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title: "彌蘭王問經 · 第一　名之問"
description: "彌蘭王問經是巴利三藏外的重要佛教典籍，作者為那先比丘，歷史背景設定在公元前2世紀，由印度希臘裔國王彌蘭與比丘那先進行佛法問答。主要內容以對話形式深入探討佛教核心教義，如無我、業報、涅槃等，以智慧辯證化解國王疑惑。此經在南傳佛教地位崇高，被譽為東方的蘇格拉底對話錄，不僅具哲學深度，更以生動比喻闡釋深奧佛法，是研究佛教與希臘文化交流的關鍵文獻，對理解早期佛教傳播有重要價值。"
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### 第一　名之問

> 第一章　名前の問い

時，彌蘭王到尊者那先之處。至已，與尊者那先問候，交談親愛慇懃之語後，坐於一方。尊者亦答禮，令彌蘭王滿足。時，彌蘭王對尊者那先問最初之問。言：「尊者！予欲對論。」

> そのとき、ミリンダ王は尊者在ナセーナのもとを訪れた。到着すると、尊者ナセーナと挨拶を交わし、親しみ深く丁重な言葉をかわした後、一方に座った。尊者もまた応答の礼をとり、ミリンダ王を満足させた。そこでミリンダ王は、尊者ナセーナに最初の問いを発した。言うには、「尊者よ、私はあなたと議論したいと思います。」

「大王！卿論，我欲聽。」

> 大王よ、あなたのお考えをお聞かせください。

「尊者！予論，卿聽。」

> 「尊者よ。これより私が述べますので、お聞きください。」

「大王！我聽，卿論。」

> 「大王よ、あなたのおっしゃることを伺いましょう。」

「尊者！何者依卿而聽耶？」

> 「尊者よ、あなたは何に依って聞いているのですか？」

「大王！何者依卿而論耶？」

> 大王よ、あなたは何に依ってそのように語られるのですか？

「尊者！所問之事。」

> 「尊者、お尋ねの件についてお答えいたします。」

「大王！所答之事。」

> 「大王よ、お答えいたしましょう。」

「尊者！何者依卿而答耶？」

> 「尊者よ、何に依ってあなたはそのように答えるのですか？」

「大王！何者依卿而問耶？」

> 「大王よ、何によってあなたは問われたのですか？」

如是談話之時，五百之臾那人對尊者那先言：「善哉。」而對彌蘭王如是言：「大王！卿今欲談何事。」

> このような話の折、五百人のユダヤ人が尊者ナーガセーナに「善きかな」と言った。そして、ミリンダ王に向かってこう言った。「大王よ、あなたは今、何についてお話しになりたいのですか。」

時，彌蘭王對尊者那先進問：「尊者！予對論而不知〔卿之〕名與姓，故不起談話，不發言語。尊者！卿為如何之名耶？」

> 弥蘭王が尊者ナーガセーナに問いかけました。「尊者よ、私は議論しているあなたのお名前やお家柄を知りませんので、言葉を交わしたり質問をしたりすることができませんでした。尊者よ、あなたのお名前は何とおっしゃるのですか？」

「大王！同梵行者稱〔我〕為那先，又父母或名那先（龍軍）、或名義羅勢那（雄軍）、或名須羅勢那（勇軍）、或名西哈勢那（獅子軍）。然而，大王！所謂那先者是唯名稱、稱呼、假名、通稱而已。於其處不得人我。」

> 王様、「同じ修行を共にする仲間たちは私のことをナーセーナと呼びます。また、両親は私をナーセーナ（竜軍）と呼んだり、イーラセーナ（雄軍）と呼んだり、スーラセーナ（勇軍）と呼んだり、シーハセーナ（獅子軍）と呼んだりします。しかし、王様、ナーセーナというのは単なる呼び名、呼称、仮の名、通称にすぎません。その中に、実体としての「私」というものは見いだせないのです。」

時，彌蘭王如是言：「諸賢！五百之臾那人與八萬之比丘聽我言，此那先如是言：『大王！同梵行者稱〔我〕為那先，然而其處不得人我。』其得信受耶？」

> その時、ミリンダ王はこう言いました。「諸賢よ！五百人のユガナ（読者・民衆）と八万の比丘たちよ、私の言葉を聞いてください。このナーガセーナはこう言っています。『大王よ。共に梵行を実践する者たちは、（私を）ナーガセーナと呼びます。しかし、その（呼ばれる対象の）中には、「人」としての永遠の実体（我）は見いだせないのです。』はたして、その言葉は信じ受け入れることができるのでしょうか？」

時，彌蘭王如是言尊者那先：「尊者那先！若不得人我，其時，與卿之衣服、飲食、牀座、醫藥資具者誰耶？享之者誰耶？護戒者是誰？努力於修習者誰耶？作證〔四〕向〔四〕果、涅槃者誰耶？作不與取者誰耶？行於愛欲之邪行者誰耶？作妄語者誰耶？作飲酒者誰耶？作五無間業者誰耶？如是，無善，無不善，無作善不善業者，無令作者，無善惡業之異熟果。尊者那先！殺卿，對彼亦無殺生。尊者那先！卿，無阿闍梨、無和尚、無具足戒。『同梵行者稱我為那先』，卿言其『那先』者為何耶？尊者！卿於予問之時，尊者！聞其聲耶？」

> そこで、ミリンダ王は、尊者ナガセーナにこう語りかけた。「尊者ナガセーナよ、もし『人』や『我』というものが存在しないのであれば、あなたに衣服や飲食、寝床、薬などの必需品を布施しているのは誰なのか？ それを享受しているのは誰か？ 戒律を守っているのは誰か？ 修行に励んでいるのは誰か？ 四向四果や涅槃を証悟しているのは誰か？ 盗みを働いているのは誰か？ 愛欲に関する邪淫を行っているのは誰か？ 嘘をついているのは誰か？ 酒を飲んでいるのは誰か？ 五逆罪を犯しているのは誰か？ このように、善もなく、不善もなく、善業や不善業を行う者もなく、それらをさせる者もなく、善悪の業の異熟の果報も存在しないことになる。尊者ナガセーナよ、もしあなたを殺しても、その者には殺生の罪はない。尊者ナガセーナよ、あなたには阿闍梨もなく、和尚もなく、具足戒もないことになる。『同じ梵行を修める者たちが、私をナガセーナと呼ぶ』とあなたは言うが、その『ナガセーナ』とは一体何なのか？ 尊者よ、私があなたに問いかけているこの時、尊者よ、あなたはその声を聞いているのか？」

「大王！然，我聞聲。」

> 「大王様、それでは私がお話を伺います。」

「尊者！若卿能聞聲，則於此那先存在。」

> 「尊者よ、もしあなたが音を聞くことができるならば、その時、あなたは確かにここに存在していると言えるでしょう。」

「大王！不然。」

> 「大王、そうではありません。」

「尊者那先！髮為那先耶？」「大王！不然。」

> 「那先尊者よ、髪の毛は那先そのものですか？」 「大王、そうではありません。」

「身毛為那先耶？」「大王！不然。」

> 「身体の毛がナーガセーナそのものなのですか？」「大王、そうではありません。」

「爪為那先耶？」「大王！不然。」

> 「爪は那先ですか？」 「大王、そうではありません。」

「齒為那先耶？」「大王！不然。」

> 「歯は那先（ナーガセーナ）なのですか？」 「大王、そうではありません。」

「皮膚為那先耶？」「大王！不然。」

> 「皮膚は那先ですか？」 「大王、そうではありません。」

「肉為那先耶？」「大王！不然。」

> 「肉というものは那先なのですか？」 「大王、そうではありません。」

「筋為那先耶？骨為那先耶？骨髓為那先耶？腎臟為那先耶？心臟為那先耶？肝臟為那先耶？肋膜為那先耶？脾臟為那先耶？肺臟為那先耶？腸間膜為那先耶？胃為那先耶？糞為那先耶？膽汁為那先耶？痰為那先耶？膿為那先耶？血為那先耶？汗為那先耶？脂肪為那先耶？淚為那先耶？膏為那先耶？唾為那先耶？洟為那先耶？關節滑液為那先耶？尿為那先耶？腦為那先耶？」「大王！不然。」

> 「では、筋が自我でしょうか？ 骨が自我でしょうか？ 骨髄は？ 腎臓は？ 心臓は？ 肝臓は？ 肋膜は？ 脾臓は？ 肺臓は？ 腸間膜は？ 胃は？ 大便は？ 胆汁は？ 痰は？ 膿は？ 血は？ 汗は？ 脂肪は？ 涙は？ 皮脂は？ 唾は？ 鼻水は？ 関節の滑液は？ 尿は？ 脳は？」 「大王、そうではありません。」

「色為那先耶？受為那先耶？想為那先耶？行為那先耶？識為那先耶？」「大王！不然。」

> 「では、色（物質的なもの）が那先なのですか。感覚が那先なのですか。知覚が那先なのですか。心の働きが那先なのですか。認識が那先なのですか。」 「大王、そうではありません。」

「然者，尊者！色受想行識為那先耶？」「大王！不然。」

> 「それでは、尊者よ。色・受・想・行・識がナーガセーナそのものなのですか？」 「大王、そうではありません。」

「然者，尊者！於色受想行識之外，有那先耶？」「大王！不然。」

> 「それでは、尊師よ。色・受・想・行・識のほかに、那先というものがあるのですか？」「大王、そうではありません。」

「尊者！予幾度問卿亦不見那先。尊者！那先不過是音聲耶？然者，存於其處之那先為誰耶？尊者！卿言虛妄，為妄語。那先者必無。」

> 「尊者よ、私は何度もあなたに問うたが、那先にはお会いできませんでした。尊者よ、那先とは単なる音声にすぎないのですか？ もしそうなら、そこに存在する那先とはいったい誰なのでしょう？ 尊者よ、あなたの言葉は虚偽であり、嘘です。那先など、いるはずがありません。」

如是言時，時阿羅漢，達於無礙解之尊者那先以心知彌蘭王心之所思念，一瞬沈默。瞬沈默之後，對彌蘭王如是言：「大王！卿甚為華奢，〔生〕為剎帝利之華奢。〔然而〕正午，太陽炎熱之中自都城而出，徒步來我處，砂礫刺痛脚尖，足傷，身疲，心為惱害，卿伴苦之身識生。蓋卿依此而生強烈之激語。大王！卿經驗痛苦之極。卿徒步而來耶？或乘車而來耶？」

> そのように言われた時、無礙解（むげげ）を成就した阿羅漢である尊者那先（なせん）は、心をもってミリンダ王の心の思いを察し、ひととき沈黙した。その沈黙の後、ミリンダ王にこう言った。「大王よ、あなたは非常に贅沢で、クシャトリヤの出身として華やかにお育ちです。しかし、真昼の太陽が照りつける中、都を出て、私のところへ歩いて来られました。砂利が足の先を刺し、足に傷を負い、身体は疲れ、心は悩まされ、あなたは苦しみを伴う身体の感覚を経験されました。それによって、あなたは激しい言葉を発したのです。大王よ、あなたは苦痛の極みを経験されました。歩いて来られたのですか、それとも車に乗って来られたのですか？」

時，彌蘭王如是言尊者那先：「尊者那先！予非以徒步來卿之處。尊者那先！予以車來卿之處。」

> その時、ミリンダ王は尊師ナーガセーナにこう言いました。「尊師ナーガセーナよ、私は歩いてあなたのもとに来たのではありません。尊師ナーガセーナよ、私は車に乗ってあなたのもとに来たのです。」

「諸賢！五百之臾那人與八萬之比丘聽我言！此彌蘭王如是言：『尊者！予以車來卿之處。』」

> 「皆さま、五百人のユーバラ（在俗信者）と八万人の比丘たちよ、私の言葉を聞いてください。このミリンダ王がこう申しました。『尊師よ、私は車でそちらへ参りました。』」

時，尊者那先如是言彌蘭王：「大王！卿言所謂車之語。」

> 時、尊者在那先のように言われた。ミリンダ王よ、「王よ、あなたが『車』という言葉をお使いになる。」

「尊者那先！予言。」

> 「尊き那先よ、わたくしが申し上げます。」

「大王！卿若能以車而來，告訴我〔何者〕為車耶？轅為車耶？」「尊者！不然。」

> 「大王よ。もしあなたが車をもって来たならば、私に『何が車であるか』と問いなさい。轅（ながえ）が車であるのか？」「尊者よ、そうではありません。」

「軸為車耶？」「尊者！不然。」「輪為車耶？」「尊者！不然。」

> 「それでは、車軸が車なのですか？」 「尊者、そうではありません。」 「車輪が車なのですか？」 「尊者、そうではありません。」

「車棒為車耶？」「尊者！不然。」

> 「では、車というのは、この車輪のことですか？」 「尊者よ、そうではありません。」

「車體為車耶？」「尊者！不然。」

> 「車の本体が車なのでしょうか？」 「尊者よ、そうではありません。」

「輻為車耶？」「尊者！不然。」

> 問い：「車輪は、車のことですか？」 答え：「尊者よ、そうではありません。」

「有刺針之鞭為車耶？」「尊者！不然。」

> 「とげのある鞭が車なのですか？」 「尊者、そうではありません。」

「軛為車耶？」「尊者！不然。」

> 「軛（くびき）が車なのですか？」 「尊者（そんじゃ）、そうではありません。」

「然者，大王！有轅、軸、輪、車棒、車體、輻、刺、針之鞭、軛為車耶？」「尊者！不然。」

> 「それでは、大王よ。車とは、車の轅（ながえ）、軸、輪、車棒、車体、輻（や）、刺（し）、針の鞭、軛（くびき）のことですか？」「尊者よ、そうではありません。」

「然者，大王！於轅、軸、輪、車棒、車體、輻、刺、針之鞭、軛之外有車耶？」「尊者！不然。」

> それでは、大王よ。車には、車の部品（轅や軸、輪、車棒、車体、輻、刺、針の鞭、軛）とは別に『車』があるのですか？」 「いいえ、尊者さま。ありません。」

「大王！我幾度問卿亦不見車。大王！車不過於音聲耶？然者，存於其處之車為何耶？大王！卿言虛妄，為妄語。車者必無。於此閻浮提第一之王，然而卿恐何而作妄語耶？」

> 大王よ、私は幾度も尋ねましたが、あなたは車を見せてはくれませんでした。大王よ、車とは単なる言葉に過ぎないのでしょうか？それならば、そこに存在する車とは何なのでしょう？大王よ、あなたは虚偽を述べ、偽りを語っています。車など本来存在しません。この閻浮提（人間界）において第一の王でありながら、あなたは何を恐れて偽りを語るのですか？

如是言時，五百之臾那人同意於尊者那先，如是言彌蘭王：「今，大王！請語。」

> そのように言われた時、五百人のギリシャ人が尊者ナーガセーナに同意して、こう言った。「今こそ、大王よ。お語りください。」

時，彌蘭王如是言尊者那先：「尊者那先！予不作妄語。緣轅、緣軸、緣輪、緣車棒、緣車體、緣輻、緣有刺針之鞭、緣軛而現所言之『車』。」

> その時、ミリンダ王は尊者ナガセーナにこう言った。「尊者ナガセーナよ、私は嘘をついてはいません。轅（ながえ）があり、軸（しんぎ）があり、輪があり、車棒があり、車体があり、輻（や）があり、棘のある鞭があり、軛（くびき）があることによって、私が『車』と呼んでいるものが現れるのです。」

「大王！卿正確了解。大王！與彼同，緣髮、緣身毛、緣爪、緣齒、緣皮膚、緣肉、緣筋、緣骨……乃至……緣腦而言名『那先』現。然而若依第一義而言，則人我不存。大王！波提奢羅比丘尼在世尊之前言：

> 大王よ、その通りです。大王よ、それと同じように、髪の毛、体毛、爪、歯、皮膚、肉、筋、骨……さらには脳といった要素によって、「ナーガセーナ」という名前が現れているのです。しかしながら、究極の真理（第一義）から見れば、自我（人我）は存在しません。大王よ、バディサーラ比丘尼は世尊の前でこう言いました。

『譬如支分之集合有所謂車之語言例如〔五〕蘊存在時所謂有情之稱呼』」

> 例えば、各部分が集まって初めて 「車」という言葉が生まれるように、 五蘊（ごうん）が存在するときに、 初めて「生きとし生ける者」という呼び名が生まれるのです。

「希有哉，尊者那先！未曾有哉，尊者那先！〔予之〕問為多彩之解答。若佛在者應宣善哉！善哉，尊者那先！〔予之〕問為多彩之解答。」

> 「まれなるかな、尊きナーガセーナよ。未曾有なるかな、尊きナーガセーナよ。あなたは、私の問いを見事に解き明かしてくださいました。もし仏陀が生きておられたなら、『善いかな、善いかな』とお褒めになったことでしょう。尊きナーガセーナよ、あなたは、私の問いを多彩に解き明かしてくださったのです。」