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title: "御錄經海一滴 · 金剛經"
description: "御錄經海一滴由清世宗雍正帝胤禛編錄。該書成於清朝雍正年間，是皇帝親自從浩瀚佛經中擷取精要彙編而成。內容主要輯錄佛教重要經典的核心章節與教義，旨在提煉佛法精髓，方便學人修習。此作反映了雍正帝對佛教的深刻理解與推崇，並體現了清代皇室對佛教的支持與管理。在佛教地位上，它作為帝王親撰的佛學著作，不僅具有權威性，也成為研究清代政教關係及皇室佛教信仰的重要文獻，在佛教典籍中佔有特殊地位。"
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### 金剛般若波羅密經

佛言善男子善女人發阿耨多羅三藐三菩提心應如是住如是降伏其心。

所有一切眾生之類若卵生若胎生若濕生若化生若有色若無色若有想若無想若非有想非無想我皆令入無餘涅槃而滅度之如是滅度無量無數無邊眾生實無眾生得滅度者何以故須菩提若菩薩有我相人相眾生相壽者相即非菩薩復次須菩提菩薩於法應無所住行於布施所謂不住色布施不住聲香味觸法布施須菩提菩薩應如是布施不住於相何以故若菩薩不住相布施其福德不可思量。

> あらゆる種類の生きとし生けるもの――卵から生まれるもの、胎内から生まれるもの、湿気から生まれるもの、変化して生まれるもの、形あるもの、形なきもの、想いあるもの、想いなきもの、想いがあるのでもなくないのでもないもの――そのすべてを、私は余すところなく完全な涅槃へと導き、苦しみのない境地に到達させます。 このようにして、数えきれないほどの無数の生きとし生けるものを救いながらも、実際には、救われた者など一人もいません。なぜなら、真実の姿においては、救う者も救われる者もないからです。 それはなぜかと言いますと、須菩提よ、もし菩薩が「私」という姿、「人」という姿、「生きとし生けるもの」という姿、「永遠に生きるもの」という姿に執着するなら、それは本当の菩薩ではないからです。 さらに、須菩提よ、菩薩はすべてのものに執着せずに布施を行うべきです。つまり、形あるものに執着して布施をしてはならず、音や香り、味、触れるもの、心の対象に執着して布施をしてはなりません。須菩提よ、菩薩はこのようにして、何の形にもとらわれずに布施をすべきなのです。 なぜなら、もし菩薩が形にとらわれ

凡所有相皆是虛妄若見諸相非相則見如來。

如來滅後後五百歲有持戒修福者於此章句能生信心以此為實當知是人不於一佛二佛三四五佛而種善根已於無量千萬佛所種諸善根聞是章句乃至一念生淨信者如來悉知悉見。

> 如来が涅槃に入られた後の、最後の五百年の世の中にあっても、戒律を守り、福徳を積む修行者がいるならば、その人はこの経の一節一句を聞いて、心から信仰を起こし、これを真実の教えと信じるでしょう。知るがよい、その人は一柱の仏や二柱の仏、三柱、四柱、五柱の仏のもとでのみ善い根を植えたのではありません。すでに無数の千万の仏のもとで、さまざまな善い根を植えているのです。この経の一節一句を聞いて、ほんの一瞬でも清らかな信仰を起こす者があれば、如来はその人のすべてを知り、すべてを見通しておられます。

是故不應取法不應取非法以是義故如來常說汝等比丘知我說法如筏喻者法尚應捨何况非法須菩提於意云何如來得阿耨多羅三藐三菩提耶如來有所說法耶須菩提言如我解佛所說義無有定法名阿耨多羅三藐三菩提亦無有定法如來可說何以故如來所說法皆不可取不可說非法非非法所以者何一切賢聖皆以無為法而有差別。

> ですから、私たちは「法（教え）」に執着してはならず、「非法（教えでないもの）」にも執着してはなりません。この意味から、如来は常にこう説かれました。「比丘たちよ、わたしの説く法は、たとえるなら筏のようなものであると知りなさい。教えさえも捨て去るべきであるのに、ましてや教えでないものを執着してはならない」。 また、須菩提よ、どう思うか。如来は、無上正等覚（あらゆるものを完全に悟る智慧）を実際に得たと言えるだろうか。また、如来は何か決まった法を説いたと言えるだろうか。 須菩提は答えた。「私が仏の説かれた意味を理解する限り、無上正等覚と名づけるような固定的な法はありません。また、如来が説かれるような固定的な法もありません。なぜなら、如来の説かれた法は、いずれも執着してはならず、言葉で言い表すこともできないものだからです。それは『法』とも言えず、『非法』とも言えません。それはなぜかと言えば、すべての聖者たちは、この『

佛告須菩提於意云何如來昔在然燈佛所於法有所得否不也世尊如來在然燈佛所於法實無所得須菩提於意云何菩薩莊嚴佛土否不也世尊何以故莊嚴佛土者即非莊嚴是名莊嚴是故須菩提諸菩薩摩訶薩應如是生清淨心不應住色生心不應住聲香味觸法生心應無所住而生其心。

> 仏は須菩提に告げられた。「どう思うか。如来はかつて然燈仏のもとで、何か教えを得ただろうか。」 「いいえ、世尊よ。如来が然燈仏のもとで、実際には何も得てはおりません。」 「須菩提よ、どう思うか。菩薩は仏の国を荘厳するだろうか。」 「いいえ、世尊よ。なぜならば、荘厳するとは、本来荘厳ではなく、仮に荘厳と名づけるにすぎないからです。」 「それゆえ、須菩提よ。もろもろの菩薩や大菩薩は、このように清らかな心を生じるべきである。色にとらわれて心を生じてはならず、声・香り・味・触れられるもの・法（こころの対象）にとらわれて心を生じてはならない。何にもとらわれることなく、心を生じるがよい。」

若是經典所在之處即為有佛若尊重弟子。

> もし、この経典のあるところには、仏がおられると知りなさい。また、そこにいる尊い弟子たちもいるのです。

須菩提於意云何可以三十二相見如來否不也世尊不可以三十二相得見如來何以故如來說三十二相即是非相是名三十二相。

> 舎利弗よ、どう思うか。三十二相によって如来を見ることができるだろうか。 いいえ、世尊よ。三十二相によって如来を見ることはできません。 なぜなら、如来が説かれた三十二相とは、すなわち実体のない相であり、 それを仮に三十二相と名づけているからです。

世尊若復有人得聞是經信心清淨則生實相當知是人成就第一希有功德世尊是實相者則是非相是故如來說名實相。

> 世尊よ。もしもこの経を聞いて、清らかな信心を起こす人があれば、その人は真実の姿（実相）を悟るでしょう。その人は、この上なくすぐれた、めったにない功徳を成就した者だと知るべきです。 世尊よ。その「実相」とは、実は実相という形あるものではなく、固定した性質を持たないものです。だからこそ、如来はそれを「実相」と名付けたのです。

佛告須菩提菩薩應離一切相發阿耨多羅三藐三菩提心不應住色生心不應住聲香味觸法生心應生無所住心若心有住則為非住。

> 仏は須菩提に告げられた。「菩薩は、あらゆる「形（相）」にとらわれることなく、この上ない完全な悟り（阿耨多羅三藐三菩提）を求める心を起こすべきである。色に執着して心を起こしてはならず、声や香り、味、触れたもの、心に浮かぶことにも執着して心を起こしてはならない。執着する場所のない心を起こすべきである。もし心に執着する場所があれば、それは本来あるべき心の在り方ではない。」

如來說一切諸相即是非相又說一切眾生即非眾生須菩提如來是真語者實語者如語者不誑語者不異語者須菩提如來所得法此法無實無虛須菩提若菩薩心住於法而行布施如人入闇則無所見若菩薩心不住法而行布施如人有目日光明照見種種色。

> 如来は、あらゆる「相」について、それは本当の姿ではないと説きました。また、あらゆる「生きとし生けるもの」についても、それらは本当の存在ではないと説きました。須菩提よ、如来は真実を語る者、偽りのないことを語る者、そのままを語る者、人を欺かない者、二言のない者です。 須菩提よ、如来が悟った教えとは、実体があるわけでもなく、虚無であるわけでもありません。 須菩提よ、もし菩薩が対象にとらわれた心で施しを行うなら、それは暗闇の中に入るようなもので、何も見ることができません。しかし、もし菩薩が対象にとらわれない心で施しを行うなら、それは目を持つ人が太陽の光のもとで様々な色を見るようなものです。

須菩提以要言之是經有不可思議不可稱量無邊功德如來為發大乘者說為發最上乘者說。

> 須菩提よ、かいつまんで言えば、この経典には、思いはかることも、はかり知ることも、量り知ることもできない、限りない功徳があります。 如来は、大いなる目ざめを求める人々のためにこの教えを説き、また、最もすぐれた目ざめを求める人々のために説かれたのです。

若樂小法者著我見人見眾生見壽者見則於此經不能聽受讀誦為人解說。

> もし小さな教え（小乗）を喜ぶ者は、自己や他人、衆生、永遠の存在という固定した見解にとらわれています。そのような者は、この経典を聴き、受け入れ、読誦し、他の人のために説くことはできません。

當知是經義不可思議果報亦不可思議。

> この経典の意味するところは、思いはかることのできないものです。その功徳もまた、思いはかることのできないものです。

如來者即諸法如義若有人言如來得阿耨多羅三藐三菩提須菩提實無有法佛得阿耨多羅三藐三菩提須菩提如來所得阿耨多羅三藐三菩提於是中無實無虛是故如來說一切法皆是佛法須菩提所言一切法者即非一切法是故名一切法。

> 如来とは、すべてのものが「あるがまま」であるという真理のことです。もし誰かが「如来は無上正等覚（あのくたらさんみゃくさんぼだい）を得た」と言うなら、須菩提よ、それは誤りです。実は、仏が無上正等覚を得るという、そういう固定した法（決まったもの）はないのです。 須菩提よ、如来が得た無上正等覚とは、その中には「実体がある」とも「無い」とも言えないものなのです。だからこそ、如来は「すべてのものがそのまま仏法である」と説くのです。 須菩提よ、私が「すべてのもの」と言っても、それは実体のある「すべてのもの」ではありません。だからこそ、仮に「すべてのもの」と呼んでいるにすぎないのです。

須菩提若菩薩通達無我法者如來說名真是菩薩。

> 浄名よ、もし菩薩が「無我」の教えを悟ったなら、如来はその者を真の菩薩であると説かれるのです。

須菩提於意云何如一恒河中所有沙有如是沙等恒河是諸恒河所有沙數佛世界如是寧為多否甚多世尊佛告須菩提爾所國土中所有眾生若干種心如來悉知何以故如來說諸心皆為非心是名為心所以者何須菩提過去心不可得現在心不可得未來心不可得。

須菩提汝勿謂如來作是念我當有所說法莫作是念何以故若人言如來有所說法即為謗佛不能解我所說故須菩提說法者無法可說是名說法。

> 須菩提よ、あなたは「如来には『私は何かを説法しよう』という考えがある」と言ってはならない。そのように考えるべきではない。なぜなら、誰かが「如来は説法した」と言えば、それは仏を誹謗するものであり、私の教えを正しく理解していないからである。須菩提よ、説法とは、説かれるべき固定的な法はなく、それを仮に説法と呼ぶのである。

須菩提我於阿耨多羅三藐三菩提乃至無有少法可得是名阿耨多羅三藐三菩提復次須菩提是法平等無有高下是名阿耨多羅三藐三菩提以無我無人無眾生無壽者修一切善法則得阿耨多羅三藐三菩提須菩提所言善法者如來說即非善法是名善法。

> 須菩提、私が阿耨多羅三藐三菩提について、 得るべきものは、ほんのわずかも存在しません。 だからこそ、それを阿耨多羅三藐三菩提と名付けるのです。 さらに、須菩提、この法は平等であり、 高いも低いもありません。 それゆえ、阿耨多羅三藐三菩提と名付けるのです。 自己もなく、人もなく、衆生もなく、寿命もないと見て、 あらゆる善い行いを修めるならば、 阿耨多羅三藐三菩提を得ることができます。 須菩提、私が「善い行い」と言っても、 如来はそれは実に善い行いではないと言い、 ただ仮に善い行いと名付けるに過ぎません。

汝等勿謂如來作是念我當度眾生須菩提莫作是念何以故實無有眾生如來度者若有眾生如來度者如來則有我人眾生壽者須菩提如來說有我者則非有我而凡夫之人以為有我須菩提凡夫者如來說則非凡夫須菩提於意云何可以三十二相觀如來否須菩提言如是如是以三十二相觀如來佛言須菩提若以三十二相觀如來者轉輪聖王則是如來須菩提白佛言世尊如我解佛所說義不應以三十二相觀如來爾時世尊而說偈言。

> 皆さん、「如来が『私は衆生を救済しよう』と考えている」と言ってはなりません。 須菩提よ、そのように思ってはならない。なぜなら、実際には如来が救う衆生など存在しないからだ。もし如来が救う衆生が存在するならば、如来には我相・人相・衆生相・寿者相が存在することになってしまう。 須菩提よ、如来が「我」と言うのは、真実の我ではなく、凡夫の人々はそれを本当の我と思い込んでいるだけである。 須菩提よ、凡夫とは、如来の教えでは実は凡夫ではないのである。 須菩提よ、どう思うか。三十二相をもって如来を見ることができるだろうか。」 須菩提は答えた。「その通りです、その通りです。三十二相をもって如来を見ることができます。」 仏は須菩提に言われた。「もし三十二相をもって如来を見るならば、転輪聖王もまた如来ということになる。」 須菩提は仏に申し上げた。「世尊よ、私が仏の教えの意味を理解したところによれば、三十二相をもって如来を見るべきではありません。」 その時、世尊は偈を説かれた。

若以色見我 以音聲求我 是人行邪道不能見如來

> もし色（形）によって私を見ようとし、 音声によって私を求めようとするならば、 その人は邪道を行っている者であり、 如来（真理そのもの）を見ることはできない。

須菩提汝若作是念如來不以具足相故得阿耨多羅三藐三菩提須菩提莫作是念如來不以具足相故得阿耨多羅三藐三菩提須菩提汝若作是念發阿耨多羅三藐三菩提心者說諸法斷滅莫作是念何以故發阿耨多羅三藐三菩提心者於法不說斷滅相須菩提若菩薩以滿恒河沙等世界七寶持用布施若復有人知一切法無我得成於忍此菩薩勝前菩薩所得功德。

> 「須菩提よ、もしあなたが『如来は完全な姿形を具えていないからこそ、最高の悟りを得たのだ』と考えるなら、そのように考えてはならない。 須菩提よ、もしあなたが『最高の悟りを求める心を起こした者は、すべての現象は断滅すると説く』と考えるなら、そのように考えてはならない。なぜなら、最高の悟りを求める心を起こした者は、現象について断滅の見解を説くことはないからだ。 須菩提よ、もし菩薩がガンジス川の砂の数ほどの世界に満ちた七種の宝を持って布施を行い、さらにまた別の者が、すべての現象には自己がなく、無我の真理を忍耐をもって受け入れる境地に達したなら、この菩薩の功徳は先の菩薩よりも勝れている。」

若有人言如來若來若去若坐若臥是人不解我所說義何以故如來者無所從來亦無所去故名如來。

> もし誰かが「如来は来たり、去り、坐したり、臥したりする」と言うなら、その人は私が説いた意味を理解していない。なぜか？如来とは、どこからも来たのではなく、どこへも去るものでもないからだ。それゆえに「如来」と呼ばれるのである。

如來所說三千大千世界則非世界是名世界何以故若世界實有者則是一合相如來說一合相則非一合相是名一合相須菩提一合相者則是不可說但凡夫之人貪著其事。

> 如来が説くところの三千大千世界は、すなわち世界にあらず、仮に世界と名づく。その理由は何か。もし世界が実在するならば、それは「一合の相」である。如来が説く一合の相は、すなわち一合の相にあらず、仮に一合の相と名づく。須菩提よ、一合の相とは、すなわち説くべからざるものなり。ただ凡夫の人々が、そのことに執着し貪るのみ。

須菩提發阿耨多羅三藐三菩提心者於一切法應如是知如是見如是信解不生法相須菩提所言法相者如來說即非法相是名法相。

> 舎利弗（須菩提）よ、無上正等覚（阿耨多羅三藐三菩提）の心を起こした者は、すべてのものごと（法）について、次のように知り、次のように見、次のように信じ、理解すべきである。すなわち、ものごとの形（法相）を生み出してはならない。舎利弗よ、私が「ものごとの形」と言うのは、如来はそれを「形ではない」と説き、ただ「形と呼ぶ」と説くのである。

云何為人演說不取於相如如不動何以故。

> では、どのように人々に説き示せばよいのか。それは、あらゆる相（形や概念）に執着せず、ありのままの真実（如如）に安らぎ動かないことである。なぜならば、

一切有為法 如夢幻泡影 如露亦如電應作如是觀

> あらゆる現象（つくられたもの）は、夢や幻、泡や影のようなもの。 また、露や稲妻のようなもの。 このように観察すべきである。

## 御錄經海一滴卷之一

> 御録経海一滴 巻の一

### 音釋鑛

> 音釋礦

古猛切。銷

> （古猛切と読む）溶かす。

先彫切。螢

> 先彫切る。蛍。

音榮火䖝腐草所化一名夜光一名宵燭。殫

> <note place="inline">音栄・火虫・腐草の生まれ変わり。別名、夜光、宵燭とも呼ばれる</note>。尽きる。

都艱切同盡也竭也。

> 尽きる、なくなる、使い果たすという意味です。