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title: "牧雲和尚嬾齋別集 · 復吳鹿友相公(附來書)"
description: "牧雲和尚嬾齋別集是明代臨濟宗高僧通明所著，由著名出版家毛晉編纂。該書成於明末清初，正值佛教禪宗發展與儒釋交融之際，內容收錄了通明禪師的詩文、書信、語錄及禪法開示，融合禪宗心要與文學藝術，展現了禪者對修行與世事的透徹智慧。此作不僅是研究明末禪宗思想與文人佛教的重要文獻，更體現了臨濟宗直指人心的宗風，在佛教典籍中具有承先啟後的地位，為後世學人提供了禪悟與實踐的珍貴參照。"
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### 復吳鹿友相公附來書

> 呉鹿友相公に答える<span class="note">附：来書</span>

甡於世已矣，只欠一死，謬附遯野之義。不入城市、不接知交者，業經八年，老病侵寂，守一丘，荊、柴以外，俱付不見不聞。甡之于禪也，直逃焉而已。頃聞古南禪師卓錫昭陽，一水菰蒲中，豈堪龍象蹴踏耶？大善知識最為難遇，而甡持心戒，不獲展謁，親承巾拂，鬱歉何如？目前急求證明者，惟生死二字。古德云：生何所來？死何所去？夫父母未生前，認取本來面目，是生有所來；楖栗橫擔不顧人，直入千峰萬峰去，是死有所去。然而經云：「無所從來，亦無所去。」豈必知有去來而後能了生死，能了生死而後無生死、無去來也耶？《易》曰：「原始要終，故知死生之說。」又云：「游魂為變。」而宋儒則謂：「人死則氣散，居恒為見聞所縛，遽難了脫。」我師不惜金篦，方便開示，豁其盲聾，免于流浪。即今衰朽而植茲善種，猶可俟再生也。

> この世に生を受けて久しいが、ただ死を待つのみである。世を避けて隠遁するという義に安んじて、いたずらに名を連ねてきた。街に入らず、知己にも会わず、すでに八年が過ぎた。老いと病が静かな身に迫り、ひとつの丘に守られ、荊や柴の外は、すべて見ず聞かずにしている。私が禅に向かうのは、まさに逃げるのみである。先頃、古南禅師が昭陽に錫を停められたと聞く。一筋の水に生い茂る菰蒲の間に、どうして龍象の足跡が踏み入るに堪えましょうか。大いなる善知識に出会うことは最も難しいのに、私は心戒を守り、お目にかかって直接教えを請い、師の道具を親しく受けることができずに、鬱々としたい思いはどれほどでしょうか。今まさに急切に証明を求めるのは、ただ生死の二字のみです。古徳が言うには、「生は何れの処より来たるか。死は何れの処へ去るか」と。父母未生の前の、本来の面目を認め取ることは、生に来たる所あるということです。楖栗の杖を横に担いで人を顧みず、直ちに千峰万峰の奥へ入って行くことは、死に去る所あるということです。しかし経典には「来たる所もなく、去る所もなし」とあります。どうして必ずしも去来があると知って後に生死を了得し、生死を了得して後に、生死なく去来なき境地に至るのでしょうか。『易経』には「終わりを原め、終わりを要する、故に死生の説を知る」とあります。また「遊魂は変と為る」とも言います。しかし宋の儒者たちは「人が死ねば気は散じる。常には見聞に縛られ、急には了脱し難い」と説きました。どうか師よ、黄金の篦を惜しまず、方便をもって開示し、その盲聾を開いて、流浪の苦しみを免れしめてください。今や老衰の身でありながらも、この善い種を植えることができれば、なお生まれ変わりを待つことができましょう。

某愚鈍無似，入法以來，聞般若種子有生同具，乃不肯自負靈根，行腳浙東，叨沐天童先師法乳，遂過為緇流所目。然慧不足以盡佛，緣不足以蒞眾，浪出人前者，數年餘矣。今秋病枯神悴，厭冗求閒，登金焦，觀大江，欽仰高風，凌然世表。承賢公子偕諸有道招，過城西極樂院，與四方龍象聊結法緣。自念疏野，未敢托楮墨問訊，然而夙興夜寐，莫不在大庇中。茲蒙授佳章，兼賜和拙語，穆如肆好，瓊瑤之錫，未足云喻。且隆惠稠疊，猶潤涸魚，其喜洋洋。某竊自惟，素昧生平，何以辱眷念如是？得非往者同席靈山，法盟有自，至今無間耶？所諭生死二字，乃有生之同患，其實又千聖入法之要領。蓋思去其患，則進乎法；進乎法，則生死自空矣。經云「無所從來，亦無所去」者，正言諸法實相有生，本體元無生死也，非實生有所來也。「楖栗橫擔不顧人，直入千峰萬峰去。」宗宿立言，別有旨趣，非云死有所去也。蓋生從何來？死從何去？古德用以警悟學人，如桶底脫者，生從何來？死從何去？即是無生死句。或未能之，即令學人參此生死也。本體元無生死，而令人加參者，猶明德本明，或者蔽之，聖人向之曰：明明德也。一指本體，一示參功，兩者相須。若徒言參功，不言本體，則參功無所歸宿；或彰本體，不示參功，則本體末由發明。此聖人為中淺根，示其準的也。今閣下恒究佛祖之大機，深明聖賢之大用，生死涅槃，誠如昨夢，豁彼聾聵，下采芻蕘，博濟之念為何如？《易》云：「游魂為變。」直變而已，非散之之謂也。精氣為物，直言精氣為物耳。既為物，則物在，謂死且散，宋儒立義或未然耶？聖門之學，一本性德，而易其元也。孟軻氏曰：志，氣之帥也。志行仁而氣隨之，志行義而氣亦隨之，無氣是無志也。氣可散，其如志何？精即志之所凝結，如無志，先聖賢曰：仁與義。仁義豈從空而立耶？本性德也。性德在天地，死且不朽，而如薪如木，然灰即散，則曷貴乎性德？是必不然也。某少失學，未測易奧，過辱垂問，管見漫陳。且夫陵遷谷移，盛衰迭換，今古同然，而閣下遵時養晦，退藏於密，即此一念子，為天地根，為萬物母，歷千古而不磨。或於生死有疑，室中宴坐，乞暫移此念，看一二則極切近話。《心經》一篇，誦者千萬，講者亦千萬，其間有云「無眼耳鼻舌身意」，此句甚好。居恒常問：衲子無眼耳鼻舌身意，試摩頂至踵，畢竟是個甚麼？此處豁然未生、已生一串穿卻，極是省力。昔百丈侍馬祖，山行見野鴨子，祖曰：「是甚麼？」丈云：「野鴨子。」祖曰：「何處去也？」丈曰：「飛過去也。」祖遂扭丈鼻，丈作聲，祖曰：「又道飛過去也。」丈悟入。百丈答處，甚是分明。馬祖無端屈人，扭他鼻子，意在于何？畢竟是野鴨子，不是野鴨子？但如是看，不必作心性會，不必作道理會，不必作迷悟會，不必將儒釋和會，不必生難易想。案頭雖有諸禪典，敢請暫置，不必多閱，則聞見自泯；聞見泯，則岐解不生；岐解不生，便是參情得力，生死路將次絕矣。古云：用志不分，乃凝於神。或若和者一念子放下，一超直入，便與從上佛祖把臂共行，外而河山大地，近而五官百骸，全體是光明藏，全體是大歇場，全體是閣下大受用境界，卻來觀世間，猶如夢中事，是非成敗何足云乎？宋時無盡、子韶、東坡、魯直諸君子，皆現生取證，其方已驗，惟閣下留神焉。