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title: "解惑篇 · 梁武帝"
description: "解惑篇由清代高僧弘赞编着，是一部重要的佛教典籍。本书基于明代株宏大师的净土思想，主要解答修行者在念佛与日常生活中遇到的种种疑惑。弘赞法师针对当时佛教界存在的模糊认识，系统阐释净土法门的要义，涵盖信愿行三资粮、念佛方法及临终关怀等内容。其论述精辟，逻辑严密，被誉为净土宗修学的实用指南。该书在清代佛教中影响深远，对净土教理的普及与实践起到重要推动作用，至今仍是修习净土法门的重要参考著作。"
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### 梁武帝

> 梁の武帝

出《南史》

天監二年癸未，侯景生，即齊東昏侯後身。是日，誌公在便殿，賜坐，忽顰蹙，引頸歎曰：「仇敵生也！」帝罔測。三年四月八日，帝捨道奉佛，親製疏文曰：「弟子蕭衍，在昔耽事老子，歷葉相承，染此邪法，今捨舊習，歸憑正覺，願使未來生世，童男出家，廣化眾生，共取成佛，寧在正法，長淪惡道，不樂依老，暫得生天，陟大乘因，永離邪見云云。」天監十八年四月八日，帝延慧約法師於等覺殿受菩薩戒，設無遮大會。帝自受戒後，過午不食，膳無鮮腴，唯豆羹糲飯而已。或遇事冗，不暇就食，日纔過中，便漱口而坐。大同元年，法師入滅，帝素服臨喪哭之，輟朝七日，詔葬獨龍山。從師受戒者萬八千人，皆服緦麻，哭送葬所。太清三年夏四月，逆賊侯景陷臺城，以甲士五百人自衛，帶劍上殿。拜訖，帝神色自若，使引向三公坐榻，謂曰：「卿在戎日久，無乃為勞乎？」景惶懼，不能對，出謂左右曰：「吾每據鞍臨敵，矢石交下，了無所怖，今見蕭公，使人畏慴，豈非天威難犯，吾不復見之矣。」及景自稱大丞相，而徵求無已，帝惡，後寢疾，安臥不動，齋戒不衰，日夕念佛，不絕於口。時皇子侍側，五月丙辰，大漸，不能進膳，久而口苦，索蜜未至，而舉手曰：「荷！荷！」荷即蓮花，鑑以荷荷為憤怒之聲，何毀之太過耶？遂崩於淨居殿，年八十有六，在位四十九載。帝日角龍顏，舌紋八字，項有浮光，身映日無影，右手紋成武字，幼嘗蹈空而行，所居之室，常若雲氣，人或遇者，體輒肅慄，前後受命符瑞，凡六十餘事，及即位，太極殿常有六龍，各守一柱，其神奇異瑞，自書契以來，人君皆所未有。幼而好學，六藝備閒，棋登逸品，至於陰陽、緯候，卜筮、占決，草隸，尺牘，騎射，並洞精微。雖登大位，萬機多務，猶手不釋卷，然燭測光，常至戌夜，撰《通史》六百卷，《金海》三十卷，五經義註講疏等，合二百餘卷，贊、序、詔、誥、銘、誄、箴、頌、牋、奏、諸文，凡一百二十卷，製《涅槃》、《大品》、《淨名》、《三慧》、諸經義記數百卷，聽覽餘暇，即於重雲殿、同泰寺講說，名僧穎學，四部聽眾，常萬餘。布衣，木綿，皂帳，一冠三載，一被二年，五十外，便斷房室，不食酒肉，不取音樂，非宗廟祭祀，大會饗宴，及諸法事，未嘗舉樂。勤於政事，每冬月四更竟，即敕把燭看事，執筆觸寒，手為皴裂，然仁愛不斷，每決死罪，常矜哀流涕，然後可奏。性方正，雖居小殿暗室，常理衣冠，小坐，暑月，未嘗褰袒，雖見內豎小臣，如遇嚴賓焉，諡曰武帝，廟號高祖。四部即四眾。

> 天監二年癸未の年、侯景が生まれた。これはすなわち、斉の東昏侯の生まれ変わりであった。その日、誌公和尚が便殿におり、帝より座を賜ったが、突然顔を曇らせ、首を伸ばして嘆いて言った。「仇敵が生まれた！」帝はその意味を測りかねた。 三年四月八日、帝は道教を捨てて仏教に帰依し、自ら疏文を作ってこう記した。「弟子蕭衍は、かつて老子の教えに耽溺し、代々受け継がれてきたこの邪法に染まっておりました。今、古い習いを捨て、正しい覚りに帰依いたします。どうか未来の世において、童男として出家し、広く衆生を教化し、共に成仏の道を歩めますように。正しい法のうちにあって、たとえ長く悪道に沈もうとも、老子の教えに依って一時的に天に生まれることを望みません。大乗の因を踏み、永遠に邪見を離れます」云々。 天監十八年四月八日、帝は慧約法師を等覚殿に招き、菩薩戒を受け、無遮大会を設けた。帝は受戒後、午後を過ぎれば食事をせず、膳には新鮮な肉もなく、豆の羹と粗い飯だけであった。時には用事が多くて食事をする暇がなく、日が中天を過ぎればすぐに口をすすぎ、座禅を組んだ。 大同元年、法師が入滅されると、帝は喪服を着て臨み、声をあげて泣き、七日間朝政を止め、詔を下して独龍山に葬らせた。師から戒を受けた一万八千人もの人々が皆、喪服を着て葬送の場で泣きながら見送った。 太清三年夏四月、逆賊侯景が台城を陥落させ、甲冑を着た兵士五百人を自衛に従え、剣を帯びて殿上に上った。拝礼が終わると、帝の神色は自若としており、侯景を三公の座る榻に導かせ、言った。「卿は軍旅の日が長く、さぞお疲れであろう。」侯景は恐れおののき、返答できなかった。退出して左右の者に言った。「私はこれまで鞍に据わって敵に臨み、矢や石が飛び交う中でも、少しも怖れたことはなかった。しかし今、蕭公（武帝）にお目にかかると、畏れ慄かざるを得ない。天の威厳は犯し難いものだ。もう二度とお会いするまい。」 その後、侯景が大丞相を自称し、際限なく要求を重ねると、帝はこれを嫌い、後に病に臥せったが、安らかに横たわり動かず、斎戒を怠らず、朝夕に仏の名号を唱え、口を絶やすことがなかった。その時、皇子が傍らに侍っていた。五月丙辰の日、病状が重くなり、食事が摂れなくなった。しばらくして口が苦くなり、蜜を求めたが、届かないうちに手を挙げて「荷！荷！」と言った。そして淨居殿で崩御された。八十六歳、在位四十九年であった。 帝は日角龍顔（額の左右が隆起し、龍のような顔つき）、舌には八字の紋、首には浮かぶ光があり、身は日に映っても影がなかった。右手の掌紋は「武」の字を成し、幼少時には空中を歩んだこともあった。住まわれる部屋には常に雲気のようなものが立ち込め、人が出会うと身の引き締まる思いがした。即位前後を通じて天命を受けた瑞祥は、合わせて六十余りにも及んだ。即位後は太極殿に常に六匹の龍が現れ、それぞれ柱を守っていた。その神異な瑞祥は、文字が記録されて以来、君主としてかつてなかったものである。 幼い頃から学問を好み、六芸に通暁し、囲碁は逸品の域に達した。陰陽・緯候・卜筮・占決から、草隸・尺牘・騎射に至るまで、その精微を極めた。帝位に就いてからも、万機多忙の中、なお書物から手を離さず、灯燭の光を測りながら、常に夜更けまで学び続けた。『通史』六百巻、『金海』三十巻、五経の義註講疏など合わせて二百余巻、賛・序・詔・誥・銘・誄・箴・頌・牋・奏・諸文、合わせて百二十巻を撰し、『涅槃経』・『大品般若経』・『維摩経』・『三慧経』など諸経の義記を数百巻作った。政務の暇を見ては、重雲殿や同泰寺で講説を行い、名僧や俊英の学僧、四衆の聴衆は常に一万人を超えた。 普段着は布衣、木綿の布団、黒い帳。冠は一つのものを三年、布団は一枚を二年使い、五十歳を過ぎてからは房事を断ち、酒肉を口にせず、音楽も取らなかった。宗廟の祭祀や、大宴会、諸法事以外では、音楽を奏でることはなかった。 政事に勤勉で、毎冬、四更（午前二時頃）が終わるとすぐに、燭火を灯して政務を見、筆を執って寒さに触れ、手は皴割れした。しかし仁愛の心は厚く、死刑を決する時は常に哀れみ悲しんで涙を流し、その後でようやく上奏を許した。 性質は方正で、小さな殿舎や暗い部屋にいる時でも、常に衣冠を整え、少し座る時も、暑い月でも、肌を露わにすることはなかった。宮中の小臣に会う時も、厳かな賓客に遇するように接した。諡は武帝、廟号は高祖。

《釋鑑》曰：「因果之故嚴矣哉！仁慈之德大矣哉！東昏以武帝為仇，終必致報，武帝道隆德重，東昏但能使其失國，不能復害其身，帝其以身示現，令兩義雙彰，為天下萬世法者乎！元帝承聖元年壬申四月，景敗，尋伏誅，傳首江陵，暴屍於市，士民爭食之，并骨皆盡。」

史官魏徵曰：「高祖固天攸縱，聰明稽古，道亞生知，學為博物，允文允武，多藝多才。爰自諸生，不羇之度，屬昏凶肆虐，天倫及禍，紏合義旅，將雪家冤，曰：紂可伐，不期而會，龍躍樊、漢，電擊湘、郢，剪離德如振槁，取獨夫如拾遺，其雄才大略，固不可得而稱矣！既懸白旗之首，方應皇天之眷，而布澤施仁，悅近來遠，開蕩蕩之王道，革靡靡之商俗，大修文學，盛飾禮容，鼓扇玄風，闡揚儒業，介冑仁義，折衝樽俎，聲振寰區，澤周遐裔，干戈載戢，凡數十年，濟濟焉！洋洋焉！魏、晉以來，未有若斯之盛也。」

> 史官の魏徴は言う。 高祖（李淵）は天から授かった才能に恵まれ、聡明で古の教えを深く学び、その道は生まれながらの知恵に匹敵し、学識は広く万物に通じていた。文にも武にも優れ、多芸多才であった。 若き書生の頃から、その度量は常識に縛られぬものがあり、暴虐な隋の世に、一族が災禍に見舞われるや、義兵を集めて家の冤罪を晴らさんとした。彼は言った。「殷の紂王を討つ時が来た」と。期せずして人々が集い、龍の如く樊城・漢水を躍り、雷の如く湘州・郢州を撃ち、離反する者を枯れ葉を払うように切り払い、独裁者を物を拾うように容易く捕らえた。その雄才大略は、もはや言葉で称え尽くせぬものであった。 反乱軍の白旗が掲げられると、天の御心に応えるかのように、恩恵を施し仁政を行い、近くの者を喜ばせ遠くの者を招き寄せた。広々とした王道を開き、退廃した前朝の風俗を改め、文学を大いに興し、礼儀作法を盛んに整え、玄妙な風韻を鼓吹し、儒教の学問を広く宣揚した。甲冑に仁義をまとって、戦わずして外交の席で勝利を収め、その名声は天下に響き渡り、恩恵は遠方の地まで及んだ。武器を収めてから数十年、人材が盛んに集い、文化が豊かに栄えた。魏・晋の時代以来、これほど繁栄したことはなかった。

念常曰：「魏徵公論梁武帝，可謂天下仁人之言也。而《新唐史．蕭瑀傳》贊亦曰：『梁蕭氏，興江左，實有功在焉，厥終無大惡，以浸徵而已，故餘祉及其後裔，以此驗徵公之論，益可詳矣！』然韓退之嘗曰：『梁武餓死臺城，蓋謂其屏嗜欲，絕午後食，至臨終齋戒不衰，在恣情豐美享用者視之，近乎餓死耳。猶孔子稱伯夷、叔齊，餓死首陽。』其徵意乃所以成其美焉，豈謂不得食而餓死哉！凡謂得失成敗，如魏徵公之言，乃春秋責備賢者之旨，得不為萬世之公道哉！」

> 念常は常にこう言っていた。「魏徴公が梁の武帝について論じたことは、天下の仁人の言葉と言える。また『新唐史・蕭瑀伝』の賛にもこうある。『梁の蕭氏は江左に興り、実に功績があった。その終わりに大悪はなく、次第に衰えただけである。ゆえに残された福はその子孫にまで及び、これによって魏徴公の論を検証すれば、ますます詳らかになる』と。しかし韓退之はかつてこう言った。『梁の武帝が台城で餓死したというのは、嗜欲を退け、午後の食事を絶ち、臨終まで斎戒を衰えさせなかったことを指す。情欲に任せて豊かなものを享受する者から見れば、餓死に近いものに見える。ちょうど孔子が伯夷・叔斉を餓死したと称したようなものだ』と。その魏徴の意図はむしろ彼の美徳を成すものであり、どうして食べ物が得られずに餓死したという意味であろうか。およそ得失成敗を論ずることは、魏徴公の言葉のように、『春秋』が賢者に責めを求める趣旨であり、万世の公道と言えるのではないか！」