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title: "布水臺集 · 廣陵三我先生傳"
description: "布水臺集是明末清初高僧道忞所著的一部别集，收录于中央图书馆善本书目集部别集类。道忞禅师是临济宗高僧，明末遗民，清初应顺治帝召请入京，对清初佛教政策有重要影响。该书汇集了他的诗文、法语、书信等作品，内容涉及禅宗思想、修行体悟、时事感怀及与士大夫的交游，是研究其生平、明末清初佛教史及禅宗思想的重要文献。作为明清之际佛教著述的代表，布水臺集不仅展现了高僧的文学修养与禅学境界，也为后世理解该时期佛教与社会的互动提供了珍贵史料。"
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### 廣陵三我先生傳

> 広陵の三我先生伝

先生姓蔣，諱應參，號三我，邗之董子里人也。幼孤家貧，攻苦寡強，親戚歲以館穫有秋食孀母，日甘毳以奉者數十年。

> 先生の姓は蒋、諱（いみな）は応参、号は三我といい、杭州の董子里の出身である。幼い頃に孤児となり家は貧しく、苦学に励んだが支えは少なかった。親類縁者は毎年、収穫のある秋に家に招き、寡婦となった母を養い、何十年もの間、日々上質な食物を捧げて大切に世話をした。

當是時，先生自足握青紫如券，而救敗扶傷，蹀躞不能前，然先生弗恤也。晝夜摩厲諸生，故先生鑄人之風以是日聞，而先生車馬亦頓矣！然先生方以得糈為將母大慶，逾弗恤也。迨喪母則又鼠思泣血，不蘄有生，故先生終弗恤，曰：「噫！負吾也夫！然吾不人子負，而天以吾子負，則吾真負也夫。」

> その頃、先生は自らの才を持って高官の地位を手にすることは容易であったが、人を救い傷を癒すことに奔走して道を急ぐこともできなかった。しかし先生はそれを顧みなかった。昼夜を問わず生徒たちを励まし磨き続けた。ゆえに先生が人を育てる風格は日に日に知られるようになったが、先生の車馬も次第に滞るようになった。それでも先生は、官米を得て母を養う幸いを大いに喜び、ますます顧みることはなかった。やがて母を亡くすと、ひそかに思い悩み血の涙を流し、生きることを望まなくなった。それでも先生はついに顧みず、言った。「ああ、我が身を負ったものだ！しかし私は人の恩を負うことなく、天が私の子としての道を負わせたのだ。ならば私はまことに負うべきものを負っているのだ。」

先生恭不泄邇，孝不忘遠，居恆時有祭、月有祀，雖賓燕不廢也，凡祭必齋必夙，明河在天，則先生皇皇起眎曰：「旦矣！非采蘩風人交鬼神之道也，不敬奈何？」然廢徹而光昭如故，轉己祠墓禮。俗歲一二展，先生則嘉辰令節皆往，雖豆無豐碩，而烹葵燒芋，獻酬交醋，若藹然膝下者。夕末為先人分歲，朝初復為賀旦，皆生人禮也。故鄉農望而慫若慎爾，芻牧毋干先生隴，恐先生傷胥邵也。春秋獻文廟，先生不與從，則陳詩書闕里志於庭，炷香束帛，拜階除首九頓，歔欷顧子孫曰：「先師衣被我德厚，焉可忘？若欽念詩書訓邪？忝先師不可。」

> 先生は、身近な戒律を軽んじることなく、遠い先祖への孝行も決して怠りませんでした。常日頃から定期的に祭祀を行い、月ごとにも祀りを欠かさず、賓客をもてなす宴の際にも決して廃することはありませんでした。祭祀を行う際には必ず斎戒し、夜明け前から準備を整えました。天に明るい銀河がかかっている頃には、もう気忙しく起き出して「夜が明けた！これでは『采蘩』の詩に歌われる、人が鬼神と交わる誠意が足りない。不敬とはどういうことか」と語ったものです。しかし、祭祀を終えて片付けをした後も、その誠意は変わらず輝き続けました。 そして、今度は墓参りへと移りました。世間では年に一度か二度、少しだけ墓参りをするのが習慣ですが、先生は佳い日や節句のたびごとに必ず訪れました。供え物は決して豪華ではありませんでしたが、葵を煮たり芋を焼いたりして、酒を酌み交わし、まるで親の膝元で和やかに過ごしているかのようでした。大みそかの晩には亡き人々と共に年を越し、元旦の朝には新年をお祝いしましたが、これらは全て、生者が行うべき礼儀でした。そのため、故郷の農民たちも先生を敬い、慎み深く振る舞い、家畜を先生の墓地に近づけるようなことは決してありませんでした。先生が悲しむのを避けたのです。 春秋に孔子廟で祭祀が行われるとき、先生が随行できなかった年には、詩経や書経、そして『闕里志』を庭に並べ、香を焚き、帛を束ねて、階段の下で九たび額を地面に打ちつけて礼拝しました。そして、嘆息しながら子や孫たちにこう語りました。「先師の教えは、我々の身に深く染みわたり、その

先生豐頤後耳，美須髯，童子光外射而頎然，面目嚴冷，類刺削神人。自其勝冠時，燕居必冠，冠不釋元者近六十載。門弟子遇諸途，十步外必虛左俟，端拱唯謹。閻子含卿有軼才，駘蕩無所忌，居恆咄咄，掀髯風搖四座；殆隅先生，則終日恂如不能言者。

> 先生は豊かな頬と耳、見事な髭と顎鬚を持ち、その姿は童子のように輝きながら背筋の伸びた風格があり、目つきは厳しく冷たく、まるで彫刻された神人のようである。若い頃から、家にいるときは必ず冠をかぶり、それを外さないこと約六十年に及んだ。門下の弟子たちが道で先生に出会うと、十歩離れた場所から必ず左側を空けて待ち、ただひたすら謹んで拱手した。閻子の含卿は並外れた才を持ちながら、奔放で何も恐れず、常に得意げに笑い、髭を風に揺らして座中の人々を圧倒した。しかし、先生に対しては終日、慎み深く言葉も出せないかのようであった。

今上頒朔先生旄矣！然左書箴、右書銘，兢兢如也，故生平無過誤，聞人過誤輒同廢病恐終不得活。諸生也，大則讓，小則規，子孫則畢讓無巨細。

> 今、天子様より暦を賜る先生は、もう年を取られました。 しかし、左には戒めの言葉を、右には座右の銘を書き記し、いつも謹んでおられたため、ご生涯に過ちや誤りはありませんでした。 人の過ちや誤りを聞くと、まるで自分が病気になって、もう治らないのではないかと心配するように嘆かれました。 門人たちに対しては、大きなことは譲り、小さなことは教え導き、子孫に対しては、ことの大小を問わず全て譲られました。

孫某過中陳，見屣焉，蹴之偏。先生讓曰：「齒君路馬，何如蹴父履？讀詩書大家子不識禮，固當終朝不懌，當食猶歎嗟！」孫某懼，叩首自責無所容乃已。

> 孫という者が、ある日街中で履物を見つけ、それを蹴ってしまいました。すると先生が咎めて言いました。 「君主の道端の馬を蹴るのなら、なおさら我が父の履物を蹴るとはどういうことだ。お前は詩書を読む大家の子でありながら、礼儀を知らぬとは。それゆえに一日中機嫌が悪く、食事の時もため息をつくことになるのだ。」 孫は恐れおののき、頭を地に付けて謝罪し、自分はどうしようもない者だと反省したのでした。

先生見子姓類師生、臨家人若臣主，自妻媳以下終身未嘗窺戶庭焉！一孫一子，子善舉於鄉，為今孝廉君。孝廉於先生最為式穀，然先生廉隅見矣！故先生終以德王，子孝廉又以文雄。孝廉恆多為縉紳先生操觚，家所誦說，先生則人人樂道，以為三我先生真古狷潔士哉！

雖然先生清刻矜己諾猶古東楚風，若其動符禮法得不教焉，殆鄒魯彬彬君子未遑也，猶喜古皇先生教少欲知足，固一白衣杜多，白社有外務，則先生禦操不平慷慨，然固飲酒食肉，新學近事男多竊笑先生；然諸近事男聞經行道崇勝業，皆自遜不若先生。然察之，則不若先生遠甚。識者多謂先生用儒治身、用佛治心，則先生笑不言也。

然先生疾革，猶命佛者擊磬誦修多羅，先生則傾耳聽，使聲琅琅不絕，然後右脅吉祥乃逝，則皆古皇先生教也。

當彌留時，子婦梁割肱雜糜以飲，先生幾起，卒以衰憊殞此哲人。惜哉！

贊曰：史闕文，馬借人，二事皆末，孔子稱之何也？傷周道澆漓日甚也。往余客句章，見秦縣王子式、姚州管生聖者，其人皆布衣，有王公之重，矯節砥行，以生人之死，當世之人因之而寡過者蓋千十百家。先生亦然，無大位整齊當世，而危言危行，當世亦憚之。語曰：「猛虎在山，藜藿不采。」先生有焉！之三人者，皆人倫羽儀也。今一歲間，相繼化去，余甚懼之。然於越多君子；廣陵多廣商大賈，故余亟采先生行事，論次為傳，付孝廉君，俾號於人曰：「先生出矣！」自古有死，先生蓋未之死也。悲夫！