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title: "徑山集 · 苐一代大覺國一貞元祖師"
description: "徑山集是明代僧人釋宗淨編著的一部佛教典籍。該書彙編了與浙江徑山寺相關的歷史文獻、祖師語錄、詩文及寺院規制等內容。其編撰於明代中葉，反映了當時禪宗的興盛面貌與徑山寺作為江南重要禪窟的歷史地位。本書不僅是研究徑山寺歷史與明代禪宗思想的重要文獻，也是了解中國佛教寺院文化與祖師傳承的關鍵資料，在佛教史籍中具有獨特的史料價值。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmgmz234n1cffl104qttees81"
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### 苐一代大覺國一貞元祖師

> 第一代大覚国一貞元祖師

師諱法欽，吳郡崑山人，姓朱氏，世服儒業。師初孕，母管氏夢蓮生扵戶樞，取一花繫扵衣帶，窹乃惡葷餌。既誕，形貌竒偉，神色營徹，好以佛事為兒戲。及𠜍，身長七尺，體備諸相，學行時采為時推服。年二十二，州以充賦，道由丹徒，憇于鶴林。素禅師見而異之，問曰：「子何之？」師曰：「将求仕扵上京。」素曰：「𨿽有五󵓕之爵，豈如三界之尊耶？」師曰：「可學乎？」素曰：「觀子神觀，幾扵生知。𠰥肯出家，必悟如来知見。」師即裂縫掖，刻苦親依。素深器之，謂門人法鑑曰：「此當大弘吾法，蔚為人師。」師日夜奮励，鍊行安禅，知徑直之一言，越周旋之三學，廼請素示其法要。素曰：「無人得我法。」師曰：「以何傳？」素曰：「我法寔無可傳者。」師頓釋疑滯。久之辭素，請示所止，素曰：「乗流而行，遇徑即止。」遂受具扵餘杭龍泉寺法崙律師，後之臨安，行次東北山之下，見樵者，問曰：「此何山？」樵曰：「此天目山之徑路，謂之徑山，亦名徑塢。」師憶素語，廼披榛而入。四顧非人居，適逢苫蓋，以覆罝罘，師就之宴坐。大雪經旬，絕食安禅。既霽，獵者見之，投誠歸向，師誨使更業。獵者弓矢罟網，以其地結菴，請就居之，日餉扵師。他日謂獵者曰：「吾将󷿝扵此山。」獵者曰：「此山神異，中有龍居，師勿徃。」師曰：「何患焉？汝冝遵吾。」即自重岡之西至危峰之北，有一石屏，師坐其下。凡数日，有白衣老人，前而致拜。師曰：「汝何人也？」曰：「龍也。」師曰：「何為至此？」曰：「自師到此山，吾屬五百皆不自安。師必久住，我将挈其屬而歸天目。願捨所居為師卓錫之所。」引師南進，登絕頂，入五峰之間。中有大湫，指謂師曰：「吾家𠰥去，此湫當涸矣。願留一穴，以通天目。我欲時至而衛師焉，慎勿湮之。」言訖乃󷿝今之龍井是也。扵是雲霧晦冥，風雨連霄。詰旦，湫水𥁞涸，漲沙如平地。北峰之陽有菴，𠑊然新成。師知龍所創，遂居之。至今基陛諸草不生，自是遠近鄉風悉来給奉，四方禅衲景從，菴居滿扵岩谷。山左有前臨海令吳貞，捨別墅以盖精舎，未逾数載，名震天下。馬祖令人馳書，書中作一圎相。師開緘，扵圎相中作一點，卻封囘。又令智蔵来問：「十二時中以何為境？」師曰：「待汝囘去時有信。」蔵曰：「如今便囘。」師曰：「傳語：『卻須問取曹溪。』」有僧問：「如何是道？」師曰：「山上有鯉魚，井底有蓬塵。」又僧問：「如何是祖師西来意？」師曰：「汝問不當。」曰：「如何得當？」師曰：「待吾滅後，即向汝說。」永㤗初，師一日坐于峰北石屏之下，見一白衣人，稱是天目巾子山人，致禮言曰：「彼山神告我，長安佛法有難，遣我護之。非僧相不足以増重法門，願度我為沙彌。」師曰：「汝有何能？」曰：「能誦觀音俱胝󵓕咒，㓛力無比。」師欲驗之，指坐後石屏：「汝能咒之令破否？」曰：「可。」遂叱之，石裂為三今喝石岩是也。師異之，度為沙彌，與名曰「崇慧」，入京寓止章敬寺。大曆三年戊申，九月二十三日，太清宮道士史華奏，乞與釋氏當代名流角佛法道法勝負。于時代宗留神空門，道眾憤疾故有是請。扵東明觀架刀為梯，史華登躡而上，如履磴道，緇侣相顧無敢躡者。崇慧聞之，謁開府魚朝恩，朝恩為奏其事。翼日，𠡠扵章敬寺庭𣗳間梯架，鋒刃銛白如霜，増東明觀之梯百尺。觀者如堵，崇慧跣足而登，至絕梯而止，忻然躡而下如行平地，以至𨂻烈火，探沸油，餐鉄葉為䬪飥，嚼釘線為脆飴。史華與道眾視之駭汗，掩袂而走。四眾讃仰，聲𠰥雷霆。帝遣中貴鞏廷玉傳宣慰劳，嘉歎至于𠕅三，賜紫衣，授鴻臚卿，號曰「護國三蔵」，𠡠安國寺居之。尋被召，對問：「師承何人？」慧曰：「徑山高道僧法欽，臣之師也。」慧辭以未具戒，不敢受紫衣之賜。帝特命開壇，方羯磨，慧󷿝身壇上，莫知所往。帝駭異，賜號「性空大師」。時疑觀音應現，救護佛法。因慧之奏以禮徑山為師，師名益著。大曆中，代宗遣內侍黃鳳持詔致師詣闕，其詞曰：「朕聞江左有藴道禅人，德性氷霜，淨行材野。朕虗心瞻企，渴仰懸懸，有感必通，國亦大慶。願和尚遠䧏中天，𥁞朕皈向，不違願力，應物現形。仍敕所經州縣厳粛舘餉。」勒石現存。既至闕庭，帝躬迎登殿，設座以資法要同弟子之禮。師一日在內庭，見帝起立，帝曰：「師何以起？」師曰：「檀越何得向四威儀中見貧道？」帝悅，謂忠國師曰：「欲賜欽師一名。」忠忻然奉詔，廼賜號「國一」焉。頃之，辭歸，帝曰：「此眾生有當度者，彼眾生豈有殊乎？」師曰：「實無有法以度眾生。」居內僅一年，每賜繒綵、設御饌，皆控而不受。唯布衣蔬食，器用陶匏如平時。相國楊綰見而歎曰：「此方外之高士也，難得而名焉。」崔趙公甞問：「弟子出家得否？」師曰：「出家是大丈夫事，豈将相之所能為？」趙歎賞其言。一時名公，如李泌、徐浩、第五琦、陳少㳺󵓕凡三十二人皆稱門人，問道以求決擇三十二人姓名列于碑隂。已而力辭，南還𦾔山，餞禮榮輝，敕夲州扵徑山重建精舎，度僧七人以奉巾瓶，命州長吏逐月躬至問候。久之，刺史請居州之龍興寺，師亦暫往。越之連帥憫其民新被𡨥，願師往臨以福芘之。師從其請，或半年，或一年，如是者𠕅。復歸龍興與徑山，不擇所止。師将示滅于龍興，先期三日，告眾曰：「當葬吾扵南庭隙地，勿封勿𣗳，恐妨僧徒之菜地。」俗壽九十二，僧臈七十，寔貞元八年十二月二十八日也。師悲願弘深，見面聞名，如子得母。潜符密契者不知其数，目之為功德山。故東至海岱，西及隴蜀，南窮交廣，北𥁞朔方，學者靡不慕義而来，志求咨决，到扵天龍，敬向異類皈依。地產靈芝，空雨甘露，聖燈夜現，綵雲朝暉寺之玉芝岩、含暉亭因名扵此，猛獸棲其傍，眾禽集其室，白鷴鳥鴉就掌而食。有二白兎，馴伏靴履之上，欲師足煖。有一雞常随𦗟法，不食生命，師之西也，長鳴三日而絕。有一麕，常依禅室不他逰，師之滅亦三日而死。貞元九年，德宗賜諡號曰「貞元大覺禅師」，塔曰「天中」。憲宗元和十年，賜豐碑，比部郎中崔元𦒋撰，左散騎常侍龜登書其碑在寺之西南隅。師嗣牛頭宗沠，得法扵素，素師威，威師持，持師方，方師巌，巌師嬾融，融師四祖信大師。天復中，錢氏刻土，許思兵亂，𤼲塔見二缸合蔵肉身如生，髮長覆面，士卒悚拜而去。吳越王厚禮重葬于𦾔塔焉。

> 師は諱を法欽といい、呉郡崑山の人である。姓は朱氏で、代々儒業に従事していた。師が胎内に宿った時、母の管氏は蓮が戸の枢に生じる夢を見て、その一花を取って衣帯に結んだ。目覚めると、肉や魚などの腥い食べ物を嫌ったという。誕生すると、その姿形は奇偉で、神色は澄み切っており、幼い頃から仏事を玩びとするのを好んだ。成長すると、身長は七尺、身体にはすべての相が備わり、学問や行いが当時推服されるほどであった。 二十二歳の時、州が賦として彼を推挙した。道中、丹徒を通り、鶴林寺で休息した。素禅師は彼を見て異とし、問うた：「子はどこへ行くのか？」師は答えた：「上京で官職を求めようと思います。」素は言った：「たとえ五等の爵位を得ようとも、どうして三界の尊に及ぶことがあろうか？」師は問う：「それは学べるものですか？」素は答えた：「あなたの神観を見るに、生知に近い。もし出家を肯えば、必ず如来の知見を悟るであろう。」師はすぐに衣を裂き、刻苦して素に親しく仕えた。素は深く彼を器とし、門人の法鑑に言った：「この者は、我が法を大いに弘め、立派に人の師となるであろう。」 師は日夜奮励し、行を練り禅を安じた。直截な一言を知り、三学の周旋を超え、素にその法要を示すよう請うた。素は言った：「私の法を得る者は誰もいない。」師は問う：「では何を伝えるのですか？」素は答えた：「我が法は実に伝えるべきものがない。」師はこの言葉によって頓に疑惑や滞りを解いた。久しくして素に別れを告げ、止まるべき場所を示すよう請うた。素は言った：「流れに乗って行き、道に遇えば止まれ。」そこで余杭の龍泉寺、法崙律師のもとで具足戒を受け、その後、臨安へ向かった。 道中、東北の山の麓に至り、樵夫を見て問うた：「これは何という山ですか？」樵夫は答えた：「これは天目山への径路で、径山と呼ばれ、また径塢とも言います。」師は素の言葉を思い出し、藪を分け入った。四方を見回しても人の住まいはなく、たまたま罠を覆う粗末な小屋があり、師はそこに坐した。大雪が十日余り降り続き、絶食のまま安禅した。雪が晴れると、狩人がこれを見て誠心を尽くして帰依し、師は彼に教えを説いて生業を改めさせた。狩人は弓矢や網を捨て、その地に庵を結び、師にそこに住むよう請い、日々師に食事を供えた。 ある日、師は狩人に言った：「私はこの山に入ろうと思う。」狩人は言った：「この山は神異で、中には龍が住んでいます。師はお行きにならない方がよいでしょう。」師は言った：「何を心配することがあろうか？汝は私に従うがよい。」そこで重岡の西から危峰の北に至ると、一つの石屏があり、師はその下に坐した。幾日かすると、白衣の老人が現れ、前に進み出て礼拝した。師は言った：「汝は何者か？」老人は答えた：「龍です。」師は言った：「なぜここに来たのか？」龍は答えた：「師がこの山に来られて以来、我々五百の者は皆安らかでありません。師が永くここに留まるならば、私は眷属を連れて天目山に帰ろうと思います。どうか我が棲みかを譲り、師の錫を止める場としてください。」そして師を南へ導き、絶頂に登り、五峰の間に入った。中には大きな沼があり、龍はそれを指して師に言った：「我が一族が去れば、この沼は涸れるでしょう。どうか一つの穴を残し、天目山に通じる道としてください。私は時折ここに来て師を守りたいと思います。どうかこれを塞がないでください。」言い終えると、姿を消した。今の龍井がそれである。すると雲霧が立ち籠め、風雨が一晩中続いた。翌朝、沼の水は完全に涸れ、砂が平らに積もっていた。北峰の南側には庵がひっそりと新たに建っていた。師は龍が作ったものと知り、そこに住んだ。今もその基壇には草が生えないという。 こうして遠近から人々が風に従い、皆やって来て供養した。四方の禅僧たちが影のように従い、庵は岩谷に満ちた。山の左手には、かつて臨海の県令であった呉貞が別荘を捨てて精舎を建てた。数年を経ずして、名は天下に轟いた。 馬祖は使いを走らせて手紙を届けさせた。手紙の中には一つの円相が描かれていた。師は封を開け、円相の中に一点を打ち、再び封じて返送した。また、智蔵を派遣して問わせた：「十二時の中で何を境とするのか？」師は言った：「汝が帰る時に知らせがある。」蔵は言った：「今すぐ帰ります。」師は言った：「伝えてくれ。『曹溪に問え』と。」 ある僧が問うた：「道とは何ですか？」師は言った：「山の上に鯉がおり、井戸の底に埃がある。」また、ある僧が問うた：「祖師西来の意とは何ですか？」師は言った：「汝の問いは当たっていない。」僧が言った：「どうすれば当たるのでしょうか？」師は言った：「私が滅した後に、汝に説こう。」 永泰の初め、師が一日、峰の北にある石屏の下に坐っていると、白衣の人が現れ、天目山の巾子山人と名乗り、礼をして言った：「彼の山の神が私に告げました。長安の仏法に難があるので、私を遣わして守らせると。僧の相でなければ法門の重みを増すことはできません。どうか私を沙弥にしてください。」師は言った：「汝にどんな能力があるのか？」白衣は答えた：「観音・倶胝の咒を誦することができ、その功徳力は比類がありません。」師は彼を試そうとして、背後にある石屏を指して言った：「汝にこれを咒して破らせることができるか？」白衣は言った：「できます。」そして叱ると、石は三つに裂けた。今の喝石岩がそれである。師はこれを異とし、白衣を度して沙弥とし、名を「崇慧」と与え、入京させて章敬寺に寓居させた。 大暦三年（戊申）九月二十三日、太清宮の道士・史華が上奏し、仏教と道教の当代の名流と、それぞれの法の勝負を競うことを乞うた。当時、代宗は仏門に深く帰依していたため、道衆は憤慨し、このような申し出があったのである。東明観に刀を架けた梯子を設け、史華はその上を歩いて登った。まるで石段を登るかのようで、僧侶たちは互いに見合うばかりで、誰も登ろうとしなかった。崇慧はこれを聞き、開府の魚朝恩を訪ねた。朝恩はその事を奏上した。翌日、勅命により章敬寺の庭の木の間に梯子が架けられた。刃は霜のように白く鋭く、東明観の梯子よりも百尺も高かった。見物人は壁の如く取り巻いたが、崇慧は裸足で登り、梯子の頂上に達して止まり、楽しげに降りて来て平らな地を歩くようにした。更には烈火を踏み、沸騰した油に手を入れ、鉄の葉を食べ、釘や糸を噛んで脆い飴のようにした。史華と道衆はこれを見て驚き汗し、袖を覆って逃げ去った。四衆は讃嘆仰慕し、その声は雷の如くであった。 帝は中貴の鞏廷玉を遣わして宣慰し、再三にわたって嘉嘆し、紫衣を賜り、鴻臚卿を授け、「護国三蔵」の号を与え、安国寺に住むよう命じた。すぐに召され、問われる：「師は誰に師事したのか？」慧は言った：「径山の高道、僧法欽が我が師です。」慧は具足戒を受けていないことを理由に、紫衣の賜りを辞退した。帝は特命で戒壇を開かせたが、羯磨の時に、慧は壇上から姿を消し、どこへ行ったか分からなくなった。帝は驚き異とし、「性空大師」の号を賜った。この時、世間では観音の応現が仏法を救護したのではないかと疑った。慧の奏上により、礼をもって径山を師と仰ぐこととなり、師の名はますます高まった。 大暦中、代宗は内侍の黄鳳に詔を持たせ、師を宮中に招いた。その詔には次のように記されている：「朕は江左に蘊道の禅人がいることを聞く。その徳性は氷霜の如く、浄行は田園の如し。朕は心を虚しくして瞻企し、渇仰して懸懸たり。感ずるあれば必ず通ず、国もまた大いに慶ぶべきである。願わくは和尚、遠く中天に降り立ち、朕の帰向の志を尽くし、願力に違わず、物に応じて形を現したまえ。なお、経由する州県には命じて、厳粛に館餉を供えしめる。」石刻が現在も存在する。 都に着くと、帝は自ら出迎えて殿に登り、座を設けて法要を資け、弟子の礼を以て接した。師が一日、内庭にあって帝が立ち上がるのを見ると、帝は言った：「師はなぜお立ちになるのですか？」師は言った：「檀越（施主）は何故、四威儀の中に貧道（私）を見ようとなさるのですか？」帝は喜び、忠国師に言った：「欽師に一つの名を賜りたい。」忠は喜んで詔を受け、「國一」の号を賜った。 しばらくして、師は帰山を願い出た。帝は問う：「こちらの衆生は度すべきものがあり、あちらの衆生に差違があるわけではないでしょう？」師は言った：「実に衆生を度すという法はございません。」宮中にわずか一年滞在したが、賜る繒綵や御饌は皆断り受けなかった。ただ布衣に蔬菜、器は陶匏を用い、平素と変わらなかった。相国・楊綰はこれを見て嘆じて言った：「これは方外の高士であり、名づけることは難しい。」崔趙公がかつて問うた：「私は出家しても良いでしょうか？」師は言った：「出家は大丈夫の事です。どうして将相の成し得ることでしょうか？」趙公はその言葉を嘆賞した。当時の名公、李泌、徐浩、第五琦、陳少游など三十二人は皆、門人と称し、道を問い決択を求めた。この三十二人の姓名は碑陰に列記されている。 やがて師は強く辞し、故山に南還した。餞別の礼は栄え輝き、本州に勅して径山に精舎を再建させ、七人の僧を度して師の巾瓶に奉仕させ、州の長吏には毎月自ら赴いて見舞うよう命じた。久しくして、刺史が州の龍興寺に住むよう請い、師も暫くそこに留まった。越の統帥は、その民が新たに賊の害に遭ったことを憐れみ、師に来臨して福をもって覆いたまわんことを願った。師はその請に従い、半年、あるいは一年、このようなことが二度あった。再び龍興寺と径山に帰ったが、場所を選ぶことはなかった。 師は龍興寺において示滅しようとし、その三日先に、衆に告げて言った：「私を南庭の空地に葬り、封をせず樹を植えるな。僧徒の菜地を妨げることを恐れる。」俗寿は九十二、僧臈は七十、貞元八年十二月二十八日であった。師の悲願は弘く深く、その面を見、名を聞く者は、子が母を得たかのようであった。密かに符契した者は数え切れず、彼を「功徳山」と称した。故に東は海岱に至り、西は隴蜀に及び、南は交広に窮まり、北は朔方に尽きるまで、学ぶ者は皆、義に慕い来て、志して咨決を求めた。天龍に至るまで敬い向かい、異類も帰依した。地には霊芝が生じ、空には甘露が降り、聖灯は夜に現れ、彩雲は朝に輝いた。寺の玉芝岩、含暉亭はこれに因んで名づけられた。猛獣はその傍らに棲み、多くの鳥はその室に集まり、白鷴や鳥鴉は掌に来て食した。二匹の白兎は靴の上に馴れ伏して、師の足を暖めようとした。一羽の鶏は常に説法に随い、生き物を殺さず、師が西に去る時、三日間長鳴して絶えた。一頭の麕は常に禅室に依り他に遊ばず、師の滅に三日して死んだ。 貞元九年、徳宗は諡号を賜って「貞元大覚禅師」とし、塔を「天中」とした。憲宗元和十年、豊碑を賜り、比部郎中崔元翰が撰し、左散騎常侍の帰登が書した。その碑は寺の西南の隅にあった。師は牛頭宗の流派を継ぎ、素に法を得た。素の師は威、威の師は持、持の師は方、方の師は巌、巌の師は懶融、融の師は四祖信大師である。 天復中、銭氏が土を割拠した時、許思の兵乱があった。塔を発くと、二つの甕が合わさり、中に肉身が生のまま納められていた。髪は長く、面を覆っていた。士卒は畏れ拝して去った。呉越王は厚く礼をもって旧塔に葬り直した。