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title: "石門文字禪 · 蘄州資福院逢禪師碑銘"
description: "石門文字禪是宋代高僧釋德洪的詩文集。德洪又稱惠洪，活躍於北宋末南宋初，與蘇軾、黃庭堅等文人交遊，是禪宗臨濟宗黃龍派的重要傳人。該書內容豐富，不僅收錄了大量詩歌、偈頌和文章，更以文字闡釋禪理，融通文學與佛學，體現了文字禪的獨特風格。書中強調不離文字而悟道，對宋代及後世禪宗思想影響深遠，是研究中國佛教史、文學史及文字禪思想的珍貴典籍。"
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### 蘄州資福院逢禪師碑銘并序

> 蘄州資福院逢禅師の碑銘

自達磨入中國，授二祖心要，而以衣為信，故六世為之單傳。至曹谿藏其衣，故諸方得者輩出。其魁壘絕類，碩大光明，有若衡山觀音、廬陵清原者，特為學者之所宗仰，天下號二甘露門。令逢禪師者，清原九世之嫡孫，黃龍機公之高弟也。此先，蓋福州閩縣人，生於陳氏，自其少時，英特開爽，不愛處俗，耆年敬愛之。唐乾元初，落髮於隱真寺。明年，受具足戒，即策杖遊方，聞黃龍參出巖頭，門風孤峻，自荊楚舟漢江，抵鄂渚，而機公杜門卻掃，棧絕世路，學者皆望崖而退。師獨扣其戶，俄聞疾呼曰：「擊門者為誰？」荅曰：「令逢。」曰：「未來此間亦不失。」荅曰：「若失，爭辭與麼來？」曰：「來底事作麼生？」荅曰：「昨日親自渡江。」黃龍於是開扉，笑而器許之。師從容遊詠，日聞智證，雖不事接納，而戶外之屨常滿，痛自韜晦，而人間之譽益著。以順義癸未之秋，辭黃龍北遊，戾止祁陽月峰之下，刱為茅茨，一飯奉身，跏趺終日，學者追隨而至，川輸雲委。前刺史奇章公拜謁，受法要，而請升座，道俗懽呼，謂一佛出世，遂成叢林，號南禪男子。張宏甫施宅為寺，莊嚴之妙，疑絳闕清都從空而墮也。歲在戊子夏，淨髮，更衣而坐，謂門弟子曰：「吾委息後，衣麻、饌客、號踊哭泣，皆不可為。苟違吾言，則非吾法侶。」於是以書遍辭檀信。六月八日，示微疾，泊然而化。閱世五十有一，坐三十四夏，塔于郡城之北。太和中，忽見夢於父老曰：「吾欲出塔大作佛事。」於是啟塔，而顏貌如生，萬眾作禮龕而供事之。自是則能指揮造化，縱奪禍福，使雨暘時若，百穀茂遂。民建寺其旁，世以父子傳器，夜燈午梵，自唐迨今不替。政和之間，禪林易之，更兩代荒殘，如逃亡人家。宣和太守林公，以嘉祐寺彌勒院僧擇文主之，從檀之請也。文疏通解事，材智有餘，道行信於邦人。初至之夕，適大雨，九徙其床。一年而施者填門，冠蓋無虛日。二年而修廡密室，綠疏青鎖。三年而崇殿傑閣間見層出，遊僧過客摩肩仍袂，已至者忘去，方來者如歸。余嘗與林敏功子仁過焉。仁曰：「寺以律名，而禪規不減諸方，廩無餘粟，食堂日集千指，非有以大過人，何以臻此？」余曰：「昔臨濟北歸，仰山歎曰：『此人它日道行吳越，但遇風則止。』溈山問：『有續之者乎？』對曰：『將此深心奉塵剎，是則名為報佛恩。』故世稱念法華為仰山後身，庸詎知文非逢公邪？」子仁曰：「彼以荷擔大法，此方從事有為。仰山逢公若是班乎？」余曰：「昔普淨禪師不務說法，庵於王城之東，日浴萬眾，曰：『時機淺昧，難提正令，姑使善法流行足矣。』又安知逢公之意不出於此乎？」明年冬，遣其徒來乞文，又系之以辭曰：

> 達磨が中国に来てから、二祖に心の要を授け、衣を信のしるしとした。そのため六代にわたって一人だけに伝えられた。曹谿がその衣を藏したので、各地に法を得る者が次々と現れた。その中でも傑出した人々は、衡山の観音、廬陵の清原のように、特に学ぶ者たちの宗仰するところとなり、天下から二つの甘露の門と呼ばれた。令逢禅師は、清原の九世の嫡孫であり、黄龍の機公の高弟である。もともと福州閩県の人で、陳氏に生まれ、幼い頃から英明で開豁、俗に處することを好まず、年長者たちは彼を敬愛した。唐の乾元の初め、隠真寺で剃髪した。翌年、具足戒を受け、すぐに杖を策いて諸方を遊行し、黄龍が巖頭の門から出たと聞き、その門風は孤高峻厳であると知った。荊楚から舟で漢江を下り、鄂渚に達したが、機公は門を閉ざして世路を断ち、学ぶ者たちは皆、崖を望んで退いた。師だけがその戸を叩き、やがて疾呼する声を聞いた。「門を撃つ者は誰か？」と。答えて曰く、「令逢です。」「未来もここにいても失わない。」と。答えて曰く、「もし失うなら、どうしてこのように来ることを辞しましょうか？」「来た事はどうするのか？」と。答えて曰く、「昨日自ら江を渡りました。」黄龍はそこで扉を開き、笑ってこれを認めた。師は从容として遊詠し、日々智証を聞いた。自ら接納の事に務めなくとも、戸外の履は常に満ち、自ら韜晦することを痛切にしても、世間の誉れはますます著しかった。順義癸未の秋、黄龍に辞して北遊し、祁陽の月峰の下に至り、茅茨を創り、一飯で身を奉じ、終日跏趺した。学ぶ者たちは追い従って至り、川のごとく雲のごとく集まった。前刺史の奇章公が拝謁し、法要を受け、升座を請うた。道俗は歓呼し、一仏出世と言い、遂に叢林を成し、南禅男子と号した。張宏甫が宅を施して寺とし、荘厳の妙は、絳闕清都が空から堕ちたかと疑われた。歳は戊子の夏、髪を浄め、衣を更えて坐し、門弟に謂って曰く、「吾が息を委した後、衣麻、饌客、号踊哭泣は、皆為すべからず。苟も吾が言に違えば、則ち吾が法侶に非ず。」そこで書を以て檀信に遍く辞した。六月八日、微疾を示し、泊然として化した。世を閲すること五十一、坐すること三十四夏、郡城の北に塔した。太和中、忽ち父老の夢に現れて曰く、「吾は塔を出でて大いに仏事を作さんと欲す。」そこで塔を啓くと、顔貌は生けるがごとく、万衆は龕に礼して供事した。これより能く造化を指揮し、禍福を縦奪し、雨暘をして時に若からしめ、百穀を茂遂させた。民はその傍らに寺を建て、世々父子で器を伝え、夜灯午梵、唐から今に至るまで替わることがない。政和の間、禅林はこれを易え、両代を更て荒残し、逃亡の人の家のごとくであった。宣和の太守林公は、嘉祐寺弥勒院の僧択文を以てこれを主とさせた。檀の請に従ったのである。文は疏通で事を解し、材智は余りあり、道行は邦人に信じられた。初めて至った夕、大雨に遭い、九たびその床を移した。一年にして施す者は門に填まり、冠蓋は虚日がなかった。二年にして廡を修め密室を造り、緑疏青鎖とした。三年にして崇殿傑閣が間見層出し、遊僧過客は肩を摩り袂を連ね、已に至る者は去るを忘れ、方に来る者は帰するがごとくであった。余は嘗て林敏功子仁とともに焉を過ぎた。仁曰く、「寺は律を以て名とし、禅規は諸方に減じず、廩に余粟なく、食堂には日々千指が集まる。大いに人に過ぐる所ありてでなければ、何を以てか此に臻らん？」余曰く、「昔、臨済が北帰し、仰山は嘆じて曰く、『此人它日道は呉越に行らん、但だ風に遇えば則ち止まん。』溈山問う、『之を続ぐ者有りや？』対えて曰く、『此の深心を将て塵刹に奉らん、是れ則ち名づけて仏恩を報ずと為す。』故に世は念法華を仰山の後身と称す。庸詎か文が逢公に非ざるを知らんや？」子仁曰く、「彼は大法を荷擔し、此方は有為に従事す。仰山と逢公は是れ班を同じくするか？」余曰く、「昔、普浄禅師は説法を務めず、王城の東に庵し、日々万衆を浴し、曰く、『時機は浅昧にして、正令を提すは難し。姑く善法をして流行せしむれば足れり。』又た安んぞ逢公の意が此に出でざるを知らんや？」明年の冬、其の徒を遣わして来たりて文を乞い、又た辞を以て之に繋げて曰く：

我懷巖頭，僧中之龍，本無寔法，但識綱宗。乾笑德山，怒呵雪峰，如師子吼，香象失蹤。又如麒麟，不可繫霸，羅山控勒，明招追隨。逢則晚出，天骨權奇。振鬣長鳴，萬馬不嘶。清侯之上，駐我巾瓶。笑示死生，洞開戶庭。意行出入，不施鎖扃。至今城北，白塔亭亭，寶鈴和鳴，上千層霄。下有全身，百神來朝，劫火洞然，大千焚燒。而此堅固，無有動搖。咨爾邦民，當加敬虔。蓋此大士，是汝福田。如黃琳公，如和褒禪。刻此銘詩，以壽山川。

> 我が師・巌頭を思う。僧の中の龍であり、本当の決まった教えは持たず、ただ仏法の要点をよく心得ておられた。徳山をからかって笑い、雪峰を怒って叱り、まるで獅子の吼える声のようで、香象さえも姿を消した。また麒麟のようで、縛りつけることはできない。羅山は手綱を操り、明招は後を追った。出会えば晩年になって現れ、生まれつきの気骨は並外れていた。たてがみを振って長くいななくと、万の馬も嘶かなかった。清侯の上に、我が巾と瓶を置く。笑いながら死と生を示し、門を大きく開いた。心のままに行き来し、鍵をかけなかった。今に至るまで城の北に、白い塔が高くそびえ、宝の鈴が調べを奏で、はるか空高くまで響く。その下には全身が納められ、百の神々が参拝に来る。劫火が燃え盛り、大千世界が焼かれようとも。この堅固なものは、揺らぐことがない。ああ、この国の民よ、敬虔の心を加えるがよい。この大士こそ、あなたたちの福田である。黄琳公のように、和褒禅のように。この銘の詩を刻み、山河とともに長く伝えよ。