《臨安誌》云:「徑山興聖萬壽禅寺在臨安縣之北三十里,乃天目之東北山也。」開山曰「國一禅師法欽」。唐代宗時,詔杭州即其菴建徑山寺。乾符六年,改賜為乾符鎮國院。大中祥符,改賜承天禅院。政和七年,(《縣誌》云:「開禧元年」。)改能仁禅院。初欽之来是山也,猛獸不摶,鷙烏不擊,山下之民不漁不獵。有白兎二,拜跪扵杖屨間。有靈雞常随法會,不食生類,及師之長安,雞長鳴三日而死。今靈雞塚存焉。宋孝宗御書扁,有「千僧閣」,有「妙喜菴」。顯仁皇太后、高宗皇帝甞逰幸徑山,前後賜𧶘甚渥。乾道四年,乃建龍逰閣。唐代宗皇帝詔𠡠徑山國一大覺禅師:「朕聞江左有藴道禅人,德性氷霜,淨行林野。朕虛心瞻企,渴仰懸懸,有感必通,國亦大慶。願和尚遠䧏中天,𥁞朕歸向,不違願力,應物現形。今遣內侍黃鳳宣旨,特到詔迎,速副朕心。春暄,師得安否?遣此不多及。𠡠令夲府縣供送,凡到州縣,開淨院安置,官吏不許謁見,疲師心力。弟子不𥮅多少,聽其随侍。」𠡠
『臨安誌』によると、「徑山興聖萬壽禅寺は臨安県の北三十里にあり、天目山の東北に位置する」と記されています。開山は「國一禅師法欽」です。唐代宗の時代に、杭州に詔が下り、その庵を基に徑山寺が建立されました。乾符六年には、乾符鎮國院と改めて賜りました。大中祥符年間には承天禅院と改称され、政和七年(『県誌』によると開禧元年)には能仁禅院と改められました。
初めに法欽禅師がこの山に来られた時、猛獣は襲わず、猛禽も襲撃せず、山の下の住民は漁も狩りもしませんでした。白兎二匹が杖や履物の間で跪いて礼拝し、霊鶏が常に法会に従い、生き物を食べず、師が長安に行かれると、鶏は三日間鳴き続けて死にました。今でもその霊鶏塚が残っています。宋の孝宗皇帝が御筆を揮われ、「千僧閣」や「妙喜菴」があります。顕仁皇太后や高宗皇帝も徑山を訪れ、前後して多くの賜物を下さいました。乾道四年には龍逰閣が建立されました。
唐代宗皇帝は徑山國一大覺禅師に詔を下されました。「朕は江左に道を体得した禅僧がおり、その徳性は氷霜の如く清く、行いは林野の如く清浄であると聞く。朕は心を虚しくして仰ぎ、切に慕い求めておる。感応あれば必ず通じ、国もまた大いに慶ぶこととなろう。和尚には遠く中天より降臨され、朕の帰依の心を満たしてほしい。願いの力に背かず、衆生に応じて姿を現してほしい。今、内侍の黄鳳に命じて旨を宣べ、特に詔を奉じて迎えに参らせる。速やかに朕の心に応じてほしい。春の暖かさの中、師は安らかであられるか。これ以上多くは記さない。命じて、当地の府県に供給と送迎をさせ、州県に到着するごとに清浄な院に安置し、官吏は謁見して師の心力を疲れさせぬように。弟子の数は多少問わず、随従するに任せる。」と。