---
title: "石門文字禪 · 華嚴院記"
description: "石門文字禪是宋代高僧釋德洪的詩文集。德洪又稱惠洪，活躍於北宋末南宋初，與蘇軾、黃庭堅等文人交遊，是禪宗臨濟宗黃龍派的重要傳人。該書內容豐富，不僅收錄了大量詩歌、偈頌和文章，更以文字闡釋禪理，融通文學與佛學，體現了文字禪的獨特風格。書中強調不離文字而悟道，對宋代及後世禪宗思想影響深遠，是研究中國佛教史、文學史及文字禪思想的珍貴典籍。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmgn0icoo0eomjl04j71d7e59"
---

### 華嚴院記代

> 華嚴院記

政和四年春二月，余自高安赴官臨汝，行豐城境十餘里，奇峰秀深沃野自獻。有白沙清流茂林修竹之勝望，林表出楯瓦，路人曰：「其下華嚴院也。」遂造焉。碧杉脩徑，苾芻戢戢出迎客，廈屋崇成如幻出，禪齋風櫺金碧隨目，殆應接不暇。問住持僧惠訥曰：「院以父子傳器，而服玩不減禪林，何哉？」訥曰：「教有頓漸，道無禪律。今兩者相攻以其私，而佛法微矣。譬如棗中蟲，徒自蠹壞。出家蓋大丈夫事，其說甚高。緒餘土苴，足以道廣孝慈，上助清化。今其衰，其徒特不足知。此如鳶翔青冥，而心不忘腥穢，求教之興，三尺童子知其難。」余首肯其說而心奇之。秋七月，訥遣僧抵余曰：「吾廬居於唐光化之元年，名報恩。迄本朝治平之三年，詔改賜今額。嘗燼火廢為丘墟，草屋數楹，僅蔽風雨者。自善明至懷珍七傳，訥寔繼珍，後因淨檀首建三門，作兩序屋，修普光明大殿，前峙雙閣，一以像僧伽，一以館鐘虡。東為香積廚，繞以複屋，闢典事堂，有廩有廁。西為三聖堂，增其後架，設賓客館，有湢有廄，造演法潮音堂總屋於其中，又建華嚴閣於寢室之上，以實毘盧法寶之藏。高深雄麗，吞風吐月。凡禪林所宜有者畢備。僧至如歸，轟轟鼓魚，泯泯作息，要不墯諸方。經始於崇寧癸未之春，斷手於政和乙未之冬。吾方念能事雖畢，而後之來者未知飯僧報佛無窮之意，而公適儼然辱而臨之，非夙緣乎？幸強為我記之。」余曰：「今人持左券以取寓物，未敢必得。然爭毛髮之利，斫頭穴胸，何知慮刑？而訥宴坐一室，影不出山，能使施者填門，不十年之間，化瓦礫之墟為梵釋龍天之宮，此其才必有過人者。視其中渠渠欲置人於慈祥之域，而專欲以精嚴自礪，與夫裨販如來以自賊者異矣。使其聞訥之風，亦可以少泚其顙云。」

> 政和四年（西暦1114年）春二月、私は高安から臨汝へと赴任の途にあった。豊城の領内を十数里ほど進むと、ひときわ秀でた峰々と深い沃野が目の前に広がった。清らかな白砂の川辺、流れる小川、深い木立、風格ある竹林が美しく、その彼方に見える林の上には甍がのぞいている。道行く人が言うには「あの下が華厳院です」とのこと。早速訪ねてみることにした。 青い杉が植えられた趣ある小道、僧侶たちがぞくぞくと出迎えてくれる。大堂は巧みな造りで、まるで幻のように現れたかのようだ。禅堂の窓辺には風が吹き抜け、金碧の装飾が目に映えて、見渡す限りの荘厳さ。まったくもって目移りしてしまうほどである。住職の恵訥僧に尋ねてみた。 「この院は父子相伝で法を継いでおられるようですが、その調度や道具は禅宗の叢林にも引けを取りません。これはどういうわけでしょうか？」 訥が答えた。「教えには頓悟と漸悟の区別があり、道そのものに禅と律の別はありません。ところが今、両者が私心によって互いを攻め立て、仏法は衰退してしまいました。たとえて言えば、棗の中にいる虫が自ら棗を食い荒らすようなものです。出家とはそもそも大丈夫のなす業であり、その教えは大変高遠なものです。その余すところの端々までも、孝行や慈悲を広く説き、上からの徳化の政治を助ける力があります。ところが今は教えが衰えたため、その僧侢たちがその高遠さを理解できなくなっているのです。たとえば、鳶が青空高く飛んでいても、心のどこかで腥いものを忘れられないようなもの。これでは教えの復興など、三歳の子供でさえ難しいと分かるでしょう。」 私はその言葉に深く首肯し、その見識に感心した。 秋七月、訥は使いの僧をやって私に伝えた。「私の庵は唐の光化元年（西暦898年）に建てられ、名を報恩寺としました。本朝の治平三年（西暦1066年）に、勅命によって現在の寺号に改められました。かつて火災に遭い、廃墟と化してしまい、風雨をしのぐだけの粗末な草ぶきの家が数軒あるだけでした。善明から懐珍まで七代伝わり、私訥はその懐珍の跡を継ぎました。それから浄檀（篤信の施主）の支援を得て、まず三門を建て、両側の僧堂を造り、普光明大殿を修復しました。前に雙閣がそびえ立ち、一つには僧伽の像を安置し、一つには鐘楼を設けました。東側には香積厨（台所）があり、回廊で囲み、典事堂を設け、倉庫や便所も備えました。西側には三聖堂を建て、その背後に建物を増築し、賓客館を設けて浴室や厩もあります。法堂の潮音堂を中央に建て、さらに寝殿の上に華厳閣を築いて、毘盧遮那仏の法蔵を安置しました。高く壮麗で、風を呑み月を吐くかのような気宇です。禅林にふさわしいものはすべて備わりました。僧侶たちが来れば故郷に帰ったかのようにくつろぎ、太鼓や魚鼓の音がにぎやかに響き、静かに起居作息しているありさまは、どこに出しても引けを取りません。工事は崇寧二年（西暦1103年）の春に始まり、政和五年（西暦1115年）の冬に完成しました。私は今、この事業を成し遂げたことに安堵していますが、後に来る者たちが、斎食を施し仏に報いることの尽きせぬ意味を理解してくれるだろうかと案じていました。そこへあなた様がわざわざおいでくださった。これは前世からの因縁ではありませんか。どうか無理を承知で、私のためにお書き留めいただけませんか。」 私はこう思った。今の人々は、預かり証を手に他人の預かり物を取り立てようとしても、必ず得られるとは限らない。それなのに毛先ほどの利益を争って、首を切り胸を穿たれるとも構わず、刑罰を顧みない。ところが訥は一室に座し、山から一歩も出ず、施主たちは門に溢れかえる。十年足らずの間に、瓦礫の墟を梵天・帝釈天・竜天の宮殿のような荘厳な寺に変えてしまった。この才は並々ならぬものがある。よく見ると、その心中にはたゆまず人々を慈悲の境地へ導こうという深い志があり、専ら厳かな戒律によって自らを磨くことに励んでいる。これは如来の教えを商売にして自らを害する者とはまったく異なる。彼らが訥のこの風を聞けば、その顔に恥じらいの汗を流すこともできようというものだ。