、直ちに文証を引く。その所以に理証を略するのは、教証の中にその道理を兼ねているからである。すなわち、本願は悪人を化するからである。謂わく、今時の衆生は三学の分無く、聖道の証無し。浄土はそうではない。三学無しと言えども、仏力に乗ずるが故に、なお出離を得る。迦才が曰く「若し自ら定慧の分有りと知らば、即ち此の土に於いて道を修して無上道を求むべし。若し自ら定慧の分無しと知らば、則ち須く浄土の門を修すべし。浄土の中に就きて無上菩提を求む」と。 \*\*「大経云（大経に云く）」\*\*等とは、正しくは第十八本願を引くが、兼ねて観経の下品の下生の意を含む。両経の十念は、本願が同じだからである。すなわち、これ造悪の機に就きて、念仏の力用を顕すのである。 \*\*三又復下（三、又復た以下）\*\*。現証の無きことを寄せて浄土を勧める中に、二つある。初めに、聖道の出離に当時人無きことを明かす。次に「是以下（是を以て以下）」で、正しく造悪の機に対して、苦励して往生を勧める。 \*\*初文中（初めの文中）\*\*。「若依大乗等（若し大乗に依らば）」等とは、聖道門の中に大乗・小乗がある。その中で、大乗は真如実相の妙理を証することをもって期するところとする。しかるに、その理は甚だ深く、心を措くことすら難しい。まして証悟はなおさらである。「真如実相第一義空」とは、衆生の浄心である。すなわち、上に言うところの仏性の異名である。大乗止観に曰く「此の心は、即ち自性清浄心、又は真如と名づけ、亦は仏性と名づけ、復た法身と名づけ、又は如来蔵と称し、亦は法界と号し、復た法性と名づく」。 \*\*「若論小乗修入見諦等（若し小乗の修入、見諦等を論ぜば）」\*\*とは、小乗の出離は、三道・四果を経て、三界六道を出ることを言う。三道と言うのは、見道（前三向）、修道（前三果後三向）、無学道（第四果）。四果と言うのは、須陀洹果（見惑を断じ悪趣を離る）、斯陀含果（欲界の六品の思惑を断じ、一来して欲界に生ず）、阿那含果（欲界の下三品の思惑を尽くし、還らずして欲界に生ず）、阿羅漢果（上界の七十二品の思惑を断じ、生きて有余涅槃を証し、死して無余涅槃に入る）。今の文では、三道の中では無学道を略し、四果の中では前の二果を略している。故に「乃至」と言うのである。 「那含断五下（那含は五下を断ず）」とは、阿那含果が欲界の惑を断じ尽くすから、断五下と名づける。五下分結とは、一に身見、二に戒禁取見、三に疑、四に欲貪、五に瞋恚である。倶舎論二十一に曰く「何の縁ぞ此の五を順下分と名づくるや。此の五は下分界を順益するが故。謂わく、唯だ欲界のみ下分の名を得。此の五は彼に於いて能く順益と為る。後に二種（欲貪・瞋恚）は欲界を超ゆることを能わず。仮に超ゆること有りと雖も、前三（身見・戒禁取見・疑）は還って下ることを為す。獄卒の律人を防ぎ羅するが如し」。 「羅漢除五上（羅漢は五上を除く）」とは、阿羅漢果は上界の惑を断じ、これを除五上と名づける。五上分結とは、一に色貪、二に無色貪、三に掉挙、四に慢、五に無明である。また論に曰く「是の如き五種は、若し未だ断ぜざれば、能く有情をして上界を超えしめず。上界を順益するが故に、順上分結と名づく」。 \*\*「無間道俗未有其分（道俗、未だその分有らず）」\*\*とは、大小乗の証りは、現に今の時節には、道・俗の区別無く、その人無きことを言う。 \*\*「縦有人天等（縦い人天有りと雖も）」\*\*について。問う。人天の果報は、出要のものではない。今、どうしてこれを挙げて、大小聖道の後に置き、その得難き相を釈するのか。 答える。人天の果報は、出要には非ざる雖も、有漏の善果すら得難いことを挙げて、況や無漏の勝道の得難さを顕わすのである。五戒十善は浮嚢の破れ易きが如く、六欲四州の果報は受け難い。当来の報は、悪に非ずして何か。何故に戒を破るのか。五濁は極めて増し、悪を起すことは常に現れる。例えば雨の如くであり、罪を造ることは猛利で、暴風の如くである。この因縁を以て、戒品を破り毀つのである。また「曽て未だ心を措かざる者」は、大乗に堪えざることを解し、「未だ其の分有らず」は、小乗に堪えざることを解し、「持得ること甚だ希なり」は、人天にも堪えざることを解く。「若し論ずれば」以下は、今の機の当体を解す。 \*\*「次是以下（次に是を以て以下）」\*\*、正しく往生を勧める中で、「縦使一形造悪等（縦い一形に悪を造ると雖も）」について。問う。すでに一形に造罪する凡夫が、どうして専精にただ念仏を専らにし、常に念仏を能くすることができるのか。 答える。凡夫は貪瞋によって罪を造り、浄心によって念仏する。念仏と造罪とは互いに間雑する雖も、意楽によって犯すごとに懺悔すれば、仏願の力により、罪障は自ら滅し、ついには仏の来迎を感ずるのである。 問う。穢土の人天でさえ、善によって生まれる。浄土の妙処に、どうして悪を造って生まれようか。これに依って、韋提希夫人は、余咎ありて往生を得ざることを恐れた。善導大師は「諸悪を捨てよ」と制し、我も亦た是の如しと。仮に念仏すと雖も、数々罪悪を起せば、どうして往生を得ようか。 答える。上品下生でさえ、なおその人の善心は数退し、悪法は数起することを許す。まして中下の六品の人においてをや。ただ、悪を止める道理に至っては、二門共にこの旨を存す。しかし、聖道門は、その惑障を除き、実理を顕わす。故にその障は晴れ難く、教えに従って、あるいは三生六十劫の時節を送り、あるいは四生百劫の行業を積む。然るに今の教意は、もとより悪を起し罪を造る凡夫が、諸悪莫作の理を存すと言えども、数々忘れ数々退くことは、深く慚愧すべきである。かかる機に就いて、ますます他力の本願に憑り、かかる機に就いて、自らの罪悪を深く信じ、常に念仏して、臨終の暮れを期す。すなわち、その人の前に現ずるという誓願は虚しからず、必ず華台に坐するのである。 問う。今の文は、上に引くところの「縦令一生造悪（縦い一生に悪を造ら令む）」の文と同じである。しかし、かの文は既に「命終の時、十念相続す」と言う。これは臨終を約する。今の文は即ち「常能念従（常に能く念仏す）」と言う。「常」の字が示すところ、定めて平生である。前後相違し、その義はどうして会するのか。 答える。かの文は即ち第十八願を引く。もしそうならば、かの文は必ずしも臨終十念に局限されない。乃至の言の中には、上は一形に尽くるも欠くこと無し。平生の念仏も同じく収められる。釈家は願意を探り、平生の行者を約して「常能念従」と釈したのである。 問う。我が家の釈は、回心の後は常に念仏すべしと宣べ、回心の前は一形に悪を造ると言うことを、誰が知るのか。 答える。凡夫の習いは、善悪二心が交雑して定まらず。前の念は悪を作り、後の念は仏を念じ、前の念は仏を念じ、後の念は悪を作る。しかるに道理を付けて、悪を恐れ善を励み、薫習が熟して利くなるに及び、往生の業を成す時には、悪の業は漸漸に微薄となり、念仏は漸漸に長増する。一虚一実の道理、ついには悪業を滅し、浄土に生まれるのである。ただ、もし罪に過ち無しと思い起せば、縦い念仏すと雖も、往生すべからず。これは邪見であるが故に。故に祖師は「十悪五逆も、尚往生を得ると信ず。小罪をも犯さざる悪人さえ猶生ず。況や善人においてをや」と言っている。