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title: "趙州和尚語錄 · 趙州真際禪師行狀"
description: "赵州从谂禅师是唐代著名禅宗高僧其语录由弟子文远记录后世有大参重校和明声重刻本流传内容汇集了赵州接引学人的机锋对话公案禅语生动展现了南宗禅的生活化与直指人心之特色赵州茶等著名公案广为流传影响深远该语录是研究禅宗临济宗思想的重要文献在佛教史上地位崇高对后世禅风及中日韩禅学发展皆有深刻影响"
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### 趙州真際禪師行狀

> 趙州真際禅師行状

師即南泉門人也。俗姓郝氏，本曹州郝鄉人也，諱從諗。鎮府有塔記云：「師得七百甲子歟！值武王微沐，避地岨崍，木食草衣，僧儀不易。」師初隨本師行腳到南泉。本師先人事了，師方乃人事。南泉在方丈內臥次，見師來參，便問：「近離什麼處？」師云：「瑞像院。」南泉云：「還見瑞像麼？」師云：「瑞像即不見，即見臥如來。」南泉乃起問：「你是有主沙彌，無主沙彌？」師對云：「有主沙彌。」泉云：「那箇是你主？」師云：「孟春猶寒，伏惟和尚尊體起居萬福。」泉乃喚維那云：「此沙彌別處安排。」師受戒後，聞受業師在曹州西，住護國院，乃歸院省覲。到後，本師令郝氏云：「君家之子，遊方已迴。」其家親屬忻懌不已，秖候來日，咸往觀焉。師聞之，乃云：「俗塵愛網，無有了期。已辭出家，不願再見。」乃於是夜結束前邁。其後自攜瓶錫，遍歷諸方。常自謂曰：「七歲童兒勝我者，我即問伊；百歲老翁不及我者，我即教佗。」年至八十，方住趙州城東觀音院，去石橋十里。已來住持枯槁，志效古人。僧堂無前後架，旋營齋食；繩床一腳折，以燒斷薪用繩繫之。每有別制新者，師不許也。住持四十來年，未嘗齎一封書告其檀越。因有南方僧來，舉：問雪峰「古澗寒泉時如何？」雪峰云：「瞪目不見底。」學云：「飲者如何？」峰云：「不從口入。」師聞之曰：「不從口入，從鼻孔裏入。」其僧卻問師：「古澗寒泉時如何？」師云：「苦。」學云：「飲者如何？」師云：「死。」雪峰聞師此語，讚云：「古佛，古佛！」雪峰因此，後不答話矣。厥後因河北燕王領兵收鎮府，既到界上，有觀氣象者奏曰：「趙州有聖人所居，戰必不勝。」燕趙二王，因展筵會，俱息交鋒。乃問：「趙之金地，上士何人？」或曰：「有講《華嚴經》大師，節行孤邈。若歲大旱，咸命往臺山祈禱。大師未迴，甘澤如瀉。」乃曰：「恐未盡善。」或云：「此去一百二十里，有趙州觀音院。有禪師，年臘高邈，道眼明白。」僉曰：「此可應兆乎！」二王稅駕觀焉。既屆院內，師乃端坐不起。燕王遂問曰：「人王尊耶？法王尊耶？」師云：「若在人王，人王中尊；若在法王，法王中尊。」燕王唯然矣。師良久中間問：「阿那箇是鎮府大王。」趙王應喏：「弟子。」緣趙州屬鎮府，以表知重之禮。師云：「老僧濫在山河，不及趍面。」須臾，左右請師為大王說法，師云：「大王左右多，爭交老僧說法。」乃約令左右退。師身畔時有沙彌文遠，高聲云：「啟大王，不是者箇左右。」大王乃問：「是什麼左右？」對曰：「大王尊諱多，和尚所以不敢說法。」燕王乃云：「請禪師去諱說法。」師云：「故知大王曩劫眷屬，俱是冤家。我佛世尊，一稱名號，罪滅福生。大王先祖，才有人觸著名字，便生嗔怒。」師慈悲非倦說法多時，二王稽首讚嘆，珍敬無盡。來日將迴，燕王下先鋒使，聞師不起，凌晨入院，責師傲兀君侯。師聞之，乃出迎接。先鋒乃問曰：「昨日見二王來不起，今日見某甲來，因何起接？」師云：「待都衙得似大王，老僧亦不起接。」先鋒聆師此語，再三拜而去。尋後，趙王發使，取師供養。既屆城門，闔城威儀，迎之入內。師才下寶輦，王乃設拜，請師上殿，正位而坐。師良久以手斫額云：「階下立者是何官長？」左右云：「是諸院尊宿并大師、大德。」師云：「他各是一方化主，若在階下，老僧亦起。」王乃命上殿。是日齋筵將罷，僧官排定，從上至下，一人一問。一人問佛法，師既望見，乃問：「作什麼？」云：「問佛法。」師云：「這裏已坐卻老僧，那裏問什麼法？二尊不並化。」此乃語之詞也王乃令止。其時國后與王俱在左右侍立。國后云：「請禪師為大王摩頂受記。」師以手摩大王頂云：「願大王與老僧齊年。」是時迎師權在近院駐泊，獲時選地，建造禪宮。師聞之，令人謂王曰：「若動著一莖草，老僧卻歸趙州。」其時竇行軍願捨果園一所，直一萬五千貫，號為真際禪院，亦云竇家園也。師入院後，海眾雲臻。是時趙王禮奉，燕王從幽州奏到命服，鎮府具威儀迎接。師堅讓不受。左右舁箱至師面前云：「大王為禪師佛法故，堅請師著此衣。」師云：「老僧為佛法故，所以不著此衣。」左右云：「且看大王面。」師云：「又干俗官什麼事！」乃躬自取衣挂身上，禮賀再三，師惟知應喏而已。師住趙州二年，將謝世時，謂弟子曰：「吾去世之後，焚燒了，不用淨淘舍利。宗師弟子不同浮俗，且身是幻，舍利何生，斯不可也。令小師送拂子一枝與趙王，傳語云：『此是老僧一生用不盡底。』」師於戊子歲十一月十日端坐而終。于時竇家園，道俗車馬數萬餘人，哀聲振動原野。趙王於時盡送終之禮，感歎之泣，無異金棺匿彩於俱尸矣，莫不高營鴈塔，特豎豐碑，諡號曰真際禪師光祖之塔。後唐保大十一年孟夏月旬有三日，有學者咨問東都東院惠通禪師，趙州先人行化厥由。作禮而退，乃授筆錄之。具實矣！

> 師は即ち南泉の門人である。俗姓は郝氏、本籍は曹州郝郷、諱は従諗。鎮府にある塔記にはこうある。「師は七百甲子を得たりや！武王の微沐に値い、地を避けて岨崍に至る。木食草衣、僧儀は易わず」と。 師は初め本師に従って行脚し、南泉に到った。本師が先に人事を済ませ、師がようやく人事をしようとした時、南泉は方丈の中で寝ていた。師が参上するのを見て、すぐに問うた。「近く何処から来たか？」師云く、「瑞像院より」。南泉云く、「瑞像は見たか？」師云く、「瑞像は見えず、ただ臥せる如来を見る」。南泉は起き上がって問うた。「汝は主ある沙弥か、主なき沙弥か？」師対して云く、「主ある沙弥」。泉云く、「その主とは誰か？」師云く、「孟春なお寒し、伏して惟うに和尚尊体の起居万福ならんことを」。泉は維那を呼んで云く、「この沙弥を別の場所に手配せよ」。 師は受戒後、受業師が曹州の西、護国院に住していると聞き、院に帰って省覲した。到着すると、本師は郝氏に言った。「君が家の子、遊方より戻りたり」。その家の親族は喜びに耐えず、ただ明日を待ち、皆で見に行こうとした。師はこれを聞き、云く、「俗塵の愛網には終わりがない。すでに出家を辞し、再び会うことを願わぬ」。そこでその夜、荷物をまとめて先へと進んだ。 その後、自ら瓶と錫杖を携え、諸方を遍歴した。常に自ら言う。「七歳の童児で我に勝る者あれば、我は即ち彼に問う。百歳の老翁で我に及ばざる者あれば、我は即ち彼を教えん」。年八十にして、ようやく趙州城東の観音院に住し、石橋から十里の地にいた。以来、住持として枯淡に過ごし、古人に倣うことを志した。僧堂には前後の架けもなく、ただ回り回って斎食を営み、縄床の一脚が折れれば、燃え切った薪で縄を縛って繕った。新しいものを別に作ろうとしても、師は許さなかった。住持として四十年来、一度も檀越に書状を送って頼むことはなかった。 南方の僧が来て、雪峰に問うたことを挙げた。「古澗寒泉の時如何？」雪峰云く、「目を瞠っても底が見えぬ」。学云く、「飲む者は如何？」峰云く、「口よりは入らぬ」。師はこれを聞き云く、「口より入らぬなら、鼻孔より入るであろう」。その僧が今度は師に問うた。「古澗寒泉の時如何？」師云く、「苦し」。学云く、「飲む者は如何？」師云く、「死ぬ」。雪峰は師のこの言葉を聞き、讃えて云く、「古仏、古仏！」雪峰はこのため、その後は問いに答えなくなった。 その後、河北の燕王が兵を率いて鎮府を収めようとした。境界に到ると、気象を観る者が奏上した。「趙州には聖人の住む所あり、戦えば必ず勝たず」。燕・趙の二王は、宴を開き、交鋒を共に止めた。そして問うた。「趙の金地には、優れた士は誰か？」ある者は言った。「『華厳経』を講ずる大師がおり、節行は孤高である。もし大旱があれば、皆で台山に往き祈禱を命ずる。大師が戻らぬうちに、慈雨が注ぐ」。しかし言う。「恐らく未だ尽く善からず」。またある者は云く。「ここから百二十里、趙州観音院に禅師がいる。年臘高く、道眼明白である」。皆が言う。「これこそ兆しに応ずる者ではなかろうか！」二王は車を停めて見に行った。 院に到ると、師は端坐して起たなかった。燕王が問うた。「人王尊いか？法王尊いか？」師云く、「人王にあれば、人王の中にて尊し。法王にあれば、法王の中にて尊し」。燕王はただ然りとす。師はしばらくして間を置き、問うた。「どちらが鎮府の大王か？」趙王が応諾した。「弟子です」。<note place="inline">趙州は鎮府に属するため、重んずる礼を表したのである。</note>師云く、「老僧、山河に濫りて、顔を趨めず」。しばらくして、左右が師に大王の為に説法するよう請うた。師云く、「大王の左右多し、争って老僧に説法せしむ」。そこで左右を退かせるよう約した。師の身辺にいた沙弥の文遠が、高声に云く、「大王に啓す、この左右にあらず」。大王が問うた。「何の左右か？」対して曰く、「大王の尊諱多し、故に和尚は説法を敢えてせず」。燕王が云く、「禅師に諱を去って説法を請う」。師云く、「故に知る、大王の曩劫の眷属は、皆冤家なり。我が仏世尊は、一たび名号を称すれば、罪滅び福生ず。大王の先祖は、ただ人が名前に触れるだけで、嗔怒を生ず」。師は慈悲に倦まず、長く説法した。二王は稽首して讃嘆し、珍重して尽きることがなかった。 翌日、帰ろうとした時、燕王の先鋒使が、師が起たなかったと聞き、未明に院に入り、君侯に対して傲慢であると師を責めた。師はこれを聞き、出て迎接した。先鋒が問うた。「昨日は二王が来ても起たず、今日は某が来たのに、なぜ起って迎えるのか？」師云く、「都衙が大王のようであれば、老僧もまた起って迎えぬ」。先鋒は師のこの言葉を聞き、再三拝して去った。 その後、趙王が使いを発し、師を供養に迎えた。城門に到ると、城を挙げて威儀を整え、迎え入れた。師が宝輦を降りると、王は拝礼を設け、師を上殿に請じ、正位に坐らせた。師はしばらくして手で額を払い云く、「階下に立つ者は何の官長か？」左右云く、「諸院の尊宿并びに大師・大徳です」。師云く、「彼らは各々一方の化主である。もし階下にいるなら、老僧もまた起つ」。王は命じて上殿させた。 その日、斎筵が終わろうとした時、僧官が順に並び、上から下まで一人ずつ問うた。一人が仏法を問おうとした。師はそれを見て、問うた。「何をするか？」云く、「仏法を問う」。師云く、「ここには既に老僧が坐っている。そこで何の法を問うのか？二尊並び化せず」。<note place="inline">これは言葉の詞である。</note>王は止めさせた。 その時、国后と王が共に左右に侍立していた。国后が云く、「禅師に大王の為に摩頂受記を請う」。師は手で大王の頂を摩して云く、「願わくは大王と老僧と年を同じくせん」。この時、師を迎えて近くの院に暫く駐泊させ、時を得て地を選び、禅宮を建造しようとした。師はこれを聞き、人をやって王に言わせた。「もし一本の草でも動かすならば、老僧は趙州に帰る」。その時、竇行軍が果樹園一ヶ所を喜捨した。値一万五千貫、真際禅院と号し、竇家園ともいう。師が入院すると、海衆が雲のごとく集まった。 この時、趙王は礼奉し、燕王は幽州から命服を奏上し、鎮府は威儀を具えて迎接した。師は堅く辞して受けなかった。左右が箱を師の前に運び云く、「大王は禅師の仏法の為に、堅く師にこの衣を着けることを請う」。師云く、「老僧は仏法の為に、故にこの衣を着けぬ」。左右云く、「暫く大王の顔を御覧下さい」。師云く、「また俗官の何事か！」そして自ら衣を取り、身に掛け、礼賀が再三あったが、師はただ応諾するのみであった。 師は趙州に二年住み、世を謝えんとする時、弟子に謂うた。「吾が世を去った後、焼き捨てよ。舎利を浄淘する必要はない。宗師の弟子は浮俗と異なり、且つ身は幻なり。舎利何ぞ生ぜん、斯れ不可なり。小師に命じて拂子一枝を趙王に送り、伝言せよ、『これは老僧一生用いて尽きざるものなり』と」。 師は戊子歳十一月十日、端坐して終わった。その時、竇家園では、道俗の車馬数万余り、哀声は原野を震動させた。趙王は当時、送終の礼を尽くし、感嘆の涙は、金棺が俱尸に彩を匿すに異ならず。皆、高く雁塔を営み、特に豊碑を豎て、諡号を真際禅師光祖之塔とした。 後唐保大十一年孟夏月旬有三日、学者が東都東院の恵通禅師に、趙州先人の行化の由を諮問した。礼をして退き、筆を授けてこれを録した。実を具す！