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title: "大慧普覺禪師年譜 · 哲宗"
description: "大慧普觉禅师年谱由宋代僧人祖咏编撰，张抡作序，宗演作跋。该书详细记载了南宋临济宗高僧大慧宗杲禅师的生平事迹、求法历程、弘法活动及其与士大夫的交流。作为一部重要的佛教传记文献，它不仅是研究大慧宗杲思想、宋代禅宗发展及儒释交融历史的第一手资料，更因其记录了大量禅门机锋与修行要旨，对后世禅学影响深远，在佛教史籍中占有重要地位。"
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師宣州寧國縣人也，姓奚氏。其母初夢神人衛一僧，黑頰而隆鼻，造于臥室。問其何所居？對曰：「嶽北。」覺而有娠。及誕之日，白光透室，舉邑歎異，實是年十一月初十日巳時也。按師答參政湯公致遠書云：「大林嘉木，太半為國之棟梁，顧予樗散之材分，甘朽腐於陰壑。」又按樞密樓公仲暉寄師詩云：「昔年同與長風煙，別後生涯各信然；霜雪豈應摧操節？大林依舊勢參天。」蓋二公皆同己巳也。又按示吳景山偈有「己巳同庚大林木，甲乙丙丁馬與祿，今年太歲守未宮，指上輪來五十足。山僧自是出家兒，陰陽豈可全拘束？」之句云。五年庚午六年辛未

> 師は宣州寧國県の人である。姓は奚氏。その母は初め、神人が一人の僧を護衛し、黒い頬で高い鼻をした者が、臥室にやってくる夢を見た。その居所を問うと、「嶽北」と答えた。目覚めると妊娠していた。出産の日、白光が部屋を照らし、邑中の人々が驚き異とした。実に、これはその年の十一月十日巳時であった。按ずるに、師が参政の湯公致遠に答えた書簡にいう、「大林の嘉木は、大半が国の棟梁となる。ただ我が樗散の材の分際では、陰の谷で朽ち腐るのを甘んじて受けるのみである」。また按ずるに、枢密の楼公仲暉が師に寄せた詩にいう、「昔年同じく長風煙と共にあり、別後の生涯は各々信ずるままにせり。霜雪豈に節操を摧くべきや、大林は依旧として勢い天に参す」。蓋し、二公は共に己巳の年生まれである。また按ずるに、呉景山に示す偈に「己巳同庚大林木、甲乙丙丁馬与禄、今年太歳未宮を守る、指上輪来って五十足れり。山僧自ら是れ出家児、陰陽豈に全く拘束すべけんや」という句がある。五年は庚午、六年は辛未である。

師三歲。按其家語：「上祖光祿常示子孫云：『昔漢于公為獄吏後曰：「余理獄多陰德，子孫必有榮顯者。」預高其門閭，庶以容車馬往來。吾建隆三年預旨收河東，所至城邑，保護生靈免塗炭者，不可以數計，後子孫當有享吾德者。』」及師三歲，其祖仲曰：「光祿屢記子孫享其所積之德，今將百載，未見吾宗有符其語者。余觀此子生吾家，神儀秀發，異事多顯，但恐世間富樂不能羈絆耳。」七年壬申八年癸酉紹聖元年甲戌二年乙亥

> 師が三歳の頃、家に伝わる話によると、高祖父の光禄が子孫に常々こう言っていた。「昔、漢の于公が獄吏であった時に、『私は獄を裁くにあたって多くの陰徳を積んだ。子孫には必ず栄え顕れる者が出るだろう』と述べた。そして門を高くして、車馬が往来できるようにした。私は建隆三年に詔を受けて河東を征討した際、訪れた城邑ごとに人々の命を守り、苦しみに晒されることを免れさせた。その数は数え切れない。後の子孫には、私の積んだ徳を受ける者が出るだろう。」と。そして師が三歳の時、その祖父の仲が言った。「光祿は何度も、子孫がその積んだ徳を受けるだろうと記していた。今や百年が経とうとしているが、我が一族にその言葉に当てはまる者はまだ現れていない。しかし私はこの子が我が家に生まれたのを見るに、その神々しい姿は秀でており、異なる出来事も多く現れている。ただ、世の富や楽しみがこの子を縛り付けることはできないだろうかと懸念している。」七年の壬申、八年の癸酉、紹聖元年の甲戌、二年の乙亥。

師七歲。形體岐嶷，氣宇如神，不喜戲玩，語不妄發，群兒皆畏之。有僧道至其家，即侍父側。客去，記其談論，片言不遺，舉族異之。按《普說》云：「余六七歲時，每聞僧語，唯喜視聽。」三年丙子四年丁丑元符元年戊寅

> 師は七歳にして、その姿はすぐれて際立ち、気品は神のごとく、遊び戯れることを好まず、言葉をみだりに発することもなかった。子どもたちは皆、彼を畏れた。僧侶がその家に訪ねてくると、必ず父のそばに侍った。客が帰った後は、その議論を覚えていて、一言も漏らさずに語ったので、一族は皆、彼を奇特に思った。『普説』にいう、「私は六七歳の頃、僧侶の話を聞くたびに、ただ見聞きすることが好きだった」と。三年は丙子、四年は丁丑、元符元年は戊寅にあたる。

師十歲。師嘗謂侍者道先、了德曰：「吾家因我生之後，家道日微。及十歲，忽罹回祿，一夕蕩盡。父母以余命破祖業，親族間以善財呼之。余雖心知其戲，實未審何等語，後因閱《華嚴經》，至〈入法界品〉，不覺失笑耳。」二年己卯三年庚辰

> 師は十歳の頃である。師はかつて侍者の道先・了徳にこう語ったことがある。「我が家は、私が生まれてから家運が日に日に衰えていった。やがて十歳のとき、突然の火災に見舞われ、一晩のうちに全てを失ってしまった。父母は、私のせいで先祖の家業を傾けたとして、親族の間で私を『善財』と呼んだ。私は心の中でそれが冗談だと分かっていたが、実際にはそれが何を意味する言葉かはよく分かっていなかった。その後、『華厳経』の〈入法界品〉を読んでいたときに、思わず笑ってしまったのだ。」 二年 己卯、三年 庚辰。