---
title: "黃檗山寺志 · 第二代住持開法費隱通容禪師"
description: "黃檗山寺志由清代僧人性幽、獨往等人編訂續修，是記載福建福清黃檗山萬福寺歷史的佛教山志。該寺志編纂於清初，系統收錄了寺院沿革、高僧傳記、詩文碑刻及禪宗法脈等內容，詳實反映了黃檗宗作為臨濟宗重要支派的發展歷程。書中特別記錄了隱元隆琦等祖師事跡，對研究明清佛教史、中日文化交流具有珍貴文獻價值。此志不僅是了解黃檗山佛教傳承的權威典籍，更是禪宗歷史文獻的重要組成部分。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmgmz49lh1fi5l104pek95eff"
---

### 第二代住持開法費隱通容禪師

> 第二代住持、開法費隠通容禅師

師諱通容，姓何，俗諱懋淛，邑之江陰松崗人也。年十四出家於鎮東三寶殿，禮慧山為師。後同山住福州華林祖師殿，時已十九歲，便知有宗門中事，遂發憤行脚。初叅壽昌，提「狗子無佛性」話。一日，昌上堂與僧問荅，師在旁不覺激策，身心如熱病相似。看此話頭，始覺綿密成片，遽忘寢食。至五鼓，身世俱空，話頭脫落目前，虛逼逼地。遂走見昌云：「今日看破和尚家風了。」昌云：「有甚麼見處？」師便喝。於是日用自作主宰。遂往叅博山、雲門、古卓、憨山，然在雲門最久。後再返壽昌，皆不能了手，乃有偈見志云：「吾年二十五，氣海吞佛祖。不過古人關，豈踏今時路？祇覺此一件事，當陽披露不可指目，但不體貼不能休歇。」每趺坐，私謂：「若此，如何了得死生？」忽然墜淚。欲行脚，又思諸方無人。偶僧持《密雲公語錄》至，師閱便知大有過人處，必能了我大事，然猶懼得失焉。未幾，傳悟公自江西往天台，過寓吼山。師聞之冐雨往謁，禮拜起便問：「覿面相提事如何？」悟公以手中極大番菩提珠盡力照頭一打，師云：「錯！」悟公立身又盡力一打，師盡力一喝。悟公祇管打，師祇管喝，至第七打，頭顱幾乎打裂。所有伎倆知見一切氷釋，直下似塊鈍鐵。一宿乃辭去，閉關，日用得力現前。從前知見，如布袋盛椎子，一一敗露，無一句可用。及出關，復往天台親近悟公。一日，公問：「薰風自南來，殿閣生微凉，汝作麼生會？」師云：「水自石邊流出冷，風從華裏過來香。」悟公云：「離了此，又作麼生？」師云：「放和尚三十棒。」悟公云：「除却棒，又作麼生？」師便喝。悟公云：「喝後聻？」師云：「更要重說偈言。」悟公便休去。又一日，師問：「臨濟上黃檗，不終夏而去。途中却疑此事便回，意旨如何？」悟公便打，師亦打。過日遂辭公囘閩住山，時天啟三年癸亥也。有居士何行心、蔡行莊結菴于福州茶洋山，延師住焉。跨三年，復移菴于鼓山別峰。及戊辰秋，悟公以書喚師至金粟，欲立西堂。師遽辭，求進侍者寮。明年春，還閩中。越八月，福清縣緇素請悟公住持黃檗，懇師引領。遂同僧隆瑞、居士林杰夫過金粟。是冬悟公又命師執西堂事。庚午春，悟公應黃檗請，仍立師領眾。八月，悟公囘金粟，師隨送至浦城，公辭免。值蔡居士移居于浦，復就彼覓馬峰，留師棲止。衲子雲從，漸成法席。癸酉四月，僧隆宓等齎居士林朝龍、薛秉鉉、陳治安、林有喜、林正立、夏春暉、吳承啟、龔士龍等書，請師主黃檗法席。九月離馬峰，於十月五日入院。開堂三載，《語錄》八卷刊行。師嗣密雲悟公，悟公嗣幻有傳公。溯源曹溪，為三十五世孫。

> 師は諱を通容といい、姓は何氏、俗諱を懋淛といった。この地、江陰松崗の出身である。十四歳のとき鎮東の三宝殿で出家し、慧山を師と仰いだ。その後、同じ山で福州華林祖師殿に住したが、このときすでに十九歳であり、禅門の一大事を知って、修行の旅に出ることを決意した。 初めに寿昌を訪ね、「狗子無仏性」の公案に取り組んだ。ある日、寿昌和尚が上堂して僧と問答しているのを、師は傍らで見聞きし、思わず心が奮い立って、身心が熱病のようになった。この公案に取り組むうちに、次第に心が一途になり、食事や睡眠を忘れるほどになった。夜明けの五更に及んで、身も世も共に空であることを覚り、公案は目前から消え去り、虚々として明らかな境地が広がった。そこで急いで寿昌のもとに行き、「今日、和尚の家風を見破りました」と言った。寿昌が「何か見解があるのか」と尋ねると、師は即座に一喝した。このことから、日々の生活において自己を主とすることを得た。 次に博山、雲門、古卓、憨山を訪ねたが、なかでも雲門には最も長く留まった。その後、再び寿昌に戻ったが、いずれも究明し尽くすことはできず、偈を作って志を表した。曰く、「我れ二十五歳、気海は仏祖を呑む。古人の関を過ぎざれば、豈に今時の路を踏まんや。ただ此の一事、当陽に披露すれども指目すべからず。ただ体貼せざれば休歇すること能わず」。坐禅のたびに、ひそかに思う、「このままで、どうして生死を乗り越えることができようか」と。ふと涙が落ちた。 行脚に出ようと思ったが、諸方に師とすべき人がいないと考えた。あるとき、偶然にも僧が『密雲公語録』を持ってきた。師はこれを閲読して、非常に優れた人物であることを知り、必ずや自分の大事を解決してくれるだろうと思ったが、それでも得失についての疑いを抱えていた。 まもなく、悟公が江西から天台に向かう途中、吼山に立ち寄って寓居しているとの知らせを聞いた。師はこれを聞くと、雨の中を冒して訪ね、礼拝を終えてすぐに尋ねた、「面と向かって相提することはいかがでしょうか」。悟公は手にしていた非常に大きな番菩提の数珠を力一杯、頭上を目掛けて師を打った。師が「違う！」と言うと、悟公は立ち上がって再び力一杯打った。師も力一杯一喝した。悟公はただ打ち続け、師はただ喝し続けた。七度目の打撃に及んで、頭蓋は今にも割れそうになった。これまでに身につけた技量や見解はすべて氷のように溶け去り、その場で一塊の鈍鉄のような心境になった。一晩を過ごしてから辞去し、関にこもった。日々の実践の中で力が現前することを得て、以前の見解はすべて、布袋に錐を入れたように、一つ一つ現れては無価値であり、何一つ役に立つものはなかった。 関を出てから、再び天台に赴いて悟公に親しく侍した。ある日、悟公が尋ねた、「薰風自南來，殿閣生微凉（南風が自ずから吹き来たりて、殿閣に微かな涼が生じる）を、お前はどう解釈するか」。師は答えた、「水は石の辺より流れ出でて冷たく、風は花の裏より来たりて香し」。悟公は言った、「これらを離れたら、またどうか」。師は言った、「和尚に三十棒を挙げます」。悟公は言った、「棒を除いたら、またどうか」。師は即座に一喝した。悟公は言った、「喝した後は？」。師は言った、「さらに重ねて偈を説きましょう」。悟公はそのままやめた。 またある日、師は尋ねた、「臨済が黄檗のもとを訪ね、一夏を終えずして去りました。しかるに途中でこのことを疑って戻ってきました。その意旨はいかがでしょうか」。悟公は即座に打ち、師もまた打った。翌日には悟公に別れを告げて、福建に帰り山に住んだ。時に天啓三年癸亥のことである。 居士の何行心、蔡行荘が福州茶洋山に庵を結び、師を招いて住まわせた。三年を経て、さらに庵を鼓山別峰に移した。そして戊辰の秋、悟公が手紙で師を金粟に招き、西堂に立てようとした。師はすぐに辞退し、侍者の寮に入ることを求めた。翌年の春、福建に帰った。それから八ヶ月後のこと、福清県の僧俗が悟公を請じて黄檗の住持とし、師に案内役を懇願した。そこで僧の隆瑞、居士の林杰夫と共に金粟に赴いた。この冬、悟公は再び師に西堂の任を命じた。 庚午の春、悟公は黄檗の請じに応じ、やはり師を立てて大衆を統率させた。八月、悟公は金粟に帰り、師は浦城まで見送ったが、公はこれ以上送ることを断った。折しも蔡居士が浦に移り住んでいたので、そこを訪ねて馬峰を求め、師をそこに留めて住まわせた。衲僧たちが雲のように従い、次第に法席が整えられた。 癸酉の四月、僧の隆宓らが居士の林朝龍、薛秉鉉、陳治安、林有喜、林正立、夏春暉、呉承啓、龔士龍らの書簡を携えてきて、師に黄檗の法席を主催するよう請うた。九月に馬峰を離れ、十月五日に入院した。法堂を開いて説法すること三年、『語録』八巻が刊行された。 師は密雲悟公の法を嗣ぎ、悟公は幻有伝公の法を嗣いだ。その源を曹渓に遡れば、三十五世の孫にあたる。

右臨濟宗

> 臨済宗