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title: "徑山集 · 徑山禅寺重建記"
description: "徑山集是明代僧人釋宗淨編著的一部佛教典籍。該書彙編了與浙江徑山寺相關的歷史文獻、祖師語錄、詩文及寺院規制等內容。其編撰於明代中葉，反映了當時禪宗的興盛面貌與徑山寺作為江南重要禪窟的歷史地位。本書不僅是研究徑山寺歷史與明代禪宗思想的重要文獻，也是了解中國佛教寺院文化與祖師傳承的關鍵資料，在佛教史籍中具有獨特的史料價值。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmgmz204d1ce6l10473tsj02z"
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### 徑山禅寺重建記

> 径山禅寺再建記

國家駐蹕臨安，自西天目龍翔鳳舞，舒岡布麓，蟠結而為帝王之都者，錢塘也。自東南天目熊騰馬奔，陵深拔峭，發越而為梵釋之宮者，徑山也。山以徑名，乃天目之徑路，其地尊故鬼神不敢宅，其境勝故凢庶不得居，必也以大法力逮大道場，然後能儲精會秀，攬光景而納扵其中。始國一禅師卓錫于此，興廢逮今盖已四百餘年矣。先是，慶元己未冬龍王殿災，精廬佛宇一夕而燼，住持僧元聦治故而復新之。後三十五年夏𠕅燬。無凖師範慨然歎曰：「曩在育王時，曾夣一神人，偉衣冠，盛儀衛，馳騎而前迎。疇昔之夜，又夣前神人者，持一寳珠以相授，曰：『謹勿訝。』或謂夣之神即山之龍，珠之數則火之日也。豈住止成壞皆數耶？」師扵是以精進心轉不退輪，以勇徤力撾無畏皷，披榛塞竅，高深度材扵山，視昔所封植可以為榱為梁、為杗為桶者，適飽厥用則鳩工聚粮，命幹力之僧相其役。一念纔起，諸天響合，上方須賚甚渥，公卿大夫士樂施捨，南國之好𠵊者不祈而獻貲，不命而獻力。越三年，考成曰堂、曰殿、曰門、曰廊、曰樓觀，棲客之廬、齊庖之所、庫𢈔井廐靡不畢具。最是龍逰閣居翠峰之頂，畫栱璇題，承雲納日。而虗檐外曰凌霄之閣，天空宇逈，𠰥與灝氣者㳺。循而下曰寳殿、曰寳所、曰靈澤殿、曰妙莊厳閣，不但如飛来湧出，而宸奎麗畫寳鎮此山，寔振古所未有。舊兩僧堂幼學者居外，久習者居內，殆非不二法門。今則綂而為一，楹七而間九，蓆七十有四而衲千焉。矧翼五鳳而閌離門之虗，建萬佛而補艮山之闕，皆以大用勝服之。𠰥夫乗金相水，西奉多聞，異僧所之更不道也。比年以来，𡻕數不登，諸方寺宇兵殘火燬，荒基㫁礎相望，百不能興一二。師乃扵艱棘之秋，廉以克己，勤以募眾，竟乗願力成就茲事，豈不謂釋中之傑也？𨿽然，予甞聞瞿曇氏之為教也，𢬜泊三界，木下一宿，穴土為廬，編茅為菴。逹磨之不屋也，德山之無殿也，包攝之不設佛像也，楊歧之不盖僧堂也，風穴之不葺破院也，林洋㤗布衲之不飾寺塔、不占檀那地。瓦石擊竹無非道，山桃開花無非禅，地上木庭前栢無非佛，安得有宮殿樓閣之華哉？無凖曰：「否也！了性者，真幻皆性；證實者，權假皆實。一大寳藏，半說莊厳；一部《華厳》，只言現量。有是身非𢬜亭也，有是物非寓宇也，有是居䖏室廬非假觀也，有是宮殿樓閣非化城也。扵密屋可以識無漏，扵境壁可以見囙果，扵廣大樓閣可以觀三生。立一枯木為像可以起人敬心，拈一泥團塗地可以使人不墯惡趣。莖草建剎具足大智，聚沙為塔皆成佛道，安得謂無范金合土塈茨丹臒之事哉？」予謂：「由前之說則一切有為之事俱落虗無，由後之說則諸祖無上之宗悉成㫁滅。泥空則如盲人摸象，黑山鬼窟修行；墮有則猶跛鼈困泥，濁海波中起沒。二說皆非也。道有則一塵不立，道無則一法不捨。扵真空而不着頑空，扵妄有而轉歸妙有。信圎而不偏，念活而無弊。合體性容貌融為一源，其庶乎道哉！」師曰：「此事且止。普樂院火，永邦建之，記者張無𥁞也。圎通寺焚，師序復之，記者周益公也。己未之厄，聡亦求記扵樓學士。予舊詞臣也，盍為我識之？」𡻕丁酉理宗紹㝎六年登山，首請守寧國，又請奉祠龜溪，請益勤，且曰：「上累頒金幣，賜御書，復賁範以金欄法衣、佛鑑師號，盖自靈山付囑以来未有。如今天子神聖慈武，清心寡欲，䔍行𠵊道，扶立教門如此之力，子尚可得而辭耶？」「詠不甞醍醐，不嗅薝蔔，枯藤敗筆何能鋪述盛羙？然學自孔氏，所求乎子以事父、臣以事君，常恐不𥁞其分，無以報國。汝󵓕捨世俗家，出形色界，辭親割愛不拜君父，飯以珍厨，棲以大厦，将何所求報國㤙？持經誦咒不足以報，譚空說妙不足以報，窮子之力𥁞未来世以無量莊厳不足以報。惟發揚大旨警悟群迷，具如来眼踏毘盧顖，掘二祖髄御大梅心，標俱胝指破馬師、欽師，或使一切眾生成󵓕正覺，此真是報國㤙處。」範曰：「唯。」乃為之記。

> 南宋の都は臨安に置かれていた。西天目山から龍が翔り鳳が舞うように山脈が連なり、丘陵が広がり、それが集まって帝王の都となったのが、銭塘（杭州）である。また、東南天目山から熊が躍り馬が奔るように、深い谷を越え険しい峰を抜けて、仏神の宮殿として発展したのが、徑山である。山に「徑（みち）」という名がついているのは、天目山へ至る道筋にあたるからである。その地は尊いので鬼神も住むことができず、その景色は勝れているので凡人が住むことはできない。必ずや大きな法力をもって大道場を開き、そうして初めて精気を蓄え秀でたものを集め、光景をこの中に収めることができるのである。 昔、国一禅師がこの地に錫杖を止めてから、興廃を経て今に至るまで、すでに四百余年が過ぎた。以前、慶元己未（1199年）の冬に龍王殿が火災に見舞われ、精舎や仏殿は一夜にして灰燼と帰した。住持の僧・元聡が修復して新たにした。その後三十五年経った夏に再び焼失した。無準師範は慨然として嘆き、言った。「かつて育王山にいた時、一人の神人が、立派な衣冠をまとい、盛大な儀仗と従者を従え、馬を駆って前に出迎える夢を見た。先日の夜、またあの神人が、一つの宝珠を私に授けて、『どうか驚かないでください』と言う夢を見た。ある人は言う、夢の神はこの山の龍であり、宝珠の数は火事の起きた日である、と。まさか、寺院の存続と破壊にも定めがあるのだろうか？」と。 師はそこで、精進の心をもって不退転の法輪を転じ、勇猛の力をもって無畏の鼓を打ち鳴らし、藪や塞がった穴を切り開いた。山の木材を高さや太さを測って見極め、かつて植えた木が、垂木や梁、大黒柱や桶の材料としてちょうど良い具合に育っているのを見て、職人を集め、食料を蓄え、力量のある僧にその工事を監督させた。ひとたび彼の一念が起こると、諸天が呼応し、朝廷からの施しも非常に厚く、公卿大夫や士人たちも喜んで寄付をし、南方の信仰心篤い人々は祈らずとも資金を寄進し、命じずとも力を貸した。 三年を経て完成したのは、堂、殿、門、廊、楼観、そして僧侶の宿舎、斎の厨房、倉庫、井戸、厩舎に至るまで、備わらないものはなかった。中でも最も素晴らしいのは、龍游閣が翠峰の頂上にあり、彩色された斗栱や美しい扁額が、雲を戴き日を迎えていることである。そして軒先の外側には凌霄の閣があり、空は高く広く、大気と共に遊ぶかのようである。それに沿って下れば、宝殿、宝所、霊澤殿、妙荘厳閣がある。これらは飛来峰や湧き出るように現れただけでなく、天子の筆跡や麗しい絵画がこの山を宝として飾り、まことに古来未曾有のことであった。 かつては二つの僧堂があり、修行の浅い者は外に、長く修行を積んだ者は内に住んでいたが、これは不二の法門ではなかった。今ではそれらを統合して一つとし、柱は七本、間口は九間、座席は七十四、そこに住む僧は千人にも上る。さらに、五鳳楼を翼のように配して離門の空虚を補い、万仏を安置して艮山の欠けたところを補うなど、すべてを大きな働きで成就させたのである。金の仏像を乗せ、水の相を用い、西方に多聞天を祀ることなど、異僧のいた所についてはこれ以上述べるまでもない。 近年、年毎に収穫がなく、各地の寺院は兵火で焼け、荒れた基礎や断ち切られた礎石が相次ぎ、百のうち一つか二つも再建できない状況であった。師はこのような艱難の時節にあって、自らを律して質素にし、努めて大衆に勧募し、ついに願いの力に乗ってこの事業を成し遂げたのである。これは仏門の中の傑物と言えるではないか。 しかし、私はかつて、釈迦の教えというものは、三界を超脱し、木の下に一晩宿り、土を掘って庵とし、茅を編んで草庵とするものだと聞いている。達磨は屋根をかけず、徳山は殿を持たず、包摂は仏像を据えず、楊岐は僧堂を建てず、風穴は破れた院を修理せず、林洋泰布衲は寺塔を飾らず、檀那の地を占めなかった。瓦や石が竹を打つ音もすべて道であり、山の桃の花が咲くことすべて禅であり、大地の木、庭前の柏すべてが仏であるというのに、どうして宮殿楼閣の華美さなどありえようか。 無準は言った。「それは違います。本性を悟った者にとっては、真も幻もすべて性です。真理を証得した者にとっては、方便も仮のものもすべて真実です。一大宝蔵は、半分は荘厳を説き、一部の華厳経は、ただ現量のみを述べています。この身体は仮の宿ではないし、この事物は借りの器ではありません。この住まいや部屋は仮の観念ではなく、この宮殿楼閣は化城ではありません。密かな部屋で無漏を識り、境の壁で因果を見、広大な楼閣で三生を観ることができます。一本の枯れ木を立てて像とすることで、人の敬いの心を起こさせることができ、一握りの泥をこねて地面に塗ることで、人を悪趣に堕ちないようにすることができます。一本の茎の草で寺を建てれば大智が具わり、砂を積んで塔とすればすべて仏道を成就するのです。どうして金を鋳たり土を合わせたり、漆喰を塗ったり丹塗りをしたりすることを、ないと言えるでしょうか」 私は言った。「前の説によれば、すべての作為的な事柄は虚無に落ちてしまいます。後の説によれば、諸祖の無上の宗旨はすべて断滅になってしまいます。空に執着すれば、それは盲人が象を摸するようなもので、黒山の鬼窟での修行です。有に堕すれば、それは跛の亀が泥に苦しむようなもので、濁った海の波の中に浮かんだり沈んだりするようなものです。どちらの説も正しくありません。『有』を説けば一塵も立たず、『無』を説けば一法も捨てません。真空にあって頑空に執着せず、妄有にあって妙有に転じます。円満を信じて偏らず、心を活かして弊害がありません。体性と形相を融合して一つの源とすること、これに近い道というべきでしょう！」 師が言った。「この話はひとまず置きましょう。普楽院が焼けた時、永邦が再建し、その記文を書いたのは張無尽でした。円通寺が焼けた時、師序が再建し、その記文を書いたのは周益公です。己未の厄災の時、元聡も楼学士に記文を依頼しました。私はかつて朝廷の文章を司る者でした。どうか私のためにこのことを書き記してください。」 丁酉の年（1237年、宋の理宗・紹定6年）、山に登り、まず守国府で官職に就くよう請われ、次に亀渓で祠官になるよう請われた。その請いがますます熱心になり、言うことには、「天子はたびたび金幣を下賜され、宸筆の書を賜り、さらに範に金襴の法衣と仏鑑の師号を賜りました。これは霊鷲山の付嘱以来、かつてないことであります。今の天子は神聖で、慈しみ深く、武勇があり、心を清らかにして欲を少なくし、善道を篤く行い、仏教をこれほどまでに支え護っておられます。あなた様はどうして断ることができましょうか」 私は答えた。「私はかつて醍醐の味を嘗めず、薝蔔の香りを嗅いだこともない。枯れた蔓や使い古した筆で、どうしてこの素晴らしい業績を述べることができましょうか。しかし私は孔子の教えを学んでいます。子が父に仕え、臣が君に仕えるようにという教えを求め、常に自分の分を尽くせず、国に報いることができないのではないかと恐れています。あなたは世俗の家を捨て、形色の世界を出て、親に別れ愛を断ち、君父にも拝まず、珍しい食べ物で食事をし、大きな建物に住んでいます。いったい何を求めて国の恩に報いるのですか。経を読み呪文を唱えるだけでは報いるのに足りません。空を語り妙を説くだけでは報いるのに足りません。私の力を尽くし、未来際を尽くして無量の荘厳をもってしても、報いるのに足りません。ただ、仏の大いなる宗旨を発揚して、迷える群れを警醒し悟らせ、如来の眼を具え、毘盧遮那仏の頂を踏み、二祖（慧可）の髄を掘り、大梅（法常）の心を御し、倶胝の指を掲げて馬祖や百丈を打破し、あるいは一切の衆生をして正覚を成就せしめること、これこそがまことに国の恩に報いる所以なのです。」 範（無準師範）が「わかりました」と言った。そこで私はこの記文を書いたのである。

尚書吳詠撰

> 呉詠という尚書が執筆した。