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title: "徑山集 · 逰徑山記"
description: "徑山集是明代僧人釋宗淨編著的一部佛教典籍。該書彙編了與浙江徑山寺相關的歷史文獻、祖師語錄、詩文及寺院規制等內容。其編撰於明代中葉，反映了當時禪宗的興盛面貌與徑山寺作為江南重要禪窟的歷史地位。本書不僅是研究徑山寺歷史與明代禪宗思想的重要文獻，也是了解中國佛教寺院文化與祖師傳承的關鍵資料，在佛教史籍中具有獨特的史料價值。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmgmz204d1ce7l104aqbmyp0z"
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### 逰徑山記

> 游径山記

觀文殿大學士杭州太守莆陽蔡襄君謨記

> 観文殿大学士・杭州太守・莆陽 蔡襄 君謨 記

記徑山之逰臨安縣之北，𨝣直四十里有徑山在焉。山有佛祠，號曰「承天祠」，有碑籀述載，本初唐崔元𦒋之文，歸登書之石，今傳扵時云。始至山之陽，東西之徑二。登自其西，壁絕襟繞，轎行百休，松檜交錯，盤欝蒙翳，尋丈之間，獨聞語聲。躋稜層，披翠蒨，𥁞十里許，下視来徑，青虯蜿蜒，摶巌騰霄。且及其巔，峡束洞隠，幾不容並行。已而內括一區，平盈坦壑，四面五峯，如手竪指，一峯南絕，卓為臣擘，屋盖高下，在掌中矣。庭間小井，或云故龍湫也。龍亡湫在，𡻕率一来，雷雨瞑曀，而鄉人祠焉者憧憧然。環山多桀木，絲杉翠檉，千千萬萬，𠰥神官蒼士，聮憧植葆，駢隣𠋣徒，沉毅而有待者。導溜周舎，鏘然鏐然，𠰥鑾行珮趋而中莭者。由西峯之北數百𡵯，矹然臣石，屏張笏立，上下左右，可𠕅十尺，劃而三之，𠰥川字，𨽾文曰「喝石巌」，其傳甚神。並岩被谷，修竹茂密，甞以契力刻竹兩莭間，成「景祐三年十二月十五日」字云爾。由東徑而往，坎窞為池，㳺魚曠空。其西逕東折蹴南峯，領脰之間，平地砥然，盈畆而半。偃松一本，其高丈，其䕃四之，橫柯不聳，如芝孤生。松下石泓，激泉成沸，甘白可愛。即之煮茶，凡茶出北苑，苐品之無上者。最難其水，而此冝之。偃松之南，一目千里，吳江之濤可挹，越岫之桂可搴，雲駁靄褰，狀類互出，𠰥古圗畫，蟲蠧㫁裂，無有邊幅，而󷿝𩔰之物尚可名指。群山屬聮，呈露崗脊，矯矯剪剪，咸自意氣，𠰥小說百端，欲聖知之亢而不知其下也。臨觀久之，魁博通幽之思生焉。古人有言：「登高能賦，可為大夫。」旨乎哉！子扵斯見之矣，曷止大夫之為也！大凡言之，天隣地絕，山囘物靜，在處人巧，舉可人意。𨿽窮冬閴寂，未覩夫春葩之榮、薰風之凉、秋氣之清，然取扵子者猶在也。既歸無幾何，而曩所厯者重鈎復結無一見焉，追而言之，𠰥覺而言夣，使人悄愴而不知其自也。同逰者，建安王瑊君度、嶽陽朱師德宗哲，又君度之姪子常、子羙，甥杜沂皆從逰其前，與謀而後。以事已之者朱宗哲之兄師道希聖、杜沂之父叔元君懿、揭陽盧幾舉。之三人，莆陽蔡襄一與之𠵊，惜乎不及俱也。書所經見往貽之，人一通。甞刻竹兩莭間之十字，其逰之年月日也。

> 径山の旅を記す。臨安県の北、真西に四十里にして径山あり。山に仏祠ありて、「承天祠」と号す。碑文に記すところ、もとは初唐の崔元𦋒が文をなし、帰登が石に書したるもの、今も時世に伝わるという。初めて山の南麓に至れば、東西に二つの道あり。その西より登れば、崖は絶え、裾は巻き、駕籠にて進みては百たび休む。松と檜が交錯し、鬱蒼として覆い隠し、一丈も先の間に、ただ声のみ聞こゆ。稜層を登り、翠茜を分けて、十里ほどにして、下に来し道を望めば、青き蛟龍が蜿蜒とし、巖を搏ち天へ騰るがごとし。やがてその頂に至れば、峡は狭まり洞は隠れ、二人並び進むも叶わんばかりなり。程なくして、一つの区劃が内に括られ、平地は坦に整い、四囲に五つの峰あり、手の指を立てたる如し。一峰は南にそびえ、卓として臣の擘のごとく、屋根は高低ありて、掌中にあるかのごとし。庭の間に小井戸あり、あるいは古の龍湫なりという。龍は去りて湫のみ在り、歳に一度来たりて、雷雨暗く、里人その祠に参るもの、絶え間なく群がる。山の周りには多く聳える木々あり、糸杉や緑の檉が、千千万万、神官や蒼士が、旗を連ねて立て、並び倚り、沈毅として何かを待つごとし。水を引きて舎を巡らせば、鏘然鏘然と鳴り、あたかも鑾鈴が行き佩玉が歩み、節に適うがごとし。西峰の北より数百步、聳え立つ巨石あり、屏風の如く立ち、笏の如く立つ。上下左右、再び十尺ほどにして、三つに割れて、川の字の如し。隷文にて「喝石巌」とあり、その伝説は甚だ神秘なり。岩に沿い谷を被うて、長い竹が茂り密なり。かつて力を凝らして竹の二節の間に刻んで、「景祐三年十二月十五日」の字を作せるものなりという。東の径より行けば、窪みは池となり、遊魚は空に泳ぐが如し。その西の径は東へ折れて南峰に駆け上る。領と頭の間、平地は砥ぎし如く、一畝半を満つ。偃松一本、その高さ丈、その陰は四倍に広がる。横枝は聳えず、芝が孤り生ずるがごとし。松の下に石泓あり、泉を激して沸かすが如く、甘く白く可愛らし。即ちこれを煮茶すれば、茶は北苑より出でて、品の中でも無上のものなり。最もその水を得難きも、この地はこれに適う。偃松の南、一目千里、呉江の波は掬うべく、越の峰の桂は摘むべし。雲は駁ち、靄は褰げり、さまざまな形が互いに現ずる、古き図画のごとし。虫に蠹くされ断片裂け、辺りに幅はなけれども、顕われたるものはなお名指すべし。群山は連なり、崗の背を露わす。矯矯として剪剪たり、みな自ら意気あり。あたかも小説が百種を尽くし、聖知を誇らんとして、その下を知らざるがごとし。臨んでこれを久しく観れば、魁博にして幽深なる想いが生ず。古人が言う、「高きに登りて賦をなす者は、大夫となすべし」。旨きかな！ 君はここにこれを観たり、まさに大夫のみにあらずや！ 大いに言えば、天に近く地を絶ち、山は回り物は静かなり。処々に人の巧みありて、みな人の意に叶う。たとえ冬尽きて静まり、春の花の栄え、薫風の涼しさ、秋気の清らかさを見ずとも、しかし取るところはなお在るなり。既に帰ること幾ばくもなく、かつて経験したるもの、重ねてかぎ結ばれ、一つも見るはなし。追いてこれを言えば、あたかも覚めて夢を語るが如し、人の心を悄怛ならしめて、その由を知らず。ともに遊びし者は、建安の王瑊君度、岳陽の朱師徳宗哲。また君度の甥の子常、子美、甥の杜沂みなその先に従い、後に謀る。そして事を以て後に終わりし者は、朱宗哲の兄師道希聖、杜沂の父叔元君懿、揭陽の盧幾挙。この三人、莆陽の蔡襄一たびこれと善し、共に及ばざるを惜しむ。書して経て見たる所を往きてこれに贈る、人それぞれ一通。かつて竹の二節の間に刻める十字、その遊びし年の月日なり。

孔子登㤗山而小天下，荀卿亦云：「不𠰥登高而見博。」然則孔子、荀卿之說豈徒𧩊偉觀而適細娛？抑亦有足發扵人者。以其俯高則視廣，逹遠則思深。高且遠，聖人之道。學其高者，其視廣；學其遠者，其思深。廣視而思深，鮮弗克濟。予觀蔡君謨記徑山之逰，圗畫扵文物無遁者。且謂古人有言曰：「登高能賦，可為大夫。旨乎哉！吾扵斯見之矣。曷止大夫之為也？」如是者，又豈徒肆竒語巧華扵草樹烟雲之間哉？誠取乎發之高遠，如前之所陳也。後之逰者蔑是之取，而區區然虞顛濟而竭目力，非予所敢知也。後三日，縣尉王瑊題其篇末。時年希聖權令君謨從事中洛，君懿尉漣水，皆新署。宗哲舉之皆名進士，從逰三子皆幼。書者杜叔原，其尉漣水君懿也。

> 孔子が泰山に登って天下が小さく見えたと言い、荀卿も「高い所に登らなければ、広く見渡せない」と言っている。しかし、孔子や荀卿の言葉は、ただ壮観を誇り、小さな楽しみのためにあるのだろうか。いや、そこには人の心を奮い立たせるものがあるのだ。高い所に身を置けば視野が広くなり、遠くまで見通せれば思考が深まる。高く、遠いこと、これこそが聖人の道である。その高いところを学べば視野は広がり、遠いところを学べば思考は深まる。視野が広く思考が深ければ、成し遂げられないことはほとんどない。 私は蔡君謨が径山の旅を記した文章を見たが、そこには文物のありとあらゆるものが描き尽くされていた。そして彼は言う。「古人が『高きに登りて賦をなす能わば、大夫たる可し』と言ったが、まことにその通りだ。私はここにそれを目の当たりにした。何も大夫に留まるものではない」。このように、単に草木や雲や煙の間に奇抜な言葉や華やかな技巧を弄んでいるわけではない。本当に大切なのは、先に述べたように、高く遠いところから心を奮い立たせることにあるのだ。後にここを訪れる人々が、この点を顧みず、ただひたすら危険を冒して目を凝らすだけのことに、私は賛成できない。 三日後、県尉の王瑊がこの文章の末尾に書き記した。この時、希聖は君謨を代理として中洛に赴任し、君懿は漣水の尉となったが、いずれも新任であった。宗哲が推挙したのは皆、名高い進士であり、一緒に遊んだ三人の子供たちは皆幼かった。書をしたためたのは杜叔原で、彼こそ漣水の尉である君懿である。

《首楞厳》云：「山河大地皆是妙明真心中所現物。」上而竺墳魯典，下而稗官小說，乃至百家異道之書，未有舎此所現而能鏗金鏘玉，震耀古今者。宋景祐間，莆陽蔡君謨由觀文大學士出守杭城，其記兹山岩石之竒峭、水雲之幽茂，自謂𠰥覺而言夣，信不誣矣。漣水尉杜叔元甞磨崖大書，昭于當時。苔埋蘚剥，霜凍雨淋，不二百年澷滅殆𥁞。少林嵩禅師易以木板刻之，今日亦然圮腐。𦒿宿惠洲出己資，代石重加雕鐫，置之流止亭間，使與唐崔元𦒋所銘國一大覺之道之德並行扵天下後世，可不遠且大哉！後至元丙子，住山特賜「惠文正辯佛日普照禅師」。

> 『首楞厳経』にこうあります。「山や川、大地はすべて、奇妙で明らかな真実の心の中に現れ出たものである。」上は儒教や仏教の古典から、下は俗っぽい物語や小説、さらには諸子百家や異端の書に至るまで、この現れたものによらずして、美しい響きを奏で、古今に輝き渡ったものはありません。 宋の景祐年間、莆陽の蔡君謨（蔡襄）が観文殿大学士として杭州の守となりました。彼がこの山の岩の不思議なほど険しく美しい様子や、水と雲の静かに茂るさまを記して、「夢から覚めて言っているようだ」と自ら語ったのも、確かに嘘ではありません。 漣水の尉である杜叔元は、かつて磨崖に大きな文字で書き記し、当時にその名を輝かせました。しかし、苔に埋もれ、霜や雨にさらされて、200年も経たないうちに、ほぼ消え去ってしまいました。 少林寺の嵩禅師が板に代えて刻みましたが、今ではそれも朽ちて壊れています。古老の惠洲が自らの財を出し、石に代えて新たに彫り直し、流止亭の中に安置しました。これにより、唐の崔元〓（けいげんえん）が記した国一大覚の道と徳と並んで、天下後世に伝わることになりました。これはなんと遠く大きく広がることでしょうか。 後の至元丙子の年、住山は特別に「惠文正辯佛日普照禅師」という称号を賜りました。

行端敬題

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