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title: "普陀洛迦新志 · 序一"
description: "普陀洛迦新志由王亨彦编纂于民国时期，是浙江普陀山佛教圣地的重要地方志。该书在明清旧志基础上增补修订，系统记载了普陀山的自然地理、寺院沿革、高僧事迹、文物典故及佛教活动。作为普陀山佛教历史的集大成之作，它不仅是研究观音道场传承的关键文献，也是了解中国近现代佛教发展的重要史料，对佛教名山文化与地方志研究具有深远影响。"
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### 序一

> 序一

釋迦入滅，以金縷袈裟付摩訶迦葉波。迦葉奉衣，住雞足山以待慈氏。據奘師所記，屈屈吒播陀（此言雞足），亦名窶盧播陀（此言尊足），在摩竭陀國，莫訶河東百餘里。道里明白如此。乃今雲南賓川之境，有雞足山，亦以為即迦葉傳衣示寂之處，著之山志。《華嚴》末會，鞞瑟胝羅居士告善財言：「南方有山，名補怛洛迦，有菩薩名觀自在。」奘師所記，為布呾洛迦。在南印度，秣羅矩吒國之南，秣剌邪山之東。道里明白如此。乃今定海縣東海中，有普陀山，亦以為即補怛洛迦，觀自在菩薩說法之處，著之山志。然則記可據乎？志可據乎？曰：是有說。地志者流，出於《山經》，禹與伯益，主名山川，量其道里，遊方之內，此其職也。至於華嚴法界，毘盧法身，超情離見，不在此類。即人即法，即依即正，毘盧之法身也。自他無礙，一異無礙，華嚴之法界也。即人即法，法之所在，佛之所在也。即依即正，佛之所在，土之所在也。法外無佛，佛外無土，觀自在外無此山，此山之外無東土、無南印度，可也。自他無礙，則此山之在東方，與此山之在西方，無礙也。一異無礙，則西方有此山，東方有此山，乃至餘方亦有此山，亦無礙也。非他非自，非一非異，則此方之山，非補怛洛迦，非在西方，乃至非在餘方，亦無礙也。事事無礙，法界性也。普賢偈曰：「如於此處見佛座，一切塵中悉如是。佛身無去亦無來，所有國土皆明現。」然則古記之文，與今志之說，為同為異，孰為可據，又不足論也。抑余之感於茲志，雞足僻在徼外，普陀介在海中，開山皆晚。而普陀當海通之後，市舶上下。在昔蓮池望洋而歎者，乃今凡夫搴裳可涉。獨雞足百年以來，日以榛翳，山之顯晦如此。然則時節因緣，固有在歟！余家騰衝，與賓川同直雲南之西。而間關千里，雖無風濤之憂，亦有泥塗之苦。然民國初元，猶得從容解兵，宿山中者旬月然後去。比居海濱，普陀一水，朝發夕至，而數歲之間，未得一往，故亦不能無感於時節因緣之說。雞足之志，草創於錢邦芑，修飾於范承勳。自茲以後，遂無繼者。余與趙介庵師，常因遊覽，別為小志，補其闕略。屬稿初定，訖未刊行。《普陀山志》自清康熙迄道光，凡三修焉。今相距僅百年，開如、了餘兩師，獨發弘願，延邑儒王雅三學博，從事纂修。書成，寄京師，屬余為序。余於此山，無一日之勤，又罕聞法要，誠不足以敍茲志。而因緣遭值，重違兩師付囑之意。得援法界之旨，稍解世俗之諍，并為雞足發凡。挂名𥳑牘，亦不可謂非幸也。

> 釈迦が入滅されるとき、金糸の袈裟を摩訶迦葉波に託されました。迦葉はその衣を奉じて、鶏足山に住み、慈氏（弥勒菩薩）が来られるのを待ちました。玄奘三蔵の記録によれば、屈屈吒播陀（これは鶏足という意味）、また窶盧播陀（これは尊足という意味）と呼ばれる山は、摩竭陀国にあり、莫訶河の東百余里のところにあります。道程はこのように明らかです。 ところが今、雲南省賓川県の地に鶏足山があり、これこそが迦葉が衣を伝え、入寂された場所であるとして、山の志（記録書）に記されています。 『華厳経』の最後の会座で、鞞瑟胝羅居士が善財童子に告げて言いました。「南方に補怛洛迦という名の山があり、そこに観自在菩薩という菩薩がおられる」と。玄奘三蔵の記録では、これを布呾洛迦と記し、南インド、秣羅矩吒国の南、秣剌邪山の東にあるとしています。道程はこのように明らかです。 ところが今、定海県の東の海の中に普陀山があり、これこそが補怛洛迦であり、観自在菩薩が説法された場所であるとして、山の志に記されています。 では、古い記録が拠り所となるのでしょうか。それとも山の志が拠り所となるのでしょうか。 これには説があります。 地誌というものは、『山海経』に由来し、禹と伯益が山川の名を定め、その道程を測量しました。この有形の世界の中を記すことが、その職務でした。しかし、華厳の法界や毘盧遮那仏の法身は、凡夫の思いや見解を超えたものであり、このような範疇には属しません。 人そのものが法であり、依報（環境）そのものが正報（主体）である、これが毘盧遮那仏の法身です。自と他に妨げがなく、一と異に妨げがない、これが華厳の法界です。 人そのものが法であるならば、法のあるところが、仏のおられる場所です。依報そのものが正報であるならば、仏のおられる場所が、浄土のある場所です。法の外に仏はなく、仏の外に浄土はありません。観自在菩薩の外にこの山はなく、この山の外に東の国も南インドもない、と言ってもよいのです。 自と他に妨げがないならば、この山が東方にあることと、この山が西方にあることは、矛盾しません。一と異に妨げがないならば、西方にこの山があり、東方にこの山があり、さらに他の方角にもこの山があることも、矛盾しません。 他でもなく自でもなく、一でもなく異でもないならば、この方の山が補怛洛迦でなく、西方にあるのでもなく、さらに他の方角にあるのでもないことも、矛盾しません。 事々無礙、これが法界の本性です。普賢菩薩の偈に言います。「ここにおいて仏の座を見るがごとく、一切の塵の中にも悉くかくのごとし。仏身は去ることなく、また来たらず、所有の国土は皆明らかに現ずる」と。 そうであるならば、古い記録の文章と、今の山志の説とが、同じか異なるか、どちらが拠り所となるかは、もはや論ずるに足りません。 むしろ私がこの山志に感じるのは、鶏足山は辺境の外にひっそりとあり、普陀山は海の中に隔てられており、開山されたのはいずれも遅かったことです。そして普陀山は海路が開かれた後、貿易船が行き交うようになりました。かつて蓮池大師が海を望んで嘆かれたその場所に、今や凡夫でも裾をからげて渡ることができるのです。ただ鶏足山だけは、この百年の間、日に日に草木が茂り覆われ、山の顕れることと隠れることとはこのようなものです。 では、時節と因縁には、確かに意味があるのでしょうか。 私の実家は騰衝にあり、賓川と同じく雲南の西に位置しています。しかし、千里の険しい道のりがあり、風波の憂いはなくとも、ぬかるみの苦労はありました。それでも民国元年の初めには、まだゆとりをもって兵を解き、山の中に十日余り滞在してから去ることができました。今、海辺に住んでいると、普陀山までは一水の隔て、朝に出発すれば夕方には着く距離ですが、数年を経ても一度も行くことができません。ですから、時節と因縁という説に感じ入らずにはいられないのです。 鶏足山の志は、銭邦芑によって草創され、范承勳によって修飾されました。それ以来、後を継ぐ者はありませんでした。私と趙介庵先生は、よく遊覧の折に、別に小さな志を作り、その欠落を補いました。原稿はほぼまとまりましたが、結局刊行には至りませんでした。 『普陀山志』は、清の康熙年間から道光年間にかけて、三度にわたって編修されました。今からわずか百年を隔てて、開如、了餘の両師が、独り弘大な願いを発し、地元の儒者である王雅三学博を招いて、編修に当たらせました。書が完成し、北京に送られてきて、私に序文を書くよう依頼がありました。 私はこの山に対して、一日も労を尽くしたわけではなく、また法の要を聞くことも稀で、誠にこの志に序文を書くには足りません。しかし、因縁に巡り合い、両師の付託の意に逆らうこともできず、法界の主旨を援用して、世俗の争いを少し解きほぐし、併せて鶏足山志の例を示すこととしました。この簡牘に名を連ねることができたことも、幸いと言わなければなりません。

中華民國十二年冬，勳三位一等文虎章．一等大綬嘉禾章．雲威將軍上將銜陸軍中將．農商總長．騰衝李根源謹序

> 中華民国十二年（1923年）の冬、勲三位・一等文虎章・一等大綬嘉禾章を授かり、雲威将軍・上将の位を帯びる陸軍中将、農商総長、騰衝出身の李根源が謹んで序を記す。