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title: "大慧普覺禪師年譜 · 孝宗"
description: "大慧普觉禅师年谱由宋代僧人祖咏编撰，张抡作序，宗演作跋。该书详细记载了南宋临济宗高僧大慧宗杲禅师的生平事迹、求法历程、弘法活动及其与士大夫的交流。作为一部重要的佛教传记文献，它不仅是研究大慧宗杲思想、宋代禅宗发展及儒释交融历史的第一手资料，更因其记录了大量禅门机锋与修行要旨，对后世禅学影响深远，在佛教史籍中占有重要地位。"
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師七十五歲。正旦作鄭禹功雙槐堂記，三月，聞王師凱旋，作偈曰：「氛埃一掃蕩然空，百二山河在掌中。世出世間俱了了，當陽不昧主人公。」出衣盂，命闔山清眾閱《華嚴經》七百餘部，用祝兩宮聖壽，保國康民。六月，之寧國上冢葺治，七月初一日還山。　上復取向所賜　宸翰，以　御寶識之曰：「賜大慧。」十二日，師已示微恙，大眾力請說法於千僧閣，以為末後垂訓。師委曲付囑：「老僧來日無多，汝等侍吾之久，宜各隨所緣，以佛法為念，莫負初志，實吾所願。」其語懇勵至切，于時眾皆悲感。十四日，夜有大星隕于寢室之後，流光有聲，師聞，微笑曰：「吾將行矣。」八月初二日凌晨，法鼓震裂，初九日薄暮，學徒識師無意於世，環擁寢室，師以手搖曳曰：「吾翌日始行矣。」至五鼓，親書遺奏曰：「臣宗杲深荷　聖恩，臣今年已衰，遂辭　聖世。伏願陛下為天下生靈保衛　聖躬，力致太平，永光佛法。臣宗杲上奏。」及作丞相張公德遠書，以端石硯寄別丞相湯公進之，以外護吾宗為囑。仍書委曲以示參徒曰：「吾歿之後，叢林自有常典，切不可過儀，小師不得披麻戴孝，慟哭過情，恐混世俗。所蓄書畫，老僧平日至愛，道友彥光各送一本，庶以表意。」口授委曲，付諸嗣法云：「吾自夏及秋，不美飲食，雖無甚疾苦，而幻體日見羸劣，蓋世緣止於此也。汝既應緣一方，宜更堅持願力，以報佛祖深恩，是吾之望。臨行以數語為別，各宜悉及。」了賢等請偈，師厲聲曰：「無偈便死不得也！」眾告既切，不得已而書付了賢，呈大眾云：「生也只恁麼，死也只恁麼，有偈與無偈，是甚麼熱大！」投筆就寢，吉祥而逝。

> 老師が七十五歳になられた年。正月元旦には鄭禹功の「雙槐堂記」を揮毫された。三月、朝廷の軍が勝利したという知らせを聞き、偈を詠まれた。「塵芥の如き煩わしきものは一掃されて見事に晴れ渡り、山河は掌中に収まる。迷いの世界も悟りの世界もすべて悟り尽くし、目の前の今この瞬間に、真の主人公を曇りなく見極めている。」そして、衣や鉢などの所持品を差し出し、山中の全ての僧侶に命じて『華厳経』を七百余部読誦させ、皇室の御息災と国家安泰・民衆の幸福を祈願された。 六月には寧国へ赴き、祖先の墓参りと修繕を行い、七月一日に山へ戻られた。天皇は再び、かつてお与えになった直筆の書を取り寄せられ、御璽を押して「大慧に与う」と記された。 十二日、老師はすでに軽いご不調を示された。大衆は強く請うて、千僧閣での説法を願い、これを最後の教えとしていただいた。老師は心を込めて弟子たちに遺言された。「老僧は余命いくばくもない。お前たちは長く私に仕えてくれた。それぞれの縁に従い、仏法を心に刻み、初めの志を忘れることのないように。それが私の願いである。」その言葉は誠に切実で、皆、悲しみに包まれた。 十四日の夜、大きな星が寝室の裏手に落下し、光を放ち音を立てた。老師はこれを聞いて微笑み、「私はまもなく行く時が来たようだ」と言われた。 八月二日の明け方には、法鼓が震え割れた。九日の夕方、弟子たちは老師がこの世への執着がないことを悟り、寝室を取り囲んだ。老師は手を振りながら「私は明日になってから行くことにしよう」と言われた。 五更（明け方）になり、老師は自ら遺奏を書き記された。「臣・宗杲は深く聖恩を蒙りました。臣は今年すでに老いましたので、ここに聖世に別れを告げます。どうか陛下におかれましては、天下の蒼生のため、御身をお守りください。力を尽くして太平を実現され、仏法を末永く輝かせていただきますよう。臣・宗杲、謹んで奏上いたします。」そして、丞相の張徳遠氏に手紙を書き、端渓の硯を添えて丞相の湯進之氏に送り、仏法を守り続けることを託された。 また、修行者たちへの心遣いを書き残された。「私が亡くなった後は、僧団の規則に従いなさい。決して過剰な儀式を行ってはならない。弟子たちは喪服を着たり、過度に嘆き悲しんだりしてはならない。世俗の風習に紛れてしまうからである。私が所持していた書画は、老僧が日頃から愛したものである。道友の彦光にそれぞれ一冊ずつ贈り、私の気持ちを伝えてほしい。」 そして、言葉を口述され、後継者たちに伝えられた。「私は夏から秋にかけて、食べ物が進まず、特に重い病ではないものの、この幻の様な身体は日ごとに衰えている。これもこの世との縁が尽きたためであろう。お前たちはそれぞれの地で教化に努めているのだから、どうか一層、願いの力を固く持ち、仏や祖師の深い恩に報いてほしい。それが私の願いである。臨終にあたり、ひと言ふた言の言葉を残して別れとしよう。皆、しっかりと胸に刻みなさい。」 了賢らが偈を請うと、老師は厳しい声で「偈がなくては死ねないということはない！」と言われたが、皆の懇願が切実なので、やむを得ず書いて了賢に渡し、大衆に示された。「生きるもただこのように、死ぬもただこのように。偈があろうと無かろうと、それが何だというのだ、この熱苦しさよ！」筆を投げ出して床に就き、安らかなご最期を遂げられた。

按主喪事臨安府察判羅公公旦祭文曰：「法鼓晨裂，流星夜墜，剡尺紙以上奏，即吉祥而飆逝。度門弟子淨初等八十四人，嗣法自教忠彌光、西禪鼎需、東禪思岳、薦福悟本、能仁祖元、東林道顏、西禪守淨、育王遵璞、開善道謙、伊山沖密、溈山法寶、雪峰慧日禪師，蘊聞、淨居妙道、資壽妙總、明因慧照，而次數過百十，星分棋布，列剎相望，皆其的子親孫。潛通密證，匿耀韜光，唯恐有聞於世者，殆不可勝數。士大夫恪誠扣道，親有契證，如參政李公邴、侍郎曾公開、侍郎張公九成，吏部郎中蔡公樞、給事中江公安常、提刑吳公偉明、給事中馮公楫、中書舍人呂公本中、參政劉公大中、直寶文閣劉公子羽、中書舍人唐公文若、御帶黃公彥節、兵部郎中孫公大雅、編修黃公文昌、楞伽居士鄭昂、秦國夫人計氏法真、幻住道人智常、超宗道人普覺。摳衣與列，佩服法言，如內翰汪公藻、參政李公光、樞密富公直柔、侍郎劉公岑、侍郎曾公幾、侍郎徐公林、樞密樓公炤、尚書汪公應辰、左丞相湯公思退、侍郎方公滋、提舉李公琛、侍郎榮公薿、尚書韓公仲通、內都知昭慶軍承宣使董公仲永、成州團練使李公存約、安慶軍承宣使張公去為、開府保信軍節度使曹公勛、中書舍人張公孝祥、御帶寧遠軍節度使黃公仲威、直殿鄧公靖、無住居士袁祖巖，其餘空而往、實而歸者眾矣。是月二十日，眾以全身葬于明月堂之後，申明於朝，以所居為菴，仍建層閣奉安宸翰。」按丞相湯公書云：「禪師道德，聖上所慕，易菴建閣，計皆得可，塔名師號，當為奏知。」按塔銘曰：「隆興元年八月十日，大慧禪師示寂于徑山明月堂。」皇帝聞之嗟惜，詔以明月堂為妙喜菴，賜諡普覺，塔名寶光。其徒以全身葬于菴之後，卒被光寵，表之無窮，誠有以自致也。所賜　御書，建閣藏於菴，與茲山不磨矣。其八處九會、陞堂語要、普說小參、讚偈機緣、長牋法語，無慮數十萬言，參徒道印編為六十卷，奉置于菴；宗璉、曇密、惟禋、宗演、淨智居士黃文昌，裒其綱要，離為五冊，刊行于世。蒙　詔賜入大藏，同聖教以永其傳。師之愛人及物，等之以慈；怒罵嬉笑，得之天真；機辯迅雷霆，語言燦星斗；具大眼目，擒縱自如。破諸方之異解，死學者之偷心，必令實證實悟，得大自在而後已。所以始從分圜悟半座，至於數領菴園，一住鄮峰，兩坐雙徑，奔走天下，奇衲悅服名公巨儒，如優曇花一現於世，以至上達　天聽、感動宸衷，特垂衷語之褒旌，以徽名之寵，奎章寶墨，雲漢昭回，佛日重光，真風普被。其所攝化，傾倉倒廩，唾玉揮金，誠心樂施，唯恐其後。而師喜濟惠，隨得隨與，況於細行，毫髮無虧。雖遷遐裔，龍象擁隨，忍死不棄。及其示寂，如失恃怙，龍神為之戴白龍王聖屬出現綵亭之上，舉眾見其冠白，鳥獸為之哀號，賢士大夫寫詞致哀，動逾百數。此皆法雨之所潤，恩人利物之大凡也。若其荷佛祖重任，恢臨濟正宗，號令人天，指呼凡聖，殆非筆舌所能紀。今以平生出處大略，列歲月而編次，及前後之所聞見，敬錄其實，以為萬世標準云。

> 主丧事に際し、臨安府察判羅公公旦の祭文に曰く、「法鼓は暁に裂け、流星は夜に墜つ。尺紙を割いて上奏し、即ち吉祥にして風の如く逝く。度門の弟子浄初ら八十四人、法を嗣ぐ者は自教忠彌光、西禪鼎需、東禪思岳、薦福悟本、能仁祖元、東林道顏、西禪守淨、育王遵璞、開善道謙、伊山沖密、溈山法寶、雪峰慧日禪師に及び、蘊聞、淨居妙道、資壽妙總、明因慧照、その数は百十を超え、星の如く分かれ棋の如く布き、諸刹に相望み、皆その嫡子親孫なり。密かに通じ証し、耀きを匿し光を韜め、ただ世に聞こえんことを恐るる者は、殆ど数え尽くす能わず。士大夫は誠を恪み道を扣き、親しく契証を得ること、參政李公邴、侍郎曾公開、侍郎張公九成、吏部郎中蔡公樞、給事中江公安常、提刑吳公偉明、給事中馮公楫、中書舍人呂公本中、參政劉公大中、直寶文閣劉公子羽、中書舍人唐公文若、御帶黃公彦節、兵部郎中孫公大雅、編修黃公文昌、楞伽居士鄭昂、秦國夫人計氏法真、幻住道人智常、超宗道人普覺の如し。衣を摳り列に与り、法言を佩服すること、內翰汪公藻、參政李公光、樞密富公直柔、侍郎劉公岑、侍郎曾公幾、侍郎徐公林、樞密樓公炤、尚書汪公應辰、左丞相湯公思退、侍郎方公滋、提舉李公琛、侍郎榮公薿、尚書韓公仲通、內都知昭慶軍承宣使董公仲永、成州團練使李公存約、安慶軍承宣使張公去爲、開府保信軍節度使曹公勛、中書舍人張公孝祥、御帶寧遠軍節度使黃公仲威、直殿鄧公靖、無住居士袁祖巖の如し。その他、空しく往き実りて帰る者、衆し。この月二十日、衆は全身を以て明月堂の後に葬る。朝に申明し、所居を以て庵となし、仍お層閣を建て宸翰を奉安す。」按ずるに、丞相湯公の書に云く、「禪師の道德は、聖上のも慕うところ、庵を易え閣を建つるも、計りて皆その可きを得ん。塔名師號は、當に奏知すべし。」按ずるに、塔銘に曰く、「隆興元年八月十日、大慧禪師、徑山明月堂にて示寂す。」皇帝聞きて之を嗟惜し、詔して明月堂を以て妙喜庵となし、諡して普覚と賜い、塔を寶光と名づく。その徒、全身を以て庵の後に葬り、卒に光寵を被り、之を表して窮まりなし。誠に以て自ら致すあり。賜う所の御書は、閣を建てて庵に蔵し、この山と共に磨滅せず。その八處九會、陞堂語要、普説小參、讚偈機緣、長牋法語、慮うに數十萬言を過ぎず。參徒道印、編して六十巻となし、庵に奉置す。宗璉、曇密、惟禋、宗演、淨智居士黃文昌、その綱要を裒め、離して五冊となし、刊行して世に行う。詔を蒙りて大藏に入れ、聖教と同に以てその傳えを永くす。師の愛人は物に及び、等しく之を慈しむ。怒罵嬉笑、天真を得たり。機辯は雷霆よりも迅く、語言は星斗よりも燦めく。大眼目を具し、擒縱自らに任す。諸方の異解を破し、學者の偷心を死なし、必ず實證實悟を得て、大自在を得て後已まんとす。所以に始めは圜悟の半座を分かち、數度庵園を領し、一たび鄮峰に住し、兩たび雙徑に坐す。天下を奔走し、奇衲をして悅服せしめ、名公巨儒、優曇華の一たび世に現ずるが如し。以て上は天聽に達し、宸衷を感動し、特に衷語の褒旌を垂れ、徽名の寵を以てし、奎章寶墨、雲漢昭回し、佛日重ねて光り、真風普く被る。その攝化する所、倉を傾け廩を倒し、玉を唾き金を揮い、誠心樂施、唯その後なるを恐る。而して師は濟惠を喜び、得るに隨いて與う。況や細行に於いて、毫髮虧くる無し。遐裔に遷ると雖も、龍象擁隨し、死不を忍び棄つ。その示寂に及び、恃怙を失うが如く、龍神之が爲に頭を白くし<note place="inline">龍王聖屬、綵亭の上に出現し、衆を挙げて其の冠の白きを見る</note>、鳥獸之が爲に哀號す。賢士大夫、詞を寫して哀を致すこと、動もすれば百數を踰ゆ。これ皆法雨の潤す所、恩人利物の大凡なり。若しその佛祖の重任を荷い、臨濟正宗を恢弘し、人天に號令し、凡聖を指呼するは、殆ど筆舌の紀す能わざる所なり。今、平生出處の大略を以て、歳月を列ねて編次し、及び前後の聞見する所を以て、敬して其の實を録し、萬世の標準と為さんとす。

## 大慧普覺禪師年譜終

> 大慧普覚禅師年譜 終わり