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title: "雪竇石奇禪師語錄 · 塔銘"
description: "雪竇石奇禪師語錄是清代臨濟宗高僧通雲禪師的語錄集由弟子行正等人編錄通雲禪師法號石奇住持浙江雪竇寺活躍於明末清初該書收錄其開示法語機鋒問答及詩偈內容深入闡釋禪宗心性公案與修行實踐展現了臨濟宗峻烈直捷的宗風在明清禪宗史上具有重要地位是研究臨濟宗傳承與清代禪學思想的重要文獻對後世禪修者具指導意義"
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### 塔銘

> 塔銘

皇清康熙，歲在癸卯春正，雪竇石奇和尚示寂於婁東之南廣寺。越五月，歸葬於甬之妙高峰，從其志也。丙午春二月，雪竇繼席弟子山夫行正以狀來請余銘其塔。余與師雖未謀面，而師之行解雷耳，久已隔峰相見，其何能辭？

> 清の康熙帝の御世、癸卯の春正月、雪竇石奇和尚が婁東の南広寺において示寂された。それより五月を経て、甬の妙高峰に葬られ、その志に従ったのである。丙午の春二月、雪竇の法席を継いだ弟子の山夫行正が、その事績を記した文を持参し、和尚の塔に銘を刻むことを私に願い出た。私は和尚と直接お会いしたことはないが、その行いと悟りは雷のごとく耳に響き、久しく峰を隔てて相見るがごとくであった。どうして辞退できようか。

按狀：師諱通雲，號石奇，系出婁東徐氏，父諱調元，母孫氏。十歲失怙，寄養姊家，因篤疾間陡現一境如夢，忽醒，曰：「前途灼然，有條大路，何故留滯於此？」乃辭母，告以出家之志，遂脫白於本州南廣寺。適往嘉定，於護國寺壁間睹中峰祖師偈云：「蹭蹬莫隨愚伴侶，蹉跎又恐落風塵。」悚焉猛省，矢願參方，因母老未果，寄居隆福寺四年。既而住靜虞山，刺血書《華嚴經》，遇等慈老宿，令看高峰語錄，提究父母未生前一著，服膺弗替。後往藤溪聽講《楞嚴》，聞法師舉「千日學慧，不如一日學佛」，憬然曰：「聽教非究竟也。」旋往中峰。

> 申し上げます：師の諱は通雲、号は石奇、本貫は婁東の徐氏。父の諱は調元、母は孫氏。十歳で父を失い、姉の家に寄宿していた折、重病の際に夢のような一境が突然現れ、忽ち目覚めて言った。「前途は明らかに、一条の大道があるのに、どうしてここに留まっているのか」と。そこで母に別れを告げ、出家の志を伝え、本州の南広寺で得度した。嘉定に赴き、護國寺の壁に中峰祖師の偈を見た。「蹭蹬莫隨愚伴侶、蹉跎又恐落風塵（つまずき愚かな伴侶に従うな、時を過ごせばまた風塵に落ちる恐れあれ）」と。慄然として猛然と省み、諸方参拝を誓願したが、母が老いて果たせず、隆福寺に四年寄居した。その後、虞山に静住し、血を刺して『華厳経』を写経し、等慈老宿に遇い、高峰語録を看るよう勧められ、父母未生前の一着を提究し、心に銘じて怠らなかった。後に藤渓に往き『楞厳経』の講義を聴き、法師が「千日学慧、不如一日学仏（千日智慧を学ぶも、一日仏を学ぶに如かず）」と挙げるのを聞き、憬然として言った。「教えを聴くのは究竟ではない」と。直ちに中峰に往った。

書完《華嚴》，至瓶窯見聞谷師，復到顯聖見湛然師，疑情大發，卒參密雲老人，屢呈所見，密震威叱曰：「待你入處硬掙，後來為人手段自別。」于是棒下頓脫凝滯，不離左右者一十三載。

> 『華厳経』を書き終え、瓶窯に赴いて聞谷禅師に会い、さらに顕聖寺で湛然禅師に会いました。そこで疑念が大きく湧き起こり、最終的に密雲老禅師のもとで参禅することになりました。何度も自分の見解を述べましたが、密雲禅師は威厳をもって叱りつけました：「お前がしっかりと悟りの境地に至るのを待て。そうすれば、後に人を導く手腕も自ずと違ってくるだろう。」こうして、その厳しい指導のもとで、たちどころに凝り固まった執着から脱することができ、それから十三もの歳月を師のそばを離れずに過ごしたのでした。

歲丁丑，於普潤院掩關三年，一踞猊座，問難響答、機辯泉流，淮海人士翕然景從。

> 歳は丁丑、普潤院にて三年の間、関を閉ざし、一たび猊座に踞ると、問難に響き答えて、機鋒の弁は泉の流れの如く、淮海の人士はことごとく景仰し従った。

辛巳，應密雲師命，住持台之靈鷲。來年省密，密親手授師衣，未幾密示寂。爾時得法諸弟子競各布席一方，雲山渺隔，弗克躬襄，後事獨師一人肩之。後赴景星之請，景星溪山之勝甲於緱城，座下英靈雲集，氣吞諸方，刀耕火耨，不復作出山想。

> 辛巳の年、密雲師の命に応じ、台州の霊鷲寺の住職となった。翌年、密雲師を訪ねると、師は自ら衣を手渡された。間もなく密雲師は示寂された。その時、法を継いだ諸弟子たちはそれぞれ一方に席を布き、雲や山に隔てられて、葬儀に参列することができなかった。後事を一人で担ったのは、師ただ一人であった。その後、景星寺の招きに応じた。景星寺の渓山の景勝は緱城で第一とされ、そのもとには英霊が雲のごとく集い、その気勢は諸方を圧倒した。刀で耕し、火で草を焼く生活に、もはや山を出ようとは思わなかった。

會癸未，雪竇寺燬，乏主者，紳士延請再四，因杖策而至，山空無依，惟有堆雲敗葉。寺址半為豪侵，如河南南陽之不可問，乃倚巖架屋而居。先時密師記曰：「狗子無一隻，折箸無一雙，是汝住處。」固在雪竇也，遂甘心居之。以偈勉眾曰：「山居茆屋十餘間，驀地狂風盡打翻，珍重吾徒齊著力，大家扶起莫生煩。」時諸山谷間兵寇縱橫，兼之饑饉相仍，所在無寧宇，師恬不介意，攝暴以慈、伏強以忍，久之皈誠向化，皆為外護。法堂、佛殿、方丈、廚庫、湢室次第落成，二覺祖庭崢嶸壯麗，頓復前規，師入山所云：「瓊樓玉殿，百草頭上全彰；千丈報身，瓦礫堆邊頓現。」非虛語矣。

> 癸未の年、雪竇寺が焼失し、住職となる者がいなくなりました。地元の紳士たちが何度も懇願したため、私は杖をついて寺へ向かいました。山は空しく、頼りになるものはなく、ただ雲のように積もった枯れ葉だけがありました。寺の敷地の半分は豪族に侵されており、まるで河南や南陽の地のように、手の施しようがありませんでした。そこで、私は岩に寄りかかるように小屋を建てて住むことにしました。 以前、密師が記した言葉がありました。「犬は一匹もいない、箸は一膳もない、これが汝の住処である。」まさに雪竇こそがその場所だと悟り、私は心からここに住むことを決意しました。そして、皆を励ますために次の偈を詠みました。 「山に住む茅屋十余軒、突然の狂風にことごとく吹き飛ばされる。我が弟子たちよ、互いに力を合わせて大切にせよ。皆で支え合い、煩わしさを生じさせぬように。」 当時、谷々には兵や賊が横行し、飢饉も相次ぎ、どこにも安寧の地はありませんでした。しかし、私は平然として気にかけず、慈しみをもって暴を鎮め、忍耐をもって強きを伏せました。時が経つにつれ、人々は誠心誠意帰依し、皆が外護となってくれました。 法堂、仏殿、方丈、厨庫、浴室が次々と完成し、二覚祖庭は聳え立つように壮麗になり、かつての姿を見事に取り戻しました。私が山に入った時に言った言葉、「瓊楼玉殿は、草の先にことごとく現れる。千丈の報身は、瓦礫の傍らにたちまち現れる。」は、決して虚言ではなかったのです。

越明年，己丑，赴興化黎君之請，遠近信嚮者，舟楫鱗比、老幼肩摩，諸方主席之盛罕出其右。庵址宅水中，邑人慮有水患，方議聚財編木為衛，逡巡未舉，師以檀信供養所入，罄付主僧，紏工竣事。俄而泗水忽至，竟免漂溺，師之力也。師珍重付授，絕不以佛法作人情，自是兩淮吳越數千里間學道高流聞風興感，競推雪竇為中流砥柱云。大抵師之門庭嚴峻而存心廣大，有過犯者，改則許之。嘗云：「若使人根皆端，不復用諸佛菩薩出現世間矣。」

> 翌年、己丑の年、興化の黎君の招きに応じて赴いた。遠近の信者が集い、舟は鱗のように並び、老若男女が肩を摩するほどの賑わいで、各地の法席の盛況もこれに及ぶものは稀であった。庵の敷地は水の中にあり、地元の人々は水害を心配し、財を集めて木を編み防護する計画を立てていたが、躊躇して実行に移せずにいた。そこで師は信者からの供養を全て主僧に託し、工事を完成させた。ほどなくして洪水が突然押し寄せたが、庵は流されることも水没することも免れた。これは師の力によるものであった。師は教えを大切に伝え、決して仏法を人情の道具にはしなかった。それ以来、両淮から呉越に至る数千里の間で、学道の高僧たちが師の風聞に感銘を受け、雪竇を中流の砥柱と競って称えた。概して師の門風は厳格でありながら、心は広大で、過ちを犯した者でも改めれば許した。師は常々こう語っていた。「もし人々の根性が皆まっすぐであれば、諸仏菩薩がこの世に出現する必要はないのだから」と。

歲丁酉，婁東士紳有南廣之請，師因浚鹽鐵河直達於寺，以利舟行。其皈命之眾倡化之隆，復不啻興化時也。

> 丁酉の年、婁東の士紳たちが南広に招請し、師はこれに応じて塩鉄河を開削し、寺まで直通させ、舟の航行を便利にした。帰依する人々の多さと教化の盛んな様は、かつて興化の時代にも劣らぬほどであった。

初師矢志力扶法社，自是幾四十年誓願已愜，且將東歸妙高，未幾疾作。歷數日，命二侍舉時，皆以子時對，乃微點首，遂以是時逝。越數日，尚未合龕，顏色如生，瀕舉龕歸四明，忽寺西失火，僧寮俱燼，而龕獨巋然，人共異之。乃於五月十三日抵甬，窆於妙高峰之塔院。溯其生于萬曆甲午二月廿五日，卒于康熙二年正月初十，世壽七十，僧臘四十有五。

> 初めに師は矢を放つ志を立てて法社を支え、それ以来およそ四十年、誓願はすでに満たされ、まさに東へ妙高へ帰ろうとしていた。ほどなくして病が起こった。数日が過ぎ、二人の侍者に今の時刻を尋ねると、皆が子の刻と答えた。師はわずかにうなずき、そのままその時に逝去された。数日後、まだ龕（かん）に納められていないのに、顔色は生きているようであり、四明へ龕を運び上げようとしたとき、突然寺の西側で火事が起こり、僧房はすべて焼け落ちたが、龕だけは高くそびえて無事だった。人々は皆これを不思議に思った。五月十三日に甬（よう）に着き、妙高峰の塔院に埋葬された。師の生まれは万暦甲午年二月二十五日、亡くなったのは康熙二年正月初十日、世寿七十歳、僧侶としての年数は四十五年であった。

嗟乎！濟北宗風自密師弘震之後，全提正令而橫身坐斷，百尺無枝，孰有如石奇和尚者乎？其闡揚法錄，曰把關、曰靈鷲、曰景星、曰雪竇、曰興化、曰密印，六種集行世。其嗣法弟子一十二人——景星行常、大梅行幟、雪竇行正、仗錫行旋、金沙行研、天王行林、妙高行恂、南廣行制、海岸行紹、登岱行建、南嶽行環、西園行月——及庵主一人雄聖行致，至一時紳士之真心嚮道獲受鑪錘者，指不勝屈也。

> ああ、済北の宗風は密師が広く世に響かせて以来、正しい教えを余すところなく示し、横たわって一切を断じ、百尺の高木に枝一つない境地に至った。石奇和尚のような方は、他にいるだろうか。 和尚が世に広めた法録は、『把関』『霊鷲』『景星』『雪竇』『興化』『密印』の六種が世に行き渡っている。その法を嗣いだ弟子は十二人——景星行常、大梅行幟、雪竇行正、仗錫行旋、金沙行研、天王行林、妙高行恂、南広行制、海岸行紹、登岱行建、南嶽行環、西園行月——と庵主一人、雄聖行致がおり、さらにその時代の真心から道を求め、和尚の鍛錬を受けた士人・紳士は数えきれないほどであった。

為之銘曰：

> 銘に記す。

承源臨濟，溯流楊岐，密老血胤，人天共推。入處硬掙，為人自別，凜奉師言，提持直捷。乳峰生面，千載重開，二覺光明，爍破埏垓。靈鷲景星，施設蔚隆，末後涵藏，妙高一峰。大機大用，邈不可即，雪瀑虹飛，今古為式。

> 源流を承け臨済に臨み、流れを溯れば楊岐に至る。密老の血脈は、人天共に推すところ。入り処は硬く掙き、人の為に自ら別つ。師の言を凜として奉じ、直捷を提持す。乳峰の生面、千載に重ねて開き、二覚の光明、埏垓を爍破す。霊鷲の景星、施設蔚然として隆んに、末後の涵蔵、妙高の一峰。大機大用、邈として即すべからず、雪瀑虹飛、今古の式と為す。

康熙丙午春王二月

> 康熙帝の時代、丙午の年の春、二月。

予告光祿大夫太傅兼太子太師、吏部尚書、中和殿內秘書院大學士加一級，雲棲弟子金之俊大周譔