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title: "大慧普覺禪師年譜 · 高宗"
description: "大慧普觉禅师年谱由宋代僧人祖咏编撰，张抡作序，宗演作跋。该书详细记载了南宋临济宗高僧大慧宗杲禅师的生平事迹、求法历程、弘法活动及其与士大夫的交流。作为一部重要的佛教传记文献，它不仅是研究大慧宗杲思想、宋代禅宗发展及儒释交融历史的第一手资料，更因其记录了大量禅门机锋与修行要旨，对后世禅学影响深远，在佛教史籍中占有重要地位。"
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師三十九歲。居楊州天寧，十月，同琳、普明渡江，省侍圜悟于金山，信宿而別。偕隆藏主之吳門，少憩寶華，次虎丘，遂館于前資。按《武庫》曰：「圜通秀禪師云：『雪下有三種僧。』余丁未冬在虎丘親見之，不覺失笑，乃知前輩語不虛耳。」二年戊申

> 師は三十九歳のとき、楊州の天寧に住んでいた。十月、琳や普明とともに長江を渡り、金山にいた圜悟を訪ねてお見舞いし、二泊してから別れた。隆蔵主とともに呉門へ向かい、宝華でしばし休息し、次に虎丘に立ち寄り、やがて前資の館に滞在した。『武庫』によれば、「圜通秀禅師が言った。『雪の降る下には三種類の僧がいる』と。私は丁未の冬に虎丘でこれを実際に見て、思わず笑ってしまった。それで先輩方の言葉は虚偽ではないと知った」とある。二年の戊申のことである。

師四十歲。居虎丘。按為錢子虛普說曰：「余昔請益湛堂『殃崛摩羅持佛語救產難』因緣，湛堂雖設方便，余實不曉。後因在虎丘看《華嚴經》，至菩薩登第七地證無生法忍云：『佛子！菩薩成就此忍，即時得入菩薩第八不動地，為深行菩薩，難可知，無差別，離一切相、一切想、一切執著，無量無邊一切聲聞、辟支佛所不能及。離諸喧諍，寂滅現前。譬如比丘具足神通，得心自在，次第乃至入滅盡定，一切動心、憶想分別，悉皆止息。此菩薩摩訶薩亦復如是，住不動地，即捨一切功用行，得無功用法，身口意業念務皆息，住於報行。譬如有人夢中見身墮在大河，為欲渡故，發大勇猛、施大方便，以大勇猛、施方便故，即便寤寤。既寤寤已所作皆息。菩薩亦尒，見眾生身在四流中，為救度故，發大勇猛、起大精進，以勇猛精進故，至此不動地。既至此已，一切功用靡不皆息，二行相行皆不現前。此菩薩摩訶薩，菩薩心、佛心、菩提心、涅槃心尚不現起，況復起於世間之心？』」師云：「到這裏，打失布袋，湛堂為我說底方便，忽然現前。」十月，省覲圜悟於雲居，道由金陵訪韓子蒼待制，留五宿而別，泛舟泝流以抵星渚。至山，次日入首座寮。按子蒼答師書云：「邂逅金陵，雖適我願，然始不謂，遽往廬山，故對床夜談，不過四五。自離岸至今，不聞消息，極以憂懸。得書，乃知到山旬日，道路安穩，又知便首眾僧與老和尚分座說法，良深慰喜。昨煩作覺範行狀及出世入寂月日，欲為作一銘，託同安入石，切不可緩也。」秉拂，略曰：「夷門昔日呈家醜，拈出無邊栗棘蓬；今日歐峰孤頂上，幸然無事又相逢。相逢即且置，其中事作麼生？若有道得，便請歸堂；若道不得，打葛藤謾你諸人去也云云。」會中時多龍象，以圜悟久虛座，元俟師之來，頗有不平之心；一聞提唱，無不屈服。及冬至秉拂，昭覺元禪師出眾問：「眉間挂劍時如何？」師云：「血濺梵天。」圜悟時於座下以手約云：「住！住！問得極好，答得更奇。」元乃歸眾，叢林由是改觀。三年己酉

> 師は四十歳で虎丘に住んでおられた。ある時、銭子虚のために普説された。 「私は昔、湛堂禅師に『殃崛摩羅が仏の言葉によって難産の苦しみを救った』という因縁について質問しました。湛堂禅師はさまざまな方便を示されましたが、私は実は理解できませんでした。その後、虎丘で『華厳経』を読んでいて、菩薩が第七地に登り無生法忍を証得するという段に至った時、こうありました。 『仏子よ、菩薩がこの忍を成就すれば、ただちに菩薩の第八不動地に入る。深行の菩薩であり、知り難く、差別なく、一切の相・一切の想い・一切の執着を離れ、無量無辺の声聞や辟支仏も及ぶことができない。すべての喧騒や論争を離れ、寂滅が現前する。たとえば比丘が完全な神通力を具え、心の自在を得て、順に滅尽定に入るように、すべての動く心・憶念・分別がことごとく止み休む。この大菩薩もまた同じであり、不動地に住して、一切の功用的修行を捨て、無功用の法を得て、身口意の業や念慮の務めがすべて息み、報身の行に住する。 たとえば、ある人が夢の中で自分の身が大きな川に落ちるのを見て、渡ろうとするために大いなる勇猛心を発し、大いなる方便を用い、その大いなる勇猛と方便によって、目が覚める。覚めたならば、為すところはすべて息む。菩薩もまた同様であり、衆生が四つの流れの中にいるのを見て、救済するために大いなる勇猛心を発し、大いなる精進を起こし、勇猛精進によってこの不動地に至る。すでにここに至れば、一切の功用的修行はことごとく息み、二つの行相や行相の現れも眼前に現れない。この大菩薩は、菩薩心・仏心・菩提心・涅槃心すら現前せず、ましてや世間の心を起こすことがあろうか』」 師は言われた。「ここに至って、布袋を打ち落としたように、湛堂禅師が私のために示してくださった方便が、忽然と目の前に現れたのです。」 十月、雲居の圜悟のもとへ挨拶に参じた。道すがら金陵で韓子蒼待制を訪ね、五泊してから別れ、舟を浮かべて川を遡り星渚に至った。山に到着し、翌日首座寮に入った。 子蒼が師に返した書状にはこうある。「金陵での邂逅は、まことに我が願いを満たすものでした。しかし最初は、あなたが急に廬山へ行かれるとは思いませんでした。ゆえに対牀しての夜の談話は四五度に過ぎませんでした。岸を離れてから今日まで消息がなく、非常に懸念しておりました。手紙を受け取り、山に着いて十日、道中無事であったことを知り、またすぐに衆僧の首座として老和尚と分座説法されたことを知り、大いに喜んでおります。先日、覚範の行状と出世・入寂の年月日を書いて送っていただきましたが、銘を作り、同安に託して石に刻ませたいと思います。決して遅らせてはなりません。」 秉払の時、大意はこう述べられた。「夷門の昔、家の醜態をさらし、際限ない荊棘の蓬をつまみ出した。今日、欧峰の孤高の頂きで、幸いにも何事もなく再び相まみえる。相逢はさておき、その中の事は如何なるものか。もし言い当てられる者がいるなら、どうか堂に入って休まれよ。もし言い当てられなければ、葛藤を引きずって君たちを惑わすことになるだろう。」 会中には時に多くの龍象がいた。圜悟が長らく首座の席を空けて師の来るのを待っていたため、心ならずも思う者もあったが、一度この提唱を聞いて、ことごとく屈服しない者はなかった。 冬至の秉払の時、昭覚の元禅師が衆中から進み出て問うた。「眉間の剣を掛ける時はいかがですか。」 師は言われた。「血が梵天に飛び散る。」 圜悟はその時座下で手を以て制して言われた。「止めよ、止めよ。問いは極めて良いし、答えはさらに奇妙だ。」 元はついに衆に帰り、叢林はこれによって見方を改めた。 三年己酉。

師四十一歲。雲居首座寮，一日因遺火燒卻簾，次日告香，拈狗子無佛性話云：「欲識佛性義，當觀時節因緣。雲門大師道：『若是得底人，道火何曾燒著口？』」遂作頌云：「趙州狗子無佛性，道火何曾口被燒？昨夜忽然簾上發，南海波斯鼻孔焦。」時圜悟有歸蜀意，師於中夏遣參徒於雲居山後，尋得古雲門舊址，欲刱菴以居。按圜悟與耿龍學書云：「杲佛日一夏遣參徒踏逐山後古雲門高頂，欲誅茅隱遁，其志可尚，今令謙去，山叟為書數語及疏頭亦欲輟，長財成之，可取一觀，渠正欲奉鋤，更在高裁也。」圜悟是年閏八月退雲居，復示師住菴法語云：「古德住山，率刀耕火種，不蓄長物，蕭然布衲，麤衣糲食，將大有為也。慕義學道，兄弟相從，一切以寬量大度包納之，不暴怒、不峻阻，慈悲喜捨，以身帥之。蓋菴居五七間，不比叢林寬廣，咳唾動靜，無不與耳目相接，若一一責之以禮，則久久生怨，驀地顏色相及，便見參商，即攪道義。豈不見藥山數十年牛欄菴，只七八人，其後皆為大法器；風穴和尚單丁久之，只二三相從，後來麟象駢集，答問汪洋，謂之眾吼；溈山十年煮橡栗喫，晚年大安來者，著五百眾；大梅入深山幽谷，初不與世接，因鹽官僧採拄杖乃逢之，問酬徑截，後半千人。今既不得已，作避世隱遁，正欲韜晦，俟時清平，然後行己之願，豈可以小忍而亂大謀哉？一切但低細和合，先防自犯三業，提向上那一著子，教兄弟日有趣向，自然忘倦，向前去也。俗諺所謂『相見易得好，共住難為人』，要須廓落寬容，半見半不見，且圖長久，斷與常流異矣。教中道：『如為一人，眾多亦然。』三家村裏數間茅屋立，成箇本分規繩，不嚴不緩，凡百折衷，佗日便更多多益辦也。古人佩韋佩絃，各攻其偏，惟務中道而行，況辯智過人，不能照此細務，但患逞俊太過，一色便自性，久之便不好耳。此去有人議論，應當回轉著，亦令讚歎，非常人所可及乃善。更有一箇急要最後句，不免略說之：『佛法無多子，久長難得人。』」四年庚戌

> 師は四十一歳のとき、雲居山の首座寮にいた。ある日、火の不始末で簾が焼けてしまった。翌日、香を供えて報告し、「狗子に仏性なし」の公案を取り上げて言った。「仏性の義を知りたければ、時節因縁を観よ。雲門大師は言った。『もし悟りを得た者ならば、「火」と言っても、どうして口が焼けることがあろうか』と。」そこで偈を作った。「趙州の狗子に仏性なし、火と言うも何ぞ曾て口が焼かれん。昨夜忽然として簾の上に発す、南海の波斯の鼻孔焦げたり。」ちょうどその頃、圜悟は蜀に帰りたいと思っていた。師は夏の間に、修行者たちを遣わして雲居山の裏手に、古い雲門の旧跡を探させ、庵を建てて住むつもりだった。 圜悟が耿龍学に送った手紙にはこうある。「杲仏日（大慧禅師）は一夏の間、修行者を遣わして山の裏手の古い雲門の高き頂を探し求め、草を刈り払って隠遁しようとしている。その志は敬うに値する。今、謙を使者として送る。山叟（圜悟自身）が手紙と趣意書を書き、また費用の一部を出そうと思う。君も一覧されたし。彼はまさに鍬を取ろうとしているのだから、さらに君の支援があれば何よりだ。」 圜悟はこの年の閏八月に雲居を退いた。そして師に庵住のための法語を示した。 「古の優れた禅者は山に住み、刀で切り、火で焼くような耕作をし、余計な物を蓄えず、粗末な衣をまとい、粗食で質素に暮らした。それは大きなことを成し遂げようがためだ。道を慕い、学び求める兄弟たちが共に従うならば、すべて寛容な心で包み込み、怒りを爆発させず、厳しく拒まず、慈悲喜捨の心で、自ら手本を示せ。庵は五、七間の狭さで、大寺院のように広くはない。咳や唾、立ち振る舞いのすべてが、互いの耳目に触れるのだ。もし一つ一つを礼儀で責めれば、長くは続かず恨みが生じる。急に顔色が立ってしまえば、仲違いとなり、道義を壊してしまうだろう。 薬山禅師が何十年も牛欄庵に住み、ただ七八人だけが共にいたが、後に皆が大きな器となったのは、ご存じの通りだ。風穴和尚は長く独りでいたが、二三人の者が従い、後には多くの優れた弟子が集まり、問答が盛んに行われ、衆吼と呼ばれた。潙山禅師は十年間、橡の実を煮て食べ、晩年には大安が来て、五百人もの人々が集まった。大梅禅師は深い山に入り、初めは世間と交わらなかったが、塩官の僧が杖を採りに行った際に出会い、問答は実に簡潔明瞭で、後には千人近くが集まった。 今、やむを得ず世を避けて隠遁するならば、まさに才能を隠し、時が平穏になるのを待ち、その後で自らの願いを遂げるべきだ。どうして小さな忍耐で大きな計画を乱すことがあろうか。すべては低く穏やかに、仲良く調和し、まず自分の三業（身・口・意の行為）の過ちを防ぎ、向上の一着を掲げて、兄弟たちに日々向かうべき方向があれば、自然と疲れを忘れ、前へ進むであろう。 俗諺に『相見易くして好し、共住は人に為り難し』とある。重要なのは、心を広く寛容に保ち、半分は見、半分は見ないで、長く続くことを図ることだ。必ずや並みの者とは異なるであろう。 教えの中にこうある。『一人のためにするが如く、多くの者も同じ』と。三家村の中に数間の茅屋を建てて、本分の規律を成し、厳しすぎず緩すぎず、万事ほどほどにする。そうすれば、後にはますます多くのこともうまくいくであろう。 古人は韋（柔らかい革）や弦（張った弓の弦）を身につけ、それぞれ自分の偏りを戒めた。ただ中道を行くことを務めたのだ。ましてや君は弁知に優れている。このような細かいことを理解できないはずがない。ただ、あまりに優れていることを誇りすぎて、自分の性分のままでいると、長くは良くないだろう。 これから誰かが議論するようなことがあれば、振り返って考え、また讃歎もさせるようにせよ。それは普通の人の及びもつかないことだ。もう一つ、最も大切な最後の一句がある。あえて少し述べよう。『佛法は多くのものではない。長く続ける人は得難い』と。」 四年（庚戌）、圜悟は.....。

師四十二歲。是年春，遷海昏雲門菴，時開善謙、薦福本、東林顏、雪峰空，凡二十餘人，侍師而往，朝參暮請，聲譽藹著。九月，以盜賊猖獗，避地湖湘。抵長沙，訪佛性泰禪師於谷山，師與之雖法門昆季，而未之識。一見，果合符契，商今確古，語必終日，坐必達旦。佛性喜楊岐正宗有賴於師，特揭振祖堂以館之。一日，師曰：「香嚴悟道頌，『一擊忘所知』五字，曲盡其妙，後七句皆注腳耳。」佛性曰：「五祖師翁頌狗子無佛性，只消趙州露刃劍足矣，餘皆剩語。」二人欣慰，各以為然。邊境既肅，遂作江西之行。按子蒼寄圜悟書云：「妙喜菴于雲門，方成法席，以賊近境，散去。近來豐城相見，云過谷山，見泰老甚安穩也。」紹興元年辛亥

> 師は四十二歳であられた。この年の春、海昏の雲門菴に移られた。その時、開善の謙禅師、薦福の本禅師、東林の顔禅師、雪峰の空禅師など、二十数名が師に従ってお供し、朝夕の参禅や問答に励み、その名声は広く知れ渡った。九月、盗賊が猛威を振るったため、湖南・湖北の地へ避難された。長沙に到着し、谷山の佛性泰禅師を訪ねられた。師は彼と法門の兄弟の間柄であったが、まだ面識はなかった。ひとたび会うと、まさに心意気が合致し、古今の事を論じ合い、語り合えば必ず終日、坐れば必ず明け方までに及んだ。佛性禅師は、楊岐の正しい法統が師によって継がれることを喜び、特に振祖堂を掲げて師を留め置いた。ある日、師が言われた。「香嚴が悟りの偈で『一撃忘所知』（一撃のもとに知ることを忘る）の五字は、その妙を尽くしている。後の七句はただの注釈に過ぎない。」佛性禅師は言われた。「五祖の老師が『狗子無佛性』の公案を頌した時、ただ趙州の露刃剣（露わにした刃の剣）の一句があれば十分であり、残りは余計な言葉である。」二人は共に喜び、それぞれがその言葉を正しいと認め合った。辺境の地が落ち着いたので、江西への旅に出られた。子蒼が圜悟に宛てた手紙にはこうある。「妙喜は雲門に庵を結び、やっと法席を成したが、賊が境に近づいたため、僧侶たちは散り散りになった。最近、豐城で会ったところ、谷山に行って泰老に会ってきたと言い、非常に平穏であるとのことだった。」紹興元年（辛亥年）のことである。

師四十三歲。登仰山，邂逅東林珪禪師。按東林跋頌古云：「余靖康元年結茅分寧西峰。建炎四年，遷仰山。明年，妙喜自湖外來，一見相契，遂定楊岐宗旨。二月，復還雲門菴，題《高菴悟禪師語要》，示學徒雲門舉起竹篦五頌。」二年壬子

> 師は四十三歳のとき、仰山に登り、偶然にも東林珪禅師と出会った。東林が『頌古』に付した跋文にはこうある。「私は靖康元年、分寧の西峰に草庵を結んだ。建炎四年、仰山へ移った。翌年、妙喜（大慧宗杲）が湖の外から来て、一目会っただけで意気投合し、ともに楊岐の宗旨を定めた。二月には雲門庵に戻り、『高菴悟禅師語要』に題詞を書き、学徒たちに示した。雲門が竹篦を掲げて五つの頌を詠んだ」とある。二年は壬子の年である。

師四十四歲。深山闃寂所處，皆正因學道之士，而師不倦椎拂，日夕與之鍛煉。一日，為眾曰：「此事人人具足，各各圜成，只向自己分上辦取。世尊初生下，一手指天，一手指地，周行七步，目顧四方云：『天上天下，唯我獨尊。』意在那裏？意在鉤頭，只要各各自知獨尊。只如長慶稜和尚悟道了，有頌云：『萬象之中獨露身，唯人自肯乃方親；昔年謬向塗中覓，今日看來火裏冰。』這箇須是自肯始得。我說底盡是塗中事，去禪床角頭覓說佛說法，說妙說玄、事理心性，盡是塗中事，且那箇是獨露底身？大丈夫漢須是自肯始得，那裏去古人舌頭上覓？纔見人道是，你也道是；道不是，你也道不是。只在聲色上走，有什麼交涉？」又曰：「今時人盡是順顛倒、不順正理。『如何是佛？』『即汝心是。』卻以為尋常，及至問：『如何是佛？』答云：『燈籠沿壁上天台。』便道奇特。豈不顛倒耶？」又曰：「我這裏禪如擊石火，當一擊時，拈起法燭點著便行，纔眨眼便蹉過也。這些子不妨是難。」又曰：「兄弟做工夫，不消舉因緣，只去近處看，只如六祖為明上座云：『汝但善惡都莫思量，當恁麼時，一切不思量，還我明上座本來面目。』但恁麼看。」又曰：「此事大段近，因甚不會？」良久，曰：「只為分明極，翻令所得遲。」三年癸丑

> 師は四十四歳であられた。深山のひっそりとした閑寂な地にあって、おられた場所には、みな正しい因縁を求める学道の士ばかりが集い、師は疲れを知らずに禅の指導を続け、朝夕とわず彼らを鍛え上げられた。 ある日、衆に向かって言われた。「この事は人人に具わり、各各に円成しておる。ただ自分の分上でやり遂げよ。世尊が初めてお生まれになった時、一方の手で天を指し、一方の手で地を指し、四方を七歩歩き、目で四方を見渡して『天上天下、唯我独尊』と言われた。その意図はどこにあるのか。意図は釣り針の先にある。ただ各各が自分で独尊であることを知るように、ということだ。長慶稜和尚が悟りを開かれた後、頌を残された。『万象の中に独り身を露わす、ただ人が自ら肯うて初めて親しくなる。昔は誤って道中に求めたが、今日見れば火の中の氷である。』この事は必ず自ら肯うて初めてよいのだ。私が話すことは全て道中の事である。禅床の隅で仏を説き法を説き、妙を説き玄を説き、事理・心性を説くことも、全て道中の事である。それでは、独り露わす身とは何か。大丈夫たる男児は必ず自ら肯うて初めてよい。どこに古人の舌先を求めることがあろうか。人が『是だ』と言えば、お前も『是だ』と言い、『不是だ』と言えば、お前も『不是だ』と言う。ただ声色の上を走り回っているだけだ。何のかかわりがあるのか。」 また言われた。「今時の人はみな顛倒に従って、正しい理に従わない。『如何なるか是れ仏』と問えば、『即ち汝の心是れ』と答える。しかし、これを尋常と思い、『如何なるか是れ仏』と問うた時に、『燈籠が壁に沿って天台に上る』と答えれば、すぐに奇特だと言う。これは顛倒ではないか。」 また言われた。「我がここでの禅は、石を打つ火花のようなものだ。まさに一撃した時、法燭を掲げて点けてすぐに歩み出る。まばたきすれば、すぐに蹉過してしまう。この一事は実に難しい。」 また言われた。「兄弟たちよ、工夫をするのに、因縁を挙げるまでもない。ただ近い所を見よ。六祖が明上座に『汝はただ善悪ともに思い量することなかれ。当に恁麼なる時、一切思い量せず、我に明上座の本来の面目を還せ』と言われた。ただこのように見よ。」 また言われた。「この事は大いに近いのに、どうして会得できないのか。」しばらくして言われた。「ただ分明極まるが故に、却って得ることの遅きを致すのみ。」 三年、癸丑の年。

師四十五歲。東林珪禪師自仰山來同居，各作頌古一百一十篇。按東林書頌古後云：「紹興癸丑四月，余過雲門菴，同妙喜度夏，山頂高寒，終日無一事，相從甚樂。妙喜曰：『昔白雲端師翁謝事圜通，約保寧勇禪師夏居白蓮峰，作頌古一百一十篇，有提盡古人未到處，從頭一一加針錐之語。吾二人今亦同夏，於此事跡相類，雖傚顰無媿也。』遂取古公案一百一十則，各為之頌，更互酬酢，發明蘊奧，斟酌古人之深淺，譏訶近世之謬妄，不開知見戶牖，不涉語言蹊徑，各隨機緣，直指要津，庶有志參玄之士，可以洗心易慮於茲矣。」臨川太守曾公紆以廣壽虛席，請師莫之得，遂託待制韓公子蒼及舍人呂公居仁，以書勸諭。庶幾，肯就，而師堅志莫屈。按子蒼書云：「昨顏知藏歸，附書奉勸，以彼太闃寂，山下時有劫掠，似非禪定之所，不若與眾來此，或須卓菴，極易事耳。不知何故，了不見聽。今郡守欽仰道德，且釆眾論，特屈公高躅說法。廣壽不肖，語之曰：『此公誓不出世，雖堅請必不來；然自聞議定一方，道俗無不延跂。』昔汾陽累請不出，後來自要住院，乃知通人，或出或處，豈嘗固執？況今禪道頹壞，所以圜悟望公振起楊岐之風，若孤峰頂上草衣木食，終不為人，此則獨覺行也，豈圜悟之意哉？」九月，同珪禪師之臨川，訪子蒼、居仁，謁草堂和尚於疏山，因館子蒼之西齋。按普說云：「子蒼為此事甚切，與某鼻孔廝拄者半年。」四年甲寅

> 師は四十五歳のとき、東林珪禅師が仰山から来て一緒に住み、それぞれ頌古（禅の古則に対する頌）を百十篇ずつ作った。東林の書いた頌古の後の記録によれば、「紹興癸丑（1133年）の四月、私は雲門菴に立ち寄り、妙喜（大慧宗杲）と共に夏安居を過ごした。山の頂上は高く寒く、終日やることもなく、互いに親しく過ごすのはとても楽しかった。妙喜は言った。『昔、白雲端師翁が圜通の職を辞し、保寧勇禅師を誘って白蓮峰で夏安居を共にし、頌古百十篇を作り、「古人の未到の處を提盡し、頭より一一に針錐を加う」という言葉があった。我々二人も今同じ夏を共にし、この事跡が似ている。たとえ醜女が美女の真似をするようなものであっても、恥じることはない。』そこで古来の公案百十則を取り上げ、それぞれ頌を作り、互いに唱和しながら、その深遠な意味を明らかにし、古人の境地の浅深を評価し、近世の誤った見解を批判した。知見の枠に閉じこもらず、言葉の道筋にも依らず、それぞれの機縁に応じて、直接に要諦を示した。これは、道を究めようと志す者たちが、ここで心を洗い、思いを改めることができるようにするためである」と記されている。 臨川の太守・曾紆（そうく）は広寿寺の住職が空いたので、師に来てもらおうとしたが、叶わなかった。そこで待制の韓子蒼（かんしそう）と舎人の呂居仁（ろきょじん）に頼んで、書簡で勧めさせた。これなら承諾するかと思われたが、師の意志は堅く、屈しなかった。子蒼の書簡にはこうある。「先日、顔知蔵が帰ってきた際に、書を託して勧めました。あそこはあまりに閑寂で、山のふもとではしばしば強盗があるそうです。禅定の修行の場にはふさわしくないように思えます。どうか皆と一緒にこちらへ来てください。あるいは庵を結ぶにしても、たやすいことです。なぜかちっともお聞き入れいただけません。今、郡守はあなたの道徳を敬慕し、また多くの人の意見も採り入れて、特別にあなたの高い徳を招いて説法いただこうとしています。広寿のことは、私ごときが『この方は生涯、世に出ると誓われていないので、いくら強く請じても来られないでしょう。しかし、この方が来られると聞いてから、一帯の僧俗はみな首を長くして待っています』と申し上げました。昔、汾陽は幾度請われても出ず、後に自ら院主となることを望みました。これによって、達人は出たり隠れたりするもので、どうして固執することがありましょうか。ましてや今、禅道は衰え崩れています。それゆえ圜悟は、あなたが楊岐の宗風を振興されることを望んでいます。もし孤峰の頂上で草を衣とし木の実を食んで、ついに人のために説法しないというなら、それは独覚の行いに過ぎません。どうして圜悟の意図でありましょうか。」 九月、師は珪禅師と共に臨川に行き、子蒼・居仁を訪ね、疏山で草堂和尚に謁見し、子蒼の西斎に滞在した。普説によれば「子蒼はこのことを非常に切実に思い、私と半年の間、鼻先を突き合わせるようにして議論した」とある。 四年甲寅（1134年）。

師四十六歲。是年二月，作七閩之行。按子蒼贈別詩，其略曰：「幻世吾方夢，迷津子作舟；禪心如密付，當為少淹留。」又有「還應雪峰老，領眾待雲門」之句。三月，至長樂，館于廣因寺，因遊雪峰，適建菩提會，真歇了禪師請為眾普說。其略曰：「今夏在廣因，開箇燈心皂角鋪子，隨分說些麤禪，室中問一句子，不思量計較，天真自然，道得一句，便與一拶，擬議不來，劈脊一棒，別無細膩工夫。忽然打發一箇半箇，卻教上來，就大爐韛，事同一家。」按為超、明、海三大師普說云：「尼長老妙道，號定光太師。往年在雪峰諸處參禪，聞我在廣因，遂破夏來求挂搭。山僧向佗道：『我自是客門，取長老去。』長老諾之。其時只七十僧。一日，兩遍入室，因為光藏主舉話次，道在外面聽得有歡喜處，便來吐露云：『適聞和尚舉不是心，不是佛，不是物，已理會得。』當是便問佗：『不是心，不是佛，不是物，你如何會？』云：『妙道只恁麼會。』道聲未了，山僧云：『㘞！多了箇只恁麼會。』渠乃瞥地。」

> 師は四十六歳であられた。この年の二月、七閩への旅をなされた。子蒼の贈別詩におよそ次のようにある。「幻世において我はまさに夢の中、迷いの渡し場にて君は舟とならん。禅の心はひそかに伝えられ、しばし留まるべきかな。」また「雪峰の老いたる師に応えて、衆を率いて雲門を待つべし」という句もある。三月、長楽に至り、広因寺に宿られた。そのおり雪峰に遊び、ちょうど菩提会が開かれ、真歇了禅師が師に請いて大众のための普説を行わせた。その大意はおよそ次のとおりである。「この夏、広因にて小さな寺を開き、その場しのぎの粗い禅を説いてきた。室の中である一句を問えば、考え計らず、天真自然のままに、一句を言い当てたなら、すぐに一喝を加える。あれこれ思案するなら、背中を一打ちする。細かい技巧などはない。もし一人や二人、悟りを開く者が出たら、上に上がらせて、大きな炉のふいごの前で鍛える。同じ一家のことである。」また超・明・海の三大師のための普説にはおよそ次のようにある。「尼の長老である妙道、号は定光太師と申す方が、かつて雪峰などの諸所で参禅しておられたが、私が広因におると聞いて、夏安居の途中を破って来て、掛搭を求めた。山僧は彼女に『私はもとより客の身、おまえを連れて行ってやろう。』と言うと、その方は承知された。その時はただ七十人の僧がいた。ある日、室に二度入って来て、光藏主のために話をしていると、外で聞いていて喜ぶところがあったのか、来て告白して言うには『たった今、和尚が“心にあらず、仏にあらず、物にあらず”と挙示されるのを聞いて、すでに理會いたしました。』と。そこで私はすぐに彼女に問うた。『心にあらず、仏にあらず、物にあらず、おまえはどう会得したか。』彼女は『妙道はただこのように會得いたします。』と言うや否や、山僧は『㘞、その“ただこのように”が余計だ。』と言うと、彼女ははっと悟ったのである。」

林適可司法刱菴於洋嶼，延師居之。時宗徒撥置妙悟，使學者困於寂默，因著辨正邪說而攻之，以救一時之弊。按示遵璞禪人法語云：「甲寅春，余自江左來閩，有祥雲曇懿長老開法莆中，衲子輻湊，璞亦從之為表裏。余知其未穩當，恐誤學者，以書致懿，令蹔來。懿畏得失，遲其行，遂因小參，痛斥其非，揭牓于門，以告四眾。懿不得已，乃破夏來。詰其所證，只如舊時，遂語之曰：『恁麼見解，何敢嗣圜悟？便退卻院來。』懿夏末果不食言，璞亦繼至。一日入室，余問僧：『德山見僧入門便棒，臨濟見僧入門便喝，雪峰見僧入門便道是什麼，睦州見僧入門便道現成公案，放你三十棒。這四箇老漢，還有為人處也無？』僧曰：『有。』余曰：『劄。』僧擬議，余便喝出。璞聞之，忽然脫去從前許多惡知惡解，遂成箇灑灑地衲僧，懿亦相繼於一言之下腳踏實地。」有彌光禪人，叢林號光狀元者，蓋在洋嶼最初得法。一日入室次，師問曰：「喫粥了也，洗缽盂了也，燒香了也，行道了也，去卻藥忌，道將一句來。」光云：「裂破。」師厲聲曰：「你又來這裏說禪也！」光於言下契悟，呈頌云：「當機一拶怒雷吼，驚起法身藏北斗；洪波浩渺浪滔天，拈得鼻孔失卻口。」師即撾鼓說偈以證云：「龜毛拈得笑咍咍，一擊萬重關鎖開；慶快平生是今日，孰云千里賺吾來？」又鼎需禪人入室，師問曰：「內不放出，外不放入，正當恁麼時如何？」需擬對，師以竹篦打，至三下，需忽大悟，不覺叫曰：「和尚已是多也。」師又打一下，乃示一偈云：「頂門豎亞摩醯眼，肘後斜懸奪命符。瞎卻眼，奪卻符，趙州東壁挂葫蘆。」又大悲閑長老，年八十有四，隨眾入室。師問：「不與萬法為侶是什麼人？」閑曰：「扶不起。」師曰：「扶不起是什麼人？速道！速道！」閑擬對，師便打，忽然大悟。復示以頌：「一棒打破生死窟，當時凡聖絕行蹤；返笑趙州心不歇，老來由自走西東。」菴居纔五十三人，未五十日，得法者十三輩。答曾天游侍郎、吳元昭提刑問道書，示祖元禪人、曇懿長老等十三頌，以頌戲了然居士，鄭舉之作珪竹菴讚，擬泉大道作藞苴歌，送文紀道者持缽。

> 林適可が洋嶼に司法刱菴（寺院）を建て、師（大慧宗杲禅師）をそこに住まわせた。その頃、宗門の人々は妙悟（言葉を離れた深い悟り）をないがしろにし、修行者を静寂や沈黙に閉じ込めて苦しめていた。そこで師は「辨正邪説」（邪説を論破する文章）を著してこれを攻め、当時の弊害を救おうとした。 遵璞禅人に示した法語にはこうある。「甲寅年の春、私は江左（江南）から閩（福建）にやって来た。祥雲に曇懿（どんい）長老という者がいて、莆中で説法を開き、修行僧たちが集まっていた。璞（遵璞）もその中にいて、曇懿と一体となっていた。私は彼がまだ修行が不安定で、修行者を誤らせるのではないかと心配し、手紙を曇懿に送って、しばらく来るように求めた。しかし曇懿は評価を失うことを恐れて、なかなか来ようとしなかった。そこで私は小参（説法）の際に、彼の非を痛烈に指摘し、門に掲示して、大衆に知らせた。曇懿はやむを得ず、夏安居（雨期の修行期間）を中断してやって来た。彼の悟りを尋ねると、以前のままであった。そこで私は彼に言った。『そのような見解で、よくも圜悟（えんご）禅師の後継者を名乗れたものだ。すぐに院を引き払え。』曇懿は夏の終わりに、本当に約束を守って去っていった。璞もまた続いてやって来た。ある日、室に入ってきた時、私は僧に問うた。『徳山は僧が門に入るのを見れば即座に棒を打ち、臨済は僧が門に入るのを見れば即座に喝（掛け声）をした。雪峰は僧が門に入るのを見れば「それは何か？」と言い、睦州は僧が門に入るのを見れば「目の前の公案（課題）だ、お前に三十棒を与える」と言った。この四人の老和尚には、人を導くための工夫があるだろうか？』僧は言った。『あります。』私は言った。『その答えは違う（劄）！』僧が考え込もうとしたので、私は彼を喝して追い出した。璞はこれを聞いて、忽ちそれまでの多くの間違った知識や見解を脱ぎ捨て、晴れやかな修行僧となった。曇懿もまた、その後に師の一言のもとで足を地に着けた（真実の悟りを得た）。」 弥光禅人という者がいて、叢林（禅宗の僧団）で「光状元」と呼ばれていた。彼は洋嶼で最初に法（悟り）を得た者である。ある日、室に入ってきた時、師は問うた。「粥を食べ終わったか、鉢を洗い終わったか、香を焚き終わったか、経行（歩行禅）し終わったか。忌避すべきことを離れて、一句を言ってみよ。」弥光は言った。「裂破（打ち破る）。」師は大声で言った。「またここで説禅（禅について語ること）をするのか！」弥光はその言葉で忽ち道理を会得し、頌を捧げた。「当機一拶怒雷吼（機に臨んで一喝、怒りの雷の如く吼える）、驚起法身蔵北斗（法身を驚かせて北斗に隠す）、洪波浩渺浪滔天（大波は広く渺々とし、浪は天を覆う）、拈得鼻孔失却口（鼻孔を得て、口を失う）。」師は直ちに太鼓を打ち鳴らし、偈を唱えて彼の悟りを証明した。「亀毛拈得笑咍咍（亀の毛を拈り得て、にこにこと笑う）、一撃万重関鎖開（一撃のもとに万重の関門の鍵が開く）、慶快平生是今日（平生の慶びは、この今日である）、孰云千里賺吾来（誰が千里もの旅をさせたと言うのか。師に会うために）。」 また、鼎需禅人が室に入ってきた時、師は問うた。「内も放ち出さず、外も入れず、まさにそのような時、どうするか？」鼎需が答えようとしたが、師は竹篦（竹の杖）で三度打った。鼎需は忽ち大悟し、思わず叫んだ。「和尚、もう十分ではありませんか！」師は更に一度打ち、一偈を示した。「頂門に摩醯（まけい）の眼を聳え立て、肘の後ろに命を奪う符を斜めに懸ける。眼は瞑り、符は奪われる。趙州の東の壁に葫芦を掛く。」 また、大悲閑長老という者がおり、年は八十四歳であったが、大衆と共に室に入ってきた。師は問うた。「万法とともにしない者（すべてのものと一体でない者）は、どのような人か？」閑は言った。「扶（助け起こすこと）できない。」師は言った。「扶（助け起こすこと）できない者はどのような人か？早く言え！早く言え！」閑が答えようとすると、師は直ちに打った。閑は忽ち大悟した。さらに頌を示した。「一棒打破生死窟（一撃の棒が生死の窟を打ち破る）、当時凡聖絶行踪（その時、凡夫と聖者の歩みは絶える）、返笑趙州心不歇（かえって趙州の心が休まらなかったのを笑う）、老来由自走西東（老いてなお、みずから東西に走り回る）。」 庵にはわずか五十三人が住んでいたが、五十日も経たないうちに、法（悟り）を得た者は十三人に達した。曾天游侍郎と呉元昭提刑の問道の書に答え、祖元禅人、曇懿長老らに十三頌を示し、頌をもって了然居士をからかい、鄭挙之の作った珪竹菴の讃を作り、泉大道に擬えて藞苴歌を作り、文紀道者の托鉢のために送った。

閩士鄭昂早聰銳，該洽三教，粗見尊宿所至，談禪自若，聞師力排默照為邪，昂忿氣可掬。一日持香來，聲色俱厲，引釋迦掩室及達磨魯祖面壁等語，與師辯白。師曰：「我只將你屋裏底為你說。《莊子》曰：『言而足，終日言而盡道；言而不足，終日言而盡物。道物之極，言默不足以載；非言非默，義有所極。』孔子曰：『參乎！吾道一以貫之。』曾子曰：『唯！』此亦言而足處，但措大多錯會。《肇論》：『釋迦掩室於摩竭。』四義是皆理為神御，故口以之而默，豈曰無辯？辯所不能言也。何得向黑山鬼窟裏坐地？先聖訶為解脫深坑，極可怖畏。蒙莊座主尚不滯於默然，況祖師門下客，纔開口，便落今時，有甚交涉？」尚明不覺作禮。師復徵以生死大事，乃省悟悅服。是冬，以浴司拾官夫所伐棄樹梢燖浴，縣尉私意追擾菴鄰，師即拂衣過莆陽，憲使督尉躬請不已，戲作偈寄檀越曰：「雲門燒浴盜官柴，帶累傍人枉受災；寄語嶼頭諸施主，已成鮑老送燈臺。」五年乙卯

> 闽の士、鄭昂は若くして聡明で、三教に通じ、かつて尊宿に参じたこともあり、禅について語る時はいつも悠然としていた。彼は師が黙照を邪と排斥するのを聞き、怒りを堪えきれない様子だった。ある日、香を携えて訪れ、声色ともに激しく、釈迦の掩室や達磨・魯祖の面壁などの故事を挙げて、師と論じ合った。師は言った。「私はただお前の家の中のものを使って話そう。《荘子》に曰く『言うことが十分であれば、一日中言葉を尽くしても道を尽くすことができる。言うことが十分でなければ、一日中言葉を尽くしても物事を尽くすに過ぎない。道と物の極みは、言葉や沈黙だけでは捉えきれない。言葉でもなく沈黙でもないところに、その義の極みがある』と。孔子は言った『参よ、我が道は一つのもので貫かれている』と。曾子は『唯』と答えた。これもまた言うことが十分なところだが、ただの学者たちは誤って理解している。《肇論》に『釈迦は摩竭で室を閉じた』とある。四つの義は、すべて理が神によって御されるので、口を閉じて沈黙したのだ。どうして弁じることがないと言えようか。弁じようとしても言葉にできないのである。どうして黒山の鬼窟の中に座っていられるだろうか。先聖はこれを解脱の深坑と叱り、極めて恐ろしいものとした。蒙荘の座主（荘子）でさえ沈黙に留まらなかった。ましてや祖師門下の者であれば、口を開けばすぐに今の時代に落ちてしまう。何の関わりがあろうか」と。尚明（鄭昂）は思わず礼拝した。師はさらに生死の大事について問い詰めると、彼は悟って心から服した。この冬、浴室の管理者が官夫が伐り捨てた木の梢を拾って湯を沸かしたところ、県尉が私意で庵の隣人を追い詰めた。師はすぐに衣を払って莆陽へ去ったが、憲使が尉を督して自ら懇請して止まなかったので、戯れに偈を作って檀越に送った。「雲門の焼浴、官の柴を盗む、隣人を巻き添えにし無実の災いを受く。嶼頭の諸施主に伝える、すでに鮑老が灯台を送る様となりぬ」と。五年乙卯の年。

師四十七歲。正月，赴蔡子應郎中天宮菴之命。泉南給事江公少明刱新菴於小谿之上，延師以居。按韓子蒼答少明書云：「竊知草菴得妙喜師開山，不喜妙喜得此菴，喜此菴得妙喜。然此道人孤高絕俗，與世寡合，此正其所長，以故惡嫉者眾，惟曠懷偉度，乃能期之於物外。若得安居，使圜悟之風焜燿泉南，實叢林盛事。」又按師答郡王孟公仁仲、樞密徐公師川書云：「去春入閩，憩廣因、洋嶼及八箇月，而蔡子應以莆中靈巖天宮菴見招，坐席未煖，江少明復以今新菴遣人相延，遂領長樂五十三衲子卷裓此來。四月初一入菴，見今內外度夏者二百人，皆叢林老成、從遊士夫、一時名士，如：李參政漢老、江給事少明、蔡子應郎中、儲彥倫、李端友、蔡春卿正卿諸公，咨問扣擊，拳拳不倦。雖菴居幽僻，正拙者之所宜也。」一日，因師示眾，舉自頌趙州庭前柏樹子話，拈云：「庭前柏樹子，今日重新舉，打破趙州關，特地尋言語。敢問大眾：既是打破趙州關，因甚特地尋言語？」良久，云：「當初將為茅長短，燒了元來地不平。」李參政聞之，忽然有省，乃謂師曰：「若無後語，邴亦領略不得。」別後，以書與師曰：「近扣籌室，伏蒙激發蒙滯，忽有省入，顧惟根識暗鈍，平生學解盡落情見，一取一捨，如衣壞絮，行草棘中，適自纏繞。今一笑頓釋，欣幸可量，非大宗匠委曲垂慈，何以致此？自到城中，著衣喫飯，抱子弄孫，色色仍舊。既亡拘滯之情，亦不作奇特之想，其餘夙習舊障亦稍輕微。臨別叮嚀之語，不敢忘也，重念始得入門。而大法未明，應機接物，觸事未能無礙，更望有以提誨，使卒有所至，庶不玷於法席矣。」蔡子應郎中亦以書通所得於師，略曰：「某近看狗子無佛性一語，恰似平地釘箇繫驢橛子，一除除卻，頓覺廓然，本無罣礙，一切文字語言已沒交涉。故見得竹篦子徹底分明，信知從上佛祖切要為人處，尤無多子，便見自己腳根下一段大事，明如皎日、廓若太虛，從本已來，不生不滅、不變不易，赤骨歷地，著一絲毫不得，直饒千佛出世，亦無摸索處，菩提煩惱、真如涅槃，皆為剩法；花梢柳眼種種勝妙境界，盡是榼󵈋。阿羅應時瓦解冰消，慶快有不可勝言者，因作頌曰：『雲門篦子，逢人便舉；有眼無睛，徒勞下語。』二曰：『狗子無佛性，截斷衲僧命；打破趙州關，識得雲門病。』樞此回若不遇老師，空被從前一知一解以為殊勝，埋沒過此一生，豈不可惜也！」師之所答，備於語錄。六年丙辰

> 師は四十七歳のとき、正月に蔡子應郎中の招きで天宮庵に入られた。泉南の給事である江少明氏は、小谿の上に新しい庵を建て、師をそこに住まわせた。韓子蒼が少明に送った手紙にはこうある。「草庵に妙喜師が開山としてお入りになると聞きました。私は妙喜師がこの庵を得たことを喜ぶのではなく、この庵が妙喜師を得たことを喜びます。しかしこの道人は孤高で世俗を超え、世間と馴染みにくい。それがまさに彼の長所であり、だからこそ妬み憎む者も多いのです。ただ、広い心と大きな度量を持つ人だけが、世俗を超えたところで彼を評価できるでしょう。もし彼が安らかに住み、圜悟の風が泉南に輝き渡るならば、それはまことに叢林の盛んなる出来事です。」また、師が郡王の孟公仁仲や枢密の徐公師川に送った手紙にはこうある。「昨年の春に福建に入り、広因寺や洋嶼に約八ヶ月滞在しました。そこへ蔡子應が莆中の霊巖天宮庵に招いてくれましたが、席も温まらぬうちに、江少明が今度は新庵に人を遣わして私を招きました。そこで長楽の五十三名の衲子を連れてここにやって来ました。四月一日に庵に入り、現在、内外で夏安居をする者は二百人。皆、叢林の老練な者たちや、ともに遊ぶ士大夫、当時の名士たちです。例えば、李参政の漢老、江給事の少明、蔡子應郎中、儲彦倫、李端友、蔡春卿正卿らの方々が、熱心に質問し、切磋琢磨し、倦むことがありません。庵の住まいはひっそりとしていますが、まさに拙者にふさわしいところです。」ある日、師が衆に示して、みずから「趙州庭前柏樹子」の話を挙げて頌した。「庭前の柏樹子、今日新たに挙げん。趙州の関を打ち破りしに、わざわざ言語を尋ぬるとは。あえて大衆に問う。すでに趙州の関を打ち破ったなら、なぜわざわざ言語を尋ねるのか。」しばらくして、「初めは茅の長短と思いきや、焼いてみれば元より地は平らならず。」李参政はこれを聞いて、忽然として悟るところがあり、師に言った。「もし後ろの言葉がなければ、邴（李参政の名）も領解できなかったでしょう。」別れた後、手紙で師に伝えた。「先日、あなたの室を訪れ、ご教示により長年の迷いを発起され、忽ち悟りに入るところがありました。思うに、私は根機が鈍く、生涯の学解はすべて情見に落ち、取ったり捨てたりして、まるで破れた綿を着て草や茨の中を歩き、自分で自分を絡め取っているようなものでした。今、一笑してたちまち解けました。この喜びは量り知れません。宗匠の大きな慈愛によるご指導がなければ、どうしてここに至れたでしょうか。城に戻ってからは、衣食し、子を抱き孫を弄し、すべて以前の通りです。もはや執着の情もなく、特別な思いを抱くこともありません。その他の昔からの習いや古い障りも、次第に軽くなりました。別れの際の諄々たるお言葉は忘れません。ただ、ようやく入門したばかりで、大法がまだ明らかでなく、機に応じて物に接するにも、事に触れて無碍でないものがあります。さらにご指導を賜り、ついに到るところまで至らせていただければ、法席を汚すことがないでしょう。」蔡子應郎中もまた、師に教えられたところを手紙に記して送った。およそ次の通りである。「私は近頃『狗子無佛性』の言葉を看ましたが、ちょうど平地に驢馬を繋ぐ杭を打ち据えたようなものでした。それを一つ除去すると、たちまち廓然として、もともと罣礙がなく、一切の文字言語がもはや関わりないことを覚えました。ゆえに竹篦子が徹底的に分明であることが見え、上からの佛祖が人を切要に指導するところが、特に多くはないと信じ知りました。そして自分の足元の一大事が、明らかに皎日の如く、広大に太虚の如く、本来より生滅せず、変易せず、赤裸々にして、一糸も着けられないことを見ました。仮に千仏が出世されても、捜し求めるところがないほどです。菩提や煩悩、真如や涅槃もすべて余分なものです。花梢や柳眼などの種々の勝妙な境界も、すべてこれらは入れ物に過ぎません。阿羅應は時に応じて瓦解氷消し、慶び楽しむことは言葉に尽くせないものがあります。そこで頌を作りました。一に『雲門の篦子、人に逢えば即ち挙ぐ。眼有れど睛なければ、徒らに語を下す。』二に『狗子に佛性なし、衲僧の命を截断す。趙州の関を打ち破り、雲門の病を識る。』私が今回、もし老師に出会わなければ、空しく以前の一知一解をもって殊勝と思い、この一生を埋没させてしまったでしょう。なんと惜しいことではないですか！」師の返答は、語録に詳しく載っている。六年丙辰。

師四十八歲。住泉州雲門菴，四月十六日，圜悟和尚訃音至，舉哀拈香，指真云：「這箇老和尚，一生多口攪擾叢林，近聞已在蜀中遷化了也，且喜天下太平。雲門昔雖曾親近，要且不聞他說著箇元字腳。所以今日作一分供養，點一盞茶，燒此一炷香，熏他鼻孔，即非報德酬恩，只要辱他則箇。」召大眾云：「既不聞他說箇元字腳，又無恩德可報，何故特地作這一場笑具？還委悉麼？冤有頭，債有主，偶因失腳倒地，至今怨入骨髓。」遂燒香。祭文略曰：「某近蒙大丞相張公委僧祖秀報成都府昭覺圜悟先師去年八月初八日示寂，闍維，煙所及處，五色舍利如菽，道俗祖送，悲動門蜀，間關萬里。訃音不以時，乃以是年四月戊戌朔十六日癸丑成服，設伊蒲之饌，用展哀思。嗚呼！先師道德高大，麾斥八極，顧其得法之由，與夫平生出處，大略遭遇：明天子，表帥叢林，照映先烈，上自宸扆公卿，下逮閭里負販，草木昆蟲，戶知之矣，寧復鉤棘敘致，為世俗文字不情之具乎？獨念孤陋不肖，蒙被剪拂之賜，含悽哽塞，其忍默然。自敘云云重念先師，眷眷如此，其至者，豈於某有所私也？要之，以付託之重，俾於钁頭邊覓本分種草，期得一箇半箇，恢張臨濟已墜之宗，開鑿後昆眼目，貴不虛閱世，實先師之志願也。不肖安足以承遺訓？區區圖報，未知所從，此其所以含悽哽塞，不能自已，傾倒底蘊，先師實臨之。」至晚小參，舉：「僧問長沙：『南泉遷化向什麼處去？』沙云：『東家作驢，西家作馬。』僧云：『未審意旨如何？』沙云：『要騎便騎，要下便下。』」師云：「今日忽有人問：『雲門圜悟老師遷化向什麼處去？』只向佗道：『入阿鼻大地獄去也。』『未審意旨如何？』『飲烊銅汁，吞熱鐵丸。』或問：『還救得也無？』云：『救不得。』『為什麼救不得？』『是這老子家常茶飯。』」十月，李參政漢老、呂舍人居仁、鄭編修尚明同訪師，令莆田鄭元亮寫師頂相，三公述讚書其上。讚見後錄師自題曰：「趙州云：『似則打殺老僧，不似則燒卻幀子。』盡謂此本逼真，獨未見有下毒手者，放過一著，兩手分付鈍叟。」鈍叟，尚明自號也。作釋迦出山相讚、趙州和尚、圜悟和尚真讚。七年丁巳

> 師は四十八歳。泉州の雲門庵に住しておられた。四月十六日、圜悟和尚の訃報が届き、師は慟哭し、香を拈って、影像を指して言われた。「この老和尚は、生涯口数の多さで叢林を騒がせてきたが、近頃、蜀の地で遷化されたとのこと。それで天下泰平となったのは喜ばしい。雲門はかつて親しく近づいたことはあるが、彼が『元』の字の脚について語るのを聞いたためしがない。だから今日、一分の供養として、一盞の茶を点じ、この一炷の香を焼いて、彼の鼻を燻してやる。これは恩に報いるためでも、徳に酬いるためでもない。ただ彼を辱めてやるだけのことだ。」そして大衆を招いて言われた。「彼が『元』の字の脚について語るのを聞いたことがなく、また恩徳も報いるべきものがないのなら、なぜわざわざこのような笑い種を演じるのか。お前たち、悟ったか。怨みには元があり、債には主がある。たまたま足を滑らせて倒れたことから、今に至るまで怨みは骨の髄まで染み込んでいるのだ。」そこで香を焼かれた。祭文はおよそ次のようなものであった。「某（私）は近頃、大丞相の張公が僧の祖秀を遣わして、成都府昭覚の圜悟先師が去年の八月初八日に示寂されたこと、荼毘の際、煙の及ぶところに五色の舎利が豆の大きさで現れたこと、道俗が送り、その悲しみは蜀の国中に満ちたことを伝えられた。万里を隔てて、訃報は時を得ず、この年の四月朔日（戊戌）十六日（癸丑）に喪服を着け、伊蒲の饌を設けて、哀思を表した。ああ、先師の道徳は高大で、八方に君臨され、その得法の由来、平生生滅のあらまし、大いなる出会い——優れた天子に遇い、叢林の表帥となり、先人の光を照らし、上は天子・公卿から、下は里の一般人や行商人、草木、昆虫に至るまで、すべての者が知るところである。どうしてわざわざ難しい言葉を並べて、世俗の文字の情のない道具とすることがあろうか。ただ、孤独で浅学な私が、師の薫陶と教化の賜りものを蒙ったことを思うと、悲しみに咽び、胸が塞がって、どうして黙っていることができようか。『（自ら述べることは以下の通り）』と重ねて思うに、先師がこのように私を深く顧みられたのは、何か私に私心があったからであろうか。要するに、法を託する重い責任をもって、私を鍛冶の槌の側で本分の種草を求めさせ、一人二人の人物を得て、臨済宗のすでに衰退した法脈を恢弘し、後の世代の眼目を開かせようとされたのである。それによって世を虚しく過ごすことがないように——これこそ先師の志願であった。浅学なこの身が、どうして遺訓に堪えることができようか。報恩の思いは切なるが、どうしてよいかわからない。これが悲しみに咽び、胸が塞がって、自らを抑えられない理由であり、心の内をすべて述べて、先師に臨んでいただくのである。」夕方の小参で、次の公案を挙げられた。「僧が長沙に問うた。『南泉が遷化したなら、どこへ行かれるのですか。』長沙は言った。『東の家で驢馬になり、西の家で馬になる。』僧が言った。『その意旨はどういうことでしょうか。』長沙は言った。『乗りたければ乗り、下りたければ下りる。』」師は言われた。「今日、もし誰かが『雲門の圜悟老師が遷化したなら、どこへ行かれるのですか』と問うたら、ただ彼にこう言おう。『阿鼻の大いなる地獄へ行かれたのだ。』『その意旨はどういうことでしようか。』『烊銅の汁を飲み、熱鉄の丸を呑まれる。』もし『助けることはできますか』と問うたら、『助けられない』と言い、『なぜ助けられないのか』には、『これはこの老いたる者の家常茶飯だからだ』と言おう。」十月、李参政の漢老、呂舎人の居仁、鄭編修の尚明がともに師を訪ね、莆田の鄭元亮に師の肖像を書かせ、三人の公がその上に賛を述べて書かれた。（賛は後の録に見える。）師は自ら題して言われた。「趙州は言った。『似ていれば老僧を打ち殺せ、似ていなければ幀子を焼き捨てよ。』皆、この肖像は逼真だと言うが、毒手を下す者はまだいない。一着を放過して、両手で鈍叟に授けよう。」（鈍叟は、尚明の自号である。）釈迦の出山相の賛、趙州和尚の賛、圜悟和尚の真の賛を作られた。七年、丁巳。

師四十九歲。住小谿雲門菴。按祭圜悟和尚文曰：「大丞相張公德遠出蜀，先師餞別，臨分袂握手，以不肖孤蹤囑之尋訪，以至忍泣，意欲推挽為出世利物之事。張公之在閩也，以先師之故，忘位皃之崇，招以尺書，偶緣疾疹，不果一千典謁。然某素有不出人前之戒，業已退藏，豈復有所覬覦哉！」又按塔銘曰：「浚在蜀時，勤親以師，囑謂真得法髓。浚造朝，遂以臨安府徑山延之，恐師痛事韜晦，必欲致師，移書泉守劉公彥脩趣其行，不得已，旛然而起。」按題佛燈珣禪師祭文後云：「余紹興丁巳春赴臨安府尹之命，主國一法席。」又按答泉守劉公書云：「五月初離泉南，冒大暑，艱苦備嘗，七月方抵三衢，呂丞相易疏帖遣人至衢相候。」超然居士趙表之，曩與師同法席于大梁歐阜，每以不宦遊、出世為戒，時表之偶辟南外宗正司，師赴徑山，適會衢之官驛，師述偈見意云：「超然妙喜兩同參，驀地相逢各負慚；我去住山君躍馬，前三三與後三三。」十七日，至臨安。二十一日，開堂於明慶寺，下座次，少卿馮公楫問曰：「和尚常言不作這蟲豸，為什麼今日敗闕？」對曰：「盡大地是箇杲上座，你作麼生見？」馮公擬議，師便掌之。時群僚失色，馮大笑曰：「長老與楫佛法相見。」二十四日入院，九月歸受業，眾請小參，說偈：「山僧昔為童子時，一念知道出家好；卻因脫白此伽藍，今日重來稱長老。兵戈之後亡者多，現前耆宿喜無惱；以尊就卑離我人，咸請舉揚無上道。後生當發勇猛心，四海求師宜撥草；徑山奉勸不虛施，辯口維摩須靠倒。」次，寧國眾道友請陞座，說偈：「只這些兒住處，是吾生長之地。別去二十七年，日月疾如彈指。政和元年辛卯持缽，至紹興七年丁巳，計二十七年走遍天下叢林，意圖出離生死，報答父母重恩，不是等閑遊戲。平生得箇剛強，方與佛祖出氣。今朝依舊還鄉，親戚百無一二；道是昔人猶非，道非昔人猶是。莫作是非論量，透過世間出世。慇懃普勸諸人，急著眼睛看取。」冬，持缽鄰郡，訪雙槐居士鄭禹功於璉市，作佛燈珣禪師真讚、金華聖者畫像讚，題吳氏六湛堂。八年戊午

> 師は四十九歳で、小谿の雲門庵に住んでいた。圜悟和尚を祭る文にはこうある。「大丞相の張公徳遠が蜀を出発される際、先師は別れの宴を開き、別れ際に手を握り、不肖の私の身の上を託して探し求めてくださるよう願い、涙を堪えながら、私を世に出て衆生を利益する仕事に推し立てようとしてくださいました。張公が閩にいた時、先師の縁故で、身分の高さを顧みず、手紙を送って招いてくださいましたが、あいにく病気にかかり、直接お目にかかることができませんでした。しかし、私は元々人の前に出ることを戒めとしており、すでに身を隠していた身ですから、どうして再び何かを望むことがありましょうか！」また、塔銘にはこうある。「浚（張徳遠）が蜀にいた時、圜悟禅師が親しく師と仰ぎ、真に法の髄髓を得た者だと託した。浚が朝廷に上ると、臨安府の徑山に師を招いた。師が深く身を隠すことを案じ、必ず師を招こうと、泉州の守、劉公彦脩に手紙を送って出発を促した。師はやむを得ず、幡然として立ち上がった。」佛燈珣禅師の祭文の後に題して言う。「私は紹興丁巳の春に臨安府尹の命を受けて、国一の法席を主催した。」また、泉州の守、劉公に答える書簡にはこうある。「五月初めに泉南を離れ、大暑の中、辛苦を嘗め尽くし、七月になってようやく三衢に着いた。呂丞相が疏帖を改めて、人を遣わして衢で待ち受けていた。」超然居士の趙表之は、かつて師と大梁の歐阜で同じ法席にいたが、常に官遊に出て出世することを戒めとしていた。その時、表之はたまたま南外宗正司に招かれ、師が徑山に向かう途中、衢の官駅でちょうど出会った。師は偈を述べて意を示した。「超然と妙喜、二人は同じく参じた仲、ふいに相逢いてそれぞれ恥じ入る。我は山に住せんと行き、君は馬に躍る。前三三と後三三。」十七日に臨安に到着した。二十一日に明慶寺で開堂し、座を下りた時、少卿の馮公楫が問うた。「和尚は常に『この蟲豸にはならぬ』と言われたのに、なぜ今日は失敗されたのですか？」師は答えた。「全大地はただこの杲上座である、あなたはどう見るのか？」馮公は考え込もうとしたが、師はすぐに手を打った。その時、群僚は顔色を失ったが、馮は大笑して言った。「長老は楫と仏法をもって相見えた。」二十四日に入院し、九月になって受業の地に帰った。衆が小参を請うたので、偈を説いた。「山僧は昔、童子の時、一念に出家の好いことを知った。却ってこの伽藍で得度したが、今日再び来て長老と称する。兵戈の後、亡くなった者は多いが、眼前の耆宿は惱みなく喜んでいる。尊きを以て卑しきに就き、我人の想いを離れて、皆、無上の道を挙揚せんことを請う。後生は勇猛の心を発すべし。四海に師を求め、草を撥ねるべし。徑山は奉勸して虚しく施さず、辯口の維摩は靠倒せざるを得ない。」次に、寧国の道友たちが升座を請うたので、偈を説いた。「ただこの些かの住處は、我が生長の地なり。別れてより二十七年、日月は彈指の如く疾し。天下の叢林を歩き遍ね、生死を出離せんと意図し、父母の重恩に報ぜんとす。等閑の遊びに非ず。平生、剛強の一つを得て、初めて佛祖のために気を吐く。今朝、依然として故郷に還るも、親戚は百に一も二もなし。道うは昔人の非なりと雖も、道うは非昔人の猶お是なりと。是是非非を論量すること莫かれ。世間を透過し出世せよ。慇懃に諸人を普く勸め、急いで眼睛を著けて看取せよ。」冬、隣郡に鉢を托し、璉市で双槐居士の鄭禹功を訪ね、佛燈珣禅師の真讚、金華聖者の畫像讚を作り、呉氏の六湛堂に題した。八年、戊午の年である。

師五十歲。乃入院之明年，眾將一千，皆諸方角立之士。師行首山令，起臨濟宗，憧憧往來，其門如市，學徒咨扣，日入玄奧，規繩不立，而法社肅如也，由是宗風大振，號臨濟再興。時給事馮公濟川、無著道人妙總，同坐夏山中，馮館不動軒，日只一食，長坐不臥。按示永寧郡夫人法語云：「一日，因示眾，舉藥山初參石頭及馬祖因緣，濟川、無著纔聞提撕，各有省悟。下座，濟川隨師上方丈云：『某甲理會得。』師曰：『居士如何？』濟川云：『恁麼也不得，蘇嚧娑婆訶；不恁麼也不得，㗭哩娑婆訶；恁麼不恁麼總不得，蘇嚧㗭哩娑婆訶。』師曰：『梵語、唐言打成一塊。咄哉！俗人得此三昧。』師遂至無著寮舉濟川語，無著云：『妙摠曾見郭象註莊子，識者以為莊子註郭象。』師乃舉巖頭婆子話問之，無著遂作頌曰：『一葉扁舟泛渺茫，呈橈舞棹別宮商；雲山海月俱拋棄，贏得莊周蝶夢長。』師以頌示之曰：『汝既悟活祖師意，兩段一刀直下了；臨機一一任天真，世出世間無剩少。』我作此偈為證明：『四聖六凡盡驚擾，休驚擾，碧眼胡兒猶未曉。』」按為瑩上座普說云：「因遣道謙往零陵問訊紫巖居士，謙中途打發大事。及歸，老僧半山亭望見，便云：『這漢和骨都換了也。』謙聞之大驚。」這些驗人處，設使釋迦、達磨來亦不讓。作不動軒記、答樞密富公季申問道書。冬，行化吳門，作慧日雅禪師真贊。九年己未

> 師は五十歳、まさに入院の翌年であった。修行僧は一千人あまり、皆、各方で際立った人物たちであった。師は首山の宗風を行じ、臨済宗を興し、人々が絶えず往来し、その門は市のように賑わった。学僧たちが問いかけ、日々に深い奥義を体得していった。規則や形式を設けなくとも、法の教団は厳かに整っていた。これによって宗風は大いに振るい、「臨済の再興」と称された。 時に給事中の馮済川、無著道人妙総が同じく山中で夏安居をしていた。馮は不動軒に滞在し、日に一度だけ食事を取り、長く座って横にならなかった。永寧郡夫人に示した法語によれば： 「ある日、衆に示して薬山が初めに石頭と馬祖に参じた因縁を挙げたところ、済川と無著はその教えを聞いて、それぞれに悟りを得た。座を下りて、済川は師に従って方丈に上がり、『私は理会しました』と言った。 師が問うた、『居士はどうか？』 済川は言った、『そのようなのも得ず、蘇嚧娑婆訶。そのようなのでもなく得ず、㗭哩娑婆訶。そのようにもそのようでなくも得ず、蘇嚧㗭哩娑婆訶。』 師は言った、『梵語と唐言が一つになった。おお、俗人がこの三昧を得たか。』 師はやがて無著の庵に行き、済川の言葉を挙げた。無著は言った、『妙総はかつて郭象が荘子に注したのを見ましたが、識者は荘子が郭象に注したと言います。』 師はそこで巌頭の婆子の話を挙げて問うた。無著は頌を作って言った、『一葉の扁舟、渺茫を泛ぶ。橈を呈し棹を舞わして別に宮商。雲山も海月もすべて拋棄し、得るは荘周の蝶夢長し。』 師は頌を示して言った、『汝すでに悟る活きた祖師の意、両段一刀直下に了す。機に臨んでは一一に天真に任せ、世出世間に剰少なし。』 私はこの偈を作って証明とする、『四聖六凡すべて驚擾す。驚擾するなかれ、碧眼の胡児いまだ曉らず。』」 また瑩上座に普説したところによれば： 「道謙を零陵に遣わして紫巌居士を見舞わせた。謙は途中で大事を発明した。帰ってきた時、老僧が半山亭から見て、すぐに『この男は骨まで入れ替わったな』と言った。謙はこれを聞いて大いに驚いた。」 これらの人を試すところ、たとえ釈迦や達磨が来ようとも譲らなかった。不動軒の記を作り、枢密富公季申の問道の書に答えた。冬には、呉門に教化のために行き、慧日雅禅師の真賛を作った。九年己未。

師五十一歲。是年龍象駢集，坐夏者一千七百，有奇舉。悟本、道顏二座元分座訓徒。按真讚曰：「一千七百癡衲子，圍繞這箇無明叟。以神龍未有封號，敷奏于朝，蒙賜侯，曰廣潤，廟曰靈澤。」謁丞相張公德遠于四安，求圜悟和尚塔銘。按畫像讚曰：「初識公于京師，後十五年，再會吳之四安。」又按答佛性泰禪師書：「屬者訪張丞相弟兄艤舟、霅川，為數日之款，已為先師製得塔銘，見刊石，佗日尋便奉寄。」答陳季任少卿、趙道夫待制、劉彥脩寶文、彥沖通判問道書，作布袋和尚、臨濟和尚畫像讚，贈醫師王公繼先、參政劉公大中頌，題超然居士六法圖，作普照英禪師真讚，祭韓子蒼待制、江少明給事文。十年庚申

> 師は五十一歳であられた。この年、龍や象が群れ集うように優れた僧侶たちが大勢集まり、夏の安居（あんご）を行う者は一千七百人余りに及んだ。悟本（ごほん）と道顔（どうがん）の二人の首座（しゅそ）に、それぞれ別れて僧侶たちを指導させた。『真讚（しんさん）』によれば、「一千七百人の愚かな修行者たちが、この無明（むみょう）の老人を取り囲んでいた」とある。 神龍（しんりゅう）にまだ封号がなかったので、朝廷に奏上し、侯（こう）の位を賜り、「広潤（こうじゅん）」と名付けられ、廟（びょう）は「霊澤（れいたく）」と称された。 丞相（じょうしょう）の張徳遠（ちょうとくえん）公に四安（しあん）でお会いし、圜悟（えんご）和尚の塔銘（とうめい）を求めた。『畫像讚（がぞうさん）』によれば、「最初に公と京師（けいし）で知り合い、その後十五年を経て、再び呉（ご）の四安でお会いした」とある。また『佛性泰禪師（ぶっしょうたいぜんじ）に答える書』にはこうある。「先日、張丞相の兄弟と船を止めて霅川（さつせん）に数日間滞在し、親しく交流しました。すでに先師のために塔銘を作り終え、石碑に刻むところです。いずれ機会があればお送りします。」 陳季任（ちんきじん）少卿（しょうけい）、趙道夫（ちょうどうふ）待制（たいせい）、劉彦脩（りゅうげんしゅう）宝文（ほうもん）、彦沖（がんちゅう）通判（つうばん）の問道（もんどう）の書に答えた。布袋和尚（ほていおしょう）と臨済和尚（りんざいおしょう）の画賛（がさん）を作り、医師の王公継先（おうこうけいせん）と参政（さんせい）の劉公大中（りゅうこうだいちゅう）に頌（じゅ）を贈った。超然居士（ちょうぜんこじ）の六法図（ろくほうず）に題し、普照英禅師（ふしょうえいぜんじ）の真讃（しんさん）を作り、韓子蒼（かんしそう）待制と江少明（こうしょうみょう）給事（きゅうじ）のための祭文（さいもん）を書かれた。 十年は庚申（かのえさる）の年である。

師五十二歲。刱建千僧閣。時侍郎張公九成、狀元汪公應辰登山問道於師。張與師談格物之旨，師曰：「公只知有格物，而不知有物格。」公擬議，徐曰：「師豈無方便邪？」師笑而已。張曰：「還有樣子否？」師曰：「不見小說所載：唐有與祿山謀叛者，其人先為閬守，有畫像存焉。明皇幸蜀，見之怒，令侍臣以劍擊像首，其人在陝西，忽頭落。」公聞之，頓領厥旨，乃題偈于不動軒壁間曰：「子韶格物，曇晦物格；欲識一貫，兩箇五百。」又一日，問曰：「前輩既得了，何故理會臨濟四料揀則甚議論問？」師曰：「公之所見，只可入佛，不可入魔，豈可不從料揀中去邪？」公遂舉克符問臨濟，至「人境兩俱奪」，不覺欣然。師曰：「余則不然。」公曰：「師意如何？」師曰：「打破蔡州城，殺卻吳元濟。」公於言下得大自在。嘗曰：「某每聞徑山老人所舉因緣，豁然四達，如千門萬戶，不消一踏而開，或與聯輿接席，登高山之上；或緩步徐行，入深水之中。非出常情之流，莫知吾二人落處。然九成了末後大事，實在徑山老人處，此瓣香不敢孤負佗也。」一日，與師坐於方丈，偶僧持師頂相求師自讚。師曰：「無垢！試為題之。」公點筆疾書曰：「擊石揚沙，驅雷逐電，一觸其鋒，神飛膽戰，未及領略，火蛇燒面。」公擲筆于案，自有得色。師笑曰：「意未盡在。」公曰：「和尚如何？」師應曰：「何不道此是阿誰？徑山老漢。」公唯唯，復書之。答劉大中參政、張仲暘提刑、許壽源司理問道書，作祭喻彌陀文、佛燈珣禪師塔文、讚草堂和尚像。十一年辛酉

> 師は五十二歳のとき、千僧閣を創建された。当時、侍郎の張九成氏と状元の汪応辰氏が山に登り、師に道を問うた。張氏が師と「格物」の教えについて語り合ったとき、師は言われた。「あなたはただ『格物』を知っているだけで、『物格』を知らないのだ。」張氏が考え込んでいると、師はゆっくりと「師には方便がないのであろうか」と言われた。師はただ笑うだけであった。張氏が「何か例えはありますか」と尋ねると、師は言われた。「小説に載っている話を知らないか。唐の時代に、安禄山と謀反を企てた者がいた。その者は以前、閬中の守であり、肖像画が残されていた。玄宗皇帝が蜀に幸されたとき、それを見て怒り、侍臣に剣で像の首を撃たせた。すると、その者は陝西にいたが、突然、首が落ちた。」張氏はこの話を聞いて、たちどころにその旨を悟り、不動軒の壁に偈を書きつけた。「子韶は格物し、曇晦は物格す。一貫を知りたいならば、二つの五百（千）である。」と。 また、ある日、張氏が問うた。「先輩はすでに悟りを得たのに、なぜ臨済の四料揀を論じるのでしょうか。」師は言われた。「あなたの見解は、仏の境地には入れても、魔の境地には入れない。どうして料揀の中から選び取っていかないのであろうか。」張氏はそこで克符が臨済に問うた話を挙げ、「人境両倶に奪う」のところに至って、思わず喜びをあらわにした。師は言われた。「私はそうではない。」張氏が「師のご意図は如何に」と尋ねると、師は言われた。「蔡州の城を打ち破り、呉元済を討ち取る。」張氏はこの言葉の下で大いなる自在を得た。 張氏はかつて言った。「私は径山老人が挙げる因縁を聞くたびに、豁然として四方に通じ、千門万戸もひと踏みで開くような気がする。あるいは車を連ねて座を並べ、高山の上に登ることもあり、あるいは緩やかに歩みを進め、深い水の中に入ることもある。常情の流れを超えた者でなければ、我々二人の落ち着くところを知ることはできないだろう。しかし、九成が最後の大事を成し遂げたのは、実に径山老人のもとである。この一片の香（心からの感謝の意）を、どうして彼に背くことがあろうか。」と。 ある日、張氏が師と方丈に坐しておられたとき、たまたま僧が師の肖像画を持ってきて、師に自ら賛を求めました。師は言われた。「無垢（張九成）よ、試しに題してくれ。」張氏は筆を取って即座に書き記した。「石を打ち、砂を巻き上げ、雷を駆り、電を逐う。その鋒に触れれば、神も飛び、胆も戦く。領略する間もなく、火蛇が面を焼く。」張氏は筆を机の上に置き、自得の色を浮かべた。師は笑って言われた。「意はまだ尽きておらぬぞ。」張氏が「和尚は如何に」と尋ねると、師は応えて言われた。「どうして『これは誰ぞ、径山の老漢』と言わないのか。」張氏は唯々として、再び書き記した。 劉大中参政、張仲暘提刑、許寿源司理の道を問う書に答え、祭喻弥陀文、佛灯珣禅師塔文を作り、草堂和尚の像を賛した。十一年、辛酉の年であった。

師五十三歲。千僧閣告成，師遣介泉南求記於李漢老參政，其略曰：「師於臨濟為十二代孫，其道大故，其攝者眾；其門峻故，其登者難；其旨的故，其悟者親；其論高故，其聽者驚且疑；而同時者，譏毀嫌謗，不勝其忿。然四方學者或自謂親證，或幾號罷參，皆肩摩袂屬沓來於座下。而公所遇之，未嘗假詞氣、接慇懃，拒之而不去、疏之而益親，至於水洒梃逐，而戶外之屨常滿。平時不喜者，亦皆鉗喙結舌，歎息其不可及。吾不知公之道，自有以使之耶！院去城百里，自唐國一禪師始斬蓬藋，驅龍蛇而居之。寺無常產，山之神龍實助其緣化。公至之始，眾纔三百，二年法席大興，眾將二千，而院有僧堂二，不足以容，刱意於寺之東鑿山開址，建層閣十楹，以盧舍那南向，嶤然居中，列千僧案位於左右，設連床，齋粥於其下。經始於十年春，越明年春告成。余嘗問道於公，聞之而歎曰：『非成是閣之難，致其眾之難；非致其眾之難，道行而不能使其眾不至之難。』一閣之成，在公何足道，而循襲齷齪之者以為奇特，不亦陋甚矣哉！獨喜其道行，而眾從之，故為書其本末，且以諭夫。」是年四月，侍郎張公九成以父卒哭，登山修崇，師陞座，因說：「圜悟謂張徽猷昭遠為鐵鏟禪，山僧卻以無垢禪如神臂弓。」遂說偈曰：「神臂弓一發，透過千重甲；子細拈來看，當甚臭皮襪？」次日，侍郎請說法，台州了因禪客致問，有「神臂弓一發，千重關鎖一時開；吹毛劍一揮，萬劫疑情悉皆破」之語。

> 師は五十三歳であられた。千僧閣が完成したとき、師は使いを泉南に遣わし、李漢老参政にその記文を求めた。その概略は次のようなものであった。「師は臨済の十二代目の法孫である。その道が偉大であるがゆえに、その教化を受ける者は多い。その門が峻厳であるがゆえに、そこに登る者は難しい。その宗旨が的を射ているがゆえに、それを悟る者は親しく近しい。その議論が高いがゆえに、それを聞く者は驚き疑う。そして同時代の人々は、非難し毀り、嫌い謗って、その憤りを抑えきれない。しかし四方の学問する者たちは、あるいは自ら親しく悟りを得たと称し、あるいはついに参禅をやめたと号する者も、みな肩を寄せ袖を連ねて、師の座下に絶え間なくやって来る。そして師が彼らに対応するにあたって、言葉や気色を借りて親切に接することはなかったが、彼らは拒まれても去らず、遠ざけられてもますます親しくした。水を浴びせ杖で追われても、戸外の履物は常に満ちていた。平素師を好まなかった者たちも、みな口を閉ざし舌を結んで、その及ぶべからざることを嘆息した。私は師の道というものが、自ずからして彼らをそうさせているのであろうかと思う。この院は城から百里のところにあり、唐の国一禅師が初めて蓬藋を切り払い、竜蛇を追い払って住まいとされたところである。寺には一定の寺領がなく、山の神竜が実にその化縁を助けている。師が来られた当初、衆はわずか三百人であったが、二年にして法席は大いに興り、衆はまさに二千人になろうとしている。そして院には僧堂が二つあるのみで、それらは収容するに足りず、寺の東に思いを巡らして山を鑿ち地を開き、層閣十楹を建て、盧舍那仏を南面させて高く中央に据え、千僧の案位を左右に列ね、連床を設け、その下で斎粥を食べるようにした。工事は十年の春に始まり、翌年の春に完成した。私はかつて師に道を問うたことがあり、これを聞いて嘆息して言った。『この閣を成すのが難しいのではない、その衆を致すのが難しいのである。その衆を致すのが難しいのではない、道が行われて、その衆を至らしめないことが難しいのである。』一閣の完成など、師にとって何を言うに足りようか。しかし因循姑息な者たちがこれを奇特であるとして、陋しいことこの上ないではないか！ただその道が行われて、衆がそれに従ったことが喜ばしいので、ゆえにその本末を書き記し、またこれをもって諭すのである。」この年の四月、侍郎の張公九成が父の喪の哭を終えて、山に登り供修を行われた。師は座に上って、こう説かれた。「圜悟は張徽猷昭遠を評して『鉄鏟禅』と言われた。山僧はあえて『無垢禅』を評して『神臂弓』と言おう。」そして偈を説かれた。「神臂弓一発、透け抜く千重の甲。子細に拈じて来たり看よ、何の臭き皮襖に当たる。」翌日、侍郎が説法を請うたとき、台州の了因禅客が質問を発して、「神臂弓一発、千重の関鎖一時に開く。吹毛剣一揮、万劫の疑情すべて破る」という言葉があった。

未幾，遭論列，以張坐議朝廷除三大帥事因，及徑山主僧應而和之，五月二十五日，准敕九成居家持服，服滿別聽指揮，徑山主僧宗杲追牒責衡州。按張子韶答何中丞伯壽書曰：「九成忽棄老親，此心痛割，欲死無路，四月十四奄經百日，顧此冤苦無所舒豁。徑山老人，道眼明徹，超然在生死之表，而一眾凡千七百人，皆不為名聞，精心學道，宜飯此處，可以少慰先考之心。」是日登山，十八下山，而除帥在月末，事理昭灼，當益安命義。按師答馮給事濟川書云：「張子韶四月十四日以父卒哭，十六日請陞座，十八下山，除三大帥卻在四月末。今坐此得罪，事體昭明，豈偶然哉？皆前報世中因緣會遇，一切歡喜順受，償足自定矣！」二十八日，太保韓公世忠、少師張公俊充樞密使，少保岳公飛充樞密副使先是元豐戊午，慧雲塑釋迦文像，有異人丁生語寺僧曰：「若像之毀，是人嬰禍。」于時慧雲後昆忘丁生之讖，毀像新之；正此日，師責衡州，七月至貶所。時昭遠知臨川，師以偈戲之曰：「小郡知州說大禪，因官置到氣衝天。常攜鏟子勘禪客，誰知不直半分錢？」昭遠亦戲以偈酬師曰：「小菴菴主放憨癡，愛向人前說是非，只因一句臭皮襪，幾乎斷送老頭皮。」是年冬，李參政泰發以絕句寄師，其引云：「適衡，聞州郡欲免旬呈，師毅然不可，曰：『無以我累人。』此意豈流俗泛泛者所能窺之哉？感歎成小詩曰：『十畝荒園旋結茅，芥菘挑盡到同蒿。聖恩未許還磨衲，且向階前轉幾遭。』」按為盧時用普說云：「初到衡陽諸處，道友送錢來，因遣兩侍者往嶽山、溈山散處齋僧，衡人初不知是說，因普說，方與言：『宣律師問韋馱天神：「世間功德，何者最大？」曰：「齋僧功德最大云云。」』人即聽信，稍知歸向焉。」十二年壬戌

> しばらくして、弾劾の上奏を受けることとなった。張九成が朝廷で三大帥（韓世忠・張俊・岳飛）を任命する議題に参加したことによるもので、徑山寺の住職がこれに同調したことも関係している。五月二十五日、勅命により張九成は官職を解かれ、喪に服すこととなった。喪が明けた後、改めて指示を待つこととされ、徑山寺の住職・宗杲は追放の処分を受け、衡州に送られることとなった。 張子韶（張九成）が何中丞伯壽に宛てた書簡にこうある。「私は突然老いた親を失い、この心は悲痛に裂ける思いで、死にたいほどです。四月十四日で百日を迎えましたが、この苦しみは晴れることがありません。徑山の老僧は、仏の智慧の目が明らかに透徹し、生死の彼岸に超然としています。そして一千七百人の修行者たちも皆、名声を求めず、心を尽くして道を学んでいます。ここで供養を受けるにふさわしく、これによって亡き父の心を少しばかり慰めることができるでしょう。」この日、山に登り、十八日に下山したが、三大帥の任命は月の終わりにあった。道理は明らかであり、ますます天命を受け入れるべきである。 師（宗杲）が馮給事濟川に宛てた書簡にこうある。「張子韶は四月十四日に父の喪に服し、十六日に説法を請い、十八日に下山した。三大帥の任命は四月の終わりにあった。今、このことで罪を得たのは、道理が明白であり、偶然であろうか？これらは全て前世の因縁が巡り会ったものである。一切を喜んで受け入れ、その報いを償えば、自然と心は定まるであろう。」 先に元豊戊午の年、慧雲寺で釈迦文の像を造った際、異人・丁生が寺僧に告げて言った。「もしこの像が壊されることがあれば、その人は災いを被るであろう。」その後、慧雲寺の後継者たちは丁生の予言を忘れ、像を壊して新しくした。ちょうどこの日に、師は衡州への処分を受けた。七月に流刑地に到着した。 その時、昭遠は臨川の知事であったが、師は偈を送って彼をからかった。「小郡の知州が大いなる禅を説く。官に因って置かれ、気は天を衝くばかり。常に鋤を持って禅客を試すが、誰も知るまい、半銭の価値もないことを。」昭遠もまた偈をもって師に応えた。「小庵の庵主は愚か者ぶって、人の前で好き勝手なことを言う。ただ一つの臭い皮靴の言葉のために、危うく首を失うところだった。」 その年の冬、李参政泰發が絶句を師に送った。その序にこうある。「衡州に行き、州郡が日ごとの出頭を免除しようとしているのを聞いたが、師は断固として断り、『私のことで人に迷惑をかけてはならない』と言った。この意は、世俗の浅はかな者たちに窺い知れるものだろうか。感慨のあまり小詩を作る。『十畝の荒れ園に茅を結び、芥菜や菘を摘み終えて蓬に至る。聖恩は未だ袈裟を返すことを許さず、ただ階の前を幾度か歩くのみ。』」 盧時用のための普説にこうある。「衡陽の各地に着いてから、道の友達が金を送ってきたので、二人の侍者を岳山・潙山に遣わして斎僧を行わせた。衡の人々は最初この話を知らなかったが、普説によってようやくこう話した。『宣律師が韋駄天に問うた。「世の中の功徳で、何が最も大きいか。」天は答えた。「斎僧の功徳が最も大きい」と。』人々はこれを聞いて信じ、次第に仏法に帰依するようになった。」 十二年壬戌の年。

師五十四歲。居衡州，廖季繹通直之西園，四方衲子雲委川會，攍糧景從，菴無以容來學，散處花藥。開福伊山遇小參入室，會集其所，師則籃輿往而據丈室。其年蘊聞禪師復至臨安，見有以費孝先之術，決前定休咎，因試問焉。其詩曰：「鴈回始覺瀟湘遠，石鼓灘頭莫怨天。一住十年秦楚隔，木弓重續舊因緣。」蓋謂衡陽及移梅陽矣。衡陽有回鴈峰、瀟湘石鼓灘，自辛酉至庚午移梅陽恰十年，或云古者以梅木為弓是年，接草堂禪師書慰問曰：「不續音問逾年，常思慕矣。遊人所傳徑山道旺，安眾甚多，拙者常憂。古人云：『道旺則魔盛，城高則衛生。』今年中夏，忽聞難作，將謂小撓，秋來方得的音，乃知有此禍患，可謂教法凌遲、叢林凋喪，遂致禍及弘護者。賴吾仁久煉真空，頓明心地，不以為憂。世諦如電光、身心如夢幻，樂然隨順，那事無妨，善惡業報，今古難逃。以此段靈光獨耀，想所至處法法圓成，必有神明知鑒，互相安穩，唯望寬懷，一致度外。昔黃檗勝、雲居舜皆有此患，後得歸源，傳揚正法，心契佛祖，豈虛然耶？如來成道，魔難堅固，老拙暮景相侵，住世不久，今守殘喘，待盡而已。汝正英銳，莫忘初志，料想此生難得再晤，餘宜保愛，以順世緣。」師答書略曰：「自到衡陽，一向謝絕賓客，四方書問，一切闊略。獨於吾叔祖老師未能忘懷，雖欲具狀致起居問，亦無由得達視覽，然瞻仰教誨，未始頃刻置念也。本宗上座，至蒙惠書，種種安慰褒揚，存撫不替。昔時返覆數過不忍去，手足認為物作則，曲折周旋之意，下情感戴，何時可忘？願叔祖龍天密護，法壽與趙州、安國師輩齊年，某打箇筋斗回來，尚及依栽松道者例。妄意如此，不識老師那時肯放一線道否？」師仍以金帛囑去僧蘊聞曰：「恐汝到寶峰，而此老去世，可設盛饌，以書讀而祭之。」既至，草堂已圜寂，僧如所教也。十三年癸亥

> 師は五十四歳で、衡州に住み、廖季繹通直の西園に滞在していた。四方八方から修行僧が雲のように集まり、川のように押し寄せ、食糧を担いで師を追いかけ、庵は来る者たちを受け入れることができず、彼らは花薬に分散して住んだ。開福伊山の小参や入室の際には、彼らが集まる場所に、師は籠に乗って赴き、方丈の室に座ったのである。 その年、蘊聞禅師が再び臨安にやって来て、費孝先の術を使って前世で定められた吉凶を占う者に会い、試しに質問した。その詩にはこうあった：「雁が帰ることで初めて瀟湘が遠いと気づく、石鼓灘のほとりで天を呪うな。十年住めば秦と楚は隔たる、木の弓で再び旧い因縁を結ぼう。」これは衡陽と移された梅陽を指していたのである。〈inline注記：衡陽には回雁峰、瀟湘石鼓灘があり、辛酉年から庚午年に移されて梅陽に至るまでちょうど十年、あるいは昔の人が梅の木を弓に使ったと言う〉。この年、草堂禅師からの書簡で慰めを受けた。そこにはこうあった：「音信を絶って一年余り、常に慕っておりました。行脚僧たちが伝えるところによると、径山の道は盛んで、大勢の人々を受け入れているとか。私は常に心配しております。古人は言いました：『道が盛んになれば魔も盛んになり、城が高ければ衛生も難しくなる』と。今年の初夏、突然の災難が起こったと聞き、小さな撹乱であろうと思いましたが、秋になってようやく確かな報せを得て、このような禍が起きたことを知りました。まことに教法は衰退し、叢林は凋落し、ついに護法の者たちにまで災いが及んだのです。しかし、あなたが長年真空を修練し、瞬時に心の本質を悟り、これを憂いとしないことは、頼もしい限りです。世間の真理は稲妻のようなものであり、心身は夢幻のようなものです。喜んでそれに従い、そのことは妨げがなく、善悪の報いは昔も今も逃れることはできません。この一点の霊光は独り輝き、至る所の法が円満に成就すると考えれば、必ず神明が知り照らして、互いに安穏であることでしょう。ただ心を広く持ち、度外に置いてください。昔、黄檗勝や雲居舜もこの災難に遭いましたが、後に本源に帰ることができ、正法を伝え広め、心は仏祖に通じたのです。どうして虚しいことがありましょうか？ 如来が悟りを成し遂げた時も、魔の難は堅固でありました。老いた私は夕暮れの時が近づき、世に長くは生きられません。今は残り息を守り、終わりを待つのみです。あなたはまさに盛んで鋭くあり、初めの志を忘れてはなりません。この生涯で再び会うことは難しいでしょう。あとはからだを大切にし、世の縁に従ってください。」 師の返信はおおよそこうであった：「衡陽に来てから、ずっと賓客を謝絶し、四方からの手紙や問いにはすべて疎遠にしています。ただ叔祖の老師だけは忘れることができず、書面を整えて安否を尋ねたいと思っても、その方法がないのです。しかし、教えを仰ぎ見る思いは、一刻たりとも心に置かぬことはありません。本宗の上座が、手紙を送ってくださり、様々な慰めと称賛を与えてくれ、絶えることなく気にかけていただきました。昔にも繰り返し何度も読み返し、手放すことを忍びませんでした。手足と思って物事を扱い、曲がりなりにも四方八方に周旋するその意は、深く感謝し、いつ忘れることがありましょうか？ 叔祖が龍天に密かに守られ、法寿が趙州や安国師と同じくらい長くありますように。私はひっくり返って戻ってきて、まだ栽松道者の例に従ってお仕えすることができますよう。勝手な思いですが、老師はその時は一線を許していただけるでしょうか？」 師はまた金や絹を托し、去り行く僧・蘊聞に言った：「お前が宝峰に着いた時、もしこの老人が亡くなっていたら、盛大な供え物を設け、この書状を読んで祭りなさい。」彼が到着した時、草堂はすでに円寂しており、僧は教えの通りにしたのである。十三年癸亥のこと。

師五十五歲。按《紀談》云：「明禪師自辛酉隨侍過衡陽，日化於市。癸亥秋，辭往浙西持缽，期明年上元回，師送偈有云：『藞苴明大禪，孟浪絕方比，識得玄中玄，作得主中主。赤腳走長街，一日數百里，色力既勇猛，殊不畏寒暑。如是二三年，日日只如此。』又云：『甲子上元前，卻要到這裏。』」其隨師者，多效勞如此。仍作畫像讚付之，作丞相張公德遠、向宣卿直閣畫像讚，答內翰汪公彥章、舍人呂公居仁、隆禮郎中、夏志宏運使問道書，跋《草堂和尚語錄》。閱《維摩經》有感，以頌示傳禪師。十四年甲子

> 師は五十五歳であった。『紀談』によれば、「明禅師は辛酉の年から師に従って衡陽に至り、毎日街頭で教化を行った。癸亥の秋、師のもとを辞して浙西へ托鉢に出向き、翌年の上元の日に戻ると約束した。師が贈った偈に曰く、『藞苴明大禅、孟浪絶方比、識得玄中玄、作得主中主。赤脚走長街、一日数百里、色力既勇猛、殊不畏寒暑。如是二三年、日日只如此。』また曰く、『甲子上元前、却要到這裏。』」とある。師に従う者たちは、多くがこのように尽力したのである。そこで師は画像の賛を作ってこれを授け、丞相張公徳遠、向宣卿直閣の画像賛を作り、内翰汪公彦章、舎人呂公居仁、隆礼郎中、夏志宏運使の問道の書に答えた。また『草堂和尚語録』に跋文を書いた。そして『維摩経』を読んで感慨を抱き、頌を作って伝禅師に示した。十四年は甲子の年である。

師五十六歲。示提舉李獻臣法語二十六段，答汪聖錫狀元、宗直閣問道書。作富季申樞密妙高堂銘、延鴻寺鐘銘，題蔡知縣小菴，張昭遠徽猷請作維摩讚，作六祖畫像讚，祭衛寺丞文。十五年乙丑

> 師は五十六歳であった。提挙の李献臣に法語二十六段を示し、汪聖錫の状元や宗直閣の問道の書に答えた。富季申の枢密のための妙高堂銘、延鴻寺の鐘銘を作り、蔡知県の小庵に題し、張昭遠の徽猷が維摩讃を作ることを請い、六祖の画像讃を作り、衛寺丞を祭る文を書いた。十五年乙丑のことである。

師五十七歲。正旦試筆，題韓司諫樂谷，藺庭彥知縣請作入定觀音讚，作寂音尊者讚，題魏邦達侍郎淨心閣、汪聖錫狀元燕坐軒。示廖季繹知縣、真如道人、空慧道人法語，答林少瞻、嚴子卿、陳阜卿問道書，以頌代書謝張丞相惠兜羅綿。戲題如如菴曰：「契此如如理，豈論皮與髓？打破枯髑髏，百花生碓觜。」十六年丙寅

> 師は五十七歳であった。新年の元旦に筆を試み、韓司諫の楽谷に題し、藺庭彦知県の請いにより入定観音讃を作り、寂音尊者讃を作り、魏邦達侍郎の浄心閣、汪聖錫状元の燕坐軒に題した。廖季繹知県、真如道人、空慧道人に法語を示し、林少瞻、厳子卿、陳阜卿の問道の書に答え、頌をもって書に代えて張丞相が兜羅綿を恵まれたことに謝した。戯れに如如菴に題して曰く、「この如如の理に契うとも、豈に皮と髄とを論ぜんや。枯れた髑髏を打ち破れば、百花、碓觜に生ず。」十六年丙寅の年である。

師五十八歲。解空居士侍郎劉公季高手寫《華嚴經》一部，施師受持，仍請為眾普說，發明奧旨。師以衣盂建閣於花藥寺之方丈，設龕像，以所施經奉安其上。真如道人請作補阤大士讚、文殊問疾讚。作死心和尚、普融平禪師、佛性泰禪師真讚，示陳次仲通判法語，作胡明仲侍郎、徐明叔郎中畫像讚，答徐稚山侍郎、曾天隱宗丞問道書。等觀居士廖季繹以書告疾，示之頌云：「左心小腸肝膽腎，右肺大腸脾胃命。於斯識得本來人，七顛八倒那伽定。」十七年丁卯

> 師匠は五十八歳になられた。解空居士の侍郎劉公季高が自ら筆写した『華厳経』一部を師匠に施し、受持された。そして、人々のために広く説法し、その深遠な教えの奥義を明らかにされるよう請われた。師は自身の衣鉢の資を用いて、花薬寺の方丈に閣を建て、仏龕と尊像を安置し、施された経典をその上に奉納された。真如道人は請願して補陀大士の讃、文殊問疾の讃を作られた。また、死心和尚、普融平禅師、仏性泰禅師の真讃を作られ、陳次仲通判に法語を示し、胡明仲侍郎、徐明叔郎中には画像讃を作られた。そして、徐稚山侍郎、曾天隠宗丞の道を問う書に答えられた。 等観居士廖季繹が書を送って病気のことを告げてきたので、頌を示された。「左に心・小腸・肝・胆・腎、右に肺・大腸・脾・胃・命。ここにて本来の人を識得すれば、七顛八倒も那伽の定なり。」 十七年 丁卯（西暦1147年）

師五十九歲。侍者以師與衲子問答古今語句請名。按題篇首云：「余因罪居衡陽，杜門循省外，無所用心，間有衲子請益，不得已與之酬酢。禪者沖密、慧然隨手抄錄，日月浸久，成一巨軸，持來乞名其題，欲昭示後來，使佛祖正法眼藏不滅。余因目之曰『正法眼藏』。尋以印本寄曾文清公，公欲作頌謝，但得二句曰：『摩醯太多臨濟少，唯有雲門師恰好。』因復書請續後句，既啟封，即曰：『爭如瞎驢滅卻休，露柱燈籠皆絕倒。』」公得師指示，喜愜盈懷，已而以偈寄龍團茶與師曰：「蒼璧團團不暗投，舌端有眼似离婁；莫言茗碗無三寸，解問如何是趙州。」師答之曰：「趙州傳語龐居士，近日無端會喫茶。卻笑舊來多鹵莽，不將龍焙入脂麻。」作徐稚山侍郎畫像讚，題薌林居士向伯恭無熱軒。時李漢老參政薨背，師作文遣僧致奠，偶曰：「泉南道友，零落殆盡，今唯蔡郎中一人而已，不若生祭之。」乃戲為文曰：「致祭于靈巖山下，半風半顛大脫空居士之靈，惟靈鐵器，市裏牙人，脫空場中主，將黑豆換人眼睛，只做這般伎倆，將謂閻老不知？一向起模畫樣。而今死去見渠，看你有何憑仗，鑊湯爐炭橫行，劍樹刀山逆上。我儂聞說欣然，獃漢攢眉惆悵。人情敢不周旋，薄奠聊陳供養，郭郎線斷俱休。嗚呼哀哉！尚享！」僧未至，而蔡公卒，復系之以詞而祭之。其略曰：「嗚呼！始以前文與公相戲，此意未達，公已瞥地，二俱偶然，初無實義。公既去矣，文焉敢棄，就而祭之，是法如是。」性空道人築屋於城之西門外，謂之廖氏山堂，遷師居之。十八年戊辰

> 師は五十九歳になられた。侍者が、師と衲子（僧侶）との間で交わされた古今の問答を記録したものを師に差し出し、命名を請うた。その題辞の冒頭にこうある。「私は罪により衡陽に寓居し、門を閉ざして自己を省みるほか、心を用いることがなかった。折に触れて衲子が教えを請うてきたので、やむを得ず応対した。禅者である沖密と慧然がその場で書き留め、月日が経つにつれて、それは大きな巻物となった。持ち帰って題名を乞い、後の世に明らかに示し、仏祖の正法眼蔵が滅びないようにしたいと言う。そこで私はこれを『正法眼蔵』と名付けた。やがてその版本を曽文清公に送ったところ、公は頌を作って謝そうとしたが、次の二句を得ただけであった。『摩醯太多臨濟少、唯有雲門師恰好。』（摩醯は多すぎ、臨済は少なすぎる。ただ雲門の師匠だけがちょうど良い。）そこで私は返書を請うて後ろの句を続けさせた。封を開けるとすぐに、こうあった。『爭如瞎驢滅卻休、露柱燈籠皆絕倒。』（瞎驢が滅却してしまえばそれで終わり、露柱や燈籠も皆ひっくり返って笑う。）」公は師の指示を得て、喜びと満足を胸いっぱいに抱かれた。やがて偈を添えて龍団茶を師に送り、こう詠んだ。「蒼璧團團不暗投、舌端有眼似离婁。莫言茗碗無三寸、解問如何是趙州。」（蒼璧の團々たるもの、暗に投ぜず。舌端に眼あり、离婁のごとし。茗碗に三寸なしと言うなかれ。解して問う、如何是れ趙州、と。）師はこれに答えて詠んだ。「趙州傳語龐居士、近日無端會喫茶。卻笑舊來多鹵莽、不將龍焙入脂麻。」（趙州は傳語す、龐居士に、近日は無端に茶を飲むことを會す。卻って笑う、舊來の多きは鹵莽にして、龍焙を脂麻に入れざることを。）徐稚山侍郎の画像賛を作り、薌林居士向伯恭の無熱軒に題した。そのころ李漢老参政が亡くなられた。師は文を作り、僧を遣わして弔いを届けようとして、ふと言われた。「泉州の道友たちは、ほとんどが零落してしまった。今はただ蔡郎中一人を残すのみだ。生きたまま祭ったほうがよいだろう。」そこで戯れに文を作って言った。「霊巌山下に祭る、半風半顛、大脫空居士の霊に。惟れこの靈は鐵器、市の裏の牙人、脫空の場中の主。黒豆を持って人の眼睛に換え、ただこのような伎倆ばかりをなす。閻老も知らないと思っていたのか？ いつも形を起し様を畫くのみ。而今死して渠に見ゆるに、汝に何の憑仗か有らん。鑊湯爐炭を横行し、劍樹刀山に逆上す。我儂說を聞いて欣然とし、呆漢は眉を攢めて惆悵す。人情敢えて周旋せざらんや、薄奠聊か供養を陳べん。郭郎線斷ゆるも俱に休せん。嗚呼哀しいかな！ 尚享！」僧がまだ到着しないうちに、蔡公は亡くなられた。そこでさらに詞を添えてこれを祭った。その概略はこうである。「嗚呼！ 初めに前文をもって公と戲れ、この意は未だ達せぬうちに、公はすでに逝かれてしまわれた。二つとも偶然のことで、初めから實義はない。公は既に去られた。文は焉んぞ棄てんや。就いてこれを祭る、是れ法の如し。」性空道人は城の西門の外に家屋を築き、それを廖氏山堂と名付け、師をそこに移り住まわせた。十八年戊辰のことであった。

師六十歲。正旦書事寄無垢居士曰：「上苑玉池方解凍，人間楊柳又垂春，山堂盡日焚香坐，長憶毗耶多口人。」示黃子餘知縣法語，作李王見法眼畫像讚、普化和尚畫像、長靈卓禪師真讚，答劉季高侍郎、李彥嘉寶文問道書，題喻子才郎中觀我菴，作李泰發參政轉物軒銘。示幻住道人智常法語，作祭薦福本長老文云：「阿誰無生？阿誰無死？學道參禪，正要了此。汝今既了，吾復何憾！付明眼人，判此公案。」十九年己巳

> 師は六十歳になられた。元旦に事を書して無垢居士に送る。「上の苑の玉池はまさに解け始め、人の世の柳はまた春を垂れる。山堂には終日香を焚いて座し、長く毘耶の多口の人を憶う。」黄子餘知県に法語を示し、李王が法眼の画像を見たときの賛を作り、普化和尚の画像の賛、長靈卓禅師の真賛を作る。劉季高侍郎、李彦嘉宝文に問道の書を答え、喻子才郎中が観我菴に題した。李泰發参政のために転物軒の銘を作る。幻住道人智常に法語を示し、薦福本長老大師の祭文を作って言う。「誰に生まれず、誰に死なずということがあろうか。道を学び禅に参ずるのは、まさにこのことを明らかにするためである。あなたは今すでにこれを悟ったのだから、私に何の恨みがあろうか。明眼の人に委ねて、この公案を裁いてもらおう。」十九年己巳

師六十一歲。答無垢居士論正法眼藏書、向伯恭侍郎問夢書，李泰發參政、似表郎中問道書，示鄧子立直殿法語，跋周子充手書《華嚴經》，作馬大師、龐居士讚、路彥捷寺丞畫像讚，祭劉彥脩寶文、彥禮直閣文。題自頂相，示繼明禪人曰：「光裕顯大，迺道之疣也；背道而馳求，迺其賊也。疣之與賊，若人之身有蟯蛔、木之實有蠹蝎。決欲血氣充盛，而秀出於林，安得容此物於其間哉？疣之與賊，此之謂也。苟聞其道而晦其跡，光裕顯大不馳求而自昭著矣；苟未聞其道而欲去其疣而亡其賊，則疣之疣、賊之賊者也。吾佛聖人設教亦如是而已。吾雖聞道矣，而不能晦其跡而蹈禍機，亦疣賊之謂也。繼明禪人，學佛者也，畫吾像而求自讚，因作是說，以示明而自警，非敢自談己德而復作疣之疣、賊之賊者也。」二十年庚午

> 師は六十一歳であられた。無垢居士の『正法眼蔵』に関する書簡に答え、向伯恭侍郎の夢に関する問いに答え、李泰発参政・似表郎中が道を問う書簡に応え、鄧子立直殿のために法語を示され、周子充が自ら書写した『華厳経』に跋文を書き、馬大師・龐居士の賛、路彦捷寺丞の画像賛を作り、劉彦脩宝文・彦礼直閣を祭る文を書かれた。自らの頂相（肖像画）に題して、継明禅人に示して言われた。「光り輝き盛大に顕れることは、道における瘤（いぼ）のようなものである。道に背いて外に求め走ることは、道における賊（害）のようなものである。瘤と賊とは、ちょうど人の身に回虫（蟯虫）がいたり、木の実に虫（蠹虫・蝎）がいるようなものだ。もし血気が充実して盛んになり、林の中から秀でようと望むならば、どうしてこのようなものをその間に容れることができようか。瘤と賊とは、まさにこのことを言うのである。もしその道を聞いてその跡を晦（くら）ますならば、光り輝き盛大に顕れることは、外に求めずとも自然と明らかに現れるであろう。もしその道をまだ聞かずに、その瘤を除きその賊を無くそうと欲するならば、それは瘤の上の瘤、賊の上の賊というものである。我が仏陀という聖人が教えを設けられたのも、まさにこのようなことだけである。私は道を聞いたとはいえ、その跡を晦ますことができずに禍いの機に踏み入るならば、これもまた瘤や賊と言うべきであろう。継明禅人は仏を学ぶ者であり、私の像を描いて自ら賛を求めるので、この説を立てて、明に示し自らも戒めるものである。決して自分の徳を誇り、さらに瘤の上の瘤、賊の上の賊となろうとするものではない。」二十年、庚午の歳のことである。

師六十二歲。師自讚：「身著維摩裳，頭褁龐公帽，資質似柔和，心中實躁暴，開口便罵人，不分青白皁。編管在衡陽，莫非口業報，永世不放還，方始合天道。」為趨時者巧加誣訕之語，取憐勢位，以是年六月二十五日准命移梅州，取道郴陽，抵曲江，訪舍人朱公翊於西園，作雲門匡真禪師畫像讚。七月十四日，至曹谿，留信宿，作昺禪師真讚。按題其語錄云：「紹興庚午夏，自回鴈遷梅陽，道過韶石，禮老盧於窣堵波下，適遇堂頭明姪禪師舉揚宗旨。」二十六日，至南海，館于光孝方丈之西軒，凡三十二日。示何文綬、彭彥祥、鄭子壽、顧廷美、張彥清、元覽等法語。莊彥質未畫師像，預以素縑求讚。云：「只此便是妙喜真，何用畫工更忉怛？彥質抬眸子細看，南無急性王菩薩。」八月二十九日，離五羊，九月十五日，抵羅浮，十月初三日，至貶所。按《紀談》：「師抵梅陽，郡守謝朝議語僚屬曰：『朝廷編置所謂長老者，但一僧耳，兵馬東偏隙地，從其居止。』既而僧行，日至幾數百指，施鍬钁而平基址，運竹木而縛屋廬，聽其指呼，無敢怠者。守雖聞其服勤如此，亦未知果何人也，於是延見一二，觀其能為。南閩脩仰書記適承命，乃與守從容彌日，語論英發，確古商今，逢原左右。守復徵：『等伍更有蘊異能者否？』仰遂告以：『負大經論者有之，博極書史者有之，詩詞高妙者有之，翰墨飄逸者有之，其所以未能明徹，則佛祖大事因緣而已。是以不憚艱險，隨侍而來，得依仁政，幸莫大焉！』守且駭異，知其徒皆為法忘軀之士，自是於師日益加敬。」二十一年辛未

> 師は六十二歳になられた。師みずからを詠んで言う、「維摩の衣を身にまとい、龐公の帽を頭に被る。資質は柔和に似るが、心の内は実に躁暴。口を開けばすぐ人を罵り、白黒の区別もない。衡陽に編管されたのは、まさに口業の報いであろう。永く還されることなく、これで天道にかなうというもの。」時の流れに乗る者たちが巧みに偽りの誹謗の言葉を加え、権勢に取り入ったため、この年の六月二十五日に命により梅州へ移されることとなった。道を郴陽に取り、曲江に至り、舍人朱公翊を西園に訪ね、雲門匡真禅師の画讚を作った。七月十四日、曹谿に至り、二夜滞在し、昺禅師の真讚を作った。その語録に題して言う、「紹興庚午の夏、回鴈から梅陽に遷され、道すがら韶石を過ぎ、老盧（六祖慧能）を窣堵波の下に礼し、ちょうど堂頭の明姪禅師が宗旨を挙揚されるのに遇った。」二十六日、南海に至り、光孝寺の方丈の西の軒に滞在すること三十二日。何文綬、彭彦祥、鄭子寿、顧廷美、張彦清、元覽らに法語を示した。荘彦質は師の像をまだ描いておらず、あらかじめ白絹を贈って讚を求めた。師は言う、「これこそまさに妙喜の真の姿、どうして画工がさらに騒ぎ立てる必要があろう？彦質よ、目を上げてよく見よ。南無、急性の王菩薩。」八月二十九日、五羊（広州）を離れ、九月十五日に羅浮に到着、十月初三日に謫居の地に到着した。《紀談》によれば、「師が梅陽に到着すると、郡守の謝朝議は僚属に言った、『朝廷が編置されたいわゆる長老者、ただの一僧にすぎない。兵馬の東の片隅の空地に、その住むところを任せよ。』やがて僧侶たちが日に日にやって来て、その数数百人に及んだ。鍬や鋤を施して地盤をならし、竹や木を運んで小屋を組み立て、師の指図を聞き、怠る者はいなかった。郡守はそのように労苦に服するのを聞いても、果たしてどのような人物かは知らず、そこでその中の一、二人を招いて、その能力を見ようとした。南閩の脩仰書記がちょうど命を受けて、郡守と終日語らい、議論は活発で、古を確かめ今を論じ、つねに適切なところを得た。郡守はさらに問うた、『仲間の中に、さらに優れた能力を秘めた者がいるか？』すると仰は告げた、『大きな経論を負う者もあり、書物や史書に通暁した者もあり、詩詞の高妙なる者もあり、書画の飄逸なる者もあり、その明らかにし得ないところは、ただ佛祖の大事因縁のみでございます。それゆえ艱難を顧みず、お供してまいりました。仁政に依ることができ、このうえない幸いでございます。』郡守は驚き、その徒がみな法のため身を顧みない者たちであることを知り、ここから師に対してますます敬意を深めた。」二十一年辛未。

師六十三歲。居梅州，太守遣其子謝純粹求入道捷徑，示之以法語八篇。作《雪堂行禪師語錄．序》，祭安撫劉公方明文。二十二年壬申

> 師は六十三歳で、梅州に住んでいた。太守はその子の謝純粹を遣わし、入道の捷径を求めたので、師は法語八篇を示した。『雪堂行禅師語録・序』を作り、安撫劉公方明を祭る文を著した。二十二年は壬申の年である。

師六十四歲。示張觀察法語，以頌代書寄張聖者，賀福聖長老出世，答不二居士注《金剛經》求印證書、華心居士杜撰水陸儀文書，以頌滑稽敏棕皮歸蜀，作覺明居士夏志宏畫像讚。二十三年癸酉

> 師は六十四歳であられた。張観察に法語を示し、頌をもって書に代えて張聖者に送り、福聖長老的の出世を祝い、不二居士の『金剛経』注釈の印証を求める書に答え、華心居士が水陸儀文を勝手に作ったことについての書に答え、頌をもって滑稽にして敏なる棕皮の蜀に帰ることを詠じ、覚明居士夏志宏の画像の賛を作られた。二十三年癸酉のことであった。

師六十五歲。作送黎文晦歸龍川序，南安巖主畫像讚，跋《雪峰空禪師語錄》。書古寄𭒀女使君李公獻臣。書古送立禪人歸雙林，曰：「空手把鋤頭，油瓮捉泥鰍。步行騎水牛，紙人火上遊。人從橋上過，猛虎當路坐。橋流水不流，高峰駕鐵舟。立禪歸到雙林寺，說與渠儂且罷休，妙喜為君重說破。咄！且莫瞌睡。」按〈雲臥書〉云：「師是年坐間，凡有所說，則法宏首座錄之。自『大呂申公執政』至『保寧永禪師，四明人』，得五十五段而罷興。宏遂以老師洋嶼眾寮牓其間，有『兄弟參禪不得，多是雜毒入心』之語，取稟而立為《雜毒海》。今刊本名《武庫》者，乃紹興十年春，信無言等聞師語古道今，聚而成編，福清真兄戲以《杜預傳》中『武庫』二字為名。及庚午，師偶見是集曰：『其間亦有是我說話，何得名為「武庫」？』以是知『武庫』之名，實非師意也。」一十四年甲戌

> 師は六十五歳であられた。黎文晦が龍川に帰るのを送る序文を作り、南安巖主の画像讃を書き、『雪峰空禅師語録』の跋を書かれた。古を書して𭒀女の使君李公献臣に贈り、古を書して立禅人が双林に帰るのを送って、言うには「空手にして鋤頭を把り、油瓮に泥鰌を捉う。歩行して水牛に騎り、紙人は火の上を遊ぶ。人は橋の上を過ぎ、猛虎は当路に坐す。橋は流れど水は流れず、高峰は鉄舟を駕す。立禅、双林寺に帰り到らば、説いて渠儂に且く罷休せよと。妙喜は君の為に重ねて説き破らん。咄！且く瞌睡すること莫れ」と。『雲臥書』によれば「師はこの年の座間にあって、凡そ説くところあれば、すなわち法宏首座がこれを録した。『大呂申公執政』より『保寧永禅師、四明人』に至るまで、五十五段を得てやむことを罷めた。宏はすなわち老師の洋嶼衆寮の牓を以てその間に、『兄弟参禅するも得ざるは、多くは雑毒の心に入るによる』という語があり、これに稟じて『雑毒海』と立てた。今の刊本に『武庫』と名づくるは、すなわち紹興十年の春、信無言らが師の古道今を語るを聞き、聚めて編を成す。福清真兄が戯れに『杜預伝』の『武庫』の二字を以て名と為す。および庚午に、師は偶々この集を見て曰く『その間にも我が説話あるに、何ぞよく「武庫」と名づけんや』と。ここを以て『武庫』の名は、実に師の意にあらざることを知る」と。一十四年甲戌。

師六十六歲。太守楊公王休建華嚴會，請為眾普說。說偈略曰：「紹興甲戌上元節，自在居士興善利，梅民服化咸歡喜，仁風惠澤家家至。善哉奇特大因緣，不可思議絕倫比，上祝吾　皇萬萬春，當與天地相終始。」示唐彥舉覺軒法語，以頌代書答歸宗華姪長老，題圜悟和尚所付《楞伽經》授鼓山宗逮長老，題臨濟正宗法語，跋《古塔主語錄》。韋參軍以花圃建菴，遷師居之。二十五年乙亥

> 師は六十六歳であられた。太守の楊公・王休が華嚴会を開かれ、師に請いて大衆のための説法を願われた。師は偈を説いて大要次のように言われた。「紹興甲戌の上元節、自在居士が善利を興す。梅の民は教えを受け入れ皆歓喜し、仁風と恵みの雨は家々にまで至る。善し、奇にして大いなる因縁、思議を絶し比類なし。願わくば我が君の御世、万々年ならんことを、天地と始めを共にし終わりを共にせんことを。」唐彦舉・覚軒に法語を示され、頌をもって書に代え、帰宗華の姪の長老に答えられ、圜悟和尚が授けられた『楞伽経』に題し、鼓山の宗逮長老に与えられ、臨済正宗の法語に題し、『古塔主語録』に跋を書かれた。韋参軍が花圃に庵を建て、師を遷してそこに住まわせた。二十五年乙亥のことである。

師六十七歲。正旦臨安淨空居士陳安常、不空居士張處俊，各具一百問答，遣价求印證。師題其後云：「自問自答，自倒自起，處俊安常，各說道理。一人搖頭，一人擺尾，蚊錐鐵牛，賣弄口觜。賞伊膽大，來呈妙喜，盡令而行，埋入地底。放過一著，各自看取；若不放過，打出骨髓。且道是賞伊罰伊？明明向你道，尚自不會，豈況蓋覆將來？」師自衡遷梅六年之間，遐陬遠俗靡不從其攝化，家繪其像，敬事虔肅，有若臨淮之大士、南安巖之定光。十二月，蒙　恩自便。按龍王殿記云：「二十五年冬，天度清曠，權綱獨攬，　詔有司理冤枉，還之梅陽。梅為南方煙瘴之郡，醫藥絕少，多有不及東歸者。」按答經略方公務德書云：「往歲南遷，參隨僧行，零落瘴鄉六十三人，義難以忘。今之所存，于茲無幾，間或熏爐茗碗必異於眾，蓋不忘南荒朝遊夕處之義也。」按為張縣尉普說：「在梅陽六年，受人供養，臨行，菴中所有動使之物盡散與人，平昔所收些施利悉用辦齋，遍請合郡僧道士庶并見任官云。」二十六年丙子

> 師は六十七歳であった。元旦、臨安の淨空居士・陳安常と不空居士・張處俊が、それぞれ百問百答を用意し、使いの者を遣わして印可を求めた。師はその後に書き添えて言った：「自ら問い自ら答え、自ら倒れ自ら起きる。處俊も安常も、それぞれ道理を説く。一人は頭を振り、一人は尾を振る。蚊が鉄牛を刺すが如く、口先だけを誇る。その大胆さを賞でて、妙喜に呈することを許す。しかし全てをそのままにせず、地の底に埋め込む。一着を放ち過ごして、各自よく見極めよ。もし放ち過ごさねば、骨の髄まで打ち出す。さあ、これは彼らを賞しているのか、罰しているのか？明らかに君たちに告げているのに、まだ自分で分からない。ましてや覆い隠すことなどできようか？」 師は衡州から梅州に移ってから六年の間、遠い辺境の地の民も皆その教化を受けない者はなく、各家で師の像を描き、敬い仕えること誠に篤く、まるで臨淮の大士や南安巖の定光仏のようであった。十二月、御恩により自由の身となることを許された。 『龍王殿記』によれば：「紹興二十五年の冬、天の道は清く広く、権の綱はひとり掌握された。詔して役所に冤枉を理めさせ、梅陽に還すことを許した。梅は南方の煙瘴の地であり、医薬は極めて少なく、東に帰れない者が多かった。」 経略方公務德に答える書簡によれば：「昔、南に遷された時、従った僧侶たちは、瘴癘の地で六十三人が零落し、その義は忘れることができない。今生き残る者はほとんどいない。間にある時、香炉や茶碗を必ず人と異ならせるのは、南荒の朝夕に共に過ごした義を忘れないからである。」 張縣尉のための普説によれば：「梅陽に住むこと六年、人々の供養を受け、臨行の際、庵の中の全ての動かせる物を人々に分け与え、平生に収めた少しばかりの布施も全て斎を設けるために使い、州中の僧侶・道士・士民・現任の官人を全て招待した。」 紹興二十六年丙子のことであった。

師六十八歲。正月二十一日，離梅陽，太守鄧公酢賓禮，委官兵津發，居民扶老攜幼遮道，祖餞眷戀，有不勝情者，蓋其道使之然也。取道汀州，二月至灨川。時無垢居士、侍郎張公子韶自橫浦蒙　旨守永嘉，師維舟俟之，用慰契闊，既見留連款語，遍賞名山，留題馬祖菴詩云「中有奇道人，機鋒如劈箭」，謂師也。公因以自畫像需讚，師點筆疾書，有「貧兒索舊債」之句。已而聯舟東下，至廬陵，眾信請說法于祥符寺。作廬陵米價頌次，太和遊青原，分袂於臨江之新淦，作湖湘之行。按無垢贈別詩云：「相別十七年，其間無不有；今朝忽相見，對面成老醜。人生大夢耳，是非安足究？欲敘惓惓懷，老大慵開口。公作湖南行，我赴永嘉守；重別是今日，南北又奔走。已歃相過盟，長沙不宜久。」邑宰黃公元綬迎師館于東山寺，三月十一日，被　旨復僧，謝恩陞座，有「青氈本是吾家物，今日重還舊日僧；珍重聖恩何以報？萬年松上一枝藤」之句。示黃元綬如是居士法語云：「渝川江亭一見，心已許之，既而來驛舍吐露，若合符契，自慶驗人眼不讓古人。」作黃世永主簿淨智菴銘。至宜春，憩于光孝寺，方外道友錢子虛計議請為眾說法。時丞相和國、張公德遠居長沙，其母秦國夫人問道於師。按殿記曰：「浚竊惟先妣秦國太夫人，晚聞道于徑山佛日大師，得自在無畏法。杲有忠君愛物之志，非若聲聞獨覺之私，厭生死而樂寂滅也。是以浚與之遊，或者迷惑世網，循利背義，排斥己異，移怒於師，有識者憤之。」秦國臥疾將亟，曰：「妙喜老師，此生無復見也，老婆有私恩未報。」和公凡三走介之宜春，趣師之行，由是兼程而至，秦國捐館矣。和國公語師曰：「先妣願供養和尚一年，為報德之私，今無復得。某謹遵遺訓，師幸少留，以九夏之期盡其敬奉，一慰先妣之願，二伸人子之心。」師不可得而辭，遂館于光孝寺之東堂。六月，卻饒州薦福之命，以偈遣四專使云：「萬死一生離瘴網，前程來日苦無多；收拾骨頭林下去，誰能為眾更波波？」題《大溈智禪師語錄》，後示羅孟弼法語。七月，秦國喪靈歸蜀，師亦次舟至荊南，和公力挽同往，師無入蜀意，遂作桑梓之行。尼慧覺以師頂相求讚，故有「雖然未即過江東，且隨覺禪看西蜀」之句。中書舍人唐公文若，字立夫，於道自謂有所趣向。每聞蜀僧言師有未語已前之驗，立夫時召赴行，在維舟謁師。相見次，曰：「莫是子西之後否？」立夫曰：「乃大人也。」師曰：「尊丈與某昔在無盡府第相從甚久，不如公有箇無師自得底道理，但未喫得徑山手裏竹篦在。」立夫乃俛首感歎，然後炷香以致謝誠，遂連檣而之鄂渚。按示太守祠部熊公叔雅法語有云：「近在渚宮，見一破家散宅底漢欲操吾刀，入吾室便要殺人放火，被妙喜不動干戈即時擒下，不必見贓而後知其為賊。」蓋指立夫也。又按立夫跋師示熊法語後云：「徑山贓物，并案款上納，異時鄂州有一點雜毒入心，定卻翻案也。縛虎須急，緩則噬人，事不兩存，要識方便。若只旗鎗兩下，又涉廉纖云云。」別後以頌寄師云：「人皆養子防身老，臨濟生兒不養家；三尺竹篦千古令，更無一物是生涯。」武當軍節度使李公師顏請說法于府第。示徐敦濟提刑法語，已而下赤壁，次臨皋望東坡雪堂，因作頌曰：「力將正說分邪說，夢到黃州與惠州。竹屋數椽容老皃，大江千古只東流。」抵九江，太守朱公請說法于能仁寺，而以廬山圜通敦請住持，三辭而不獲，因舉道顏長老補其處，然後解維。十月，至宣城，館于敬亭山，作普明琳禪師真讚，謁方外道友太守樞密樓公仲暉，作顏簡卿簡室銘、湯承事慶齡菴銘。適明州阿育王山專使至，准　朝命住持。十七日，祗受次，寧國入山東安存悼往三宿而別。十一月，渡錢塘，由會稽雙槐居士鄭禹功參議以詩迎師於旅亭，有「底事病魔渾不染，只將正見洗蠻煙」之句。帥座參政魏公良臣請說法于能仁寺。十三日，就明州光孝寺開堂。十五日，入院。臘月，訪天童覺禪師及諸鄰峰。二十七年丁丑

> 師は六十八歳。正月二十一日、梅陽を離れ、太守の鄧公酢が賓礼をもって遇し、官兵に津送を命じた。住民は老若問わず道を塞いで見送り、餞別の宴で名残を惜しみ、堪えきれぬ思いがあふれた。これはひとえに師の道徳がそうさせたのである。汀州を経由し、二月に灨川へ到着した。このとき無垢居士・侍郎の張公子韶は、横浦から勅命を受けて永嘉の守となり、師は船を繋いで彼を待ち、久闊を慰めあった。対面すると語り合い、名山を巡って詩を賦し、馬祖菴に題した詩に「中に奇道人あり、機鋒は箭を劈くが如し」とあるのは、師を指すものである。公は自画像を持ち出して賛を求め、師は筆を染めて即座に書き、「貧児旧債を索む」の句があった。やがて船を並べて東へ下り、廬陵に至ると、衆の信者が祥符寺で説法を請うた。「廬陵米価頌」を作り、太和で青原に遊び、臨江の新淦で別れて湖湘へ向かった。無垢の贈別詩に曰く、「相別すること十七年、その間に無いものは無し。今朝忽然として相見る、対面して老醜を成す。人生は大夢のごとく、是非なんぞ究めんに足らん。倦々たる懐を叙せんと欲すれど、老大として口を開くに慵し。公は湖南の行を作し、我は永嘉の守に赴く。重ねて別るるは今日、南北また奔走す。すでに相過ぐるの盟を歃みたり、長沙には久しくすべからず。」邑宰の黄公元綬は師を迎えて東山寺に宿らせた。三月十一日、勅旨により僧籍を復し、恩に謝して升座し、「青氈は本より吾が家の物、今日重ねて旧日の僧に還る。聖恩を珍重して何をもって報いん、万年松の上に一枝の藤」の句があった。黄元綬（如是居士）に示す法語に曰く、「渝川江亭にて一見して、心すでにこれを許せり。既にして来たりて駅舎にて吐露するや、符節を合わせるがごとし。自ら験人眼は古人に譲らずと慶ぶ。」黄世永主簿の「浄智菴銘」を作る。宜春に至り、光孝寺に憩う。方外の道友・錢子虛計議は衆のために説法を請うた。このとき丞相和国公・張公德遠は長沙に居り、その母・秦国夫人が師に道を問うた。殿記に曰く、「浚、窃かに惟うに先妣秦國太夫人は、晩年に径山仏日大師に道を聞き、自在無畏の法を得たり。杲（師）に忠君愛物の志あり、声聞独覚のごとく生死を厭いて寂滅を楽しむ私にあらず。是をもって浚これと遊ぶ。あるいは世網に迷い、利に循いて義に背き、己と異なるを排斥して師に怒りを移す者あり、識者の憤るところなり。」秦国夫人が臥して病が重くなり、「妙喜老師、この生にかつて見る無からん。老婆に私恩の未だ報いざるあり」と言った。和国公は三度使者を宜春に遣わして師の来訪を促し、ここにおいて兼程して到着したが、秦国はすでに亡くなっていた。和国公は師に語って曰く、「先妣は和尚に一年の供養を願い、徳に報いるの私とせんと欲し、今や復た得ず。某謹んで遺訓を遵い、師よ幸い少しく留まり、九夏の期をもってその敬奉を尽くし、一には先妣の願いを慰め、二には人子の心を伸べん。」師は辞すること能わず、ここにおいて光孝寺の東堂に止まった。六月、饒州薦福の命を辞し、偈をもって四専使を遣わす。「万死一生、瘴網を離る、前程来日、苦しむに多き無し。骨頭を收拾して林下に去らん、誰か能く衆のために更に波波たるを。」《大潙智禅師語録》に題し、後に羅孟弼に示す法語がある。七月、秦国の喪霊は蜀に帰り、師もまた船を次いで荊南に至る。和公は力を尽くして同往を勧めたが、師に蜀へ入る意志はなく、ここにおいて故郷への旅をした。尼の慧覚が師の頂相をもって賛を求め、故に「未だ即ち江東を過ぎずと雖も、且く覚禅に随いて西蜀を見ん」の句がある。中書舎人の唐公文若、字は立夫は、道について自ら趣向あるところありと言う。毎に蜀僧が師には未だ語らざる以前に験あることを聞き、立夫はそのとき召されて行在に赴くにあたり、船を繋いで師を訪ねた。相見のとき、「子西の後か」と言う。立夫曰く、「乃ち大人なり。」師曰く、「尊丈は某と昔、無尽府第にて相従うこと久し。公は師無くして自ら得たる底道理あるも、未だ径山手裏の竹篦を喫せざるに在るのみ。」立夫は俯して感慨し、そして香を焚いて感謝の意を表し、ついに舳艫を連ねて鄂渚へ向かった。按ずるに太守祠部の熊公叔雅に示す法語に「近に渚宮に在りて、一箇の破家散宅の底漢の吾が刀を操り、吾が室に入りて便要に殺人放火せんとするを見る。妙喜に不動干戈、即時に擒下せられ、贓を見て後に其の賊たるを知るを待たず。」これ立夫を指すものである。また按ずるに立夫が師の熊に示す法語の後に跋するに「径山の贓物、并せて案款を上納す。異時に鄂州に一点の雑毒の心に入らば、定めて翻案せん。虎を縛するは急なるを須い、緩なれば則ち人を噬む。事は両存せず、方便を識ることを要す。若し只だ旗鎗両下ならば、又た廉纖に渉る」と云云。別後の頌をもって師に寄す。「人皆養子して身の老を防ぐ、臨済の生児は家を養わず。三尺の竹篦千古の令、更に一物も生涯たること無し。」武当軍節度使の李公師顔は府第において説法を請うた。徐敦濟提刑に示す法語があり、やがて赤壁に下り、臨皋に次いで東坡雪堂を望み、ここにおいて頌を作る。「力将に正説を以て邪説に分かつ、夢に黄州と惠州とに到る。竹屋数椽、老皃を容れ、大江千古ただ東に向かって流る。」九江に到着すると、太守の朱公が能仁寺で説法を請い、また廬山円通に住持を請われ、三たび辞するも獲ず、道顔長老師を挙げてその任を補し、然る後に船を解いた。十月、宣城に至り、敬亭山に止まり、「普明琳禅師真賛」を作り、方外道友の太守枢密・楼公仲暉を訪ね、「顔簡卿簡室銘」「湯承事慶齢菴銘」を作る。ちょうど明州阿育王山の専使が至り、朝命を准じて住持することとなった。十七日、祇受の次いで、寧国にて山に入り、東安にて悼往を存し、三宿して別れた。十一月、銭塘を渡り、会稽の双槐居士・鄭禹功参議が詩をもって旅亭にて師を迎え、「底事か病魔渾て染まず、只だ正見を将て蛮煙を洗う」の句があった。帥座参政の魏公良臣は能仁寺での説法を請うた。十三日、明州光孝寺にて開堂した。十五日、入院した。臘月、天童覚禅師及び諸隣峰を訪れた。二十七年丁丑。

師六十九歲。住育王，褁糧問道者萬二千指，百廢並舉，檀度響從，冠於今昔。雲巖典牛游禪師以頌寄師云：「五濁海底輾屎豬，躍出那邊三腳驢。鐸聲既已喧四衢，雲間騰踏天馬駒。諦聽典牛一句子，世上有你何用余？」於是增修廚屋，鑿二新泉，曰妙喜、曰蒙。按泉銘略曰：「育王為浙東大道場，地高無水，僧眾苦之。紹興丙子，佛日受請，周旋其間，令僧廣恭穿穴茲地為大池，鍬鍤一施，飛泉盆湧。知軍事秘監姜公見而異之，名曰妙喜，無垢居士為之銘，末句有云：『謂余未然，妙喜其決之。』」師因說偈於其後，仍作蒙泉銘曰：「廣利東，泉曰蒙，源玲瓏，萬竅通，聲淙淙，出無窮，良施工，不落空。銘泉者為誰？山僧妙喜翁。」寺以眾多食貧，常住伏臘不給，陳請：「海岸閑地僅千頃，命工開築以為南畝，費緡錢十萬餘。」師率八萬四千人結般若勝會，人出緡錢，餘竭衣盂，以成歲入，用贍齋廚。左丞相湯公思退敷奏，詔賜其莊名般若。六月，弔衡陽太守石公彥和，于新昌遷佛智禪師塔，作《正堂辯禪師語錄．序》、廣福寺鐘銘、東坡先生畫像讚，跋文殊道禪師偈頌，答樞密樓公仲暉、節使曹公功顯、侍郎曾公吉甫、侍郎榮公茂實、妙德居士黃公節夫問道書，示張晉彥運使、羅宗約參議、趙師厚觀使、孫長文通判、鮑夢符教授、呂舜元機宜、郭仲堪知縣、曾叔遲機宜法語，示內都知董德之入道頌，作楊岐五世讚、黃龍忠道者、天童覺禪師二老揖讓圖讚。時有太學上舍生楊麟冠帶拜師於堂上，垂泣云：「願從和尚出家。」語未訖，擲下巾帽，袖中出剪刀，自落其髮。師疾呼左右執手問其故，乃以實對，因攝授之。次日，上堂云：「已著槽廠，將錯就錯。騎卻聖僧，不妨快樂。龍象蹴踏，非驢所作。堪笑諸方，妄生穿鑿。休穿鑿，祥麟只有一隻角。」十二月，主天童覺禪師喪。二十八年戊寅

> 師は六十九歳で、育王山に住していた。糧食を包んで教えを乞う者は一萬二千人にも及んだ。多くの荒廃した事業が同時に起こされ、布施の喜びは天下に響き渡り、古今に並ぶものがないほどであった。雲巌の典牛游禅師が偈頌を師に贈って言った。 「五濁の海底に屎を転がす猪、跳ねて出ずるは向こうの三脚の驢馬。鈴の音すでに四衢に喧し、雲間に騰踏する天馬の駒。よく聞け、典牛の一句を、世に汝ありて何ぞ余を用いん。」 ここにおいて師は厨房を増築し、二つの新しい泉を掘った。名づけて妙喜、蒙とした。泉の銘に略して言う、「育王は浙東の大道場なり。地は高く水なし。僧衆これを苦しむ。紹興丙子の年、佛日が請を受けて来たり、その間に周旋し、僧の広恭に命じてこの地に穴を穿ちて大池をなさしむ。鍬鍤を施すや、飛泉盆のごとく湧き出づ。知軍事の秘監姜公、これを見て異とし、名づけて妙喜とす。無垢居士これを銘す。末の句に云う、『我を未然と謂わば、妙喜其れこれを決せん。』」 師はその後、偈を説き、なお蒙泉の銘を作って言った。 「廣利の東、泉を蒙と曰う。源は玲瓏、萬の竅通ず。声は淙淙として出づること窮まりなし。良工の施し、落ちて空しゅうせず。泉を銘する者は誰ぞ、山僧妙喜の翁なり。」 寺は僧衆多くして食が貧しく、常住は伏臘の供えを欠くことがあった。師は請願して言った、「海岸の閑地は僅かに千頃あります。工匠に命じて開墾し南の田となす。費用は緡銭十萬餘。師は八萬四千人を率いて般若勝会を結び、人ごとに緡銭を出し、餘りは衣盂を尽くして、歳入をなし、もって斎厨を賄うに用いた。 左丞相の湯思退公が上奏し、詔してその荘を般若と名づけた。 六月、衡陽の太守石彦和公の弔いに赴いた。新昌において佛智禅師の塔を遷し、『正堂辩禅師語録の序』、廣福寺の鐘銘、東坡先生の画像讚を作り、文殊道禅師の偈頌に跋を書き、樞密の楼仲暉公、節使の曹功顯公、侍郎の曾吉甫公、侍郎の栄茂實公、妙德居士の黄節夫公の問道の書に答えた。張晋彥運使、羅宗約參議、趙師厚觀使、孫長文通判、鮑夢符教授、呂舜元機宜、郭仲堪知県、曾叔遅機宜に法語を示し、内都知の董德之に入道の頌を示し、楊岐五世の讚、黄龍忠道者、天童覺禅師の二老揖讓圖の讚を作った。 時に太学の上舍生の楊麟という者が、冠帯して堂上に師を礼し、涙を垂れて言った、「願わくは和尚の許に従いて出家せん。」と言い終わらぬうちに、巾帽を擲ち打ち捨て、袖の中から剪刀を出だし、自らその髪を落とした。師は急ぎ左右に呼ばわり手を執らせてその故を問うた。すなわち実をもって答えたので、師はこれを摂受した。 翌日、上堂して言った、 「已に槽廠に著けり、將錯就錯。聖僧を騎しつつ、妨げず快楽。龍象の蹴踏は、驢の作す所に非ず。笑うべきかな、諸方の妄りに穿鑿するを。穿鑿するを休めよ、祥麟はただ一つの角のみ。」 十二月、天童覺禅師の喪を主催した。 二十八年戊寅

師七十歲。正月初十日，被　旨遷住徑山。二月二十八日，就靈隱寺開堂。三月初九日，入院坐夏，千餘眾。按塔銘：「師之再住此山，道俗欽慕，如見其所親。雖老，引接後進不少倦，一日，忽廚屋傾仆，蓋神龍欲師興建之始。師即撾鼓示眾云：『去歲育王方修了，今日徑山又倒卻，雲堂大眾一時驚，只有老僧渾不覺。敢問大眾：因甚不覺？豈不見道：不啞、不聾不做大家公。』由是廣其址以新之，重建孚佑王殿及嚴像，設置東坡祠像於殿之右廡。」示佛照居士鄭提幹、內都知張公一之、鄧伯壽直殿、永寧郡夫人善因法語，作王德祖醫師、榮茂實侍郎、方務德侍郎畫像讚，答蘇仁仲提舉問道書、孫知縣擅改《金剛經》書。以頌代書戲答繼明長老曰：「既作蟲豸，又住鶴鳴，如水入水，似金博金。夜聽水流巖下石，曉看山起面前雲，此境此時誰得意？」道得末後句，則不孤負老僧九月，遣參徒之零陵，求孚佑王殿記於丞相張公德遠。冬，行化嘉禾次，吳門弔方外道友信安，郡王孟公仁仲設無礙會于虎丘，以旌平日道義。長老靈沼請作佛智裕禪師真讚。抵無錫，樞密巫公子先而次謂之錫山蓮社請說法于南禪寺。陳阜卿侍郎撰疏，有「十七年現居士身，不動本來面目，幾萬里漂羅剎國，還歸舊處風光」之句。孫尚書仲益為前徑山訥老作塔銘，訥之嗣法最老，請師署名其後。由是，師致書仲益，其答略曰：「覿頃見佛果於開寶，時公道價籍籍，滿都國矣。靖康以還，崎嶇兵亂，偶然不死，又罹罪罟，流竄嶺海，仰瞻一世龍象，如有仙凡之隔，只自媿歎。」又曰：「公高風絕塵，已出世外，而非意之干同。逐客放臣，遷貶之例，正如癡兒摶空捕影，只堪一笑耳。然佛法遇厄，而後奇勝，乃見所以化服同異也。」又曰：「僧最出所賜書，開讀三反，幸甚過望。承欲移舟，臨賁衰老，至惠山旋棹，僧伽危坐，一塔之中，有熟視而不見者，一睹天人，信有命也。」又曰：「自公入吳，一佛出世矣，侯王而下，皆獲瞻禮，獨覿尚未一詣，遂無以藉口。覿方欲上書謝事，得請後書疏，小間當由臨安入山，摳衣聽法，一洗塵陋。」又曰：「皇恐大雅姪歸依至道，曲蒙與進，庶幾班斤郢斲也。訥老塔銘，重辱書名其後，衰陋有光焉。」二十九年己卯

> 師は七十歳であられた。正月十日、勅命により徑山に遷住された。二月二十八日、靈隱寺で開堂の説法をされた。三月初九日、入院して夏安居を行われ、修行者は千余人に及んだ。塔銘によれば、「師が再びこの山に住まわれた時、道俗の人々は敬慕し、まるで身内に会うかのようであった。年は老いておられたが、後進を導くことに少しも倦むことがなかった。ある日、突然廚屋が傾き倒れた。これは神龍が師に建立を始めさせようとしたのだ。師はただちに鼓を打って大衆に示して言われた、『去年は育王でようやく修理したが、今日は徑山でまた倒れた。雲堂の大衆は一時に驚いたが、ただ老僧だけは全く気づかなかった。あえて大衆に問う、なぜ気づかないのか。悟らないか、聾でなく、唖でなければ、大家の公は務まらないと』。これにより寺の敷地を広げて新たにし、孚佑王殿を再建して像を厳かに飾り、東坡祠の像を殿の右側の廊下に設置した。」佛照居士の鄭提幹、内都知の張公一、鄧伯壽直殿、永寧郡夫人の善因のために法語を示され、王德祖醫師、榮茂實侍郎、方務德侍郎の畫像讚を作られた。蘇仁仲提舉の問道の書に答え、孫知縣が擅に《金剛經》を改めたことについて書を送られた。頌をもって書に代えて繼明長老に戯れに答えて言われた、「既に蟲豸となり、また鶴鳴に住す。水の水に入るが如く、金の金を博するが似し。夜に聴く水流の巖下の石をうつすを、曉に見る山の面前に雲を起すを。此の境、此の時、誰か意を得ん。」<note place="inline">もし末後の句を道い得れば、則ち老僧を辜負せず</note>九月、參徒を零陵に遣わし、丞相の張公德遠に孚佑王殿の記を求めた。冬、嘉禾で行化され、吳門に至って方外の道友を弔い、信安郡王の孟公仁仲が虎丘で無礙會を設け、平素の道義を彰した。長老の靈沼が請いて佛智裕禪師の真讚を作られた。無錫に至り、樞密の巫公子先の次に、その地を錫山蓮社と謂い、南禪寺で說法を請われた。陳阜卿侍郎が疏を撰し、「十七年居士身を現じ、本來の面目を動かさず、幾萬里羅剎國に漂い、還って舊處の風光に歸る」の句がある。孫尚書の仲益が前徑山の訥老のため塔銘を作り、訥の嗣法の最も老いたる者が、師に請いてその後に署名された。これにより、師は仲益に書を送られた。その答は略して言う、「覿はかつて開寶で佛果に會い、その時、公の道價は世に聞こえ、都國に滿ちておられました。靖康以來、兵亂の中を崎嶇とし、偶然にも死なず、また罪の網にかかり、嶺海に流されました。仰ぎ見る一世の龍象は、あたかも仙凡の隔たりのようで、ただ自ら愧じ嘆くのみです。」また言う、「公の高風は塵を絕し、すでに世の外に出でられ、意に非ざる干與も同じくせず。逐客や放臣が遷貶の例にあることは、ちょうど癡兒が空を搏ち影を捕えるが如く、ただ一笑に堪えるのみです。然し佛法は厄に遇いて後に奇勝、これによって同異を化服する所以を見るのです。」また言う、「僧が最も出だした所の賜書を、開讀すること三反、幸甚過望に堪えます。舟を移して衰老の身を臨賁（おとずれ）られんと欲し、惠山に至りて棹を旋らし、僧伽は危坐し、塔の中、熟視して見えざる者有るも、一たび天人を睹れば、信に命有るを知ります。」また言う、「公が吳に入られてより、一佛の出世の如く、侯王より下、皆瞻禮を獲ましたが、ただ覿のみは未だ一たびも詣でず、遂に以て口實とする無し。覿は方に上書して事を謝せんと欲し、請を得た後は書疏、小閒に、臨安より入山し、衣を摳めて法を聽き、一たび塵陋を洗わんとします。」また言う、「皇恐の大雅姪が至道に歸依し、曲げて與進を蒙り、庶幾くは班斤郢斲のごとくならんことを。訥老の塔銘、重ねて辱くもその後に書名せられ、衰陋の身に光あり。」二十九年己卯

師七十一歲。正月泛太湖。按示徐誠頌曰：「紹興己卯正月旦，我因持缽入太湖，徐誠權攝婆施羅，助我敷演此三昧。」長老元弗迎歸翠峰，為眾說法。作雪竇明覺禪師真讚。二月，卻福州西禪之命。三月，求退於朝，纔進表，即渡江之四明，臨安府尹張侍郎偁致書於師，其略曰：「竊聞拂衣禪席，再挽莫回，翩然清風，已趣高駕，此固不可以寵利勢力迎屈，然豈不念　聖天子以公名德之盛，增重名山，以佛法護行闕。幸為小駐，以副上意。偁職在守，上朝命是依，謹差衙校陳愈洊、布區區萬冀。深察使張京兆異日為白蓮社中人請，自茲始矣。」師即答書。四月再歸徑山。上堂，有「重理舊詞連韻唱」之語。孝宗皇帝在普安潛藩，七月二日，遣內都監黃彥節命師就山中舉揚般若。說偈云：「大根大器大力量，荷擔大事不尋常。一毛頭上通消息，遍界明明不覆藏。」獻上，上嘉歎之。是年，重建庫院、行堂、西寮、倉院等處。作《寂室光禪師語錄．序》，作維摩示疾、九祖伏馱尊者、達磨面壁、二祖立雪、言法華畫像讚，示徐敦立提刑法語，答丞相湯公進之、舍人張公安國問道書。五月，弔無垢居士於海昌，作文以祭之。六月，持缽霅川，作端獅子讚，示給事劉公行簡入道頌、莫閏甫法語，題曹叔寶忘知軒，作道場辯禪師、護國遠禪師真讚，以頌代書寄張欽夫定叟學士。冬，行化雲間，作船子和尚讚，內翰莫公儔請為眾普說于普照寺。作三一堂銘，跋呂居仁送范司理序。薛令人請題嗣法需長老真，故有「常憶首山好言語，新婦騎驢阿家牽」之句。示崑山張知縣法語，程詠之運使以無垢居士與三川道人論「不愁念起，惟怕覺遲」頌，請師書其後。無垢頌曰：「念是賊子，覺是賊魁，搥殺賊魁，賊子何歸？堂堂大路，惟吾獨之，越南燕北，遼東隴西，撒手便到，何慮何疑？神劍在山，鍔冷光寒，魈夔魍魎，莫之敢干，此名真覺，秦時𨍏轢。」師說偈曰：「說覺說念，翻背作面，無念無覺，何處摸索？起是誰起？覺是誰覺？豁開戶牖，大虛寥廓。撒手前行不顧人，秦時𨍏轢何時作？」跋喻彌陀行實記，示內都知李公伯和、妙圜道人善寶、成季恭機宜法語。三十年庚辰

> 師は七十一歳であられた。正月、太湖に舟を浮かべられた。徐誠に示された頌に曰く、「紹興己卯の正月の旦、我、鉢を持して太湖に入る。徐誠、権に婆施羅を摂し、我に此の三昧を敷演するを助く。」長老の元弗は師を迎えて翠峰に帰り、衆の為に説法された。雪竇明覚禅師の真賛を作られた。二月、福州西禅の命を辞された。三月、朝廷に退くことを求められ、ようやく表を進めると、すぐに江を渡って四明に行かれた。臨安府尹の張侍郎偁は書を師に送り、そのあらましに曰く、「ひそかに聞く、衣を払い禅席を去り、再び挽くも還ること莫しと。翩然たる清風、すでに高駕に趣く。これ固より寵利勢力をもってして迎え屈することはあたわざるも、なんぞ思わざる、聖天子は公の名徳の盛んなるを以て、名山をして重からしめ、佛法を以て行闕を護らしめんことを।幸い小駐し、以て上の意に副えよ。偁、職は守に在り、上朝命に依る。謹んで衙校の陳愈洊を差し、區區の萬冀を布く。深く察し、張京兆をして異日、白蓮社中の人たらしめんこと、これより始まらんことを請う。」師はすなわち書を答えられた。四月、再び径山に帰られた。上堂して、「重ねて舊詞を理めて連韻に唱う」の語があった。孝宗皇帝、普安潛藩に在しまし、七月二日、內都監の黃彥節を遣わし、師に命じて山中で般若を挙揚せしめられた。偈を説いて云く、「大根大器大力量、荷擔大事尋常ならず。一毛頭上に消息を通ず、遍界明々として覆藏せず。」献上すれば、上、嘉歎せられた。この年、庫院・行堂・西寮・倉院などを再建された。《寂室光禅師語録・序》を作られ、維摩示疾・九祖伏馱尊者・達磨面壁・二祖立雪・言法華の画像賛を作られ、徐敦立提刑に法語を示され、丞相の湯公進之・舍人の張公安國の問道の書に答えられた。五月、海昌にて無垢居士を弔い、文を作してこれを祭られた。六月、霅川に鉢を持し、端獅子賛を作られ、給事の劉公行簡に入道頌を示され、莫閏甫に法語を示され、曹叔寶の忘知軒に題され、道場辯禅師・護国遠禅師の真賛を作られ、頌を以て書に代えて張欽夫定叟学士に送られた。冬、雲間に行化し、船子和尚の賛を作られ、内翰の莫公儔は請うて衆の為に普照寺において普説せしめられた。三一堂銘を作られ、呂居仁の送范司理序に跋された。薛令人は嗣法の需長老の真を題するを請うた。故に「常に憶う首山の好言語、新婦は騾に騎り阿家引く」の句がある。崑山の張知県に法語を示され、程詠之運使は無垢居士と三川道人とが「念の起こるを愁えず、唯だ覺の遅きを怕る」と論じた頌を以て、師に請うてその後に書かしめた。無垢の頌に曰く、「念は是れ賊子、覺は是れ賊魁。賊魁を搥殺せば、賊子何に歸せん。堂々たる大路、惟だ吾のみ之に獨りす。越南燕北、遼東隴西、手を撒けば便ち到る。何を慮り何を疑わん。神劍山に在り、鍔冷たく光寒し。魈夔魍魎、敢えて之を干さず。此れ名づけて真覺とす、秦時𨍏轢。」師偈を説いて曰く、「覺を説き念を説くは、背を翻して面と作す。念無く覺無ければ、何れの處にか摸索せん。起つは誰の起つ所、覺るは誰の覺る所。戶牖を豁開すれば、大虛は寥廓たり。手を撒き前行して人を顧みず、秦時𨍏轢は何れの時にか作さん。」喻彌陀行實記に跋され、內都知の李公伯和・妙圜道人善寶・成季恭機宜に法語を示された。三十年庚辰

師七十二歲。三月，丞相湯公請說法于靈芝寺，以偈送師。育王開田次，韻曰：「毛錐子上通消息，大勝新開百丈田，居士不離香積界，老僧贏得日高眠。」孝宗皇帝居建邸，內都監黃彥節侍次，誦於妙喜處所授祖師偈：「心隨萬境轉，轉處實能幽。隨流認得性，無喜亦無憂。」上聞之，理與神遇，欣愜盈懷，委內都監訪師，請陞堂，遂說偈以獻曰：「豁開頂門眼，照徹大千界。既作法中王，於法得自在。」上甚嘉納焉，尋復請為眾說法，親書「妙喜菴」三字及製真讚，題曰「文囿讚真呈妙喜」。師演成四偈，其引曰：「宗杲伏承文囿至人頒示妙讚，大哉言乎，而思惟所不能及也。宗杲雖不敏，演成四章，謹繕寫上呈，伏乞一目而擲之。」偈見前錄。示顯德居士御帶、黃公仲威入道頌，云：「空卻十方三世，去卻千非一是。目前烜赫光明，日用隨緣遊戲。」題知省張公宗元隨分樓、董公德之假山，跋王日休《龍舒淨土文》，汪養源運使請作維摩居士讚，作孫長文畫像讚、道端禪客端硯銘，示法音首座豎剎竿法語，以頌送鄧子立直殿還都下、明長老歸長蘆，作祭超然居士趙表之文。冬，行化宛陵次，當途抵建鄴，留守尚書韓公仲通，率僚屬請說法于保寧寺，長老曇華請為眾普說於鍾山，嗣法了明迎之葦江，少休僕役。題呂文靖公影堂遺事次，程子山侍講韻。示可昇禪人，示留守韓公法語，作達磨渡蘆讚。三十一年辛巳

> 師は七十二歳になられた。三月、丞相の湯公が霊芝寺での説法を請い、偈を師に贈った。育王で田を開いた時の韻に和して、次のように詠んだ。「毛錐の子上に消息を通ず、大いに勝る新しく開く百丈の田に、居士は香積の界を離れず、老僧は得たり日高く眠ることを。」孝宗皇帝が建邸にいらした時、内都監の黄彦節がおそばに侍していた際、妙喜のところで授かった祖師の偈を誦した。「心は万境に随って転ず、転ずる処実に能く幽なり。流れに随って性を認め得れば、喜びもなく憂いもなし。」上（天子）はこれを聞かれ、理と神が遇う思いで、欣び満ち足りることが胸に満ちた。内都監に命じて師を訪ねさせ、升堂を請われた。そこで師は偈を説いて献上した。「頂門の眼を豁開し、大千の界を照らし徹す。既に法中に王と作り、法に於いて自在を得たり。」上は大いに嘉納され、ほどなくまた衆のために説法を請われ、みずから「妙喜庵」の三字を書し、および真賛を製して、題して「文囿賛真を妙喜に呈す」とした。師はこれを四偈に演じ、その引に曰く、「宗杲は伏して文囿の至人が妙賛を頒示されたことを承る。大いなるかな言や。而して思惟の及ぶところにあらざるなり。宗杲は不敏ながら、四章に演じて、謹んで書き写して上呈す。伏して一目を乞うて之を擲てばと。」偈は前録に見ゆ。 顕徳居士の御帯である黄公仲威に入道頌を示して云く、「空却せよ十方三世、去却せよ千の非・一の是。目前に烜赫として光明あり、日用隨縁にして遊戲す。」 知省の張公宗元の随分楼、董公徳之の仮山に題す。王日休の『龍舒浄土文』に跋す。汪養源運使が維摩居士の讃を作ることを請う。孫長文の画像讃を作る。道端禅客の端硯銘。法音首座に剣竿を豎つる法語を示す。偈を以て鄧子立の直殿に還都を送り、明長老を長蘆に帰らせることを送る。超然居士の趙表之を祭る文を作る。 冬、宛陵に遊化した後、当塗を経て建鄴に至る。留守尚書の韓公仲通が僚属を率いて保寧寺での説法を請う。長老の曇華が鍾山での衆普説を請う。法を嗣ぐ了明が葦江に迎え、僕役を少し休ませた。呂文靖公の影堂の遺事に題す。程子山侍講の韻に次す。可昇禅人に示す。留守の韓公に法語を示す。達磨の渡蘆讃を作る。 三十一年辛巳。

師七十三歲。正月舟次，儀真太守徐公敦立請說法于天寧寺，適州學文宣王殿建造未圓，學徒告師，有以成就，師以說法施利二十萬而助之。次日，復攜軸求書法語以為引導，故有「葫蘆必竟遭藤纏」之句。至京口，謁劉公信叔太尉，訪吳傅朋郎中，請書「法寶輪藏」四字。遊浮玉次，海門作夢菴信禪師真讚，金壇謁參政湯公致遠，溧陽訪方外道友劉季高侍郎，取道荊谿而歸。跋顧凱之所畫維摩像。四月，謝事徑山，五月初一，遂所請。知省李公伯和施錢重建明月堂，為師佚老之居，秋往受業慶懺輪藏。按行記：「妙喜老師辛巳夏謝事徑山，得請于朝，九月之山東歷陽，張孝祥自宣城來致敬請法要，而別施衣盂，重建選佛堂。」作錢處和侍郎讚。三十二年壬午

> 師は七十三歳であった。正月、舟で旅の途中、儀真に至った。太守の徐公敦立が天寧寺で説法を請うた。折しも州学の文宣王殿の建造が未完成であり、学徒たちが師に告げて完成を願った。師は説法の布施として二十万の金を施し、これを助けた。翌日、また軸を携えて法語を求めて導きとされたので、「葫蘆必竟遭藤纏」という句がある。京口に至り、劉公信叔太尉を訪ね、呉傅朋郎中に会い、「法宝輪蔵」の四字を書くよう請われた。浮玉に遊び、海門で夢菴信禅師の真讚を作った。金壇で参政治安公湯致遠を訪ね、溧陽で方外の道友である劉季高侍郎を訪ね、荊谿の道を経て帰った。顧凱之の描いた維摩像に跋を書いた。四月、径山の職を辞し、五月初一に、その請いが許された。知省の李公伯和が錢を施して明月堂を再建し、師が老後を過ごす住まいとした。秋になり、受業の寺に赴いて慶懺の輪蔵を納めた。按ずるに行記に曰く、「妙喜老師は辛巳の夏に径山を辞し、朝廷に請われて、九月に山東の歴陽に至った。張孝祥が宣城から来て敬意を表し法要を請い、別に衣盂を施し、選仏堂を再建した。」という。銭處和侍郎の讚を作った。三十二年壬午のことである。

師七十四歲。居明月堂，雖老而益健，以法求人接物為己任，學徒益親，賢搢紳為道而至者無虛日。二月，之金陵謁丞相都督張公德遠。按塔銘曰：「師雖方外士，義篤君親，每及時事，愛君憂時，見之詞氣。晚自徑山來秣陵，見某言：『先人不幸無後，某之責，願乞一給使，名藉公重，庶有肯就者。』某為惻然興歎，遂奏其族弟道源奉師親後。」孝宗皇帝即位之九月，　詔師問佛法大意。適師臥疾，　特賜大慧禪師號以為褒寵。二十八日，受命以頌謝招討李公顯忠。施觀音像，作祭榮侍郎文。

> 師は七十四歳で、明月堂に住まった。老いてはいたが、ますます健やかで、法をもって人を求め、物に接することを自らの務めとしていた。学徒たちはますます親しみ、賢い官僚や紳士たちも道を求めて訪れる者が絶えることはなかった。二月、金陵に赴き、丞相・都督の張公徳遠に謁見した。塔銘にはこうある。「師は世外の身ではあったが、義は君主と親に対して厚く、時の政事に触れるたび、君主を愛し時を憂える思いが言葉や気概に表れていた。晩年、徑山から秣陵に来て、私に言った。『先人は不幸にも後継がなく、それが私の責めである。どうか一人の召使いをいただきたい。あなたの重い名前を借りれば、承諾してくれる者もあるだろう。』私は心を痛めて嘆き、その族弟の道源を推薦して師の親の後継ぎとさせた。」孝宗皇帝が即位された九月、詔して師に仏法の大意を問われた。ちょうど師が病に臥せっていたため、特に大慧禅師の号を賜って褒め称えられた。二十八日、命を受け、偈をもって招討の李公顕忠に謝した。観音像を施し、栄侍郎を祭る文を作った。