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title: "天真毒峰善禪師要語 · 普說"
description: "天真毒峰善禪師要語是明代禪師毒峰本善的語錄，由弟子本善記錄、悟深編纂。該書成於明朝中葉，反映了當時禪宗強調實修與心地法門的風氣。內容匯集了毒峰禪師的開示、法語和機鋒語句，核心在於闡明本心自性、破除妄執，指導學人直指人心、見性成佛。此書是研究明代禪宗思想，特別是臨濟宗修行實踐的重要文獻，對後世禪門學人具有深遠的指導意義，被視為禪宗心要的樸實結晶。"
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### 普說

> 普説

徒悟權等焚香拜跪云：「弟子德深等實為生死事大無常迅速，特來禮拜和尚，請益如何修行得脫生死輪迴？」師云：「諸大德既來相從，惟我此間又非唱導之師，建立門戶為人處無非平實商量，做工夫捷徑處彼此相依，於三間茅屋之下草衣木食，追慕百丈已前真風，不學今時體態，只貴真參實究，證到古人田地而後已，捨此非吾之所為也。今日事不獲已，只得將自己昔年親證底一則無字公案開示諸大德。子果欲脫生死輪迴，先須發大信心立弘誓願，拼從今身未悟之先，莫退菩提道心；莫改修行節操。若不打破這則所參公案，洞見父母未生已前面目，坐斷微細現行生死，誓不中途而廢放捨本參話頭，遠離真善知識。若故違此願，當墮惡道受無量苦。發此大願防護其心，然後方堪領荷公案。昔日東普師翁并先師和尚，初發心時俱發大誓願云：『若我退失道心遠離話頭，生害脫皮癩，現諸人眼目；死墮無間地獄，受無量苦因。』作此願勉勵身心精進不怠，所以到得這般地位。現前大眾還肯發願麼？」

> 弟子德深たちは、生死という一大事と、無常がすばやく訪れることを深く受けとめ、ここに和尚を訪ねてお参りしました。どうか、どのように修行すれば生死の輪廻から脱れられるのか、ご教示ください。」 師はいわれた。「皆さんがこうして集まってこられたのはありがたいことです。しかし、私のところは説法で人を導くような師ではありません。門を作って人を迎えるといっても、ただ平坦で誠実な話し合いをするだけです。修行の近道となるところでは、お互いが寄り添い合い、三間の茅屋の下で草を衣とし木の実を食として、百丈以前の真の風を慕い、今時の見栄を学ばず、ただ真に参じ実に究めることを重んじ、古人の境地を証得するまでやめない、それ以外は私のするべきことではありません。今日はやむを得ず、自分がかつて親しく証した一つの無字の公案を、皆さんに示しましょう。あなた方が本当に生死の輪廻から脱れたいと思うなら、まず大きな信を起こし、広い誓願を立てなければなりません。今の身が悟る前から、菩提の道心を退けず、修行の節操を変えないと決めるのです。もしこの参じている公案を打ち破り、父母の未だ生まれざる前の面目を見通し、微細な現行の生死を座断することができなければ、途中でやめて本参の話頭を捨て、真の善知識から遠ざかることは決してしません、と。もしこの願いに背くならば、悪道に堕ちて無量の苦しみを受けるでありましょう。この大願を起こして心を守り固めてこそ、公案を領荷するに堪えるのです。昔、東普の師翁と先師和尚は、初めて心を起こした時、ともに大誓願を起こしてこういわれました。『もし私が道心を退け話頭から遠ざかるなら、生きては害を受け皮を脱ぐ癩病となり、人々の目の前に現れよ。死んでは無間地獄に堕ち、無量の苦因を受けよ。』この願いを作して身心を励まし、精進して怠らなかった。だからこそ、このような地位に到達できたのです。いま目の前にいる大衆は、まだこの願いを起こす気があるでしょうか。」

眾發願已，乃付公案云：「僧問趙州：『狗子還有佛性也無？』州云：『無。』疑云：蠢動含靈皆有佛性，因甚狗子無佛性？因甚道無？趙州意作麼生無吽？若是宿有靈骨者，聞此開發，便是撞著生死冤家相似，就與眉毛廝結，憤憤不休直下便明白倒斷。誠有如是操略，於此九旬之內，必定被你捉敗趙州，看破他家好惡處，則是入門端的也。此則公案古人喻如倚天長劍、塗毒鼓聲，觸之則屍橫萬里、聞之則魂散九霄，雖佛祖到來亦不敢以正眼覷著。五祖演云：『趙州露刃劍，寒霜光燄燄；更擬問如何？分身作兩段。』予昔聞此語便疑，三十年不敢開口。乃有開示偈云：『寶劍全提日用中，高揮大抹肯從容；卷兮魂膽迎風喪，舒也髑髏遍地橫。萬死萬生渾不顧，一鎗一戟便收功；趙州性命分明也，血刃參天不露鋒。』雖然如是，猶是半途在；若以少為足，決定不得到他佛祖大休大歇田地。

> 皆が願を発した後、公案を授けてこう言われた。「僧が趙州に問うた。『犬にも仏性はありますか。』趙州は答えた。『無。』そこで疑問が生じる。蠢動含霊（ありとあらゆる生き物）にはみな仏性があるというのに、なぜ犬には仏性がないのか。なぜ『無』と答えたのか。趙州の真意はどこにあるのか。もし前世から霊骨を備えた者であれば、この言葉を聞いて開悟し、まるで生死の宿敵に出会ったかのように、眉をひそめて激しく議論し、憤りが収まらず、そのままはっきりと決着をつけるだろう。まことにこのような取り組みがあれば、この九旬（九十日間の修行期間）のうちに、必ず趙州を打ち負かし、彼の善悪の核心を見抜くことができる。これこそが入門の確かな道である。この公案を、古人は天を支える長剣や毒を塗った太鼓の音にたとえた。触れれば屍が万里に横たわり、聞けば魂が九霄に散る。仏や祖師が来ても、まっすぐには見られないほどだ。五祖演はこう言った。『趙州の抜き身の剣、寒霜のように光り輝く。さらにどうかと問おうものなら、身を二つに断ち切られるぞ。』私は昔この言葉を聞いて疑いを抱き、三十年もの間、口を開けなかった。そこで開示の偈がある。『宝剣を日用の中に fully 提げ、高く振り大きく払うに、なぜ从容であろうか。巻けば魂胆は風に迎えて喪われ、舒べれば髑髏が地に横たわる。万死万生も顧みず、一鎗一戟で功を収める。趙州の性命は分明なり、血刃は天を参らせて鋒を露わさず。』とはいえ、これもまだ半ばの道である。少しで満足するなら、仏祖の大いなる休歇の境地には決して至れない。

「諸大德既為生死事大，豈是說了便休？亦非知了便休，須是始終切切拳拳、競競業業，如喪考妣，廢寢忘餐提持此事，方有少分做功夫氣象。所謂生死大事者，自我山僧知有此事，行腳已來，目擊耳聞無數箇為人天師範說法如雲如雨，臨終末後一著，腳忙手亂如落湯螃蟹，不曾見一箇半箇似古人出生入死之自由者，豈非生死事大而何？縱饒精通三藏教、背讀五車書，到這裡都用不著也。山僧雖說到此，猶恐滑在可畏可畏，有志之士得聞此說便著精彩，看他古人做功夫得何三昧，臨行如是自由自在？不可只似鴨聽雷鳴而已。

> 皆さん、生死という大事があるのに、話を聞いただけで終わってしまってよいものでしょうか。理解しただけで終わってもいけません。初めから終わりまで、ひたすら真剣に、慎重に、父や母を亡くしたときのように、寝食を忘れてこの問題に取り組んでこそ、少しは修行らしい姿になるのです。 生死の大事とは何か。私がこの問題を知り、修行の旅に出て以来、目の当たりにし耳にしてきた多くの人天の師範たちが、雲や雨のように説法をしても、最期のその一瞬には、足がもつれて手が乱れ、熱湯に落ちたカニのようになってしまいました。古の人々のように、生まれ変わり死に変わりする中で自由自在だった者に、一人も二人もお目にかかったことがありません。これこそ生死の大事ではないでしょうか。 たとえ三蔵の教えに精通し、五車の書を暗誦できたとしても、この場に至っては何の役にも立ちません。私がここまで話しても、なお恐れるのは、ただ恐ろしい恐ろしいと表面的に流れてしまうことです。志ある人がこの話を聞いて、さっそく気持ちを引き締め、古の人々がどのような修行をして、どんな境地を得て、旅立ちのときにあのように自由自在だったのかを見るべきです。カモが雷鳴を聞くように、ただ聞き流してはなりません。

「山僧從初學道以至於今三十餘年，單單在此事上用心，尋常東考西究窮盡幽微深知弊病，乃吾苦口叮嚀汝等，後來若得入頭處，切忌草草便去弄虛頭，為人之師，誤己誤人為害非小。須效古人且向水邊林下，保養聖胎，待時龍天推出，方可為人，則自利利人無往不可也。至囑至囑！

> 山僧が修行を始めてから今日に至るまで三十余年、ただこの一事に心を尽くしてきた。ふだんどこまでも突き詰めて考え、奥深いところまで究め尽くし、その弊害をよく知っている。だからこそ、お前たちに口を酸っぱくして言い聞かせるのだ。これから先、もし悟りの入り口にたどり着くことがあっても、決していい加減な気持ちで見せかけの修行に走ってはならない。人の師となれば、自分を誤り人をも誤り、その害は決して小さくない。古人を見習い、しばらくは水辺や林の下で聖なる胎を養い、時が来て龍や天が押し出すのを待ってから、はじめて人の師となれ。そうすれば自利利人、どこへ行っても間違いはない。くれぐれも、くれぐれも！

「且做工夫提話頭一著或看『無』字，要緊在因甚狗子無佛性？因甚道無？趙州意作麼生無？畢竟意作麼生無吽？這兩句子上著力。或看萬法歸一，要緊在『一』歸何處。一歸何處？畢竟一歸何處吽？這兩三句子上著力。或參究念佛，要緊在念佛底是誰。念佛底是誰？畢竟念佛底是誰吽？這兩三句子上著力。回光返照染下疑情，惺惺中卻須寂寂、寂寂中卻須歷歷。若能如是用心，不墮昏沉掉舉四魔之中，而有日益日損之效也。或若話頭間斷不得力，須抖擻精神還提前公案以至末後句子，使首尾一貫，方始有頭緒可致疑也。若得疑情不斷，便好切切用心，如貓捕鼠四肢順向首尾一直，則不怕甕中走卻鱉也。

「初做工夫之人，若非做工夫警策語言，一切佛祖玄妙機緣文字且未可看，古人謂滲漏，工夫不得成片，非學道正因。所以道：『莫將閒學解，埋沒祖師心』。又不許向意根下卜度；又不許向舉起處承當；又不許作有無之理和會；又不許作世法佛法之義摶量；又不許向一切文字中尋討，等閒唐喪光陰，到老不得成辦。唯貴棄捨身世，向所參話頭上廝挨，立身於萬仞崖巔、著腳於千尺竿上，不覺舉步翻身，打個懸空筋斗，歸來呵呵大笑，那時方可再來喫山僧痛棒。久立。珍重。」