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title: "黃檗山寺志 · 第十四代明標良準禪師"
description: "黃檗山寺志由清代僧人性幽、獨往等人編訂續修，是記載福建福清黃檗山萬福寺歷史的佛教山志。該寺志編纂於清初，系統收錄了寺院沿革、高僧傳記、詩文碑刻及禪宗法脈等內容，詳實反映了黃檗宗作為臨濟宗重要支派的發展歷程。書中特別記錄了隱元隆琦等祖師事跡，對研究明清佛教史、中日文化交流具有珍貴文獻價值。此志不僅是了解黃檗山佛教傳承的權威典籍，更是禪宗歷史文獻的重要組成部分。"
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### 第十四代明標良準禪師

> 第十四代明標良準禪師

派行宗標，觀幻道人其別號也。泉州銀同人，父乾用林公，母黃氏，九月十九日誕。年十七，開元紫雲寺淡源耆德為之薙染。越年，禀承天寺時現和尚戒。甲寅春，檗山謁本師廣超老和尚。喫茶次，本師問：「年多少？」答云：「二十有二。」本師云：「貌何老也！」答云：「煩心。」本師云：「心在什麼處？」當時被徵，無言可答。本師拈龍眼云：「請。」又不能酬對，遂求掛塔。雖在禪堂叅請，而終日迷悶，不知心在甚麼處。因入侍寮，朝夕咨叩。乙卯春解制，蒙囑累歸，挂錫清源。戊午，奔本師喪，時住紫雲清居。辛酉，造本師墖于萬福之佛座峰麓右壠。康熙四十七戊子年，主席黃檗。立兩序，上堂：「叢林之興在乎得人，不在眾之多寡。所以烹金琢玉，須資作者鉗鎚；衛道扶宗，必仗赤心兄弟。交為肘臂，共作主賓，便可以發大機，顯大用、布慈雲、降甘雨。如龍得水，似虎靠山。不惟扶𥪡禪林，抑且流通正眼，豈不大丈夫慶快平生乎哉？敢問大眾，如何是慶快事？運斧逢佳匠，知音遇子期。」未幾，即旋舊隱。康熙六十年，開元準提閣諷《華嚴》祝聖，四方雲集求戒，亦方便勉應。雍正二年甲辰，福清邑侯張廷琰、總戎蔡晏復敦請，再住黃檗。九月十一日進院結制，開爐，上堂：「雪花六出，山寮各下煖簾；楓葉高飛，將見堅氷踵至。滴水滴凍，天寒人寒。一向冷氷水，未免凍殺黃檗。用無煤炭，大開火爐，堂內煖氣既已相接，門外冷語自然不聞。七尺單前跏趺雙足，三條椽下衲被蒙頭。如來禪、祖師禪拈放一邊；西來意、東來意終無巴鼻。萬緣都放下，一事不關懷。雖然自自在在，秪是不許瞌睡。若瞌睡時，一棒打折汝腰，莫言不道。」丙午四年退席，陞座云：「去住吾人本自由，何曾戀戀到三週？平生脊骨硬如鐵，處世襟懷冷似秋。空谷偶然雲出岫，疎林安得鶴常留？舊居樓閣重重現，彈指宏開任意遊。大眾即今暫別，聊申一言：『須念祖翁艱剏業，莫教田地等荒坵。』」辛亥八旬，復就開元宏戒。甲寅十月十二日，自撰塔銘示寂。坐七十二夏，壽八十三。塔全身于黃檗桑池園三塔右側。語錄八卷，隨大藏流通。

> 派行宗標、観幻道人と号す。泉州銀同の人。父は乾用林公、母は黄氏。九月十九日に生まれる。年十七にして、開元紫雲寺の淡源耆徳により薙染（ちせん）を受く。翌年、承天寺の時現和尚について戒を受け、甲寅の春、檗山にて本師広超老和尚に謁す。茶を喫する次に、本師問うて曰く、「年幾ばくぞ」と。答えて曰く、「二十二」と。本師曰く、「貌いかでか老いたる」と。答えて曰く、「煩心（はんしん）」と。本師曰く、「心は何れの処にか在る」と。時に徵せられて、言うところなく答うるなし。本師、竜眼を拈じて曰く、「請う」と。また酬対すること能わず、遂に掛塔を求む。禅堂に在りて参請すと雖も、終日に迷悶して、心の在る所を知らず。因りて侍寮に入り、朝夕咨叩す。乙卯の春に解制し、嘱累を蒙りて帰り、清源に掛錫す。戊午に本師の喪に奔り、時に紫雲清居に住す。辛酉に本師の墖を万福の仏座峰麓右壠に造る。康熙四十七年の戊子に、黄檗の主席となる。両序を立（た）て、上堂す。曰く、「叢林の興るは人の得るに在りて、衆の多寡に在らず。故に金を烹（に）漁り玉を琢くには、須らく作者の鉗鎚を資（たす）くべし。道を衛り宗を扶くには、必ず赤心の兄弟に仗（よ）る。交わりて肘臂と為り、共に主賓と作（な）る。便可以って大機を発し、大用を顕し、慈雲を布き、甘雨を降らす。龍の水を得るが如く、虎の山に靠（よ）るが似し。惟だ禅林を扶竖（ふじゅ）するのみならず、抑（また）正眼を流通せん。豈に大丈夫の慶快平生ならずや。敢えて大衆に問う、如何なるか是れ慶快の事。斧を運らすに佳匠に逢い、音を知るに子期に遇う」と。未だ幾ばくならずして、即ち旧隠に還る。康熙六十年に、開元準提閣にて《華厳》を諷誦し聖を祝し、四方雲集して戒を求む。亦方便をもって勉（つと）めて応ず。雍正二年の甲辰に、福清邑侯張廷琰・総戎蔡晏、復た請を敦（つと）め、再び黄檗に住す。九月十一日に進院結制し、開炉して上堂す。曰く、「雪花六出、山寮各々煖簾を下ろす。楓葉高く飛び、将に見る堅氷の踵（あと）を至すを。滴（したた）りは水にて滴り、天寒く人寒し。一向に冷氷水なれば、未だ免れず黄檗を凍殺せんことを。炭無きを用うるに、大いに火炉を開き、堂内の煖気既に相い接すれば、門外の冷語自然に聞こえず。七尺単の前に跏趺双足し、三條椽の下に衲被蒙頭す。如来禅・祖師禅は拈放して一邊にし、西来意・東来意は終に巴鼻なし。万縁都て放下し、一事も関懐せず。然も自自在在なれども、秪だ瞌睡するを許さず。若し瞌睡する時は、一棒もて汝が腰を打折せん。言わず莫れ道わざると」と。丙午の四年に退席し、陞座して曰く、「去住は吾人の本自由、何ぞ曾て戀々として三週に到らんや。平生の脊骨は鉄の如く硬く、処世の襟懐は秋の如く冷し。空谷偶然雲岫を出づ、疎林安んぞ鶴の常に留まるを得ん。旧居楼閣重重に現じ、弾指して宏開し任意に遊ばん。大衆即今暫く別る、聊か一言を申す。須らく念え祖翁の艱難に剏業せしを、莫れ教え田地を等閑に荒坵せんことを」と。辛亥の八旬に、復た開元に就いて宏戒す。甲寅十月十二日に、自ら墖銘を撰して示寂す。坐すること七十二夏、寿は八十三。墖は黄檗桑池園三塔の右側に全身を葬る。語録八巻、大蔵に随（したが）って流通す。