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title: "徑山集 · 徑山興聖萬壽禅寺之記"
description: "徑山集是明代僧人釋宗淨編著的一部佛教典籍。該書彙編了與浙江徑山寺相關的歷史文獻、祖師語錄、詩文及寺院規制等內容。其編撰於明代中葉，反映了當時禪宗的興盛面貌與徑山寺作為江南重要禪窟的歷史地位。本書不僅是研究徑山寺歷史與明代禪宗思想的重要文獻，也是了解中國佛教寺院文化與祖師傳承的關鍵資料，在佛教史籍中具有獨特的史料價值。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmgmz204d1ce5l104kjowfc4q"
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### 徑山興聖萬壽禅寺之記

> 径山興聖万寿禅寺の記

徑山乃天下竒處也。由雙徑而上，至高絕之地，五峰巉然。中夲龍湫，化為寳所，國一禅師開山扵天寳之初，特為偉異。天作地藏，待斯人而後發；道成名震，召歸長安，代宗為之執弟子禮。將相不得與大丈夫事，継之以無上，又之以法濟，坐鎮群魔，刀斮禅牀而色不動。識錢武粛王扵微時，故吳越絫世崇奉尤謹。皇朝至道中，太宗皇帝賜以御書，并佛骨舎利。元祐五年，內𦒋蘇公知杭州，革為十方，祖印悟公為苐一代住持。紹興七年，大慧禅師来主法席，衲子雲集至千七百眾。末年南歸重来，跲而復振，人境相與映發。道俗趋仰，龍神亦随，指麾而㝎。𩔰仁皇后在慈寧宮，高宗皇帝在德壽宮時，皆甞逰幸，就書「龍逰閣」扁牓。孝宗皇帝書「興聖萬壽禅寺」，又賜以《圎覺經解》，天下樷林拱稱第一。大慧以来，名德継起，神龍靈響素著，國家民庶有禱輙應，絫封「神應德濟𩔰佑廣澤王」，廟為「靈澤」，且有玉圭、玉帶、黃金瓶鑪祭器之賜，其盛極矣。然而廢興有數，不可預知，國一之後以會昌沙汰而廢。咸𨓨間，無上興之。又後八十餘年慶賞，始以感夢起廢，為屋三百楹，剪去樗櫟，手植松檜不知其幾。今之㕘天合抱之木皆是也。蒙菴禅師元聦，以慶元三年自福之雪峰被旨而来，道譽𨺼洽，不媿前人。五年仲冬，行化浙西而回禄挻災，烈風佐之，延燔棟宇一昔而𥁞。異哉！人皆以為四百年積累之業一旦掃地，有能興之非磨以𡻕月未易就也。先是，寺基局扵五峰之間，又規模不出一手，雖為屋甚夥，高下奢侈各随其時，囙陋就蕳亦復有之。眾為之請曰：「大慧無恙時，豈不能徹而更之？」顧其勢未可。兹焉火起龍堂，瞬息埃滅，豈龍神欲一新之乎？况祖師之像出扵烈燄而不燬，開山之菴四面焦灼而茅不傷，師與國一俱姓朱氏，或疑以為後身北移醬壇，涌泉成井，今日安知暫廢而當復大興邪？聦曰：「有是哉？微我誰當為之！」乃出衣盂為之倡，率學徒元韶、可逹󵓕，所在縁化，兩宮加以錫𧶘。施者聞風日集，動以萬計。又命南悟󵓕廣募閩、浙、江東西良工伐木于山，日役千軰，斤斧之聲震動山谷。凡食扵山者，無問比丘、優婆塞，相扵勧勉，智者獻謀，壯者出力，夙夜經營不翅，已移開拓舊址。首扵東偏為龍王殿，以厳香火之奉；継為香積厨，以給伊蒲之饌。延湖海大眾，則有雲堂；供水陸大齋，則列西廡。此皆一日不可緩，寺之所以立也。寳殿中峙，號普光明，長廊楼觀，外接三門，門臨雙徑，架五鳳樓九間，奉安五百應真，翼以行道閣𠲘財㕘五十三𠵊知識，仍造千僧閣以補山之闕處。前聳百尺之樓以安洪鐘，下為觀音殿，而以東西序庋《毘盧大藏經》。函鑿山之東北以廣庫堂，輦其土石置後山巨壑中。開毗耶方丈扵法堂之上，復層其屋以尊閣思陵宸𦒋御榻，修復妙喜塔亭，仍建蒙庵扵明月池上。為香水海以沐浴，為天慧堂以選僧。禅房客舘內外周備，像設雄尊金碧璀璨，法器什物所冝有者，纎悉必具，不可勝書。盖其百工兢起，眾志孚應，經始扵六年之春，成扵嘉㤗改元之夏。閱月才十餘，而變瓦礫之區為大寳坊。始者蕩廢扵一弹指頃，𠰥甚慘矣！及其興之神速，則高掩前古而又雄壯傑特，絕過扵𦾔。按圗而作，井井有條，雲棟雪脊，翬飛層叠，逈出扵𤇆霏空翠之表。春秋二會来者益眾，奔湊瞻仰如見化城，驚懼踊躍稱未曾有，徑山扵是乎大振矣！余甞登含暉之亭，如踏半空，左眺雲海，視日初出，前望都城，自西湖浙江以至越山，厯厯如指諸掌，真絕景也。為別峰寳印賦詩有「百萬桾松雙徑杳，三千樓閣五峰寒」之句，印為之撫掌，且曰：「山中之景幾無餘藴矣！」是時新創大閣，丹臒未施，上下一色，如凝霜雪，涉二十年猶属夣境。今則土木之盛何止十倍，恨未能一寓目也。𦖟忽以書相尋扵寂寞之濱，屬以記文，遣僧契日携書来見，備道始末。辭之曰：「年侵學落，筆力随衰。子之師願力宏深，成如許大佛事，不求扵重望雄文之士，而為此来何其舛邪？」求之𠕅三，拙菴又助之請，遂櫽括其語，為之大書，且告之曰：「大慧千僧閣之成，一時稱為盛舉。𠵊乎李資政之記，以為在杲公何足道？而循襲齷齪者以為竒特，不亦陋甚矣哉！𦖟之為此，初豈有意扵興作者？囙欝攸之竒變，偶人情之響合，上資國力，廣集喜捨，時節囙縁，有相之道以濟登，兹是同不可不記以傳遠。然扵師何有哉？矧國一之初，夲無可傳之法，其後瞻禮之眾傾扵億兆，財施之廣盈扵千萬，視之如幻，󵓕之扵空。居惟一室，室惟一牀，布褐陶匏，幹衣糲食，其視寵榮震耀何如也？𦖟方以此道行，而余欲以言語讃歎有為㓛德，多言益足為贅。是故言𥁞扵此，師其以為然乎？」

> 径山は天下の奇勝である。双径を辿り、高く絶えたる地に至れば、五つの峰が険しくそびえ立つ。中央はもともと龍の淵であったが、やがて仏法の聖地と変わり、国一禅師が天宝の初めにこの地を開いた。まことに偉大であり、天が作り地が藏したるこの地も、この人が現れて初めてその価値が発揮されたのである。道が成り名声が轟くと、長安に召され、代宗皇帝は弟子の礼をもって接した。将軍や宰相も及ばぬ大丈夫の事業をなし、さらに無上禅師、法済禅師へと受け継がれ、あらゆる魔を鎮め、刀で禅床を斬りつけられても動じることなく、銭武粛王がまだ身分の低い時にその非凡さを見抜いた。そのため呉越の国では代々、特に篤く崇拝した。 皇朝の至道年間、太宗皇帝は御書ならびに仏骨舎利を下賜された。元祐五年、内翰の蘇公（蘇東坡）が杭州の知事となると、この寺を十方の道場と改め、祖印悟公を第一世の住持とした。紹興七年には大慧禅師が法席を主宰し、雲集した学僧は一千七百人にも達した。晩年に南へ帰り再び訪れた時は、いったん衰えたものの再び盛り返し、人と境とが見事に調和した。道俗が敬慕し、龍神もまたその指図に従い平定された。 顕仁皇后が慈寧宮におわし、高宗皇帝が徳寿宮におわした時、ともにこの寺に行幸され、自ら「龍遊閣」の扁額を認められた。孝宗皇帝は「興聖万寿禅寺」の額を賜り、さらに『円覚経解』を下賜された。かくして天下の叢林はこぞって第一と称えた。 大慧禅師以来、名だたる高徳が相次ぎ、神龍の霊験は古くから著しく、国家や民衆の祈りには必ず応えられたため、累代にわたり「神応徳済顕佑広沢王」に封じられ、その祠を「霊沢」と名づけ、さらに玉圭、玉帯、黄金の瓶や香炉といった祭器が下賜されるほど、その隆盛は極みに達した。 しかし、盛衰には定めがあり、予測することはできない。国一禅師の後、会昌の廃仏によってこの寺は廃された。咸通年間に無上禅師が再興した。さらに八十余年後、慶賞が夢のお告げによって廃墟を再興し、三百もの堂宇を建て、役に立たない木々を刈り払い、手ずから松や檜を数えきれないほど植えた。今日、空に届かんばかりに茂る大木は、すべてこの時に植えられたものである。 蒙菴禅師元聡は、慶元三年に福州雪峰から勅命を受けてこの地に来た。その道の誉れは高く、先人に恥じることはなかった。五年の冬、浙西へ教化の旅に出ている間に、火災が起こり、烈風が火をあおり、一夜のうちに堂宇はことごとく焼け落ちてしまった。驚くべきことである。人々は、四百年の積み重ねが一夜にして無に帰した、と嘆いた。再興するには、長い年月をかけねばなるまい、と。 もともと寺の基盤は五峰の間に限られ、その規模も一人の手によるものではなかった。多くの建物があったとはいえ、その高低や華美さは時代によって異なり、粗末なものや簡略なものも混じっていた。そこで大衆が請うて言った。「大慧禅師がご無事の時、すべてを建て替えることができなかったのは、機が熟していなかったからでしょう。今、この火は龍堂から起こり、瞬く間に灰燼と帰しました。これは龍神が新たにしようとされているのでは？ ましてや祖師の像は猛火の中から現れても焼けず、開山の庵は四方が焼け焦げても茅は傷つきませんでした。師は国一禅師と同じく朱姓を名乗られ、あるいはその化身とも疑われます。北の醤壇を移せば泉が涌き出て井戸となったといいます。今日の一時の廃絶も、やがて大いに復興するための前兆ではありましょうか？」 聡は言った。「なるほど、そういうことか。我をおいて誰がこれを成し遂げられよう！」そこで自らの衣鉢を擲ち、率先して喜捨を募り、学徒の元韶、可達らを率いて、あらゆる所で勧進を行った。両宮からは下賜品が与えられた。施主たちは風の知らせを聞いて日々集まり、その額は一万を数えた。さらに南悟に命じて、福建、浙江、江西、安徽の各地から優れた工匠を広く募り、山中で木を伐採させ、日々千人もの人夫が働き、手斧やノコギリの音が山谷を震わせた。山中に食する者すべて、比丘も優婆塞も問わず、互いに励まし合い、知恵ある者は知恵を出し、力ある者は力を尽くし、昼夜を問わず営み、その努力は並大抵のものではなかった。 まず東の片隅に龍王殿を建て、香火の奉納を厳かに行った。続いて香積厨（厨房）を建て、僧侶の食事を調えた。江湖の大衆をもてなすために雲堂を設け、水陸大斎を行うために西の廂を並べた。これらは一日も欠かせぬもの、寺を成り立たせる基本である。宝殿は中央にそびえ立ち、「普光明」と号する。長い回廊や楼閣は外側の三門にまで連なり、門は双径に臨んでいる。五鳳楼は九間の規模で、五百羅漢を安置し、両側には行道上の閣があり、善財童子の五十三参の図が描かれている。さらに千僧閣を建てて、山の欠けたところを補った。手前には百尺の楼を聳え立たせて大鐘を吊るし、その下に観音殿を設け、東西の廊には『毘盧大蔵経』を収めた。山の東北を穿って庫堂を広げ、その土石を後ろの山の大きな谷に運び埋めた。法堂の上に毗耶方丈（住持の居室）を開き、さらにその上に楼を重ねて、思陵（高宗）の宸筆や御座所を安置した。妙喜塔亭を修復し、明月池のほとりには蒙庵を建てた。香水海を設けて沐浴の用とし、天慧堂を建てて僧侶を選抜した。禅房や客舘は内外に行き渡り、仏像は雄大荘厳で金碧輝き、法器や什器は必要なものがすべて細部にわたり備わり、書き尽くせないほどである。 かくして、様々な工匠たちが競って働き、人々の心は一致して応じた。工事は慶元六年の春に始まり、嘉泰元年の夏に完成した。わずか十余月で、瓦礫の地を大いなる仏寺に変えたのである。当初は一弾指の間に焼け落ち、まことに痛ましいことであった。しかしその再興の速さは古にも勝り、しかもその雄大さ、壮麗さ、傑出していることは以前をはるかに凌いでいた。図面に従って造られ、井然として秩序があり、雲のごとき棟、雪のごとき瓦が、朱塗りの軒を連ねて幾重にも重なり、煙や雲のかかった深緑の上にそびえ立っている。春秋の法会には来る者がますます増え、人々は駆け寄って仰ぎ見、あたかも化城（幻の都）を見るかのように、驚き喜び踊り、かつてないと称えた。こうして径山は大いに再興したのである。 私はかつて含暉の亭に登り、半空に足を踏み入れた心地がした。左に雲海を眺め、朝日が昇るのを見、前方には都が見え、西湖、浙江から越山に至るまで、手のひらを指すように歴々と見渡せる。実に絶景である。別峰宝印のために詩を賦して「百万の桯松双径杳かに、三千の楼閣五峰寒し」と詠んだところ、印は手を打って喜び、「山の中の景観は、ほとんどその奥を尽くしました」と言った。この時、創建されたばかりの大閣にはまだ彩色も施されておらず、上下が一色で、まるで霜雪が固まったかのようで、二十年経ってもなお、それは夢の中の光景のようだった。今や建造物の盛んなことは、その十倍どころではない。ただ、一度実際に目にすることができないのが残念である。 ところが、ある時、聡が手紙を持って、この寂しい片田舎に私を訪ね、記文を依頼してきた。僧の契日を遣わし、手紙を持参させ、事の次第を詳細に語らせた。私は辞退して言った。「年を経て学問も衰え、筆力も衰えました。あなたの師は願力が深く宏大で、これほどの大きな仏事を成し遂げられました。それならば、重んじられる名声のある文章の大家に依頼すべきであり、私のような者を訪ねてくるのは、どうして間違っているのでしょう？」再三にわたる依頼と、拙菴もまた助力を請うたので、ついにその言葉を要約し、大きく書き記すことにした。 そして、彼に告げて言った。「大慧禅師の千僧閣の完成は、当時、盛大な出来事と称えられました。李資政の記文は立派なものです。しかし、『これをもって果公を称えるには足りない。凡庸な者がこれを珍しいこととしても、あまりに浅はかではないか』と。あなたの今回の大事業も、そもそも初めからこれを起こそうという意図があったわけではない。火災という奇妙な変化に因り、たまたま人心が呼応し、国の力を借り、多くの喜捨を集め、時節と因縁が相まって成就に至った。これは記して後世に伝えるべきである。しかし、師にとっては何ほどのことがあろう？ まして国一禅師の当初は、伝えるべき特別な法などなかった。その後、拝礼する大衆は億兆に及び、財施の広がりは千万にも達したが、これを幻のように見なし、空に還した。居室は一室のみ、その室にはただ一つの寝床、粗末な衣と陶器の器、乾した衣と粗末な食事。その恩寵の栄誉に輝くことと比べれば、いかがであろうか？ あなたはこの道を歩んでおられる。私が言葉をもって有為の功徳を賛嘆しようとすれば、言葉を多くすればするほど、かえって無駄な付け足しとなる。ゆえに、言葉はこれで尽きる。師は、これを正しいと思われるだろうか？」

三年重午日，𩔰謨閣直學士，通議大夫，提舉江州太平興國宮，奉化縣開國子，食邑五百戶樓鑰記并書

> 建久三年（1192年）の端午の日、顕謨閣直学士・通議大夫・提挙江州太平興国宮・奉化県開国子・食邑五百戸の楼鑰がこの経を記し、書をしたためた。