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title: "長部經典 · 九　布吒婆樓經"
description: "長部經典是巴利三藏中經藏的一部分，由通妙法師譯為中文。它形成於佛陀入滅後的第一次結集，記錄了佛陀的早期教法。全書共十四卷，包含三十四部長篇經典，如《梵網經》《大般涅槃經》等，內容涵蓋佛教宇宙觀、修行方法與戒律制度。作為上座部佛教權威經典，長部經典系統保存了原始佛教教義，是研究佛陀根本思想與早期佛教歷史的基石文獻，在南傳佛教中具有崇高地位。"
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### 九　布吒婆樓經

一

> 「一」

如是我聞。一時，世尊住舍衛城祇樹給孤獨園。爾時，布吒婆樓普行外道，與三百普行外道眾俱，住於末梨園，鎮頭迦樹所圍繞之大講堂教義論究所。

> 私がこのように聞きました。ある時、世尊は舎衛城の祇樹給孤独園に滞在されていました。その時、ブッダパーラという名の遍歴の外道が、三百人の遍歴の外道の弟子たちと共に、末梨園にある鎮頭迦の木々に囲まれた大講堂で教義を研究していました。

二

> 二（に）

時，世尊，晨早著下衣、持衣、鉢，往舍衛城行乞。然，其時，世尊思惟：「往舍衛城行乞，時尚過早，如是即往訪布吒婆樓所住末梨園中鎮頭迦樹圍繞之大講堂教義論究所。」

> その時、世尊は早朝、下衣を着け、衣と鉢を持って、舎衛城に托鉢に出かけられた。 しかし、その時、世尊はこう考えられた。 「舎衛城に托鉢に出るには、まだ時刻が早い。それならば、布吒婆楼が滞在している末梨園にある、鎮頭迦樹に囲まれた大講堂の教義論究所を訪れよう。」

三

> 三つ（の真理）

時，布吒婆樓普行外道，與諸大普行眾共坐，而大聲喧譁議論種種無益之橫明〔論〕，如：王論、盜論、大臣論、軍隊論、怖畏論、戰論、飲論、衣服論、寢牀論、鬘論、香論、親論、乘論、鄉鎮論、村里論、都市論、田舍論、婦人論、勇士論、街巷論、井邊論、亡靈論、其他雜論、水陸〔世界〕起源論及如是有、無論等。

> 時に、遊行者プッバ・バラッディヤーカ（布吒婆楼）は、多くの同行の遊行者たちと共に座り、様々な無益な論議、いわゆる「王の話、盗賊の話、大臣の話、軍隊の話、恐怖の話、戦いの話、飲食物の話、衣服の話、寝具の話、花飾りの話、香水の話、親族の話、乗り物の話、町の話、村の話、都市の話、田舎の話、女性の話、英雄の話、街路の話、井戸端の話、亡霊の話、その他もろもろの雑談、そして世界の水や陸地の起源についての話、有るとか無いとかの議論」を、大きな声で騒がしく行っていました。

四

> 四

爾時，布吒婆樓普行外道，遙見世尊從遠方來，見已，令其大眾寧靜：「諸士！寧靜勿出聲。彼沙門瞿曇來，彼尊者愛寧靜，彼亦寧靜之讚歎者。蓋，若彼見我等為寧靜之眾，會認為有來訪之價值。」如是言時，彼等普行外道默然寧靜。

> その時、遊行者ブッダバローチャは、遠くから世尊がやって来られるのを見て、その大勢の者たちを静かにさせた。「皆さん、静かにしなさい。あの修行者ゴータマが来られる。あの尊師は静けさを愛し、静けさを讃える方だ。もし私たちが静かな集団だとお見受けになれば、お訪ねいただく価値があるとお思いになるだろう。」こう言うと、遊行者たちは沈黙し、静かになった。

五

> 五

如是世尊，往布吒婆樓之處，布吒婆樓言世尊曰：「善來世尊！我等歡迎世尊。世尊！世尊久違以來訪我等之處。世尊！請坐，此座為世尊所設。」世尊坐於所設之座，布吒婆樓，取一低座，坐於一面，世尊如是對坐於一面之布吒婆樓曰：「布吒婆樓！今汝等為何論議而集會於此，又汝等之論議，為何而停止耶？」

> このようにして、世尊はポッタパーダのもとへ向かわれました。 するとポッタパーダは世尊に申し上げました。「ようこそおいでくださいました、世尊よ。私たちはあなたを心から歓迎いたします。世尊が私たちのもとを訪ねてくださるのは、実に久しぶりのことです。どうぞこちらにお掛けください。この座はあなたのために用意したものです。」 世尊は用意された座にお座りになりました。ポッタパーダは低い座を取って、片側に座りました。 世尊は片側に座ったポッタパーダにこうお尋ねになりました。「ポッタパーダよ、今、あなたたちはどのような議論をするためにここに集まり、そして、あなたたちの議論は何によって中断されたのですか。」

六

> 六

如是言時，布吒婆樓答世尊曰：

> このようにおっしゃると、ブッタパーラは世尊に答えて言った。

「世尊！我等為某論議集會此處，其論議是〔暫時〕擱置。我等之議論，世尊日後將易聞斯論。世尊！幾日前，種種外道之沙門、婆羅門，會集於議論堂時，生起滅盡增上想之論議：『如何是增上想之滅盡？』

> 世尊。私たちはある議論のためにここに集まりましたが、その議論はいったん置いておきます。私たちの議論は、世尊が後日お聞きになることで、容易に理解できるでしょう。世尊。数日前、様々な外道の修行者やバラモンたちが議論堂に集まったとき、「滅尽についての優れた考え」という話題が出ました。「優れた考えの滅尽とは、どのようなものか？」という問いです。

時，有一類人如是言：『人人之想，是無因無緣而生、滅。於生時即有想，滅時為無想。』一類人如是說明增上想之滅盡。

> 時に、ある人々がこう言いました。「人々の想い（認識）は、何の原因も条件もなく生じたり消えたりする。生じているときは想いがあり、消えているときは想いがないのだ。」と。ある人々はこのようにして、すぐれた想いが完全に消え去ることを説明しました。

對彼，有人如是言：『如是〔說〕，實不然。友！想是有來、有去之人我。來即有想，去即無想。』一類人如是說明增上想之滅盡。

> ある人がこう言います。「実はそうではない。友よ、『想い』のある『私』という存在がいて、それがやって来たり去ったりするのだ。やって来る時には想いがあり、去る時には想いがなくなるのだ。」と。このように、ある人々は「より高次の想いの消滅」について説明するのです。

對彼，更有人言：『如是〔說〕，實不然。有大神通、大威力之沙門、婆羅門，彼等輸入、移出人人之想，輸入時即有想，移出即無想。』一類人如是說明增上想之滅盡。

> そのことについて、さらにこう言う人もいます。「そのような説は、実に正しくない。大きな神通力、大きな威力を持つ修行者やバラモンたちがいる。彼らは人々の想い（概念）を入れたり、取り除いたりする。入れるときには想いがあり、取り除くときには想いがなくなる。」と。ある人々は、このようにして「より高次の想いの消滅」を説明します。

對彼，更有人言：『如是〔說〕，實不然。有大神力、大威力之天神，輸入、移出人人之想，輸入時即有想，移出即無想。』一類人如是說明增上想之滅盡。

> ある人々はこう言います。「実はそうではない。大いなる神通力と大いなる威力を持つ天の神々が、人々の想いを吹き込んだり、取り去ったりするのだ。吹き込まれている間は想いが存在し、取り去られれば想いがなくなるのである。」このように、ある一派はより高次の想いの消滅について説明しています。

世尊！爾時，我對世尊起如是念：『世尊確實，善逝確實對此法之精通者。』世尊確實熟知增上想之滅盡者，然，世尊！如何是增上想之滅盡？」

> 尊よ、そのとき私は尊に対してこのように思いました。 「尊はまさに、よく往かれた方はまさに、この法に精通しておられる。」 尊はまさに、すぐれた想いの滅尽をよく知っておられます。しかし尊よ、どのようにしてすぐれた想いの滅尽が起こるのでしょうか。

七

> 七

「布吒婆樓！彼沙門、婆羅門言：『人之想是無因無緣生、滅』者，由其最初即錯誤。所以者何，布吒婆樓！人想之生、滅，是有因有緣。一類人依學習而想生，一類人依學習而想滅。」

> 「ポッタパーダよ、ある沙門や婆羅門が『人間の想念は原因も条件もなく生じ、消える』と言うのは、最初から誤りである。なぜなら、ポッタパーダよ、人間の想念の生起と消滅には、原因と条件があるからだ。ある者は学びによって想いが生じ、ある者は学びによって想いが滅するのだ。」

「學習者何耶？」世尊曰：「布吒婆樓！今如來出現於世，應供、等正覺……乃至……具足清淨之身業、語業，清淨而生活；戒具足，守護諸根門，具足而圓滿正念、正智。〔參照沙門果經四〇～四二〕

> 「修行者とは何ですか？」 世尊は答えた。「ポッタパーダよ、如来がこの世に現れ、阿羅漢であり、正しく悟った者である……（中略）清らかな行い、言葉、そして生活を送り、戒律を備え、感覚の門を守り、正念・正知を十分に円満に具えている。〔沙門果経四〇～四二参照〕」

布吒婆樓！比丘如何是戒具足耶？布吒婆樓！於此，有比丘，捨殺生、離殺生，不用刀、杖，有羞恥之心，充滿慈悲心，利益憐愍一切生物、有情而住。此為比丘戒具足之一分。……乃至……〔同經四四～六二〕又某沙門、婆羅門，受食信施而生活，例如：為祈願、解願……乃至……與樹根、藥及取離之，依如是無益徒勞之橫明而過邪命生活。遠離如是無任何利益徒勞之橫明，此為比丘戒之一分。〔參照同經四三～六二〕

> ポッタパーダよ。では、比丘がどのように戒を具足するのか。ポッタパーダよ。ここに、比丘は、殺生を捨て、殺生から遠ざかり、刀や杖を用いず、羞恥の心を持ち、慈悲の心に満ち、すべての生きとし生けるものに対して利益と思いやりの心をもって住する。これが比丘の戒を具足する一つの部分である。……乃至……〔同経四四〜六二参照〕また、ある修行者やバラモンたちは、信仰から施される食物を受けて生活しながら、例えば、祈願や解願……乃至……樹根や薬を用いたり、それを避けたりして、このような無益で無駄なまじないによって邪命の暮らしをしている。そのような、いかなる利益もない無駄なまじないから遠ざかること、これが比丘の戒の一つの部分である。〔同経四三〜六二参照〕

八

> 八

布吒婆樓！比丘如是戒具足者，無論何處，由戒之護持故，皆不見怖畏。……乃至……具足此聖戒蘊者，彼之內心感受無垢清淨之安樂。布吒婆樓！如是比丘是戒具足。〔參照同經六三節〕

> ブッダポーラよ、比丘がこのように戒を具えているならば、どこにあっても、戒律を守護するがゆえに、いかなる恐れも見ることがありません。……さらに……この聖なる戒の集まりを具えた者は、その内なる心に、汚れのない清らかな安らぎを感じます。ブッダポーラよ、このように比丘は戒を具えているのです。（同経63節参照）

九

> 9

布吒婆樓！比丘如何護持諸根門耶？布吒婆樓！於此有比丘，以眼見色時……〔乃至〕……彼具足護持〔諸〕根，內心感受無垢純淨之安樂。布吒婆樓！比丘如是護持諸根門……乃至……。〔參照同經六四～七四節〕

> ポッタパーダよ。では、比丘はどのようにして諸感覚の門を守るのでしょうか。 ポッタパーダよ。ここで、ある比丘は、眼で形を見るとき…（中略）…完全に諸感覚を守り、心に汚れのない清らかな安らぎを感じます。 ポッタパーダよ。比丘はこのようにして諸感覚の門を守るのです…（中略）…（同経の六四～七四節を参照）。

一〇

> 一〇

彼等自己觀察，捨離此等之五蓋者，則生歡喜；生歡喜已，則生喜悅；意懷喜悅者，則身輕安；身輕安者，則感受樂；覺樂者，則心入三昧。彼去諸欲，離不善法，有尋有伺，由離生喜、樂，以達初禪而住。因此，滅最初之欲想，其時，由離生喜、樂，而微妙之真實想生。由此，其時之彼，由離生喜、樂，成為有微妙之真實想者。依如是學，一些想生；依如是學，一些想滅。此乃依於學習。」世尊曰：

> 彼らは自ら観察し、これら五つの蓋（障害）を捨て去ると、喜びが生じる。喜びが生じれば、歓喜が生まれる。心に歓喜を抱く者は、身体が軽やかになる。身体が軽やかになれば、安らぎを感じる。安らぎを感じる者は、心が三昧（深い集中）に入る。彼は欲望を離れ、善ならざる法を離れ、粗い思考（尋）と微細な考察（伺）を伴い、離欲から生じる喜びと安らぎによって、初禅（第一の瞑想段階）に達して安住する。その時、最初の欲に関する想いは消え去り、離欲から生じる喜びと安らぎによって、微妙で真実の想いが生じる。それゆえ、その時、彼は離欲から生じる喜びと安らぎによって、微妙な真実の想いを持つ者となる。このように学ぶことによって、ある種の想いが生じ、このように学ぶことによって、ある種の想いが消え去る。これが学びに依るものである。」と世尊はおっしゃった。

一一

> 「一一」（いちいち）は、「それぞれ」「

「布吒婆樓！更有比丘，息滅尋伺，內心安靜，得心一境性，無尋無伺，由定生喜、樂，達第二禪而住。其時，以前由離生喜、樂之微細真實想滅，同時，由定生喜、樂之微細真實想生。由此，其時之彼，由定生喜、樂，成為有微細之真實想者。依如是學習，一些想生；依如是學習，一些想滅。此乃依於學習。」世尊曰：

> 「ポッタパーダよ、さらに比丘は、思考と熟考を静め、心を内に向けて清らかにし、心の統一を得て、思考も熟考もなく、禅定から生まれる喜びと楽を具え、第二禅に達して安住します。その時、以前に離欲から生まれた喜びと楽の微細な真実の想いは滅し、同時に、禅定から生まれた喜びと楽の微細な真実の想いが生じます。それゆえ、その時の彼は、禅定から生まれた喜びと楽によって、微細な真実の想いを持つ者となります。このように学ぶことにより、ある想いが生じ、このように学ぶことにより、ある想いが滅します。これが学びによるのです。」と世尊はおっしゃった。

一二

> まずは第一に。

「復次，布吒婆樓！有比丘離喜，成為捨住，正念、正智，身感受樂，諸聖者，云：『捨而有念之樂住者』，達第三禪而住。其時，先前由定生喜、樂之微細真實想滅，同時，於捨、樂之微細真實想生。由此，其時之彼，成為有捨、樂之微細真實想者。依如是學習，一些想生；依此學習，一些想滅，此乃依於學習。」世尊曰：

> 「さらに、婆吒婆楼よ。比丘が喜びから離れ、捨をそなえて安住し、正念・正知を保ちつつ、身をもって楽を受ける。聖者たちが『捨をそなえ、念ある者として楽しく安住する』と説く、第三禅に達して安住する。その時、それ以前に定から生じた喜びと楽の微細で真実の想いは消え去り、同時に捨と楽の微細で真実の想いが生じる。このように、その時の彼は捨と楽の微細で真実の想いをそなえた者となる。このように学習することによって、いくつかの想いが生じ、このように学習することによって、いくつかの想いが消え去る。これが学習によるのである。」と世尊は仰った。

一三

> 申し訳ありませんが、入力が不完全なようです。「

「復次，布吒婆樓！捨離樂，捨離苦，滅先前所感受之樂、憂，不苦不樂，成為捨念清淨，達第四禪而住。其時，先前之捨、樂之微細真實想滅，同時，不苦不樂之微細真實想生。由此，其時之彼，成為不苦不樂之微細真實想者。依如是學習，一些想生，依如是學習，一些想滅。此乃依於學習。」世尊曰：

> 「また、ポッタパーダよ。楽を捨て、苦を捨て、先に感じた喜びや悲しみが消え去り、苦でもなく楽でもなく、捨と念によって清められた第四禅に達して安住する。その時、先にあった捨と楽の微細な真実の想いは滅し、同時に、苦でもなく楽でもない微細な真実の想いが生じる。それゆえに、その時その人は、苦でもなく楽でもない微細な真実の想いを持つ者となる。このように学ぶことによって、ある想いは生じ、ある想いは滅する。これが学びによるのである。」と、世尊はお説きになった。

一四

> 十四

「復次，布吒婆樓！於此，有比丘超越一切色想，滅障礙想，不憶念異想故，唯：『虛空是無邊』，達於空無邊處而住。其時，先前之色想滅；同時，空無邊處樂之微細真實想生。由此，其時之彼，成為空無邊處之微細真實想者。依如是學習，一些想生；依如是學習，一些想滅。此乃依於學習。」世尊曰：

> 「また、ポッタパーダよ。ここに、比丘が一切の色想を超え、障礙の想を滅ぼし、様々な想に心を向けないことで、『虚空は限りない』と観じて、空無辺処に達して安住する。その時、先にあった色想は消え、同時に空無辺処の楽しい微細な真実の想が生じる。それによって、その時の彼は、空無辺処の微細な真実の想を持つ者となる。このように学ぶことによって、ある想が生じ、このように学ぶことによって、ある想は滅する。これが学びによるのである。」と、世尊は仰せになった。

一五

> 一五

「復次，布吒婆樓！於此，有比丘超越空無邊處，唯：『識是無邊』，達於識無邊處而住。其時，先前之空無邊處之微細真實滅；同時，識無邊處之微細真實想生。由此，其時之彼，成為識無邊處之微妙真實想者。依如是學習，一些想生；依如是學習，一些想滅。此乃依於學習。」世尊曰：

> 「さらに、ポッタパーダよ。ここで、比丘が空無辺処を超え、『識は無限である』と観じて、識無辺処に達して安住する。そのとき、それ以前の空無辺処における微細な真実は消え、同時に識無辺処における微細な真実の想いが生じる。そのため、このときその比丘は、識無辺処の微細な真実の想いを持つ者となる。このように学ぶことによって、ある想いが生じ、このように学ぶことによって、ある想いが滅する。これが学びによるのである。」と世尊は仰った。

一六

> 「一六」という表現は、仏教の文

「復次，布吒婆樓！於此有比丘於一切方，超越識無邊處唯：『無所有』，達於無所有處而住。其時，先前之識無邊處之微妙真實想滅；同時，無所有處之真實想生。由此，其時之彼，成為無所有處之微妙真實想者。依如是學習，一些想生；依如是學習，一些想滅。此乃依於學習。」世尊曰：

> 「さらに、ブッパバローよ。ここに、比丘がすべての方角において、識無辺処を超えて、『何もない』と観じ、無所有処に達して安住する。そのとき、先にあった識無辺処の微細で真実なる想いは消え、同時に無所有処の真実なる想いが生じる。このようにして、そのとき、彼は無所有処の微細で真実なる想いを持つ者となる。このように学ぶことによって、ある想いは生じ、ある想いは消える。これが学びによるのである。」と世尊は仰せになった。

一七

> \*\*十七\*\* （仏教の文脈において）

「布吒婆樓！確實，比丘有達自己〔獨特〕之想，彼則由其順次，從先前而向後，以達想之頂點。彼立於想之頂點時，謂：『思慮於我為惡，不思慮於我為善；若我作意、思慮者，我則此想滅，他之麤想再生，如是我不令作意、不思慮。』因此，彼不思慮，又不作意。由不思慮、不作意，彼〔諸〕想滅，他想不生，彼達到滅盡〔諸想〕，布吒婆樓！於如是次第，滅盡增上想而達等至。

> 「ポッタパーダよ、確かに、比丘が自分自身の独自の想いに達する時、彼は順を追って、以前から後に至るまで、想いの頂点に達します。彼が想いの頂点に立った時、こう考えます。『思慮することは私にとって悪であり、思慮しないことは善である。もし私が注意を向け、思慮するならば、この想いは消え、他の粗い想いが再び生じるだろう。それゆえ、私は注意を向けず、思慮しないようにしよう。』こうして彼は思慮せず、注意を向けません。思慮せず、注意を向けないことによって、彼の諸々の想いは消え、他の想いは生じません。彼は想いの滅尽に達します。ポッタパーダよ、このように順を追って、より優れた想いを滅尽しつつ、等至に達するのです。」

一八

> 申し上げます。

布吒婆樓！汝如何思惟耶？汝以前曾聞如是漸次滅盡增上想而達等至耶？」

> 「パッタパーロ（布吒婆樓）よ、あなたはどう思いますか。あなたは以前、このように段階的に想いが消えていくという、すぐれた想いによって到達する境地（等至）について聞いたことがありますか。」

「否，世尊！我唯由世尊之所說而知之。即：『布吒婆樓！確實，比丘有由至自己之想，彼則由其順次，從先前而向後，次第以達想之頂點。彼立於想之頂點時，謂：「思慮於我為惡，不思慮於我為善。若我思慮、作意者，我則此想滅，他之麤想再生，如是我不令作意、不思慮。」因此，彼不思慮，又不作意。由不思慮、不作意，彼〔諸〕想滅，他想不生，彼達到滅盡〔諸想〕。布吒婆樓！於如是次第，滅盡增上想而達等至。』」

> 「いいえ、世尊よ。私は世尊のお言葉によってのみ、それを知っています。すなわち『ポッタパーダよ、確かに比丘は自己に至る想いを持つ。彼はその順序に従い、先から後へと次第に想いの頂点に達する。そして、想いの頂点に立った時、彼はこう考える。「思惟することは私にとって悪であり、思惟しないことは善である。もし私が思惟し、作意するならば、この想いは滅し、別の粗い想いが再び生じる。それゆえ、私は作意せず、思惟しない。」こうして、彼は思惟せず、作意しない。思惟せず、作意しないことによって、それらの想いは滅し、他の想いは生じず、彼は〔諸々の想いの〕滅尽に達する。ポッタパーダよ、このようにして、次第に増上の想いを滅尽して、等至に達するのである』と。」

「確實如是，布吒婆樓！」

> 「その通りです、ポッタパーダよ。」

一九

> 一九という数字は、仏教の教えの中では

「世尊！世尊所教〔說〕想之頂點是一，或所教〔說〕之頂點是多耶？」

> 「世尊よ。世尊がお教えになる『想いの頂点』は一つなのでしょうか。それとも、いくつもあるのでしょうか。」

「布吒婆樓！我教〔說〕想之頂點是一，亦教〔說〕想之頂點是多。」

> 「ブッダバラッパーよ、私は〈想いの極点〉が一つであると説き、また〈想いの極点〉がたくさんあるとも説くのです。」

「世尊！如是者，世尊如何教〔說〕想之頂點是一、亦教〔說〕是多耶？」

> 「世尊よ、そのような場合、世尊はどのように想いの頂点は一つであると説き、また、どのように多数であると説かれるのですか？」

「布吒婆樓！實如是、如是達（想之）滅，以示如是、如是想之頂點，布吒婆樓！如是我說示想之頂點是一、又想之頂點是多。」

> 「ポッタパーダよ、実にその通りです。ある種の想い（認識）が消え去ることによって、そのように、そのような想いの頂点があることを示します。ポッタパーダよ、このように私は、想いの頂点は一つであるとも説き、また、想いの頂点は複数であるとも説くのです。」

二〇

> 二〇

「世尊！最初想生，而後智生耶？最初智生，而後想生耶？或智與想，是非前非後生耶？」

> 「世尊よ。最初に想いが生じて、その後に智慧が生じるのでしょうか。それとも、最初に智慧が生じて、その後に想いが生じるのでしょうか。あるいは、智慧と想いは、前後なく同時に生じるのでしょうか。」

「布吒婆樓！雖是最初想生，而後智生，但由想之生，而實智之生。如是彼等自知：『然，緣此而我智慧生。』布吒婆樓！依此理由，而知於最初想生，而後智生，由想之生起，而有智之生起。」

> 「ポッタパーダよ。最初に想いが生じ、その後で智慧が生まれるのです。しかし、智慧は想いが生じることによって実際に生じるのです。このように彼らは自ら知ります。『まことに、この縁によって私の智慧は生じたのだ』と。ポッタパーダよ、この理由によって、最初に想いが生じ、その後で智慧が生まれ、想いの生起によって智慧の生起があるのだと知られるべきです。」

二一

> 「二一」は「二と一」、す

「世尊！想是人之我耶？或想與我是異耶？」

> 「世尊よ、この『想（イメージや概念）』というものは、人の『私』そのものなのでしょうか？ それとも『私』とは別のものなのでしょうか？」

「布吒婆樓！汝對於『我』，如何思惟耶？」

> 「ブッダパーラよ、あなたは『自己』について、どのように考えていますか？」

「世尊！我思惟麤現之我，是有形、依四大所成、摶食之所養。」

> 「世尊、私が考える粗い現れとしての自己とは、形を持ち、四大から成り、食べ物によって養われるものです。」

「布吒婆樓！汝若真以為麤之我，是有形、依四大所成、摶食所養者，布吒婆樓！汝之想與我，實應異也。如依此差別〔之理由〕，實知想與我是異：布吒婆樓！此麤之我，是有形、依四大所成、摶食所養，尚且於此人，有一想起而他想滅。布吒婆樓！依此差別〔之理由〕，實應知想與我是異。」

> 「ブッダバラよ、もしあなたが、粗い自我とは、形を持ち、四大元素から成り、固形の食物で養われるものだと本当に考えているならば、あなたの『想（認識・感覚）』と『自我』は、実に別のものであるはずです。こうした違いがあるからこそ、想と自我は別であると知られるのです。ブッダバラよ、この粗い自我、すなわち形を持ち、四大元素から成り、固形の食物で養われるこの人においてさえ、一つの想が生じれば別の想は消え去ります。ブッダバラよ、この違いがあるからこそ、想と自我は別であると知られるべきなのです。」

二二

> 「二二」

「世尊！我認為『我』是意所成，具足大、小之支節、諸根之完具者。」

> 世尊、私は「自己」とは、心によって作り出されたものであり、大きさや小ささなどの部分を備え、すべての感覚器官が完全にそろったものだと考えております。

「布吒婆樓！真認為汝之『我』是意所成、具足大、小之支節、諸根之完具者，布吒婆樓！汝之想與我，實應異也。布吒婆樓！依此差別〔之理由〕，應知想與我是異：布吒婆樓！此我是意所成、具足大、小支節、諸根之完具者，尚且於此人，有一想起而他想滅。布吒婆樓！依此差別〔之理由〕，實應知想與我是異也。」

> 「ポッタパーダよ、もしあなたが『我』とは、心によって作られ、大小の部分を備え、諸器官が完全にそなわったものだと考えるなら、ポッタパーダよ、あなたの“想”と“我”は、実は異なるものでなければなりません。ポッタパーダよ、この違いによって、想と我は別々のものであると知るべきです。すなわち、この我は心によって作られ、大小の部分を備え、諸器官が完全にそなわったものですが、この人においても、一つの想が起こると別の想が消えていきます。ポッタパーダよ、この違いによって、実に想と我は別々のものであると知るべきなのです。」

二三

> 二三（にさん）

「世尊！我認為『我』為無形，是想所成。」

> 世尊よ、私は「私」というものが形のないものであり、想念によって作り出されたものだと考えています。

「布吒婆樓！若真認為汝之我是無形，為想所成者，布吒婆樓！汝之想與我，實應異也。布吒婆樓！依此差別〔之理由〕，實應知想與我是異：布吒婆樓！此我是為無形、是想所成，尚且於此人，有一想生而他想滅。布吒婆樓！依此差別〔之理由〕，實應知想與我是異也。」

> 「ポッタパーダよ。もしあなたが、『自己（我）は形がなく、表象（想）から成るものである』と本当に考えるならば、その場合、あなたの表象と自己は、実際には異なるものでなければなりません。ポッタパーダよ。この区別（理由）によって、実に表象と自己は異なると知るべきです。ポッタパーダよ。この自己は形がなく、表象から成るものですが、それでもなお、この人には一つの表象が生じては別の表象が消えていきます。ポッタパーダよ。この区別（理由）によって、実に表象と自己は異なると知るべきです。」

二四

> \*\*四\*\* 人は、欲に執着することで苦し

「然，世尊，得令我知『人之我是想，或想與我為異』之義耶？」

> 「しかし、世尊よ。私に『人は我という想いを持つのか、あるいは想いが我とは別のものであるのか』という意味を、お教えいただけますでしょうか。」

「布吒婆樓！汝是依他〔教〕之見、信忍、執持、研學、行持為旨，因此，汝欲知『人之我與想是一、或想與我是異？』是甚困難！」

> 「ブッパパーロよ、あなたは他人の教えに基づいた考えを信じ、受け入れ、固執し、学び、実践することを目的としています。そのため、あなたが『人の自我と認識は同じなのか、それとも別なのか』を知ろうとすることは、非常に難しいのです。」

二五

> 二十五

「世尊！若如依他〔教〕之見、信忍、執持、研學、行持為旨者，欲知『人之我是想、或想與我是異？』甚為困難者。世尊！更〔請問：〕世界是常？而唯此是真實，其他是虛偽？」

> 「世尊よ。もし他の教えに従って見解を得、信じ、受け入れ、学び、実践しようとするならば、『自分の中にある“我”という思いは何か』とか、『思いと我は別のものか』と知ることは、とても難しいことです。世尊よ、さらに質問いたします。世界は永遠なのでしょうか。そして、これだけが真実で、他は偽りなのでしょうか。」

「布吒婆樓！我不記說此世界是常，而唯此是真實，其他是虛偽。」

> 「ブッカバルよ。私はこの世界が常（永遠）であるとは説かない。そして『これだけが真実であり、他は全て虚偽である』とも説かないのです。」

「然者，世尊！世界是無常？而唯此是真實，其他為虛偽？」

> 「では、世尊よ。この世界は無常なのでしょうか。そして、ただこれだけが真実であり、他のものは偽りなのでしょうか？」

「布吒婆樓！我不記說世界是無常，而唯此是真實，其他為虛偽。」

> 「ブッタバローよ、私は世界が無常であると説き、『これだけが真実であり、他は虚偽である』とは説かない。」

「然者，世尊！世界為有邊？而唯此是真實，其他是虛偽？」

> それでは、世尊よ。この世界には果てがあるのでしょうか？そして、この見解のみが真実であり、他のものはすべて偽りなのでしょうか？

「布吒婆樓！我不記此世界是有邊，而唯此是真實，其他是虛偽。」

> 「ブッダポーラよ、私はこの世界が有限であるとは説かないのである。ただ、このことだけが真実であり、他のことは虚偽である、とも説かないのだ。」

「然者，世尊！世界是無邊？而唯此是真實，其他是虛偽？」

> 「では、世尊よ。世界は無限なのでしょうか？ そして、これだけが真実であり、他は全て偽りなのでしょうか？」

「布吒婆樓！我不記說世界是無邊，而唯此是真實，其他為虛偽。」

> 「ブッタバーラよ、私は『世界には限りがない』とは説かない。そして、これこそが真実であり、他の説は偽りである、とも説かないのです。」

二六

> 二十六

「世尊！此命與身是一？而唯此是真實，其他為虛偽？」

> 「世尊、この命（いのち）と身体は同じものなのでしょうか？そして、これだけが真実で、他はすべて偽りなのでしょうか？」

「布吒婆樓！我不記說命與身是一，而唯此是真實，其他是虛偽。」

> 「ブッパバルよ、私は、生命と身体は同じであるとは説かない。ただこれだけが真実であり、他は偽りであるとも説かない。」

「然者，世尊！命與身是異？而唯此是真實，其他是虛偽？」

> では、世尊よ。「いのち」と「からだ」は別のものなのでしょうか？ そして、これこそが真実であり、他のすべては偽りなのでしょうか？

「布吒婆樓！我不記說命與身是異，而唯此是真實，其他是虛偽。」

> 「パッタバールよ、わたしは『生命と身体は別である』とも説かない。ただ、これこそが真実であり、他のものは偽りであるとも説かない。」

二七

> 二十七回目

「然者，世尊！如來於死後存在？而唯此是真實，其他是虛偽？」

> 「では、世尊（お釈迦様）は、如来は死後も存在するのでしょうか？　そして、これだけが真実で、他は偽りなのでしょうか？」

「布吒婆樓！我不記說如來於死後是存在，而唯此是真實，其他是虛偽。」

> 「ブッダパーラよ、私は如来が死後に存在するとは説かない。そして、このことだけが真実であり、他は虚偽であるとも説かないのだ。」

「然者，世尊！如來於死後是不存在？而唯此是真實，其他是虛偽？」

> では、世尊よ。如来は死後、存在しないのでしょうか。そして、これだけが真実で、他は虚偽なのでしょうか。

「布吒婆樓！我不記說如來於死後是不存在，而唯此是真實，其他是虛偽。」

> 「ブッタパーラよ、私は如来は死後において存在しないとは説かない。ただこれのみが真実であり、他は虚偽であるとも説かないのだ。」

「然者，世尊！如來於死後亦存在、亦不存在？而唯此是真實，其他是虛偽？」

> では、世尊よ。如来は死後に存在するのでもなく、存在しないのでもないのでしょうか。そして、これだけが真実で、他は虚偽なのでしょうか。

「布吒婆樓！我不記說如來於死後亦存在、亦不存在，而唯此是真實，其他為虛偽。」

> 「ブッダパーラよ、私は如来が死後にも存在する、または存在しないとも説かない。ただこれのみが真実であり、他は虚偽である、と説くのである。」

「然者，世尊！如來於死後亦非存在、亦非不存在？而唯此是真實，其他是虛偽？」

> 「それでは、世尊よ。如来は死後において存在するともなく、存在しないともないのでしょうか。そして、これだけが真実で、他は偽りなのでしょうか？」

「布吒婆樓！我不記說如來於死後亦非存在、亦非不存在，而唯此是真實，其他是虛偽。」

> 「ブッタパーラさま、私は如来が死後において『存在するのでもなく、存在しないのでもない』とは説きません。ただこれだけが真実であり、他は偽りである、ということもありません。」

二八

> まず、仏陀が悟りを開かれた時

「世尊！於此等何故不記說耶？」

> 「世尊、なぜこれらのことについてお答えにならないのですか？」

「布吒婆樓！此等不適合於義、不適合於法，而且非根本梵行，又不導於出離、離欲、止滅、寂靜、證悟、正覺、涅槃也。是故我不記說也。」

> 「ブッダパーラよ、これらは道理にもとらず、教えにもとらず、清らかな修行の基盤となるものではありません。また、離欲・離執・滅尽・寂静・悟り・正覚・涅槃へと導くものでもありません。それゆえ、私はこれについて説かないのです。」

二九

> 29

「然者，世尊，世尊所記說者何耶？」

> そこで、世尊よ。世尊がお説きになったこととは、いったい何なのでしょうか？

「布吒婆樓！我所記說者，『此是苦也。』布吒婆樓！我所記說者，『此是苦之集。』布吒婆樓！我所記說者，『此是苦之滅。』布吒婆樓！我所記說者，『此是導苦滅之道。』」

> 「プッタパーロー、私が説き示したのは、『これが苦しみである』ということです。 プッタパーロー、私が説き示したのは、『これが苦しみの元となることである』ということです。 プッタパーロー、私が説き示したのは、『これが苦しみの消滅である』ということです。 プッタパーロー、私が説き示したのは、『これが苦しみの消滅へと導く道である』ということです。」

三〇

> 申し上げます。 その心は、一切の執

「然者，世尊！何故世尊記說耶？」

> 「それでは、世尊よ。なぜ世尊はそのような記説をされたのですか？」

「布吒婆樓！此，實是適義、適法，是根本梵行且導於出離、離欲、寂靜、證悟、正覺、涅槃。是故，此，我記說也。」

> 「ポッタパーダよ、まさにこれこそが、人生の真の目的にかなった言葉であり、真理にかなった道であり、清らかな修行の根本であり、そして悟り、煩悩からの解放、静けさ、智慧、完全な覚り、涅槃へと導くものです。それゆえに、私はこれについて明確に説き示したのです。」

「實然，世尊！實然，善逝！而今正是世尊如尊意之時（乞食）。」

> 「はい、その通りです、世尊よ。はい、その通りです、善逝よ。今こそ、世尊がお望みのままに（托鉢を）なさる時でございます。」

於此，世尊從座起立而離去。

> ここで、世尊は座から立ち上がり、その場を去っていった。

三一

> 「三と一」について、仏教では「三

然，世尊離後不久，彼普行者等，以嘲笑、恥辱之言，罵詈布吒婆樓普行外道：

> しかし、世尊が去ってから間もなく、あの遍行行者たちは、嘲笑と侮辱の言葉をもって、ブッタパーラ外道を罵りました。

「布吒婆樓，對沙門瞿曇之所說，竟然表示讚歎：『實然，世尊！實然，善逝！』但我等認為沙門瞿曇對『世界是常住』、『世界是無常』、『世界是有邊』、『世界是無邊』、『命與身是一』、『命與身是異』、『如來死後存在』、『如來死後不存在』、『如來死後亦存在、亦不存在』、『如來死後亦非存在、亦非不存在』，無一法有確實之說示。」

> 「ブッタパーラよ、沙門ゴータマの教えに対して、あなたは『その通りです、世尊よ！ その通りです、善逝よ！』と讃嘆されました。しかし我々は思うのですが、沙門ゴータマは、『世界は常住である』『世界は無常である』『世界には辺がある』『世界には辺がない』『生命と身体は同一である』『生命と身体は別である』『如来は死後も存在する』『如来は死後存在しない』『如来は死後も存在し、かつ存在しない』『如来は死後も存在するのでもなく、存在しないのでもない』ということについて、確かな教えを一切示されなかったのではないでしょうか。」

如是言已，布吒婆樓對彼等普行外道言：

> このように言うと、ブッダパーリは他の遊行者たちにこう語った。

「諸士！我亦對沙門瞿曇『世界是常住……乃至……如來死後亦非存在、亦非不存在』，認為無一法有確定之說示。但，沙門瞿曇是如實、真正、真如而立脚於法，以說適法之道。然而，沙門瞿曇如實、真正、真如而立脚於法，善說適法之道時，我對其善說法，如理知解，如何不予肯定乎！」

> 「皆さん、私もまた、沙門ゴータマに対して『世界は常住である…乃至…如来は死後、存在するのでもなく、存在しないのでもない』という問いについて、確かな教示は一切ないと考えていました。しかし、沙門ゴータマは、あるがままに、真実に、真如として法に基づき、理にかなった道を説かれます。そして、そのように法に基づき、あるがままに善く説かれる時、私はその善説を道理に従って理解し、どうしてこれを認めないことがありましょうか！」

三二

> 三二

爾時，經二、三日後，象首舍利弗與布吒婆樓詣世尊之處，詣已，象首舍利弗敬禮世尊，坐於一面；布吒婆樓亦與世尊共相交換致意、感銘之語後，坐於一面。坐一面已，布吒婆樓，如是白世尊言：

> やがて、二、三日が過ぎた後、象首舎利弗と布吒婆樓が世尊のもとを訪れました。到着すると、象首舎利弗は世尊に敬礼し、一方の側に座りました。布吒婆樓もまた、世尊と互いに挨拶や心温まる言葉を交わし、その後、一方の側に座りました。片方の側に座った後、布吒婆樓は世尊にこう申し上げました。

「世尊！世尊離去不久，彼等普行者，以嘲笑、恥辱之言，罵詈我曰：『此布吒婆樓，對沙門瞿曇所說，竟然如是表讚歎：「實然！世尊！實然！善逝！」但我等認為沙門瞿曇對「世界是常住……〔乃至〕……如來死後亦非存在，亦非不存在」，認為無一法有確定之說示。』如是言已，我答彼等普行者言：『諸士！我亦認為沙門瞿曇，對「世界是常……乃至……如來死後亦非存在，亦非不存在」，無一法有確定之說示。但，沙門瞿曇，如實、真實、真如而立脚於法，以說適法之道。然而，沙門瞿曇如實、真實、真如而立脚於法，以善說適法之道時，我對其善說法，如理知解，如何不予肯定乎！』」

> 「世尊よ。世尊がお去りになった直後、あの遍歴者たちは、嘲笑と恥辱の言葉で私を罵りました。『このポッタパーダよ、お前は沙門ゴータマの語ることを、まさしく「その通りです、世尊よ。その通りです、善逝よ」と称賛した。しかし我々は、沙門ゴータマが「世界は永遠である……乃至……如来は死後、存在するのでもなく、存在しないのでもない」といった事柄について、確定的な教示を一切行っていないと考える。』そう言われたので、私は彼ら遍歴者たちにこう答えました。『諸君よ、私もまた、沙門ゴータマが「世界は永遠である……乃至……如来は死後、存在するのでもなく、存在しないのでもない」といった事柄について、確定的な教示を一切行っていないと考えます。しかし、沙門ゴータマは、あるがままに、真実に、真如に基づいて法に立ち、道理に適った道を説かれます。そして、沙門ゴータマがあるがままに、真実に、真如に基づいて法に立ち、道理に適った道を善く説かれる時、私はその善く説かれた法を、理のままに理解します。どうしてそれを認めないことがありましょうか！』」

三三

> 三三（さんさん）

「布吒婆樓！彼等一切普行者，皆如盲目、無眼者，汝是其中唯一具眼之士。布吒婆樓！於此，有一向由我所記說之諸法，又一向由我所不記說之諸法。布吒婆樓！一向由我所不記說之法者何耶？謂如云：『世界是常住？』布吒婆樓！此是由我所不記說之法。又，布吒婆樓！如云：『世界是無常？』此是由我所不記說之法。布吒婆樓！如云：『世界是有邊……乃至……如來死後亦非存在，亦非不存在？』此是由我所不記說之法也。

> 「ポッタパーダよ、あらゆる修行者たちは皆、盲人のように目がない。あなたはその中で唯一、見える目を持つ者だ。ポッタパーダよ、ここに、私が明確に説いた法と、私が明確に説かなかった法がある。では、私が説かなかった法とは何か？例えば『世界は永遠である』という主張。ポッタパーダよ、これは私が説かなかった法である。また例えば『世界は永遠ではない』という主張。これも私が説かなかった法である。さらに『世界には限りがある』…乃至…『如来は死後存在するのでもなく、存在しないのでもない』という主張。これらはすべて、私が説かなかった法である。」

布吒婆樓！何故此等，是一向由我所不記說之法？布吒婆樓！此等亦不適義，亦不適法，非根本梵行，又此等亦非出離……乃至……亦非導至涅槃。是故此等，一向由我所不記說之法。

> ポッタパーダよ、なぜ私はこれらのことについて常に語らないのか。これらのことは、目的にも適わず、教えにも適わず、清らかな修行の根本ではない。また、これらのことは、解脱につながらず、涅槃へと導くものでもない。だからこそ、私はこれらのことについて常に語らないのである。

布吒婆樓！然而何者，是一向我所記說之法耶？布吒婆樓！謂：『此是苦也』，此是一向我所記說之法。布吒婆樓！『此是苦之集』，此是一向我所記說之法。布吒婆樓！『此是苦之滅』，此是一向我所記說之法。布吒婆樓！『此是導苦滅之道』，此是一向我所記說之法。

> ポッタパーダよ、では、どのような法を私は常に明確に説いているのか。 ポッタパーダよ、『これは苦しみである』、これこそが私が常に明確に説いている法である。 ポッタパーダよ、『これは苦しみの原因である』、これこそが私が常に明確に説いている法である。 ポッタパーダよ、『これは苦しみの消滅である』、これこそが私が常に明確に説いている法である。 ポッタパーダよ、『これは苦しみの消滅へと導く道である』、これこそが私が常に明確に説いている法である。

布吒婆樓！復何故此等，是一向我所記說之法？布吒婆樓！此等是適義、適法。又此等是根本梵行，又出離……〔乃至〕……導至涅槃也。是故此等，是一向我所記說也。

> バッダヴァーゴよ、ではなぜ、これらのことについては、私は明確に説いたのか。バッダヴァーゴよ、これらのことは、真の意味に適い、法に適うものである。また、これらのことは梵行の基礎であり、厭離（を促し）…（中略）…涅槃へと導くものである。だからこそ、これらのことについては、私は明確に説いたのである。

三四

> 三と四

布吒婆樓！有一類之沙門、婆羅門，如是見、如是主張：『我於死後，為一向安樂、無病。』如是，我訪彼等，問曰：『諸友！汝等如是主張、如是見，云：「我於死後，為一向安樂、無病。」是真實否？』我如是言時，彼等實然承認。我更問彼等曰：『諸友！然者，汝等事實知、見世界一向安樂耶？』如是問時，彼等言：『不然。』我又問彼等曰：『諸友！然者，汝等更知覺一夜或一日、半夜或半日，有一向安樂之我耶？』如是問時，彼等言：『不然。』我又問彼等曰：『諸友！然者，汝等如是知此是道、道跡，為實現一向安樂之世界耶？』如是問時，彼等言：『不然。』我又問彼等曰：『諸友！然者，汝等曾聞彼諸天神生一向安樂世界之說示音聲——「諸尊！為實現一向安樂世界而行善業；諸尊！是正道行者，所以者何？諸尊！我等所行正道，如是生一向安樂之世界」耶？』如是問時，彼等言：『不然。』布吒婆樓！汝意云何？彼等沙門、婆羅門之所說，是否真實耶？

> パッタパーダよ、ある種の修行者やバラモンたちが、このように見なし、このように主張する。「私は死後、完全な安楽で、病のない状態になる」と。そこで私は彼らを訪ね、こう尋ねた。「友よ、あなたがたはこう主張し、こう見なして、『私は死後、完全な安楽で、病のない状態になる』と言う。それは真実なのか？」と。私がこう言うと、彼らは確かにそれを認めた。そこでさらに彼らに尋ねた。「友よ、ではあなたがたは、実際にこの世界が完全に安楽であることを知り、見ているのか？」と。こう尋ねると、彼らは「いいえ」と答えた。さらに私は彼らに尋ねた。「友よ、ではあなたがたは、一晩や一日、あるいは半晩や半日の間、完全に安楽な自分自身を知覚したことがあるのか？」と。こう尋ねると、彼らは「いいえ」と答えた。さらに私は彼らに尋ねた。「友よ、ではあなたがたは、完全な安楽の世界を実現するための道筋や実践方法を、このように知っているのか？」と。こう尋ねると、彼らは「いいえ」と答えた。さらに私は彼らに尋ねた。「友よ、ではあなたがたは、完全な安楽の世界に生まれたあの神々が、『尊い方々よ、完全な安楽の世界を実現するために善い行いをなさい。尊い方々よ、これこそが正しい道の実践です。なぜなら、私たちは正しい道を歩んだからこそ、このように完全な安楽の世界に生まれたのです』と説く音声を聞いたことがあるのか？」と。こう尋ねると、彼らは「いいえ」と答えた。パッタパーダよ、あなたはどう思うか。彼ら修行者やバラモンたちの説くところは、実に正しいと言えるだろうか？

三五

> 三と五

猶如有人如是言：『我於此國，求、愛彼國中之第一美女。』而眾人對彼言：『然，友！汝於此國，求、愛彼國中之第一美女者，汝所謂國中之第一美女，汝當知是剎帝利女、婆羅門女、吠舍女、或首陀羅女焉？』如是言時，彼言：『不也。』又有眾對彼言：『友！汝若求、愛彼國中之第一美女者，汝當知彼國中第一美是如何名、如何姓耶？又彼女〔身〕是高、矮或中耶？皮膚是青黑、真黑、或黃金色耶？彼住村里、鄉鎮、或城市耶？』如是問時，彼言：『不也。』又有諸人問彼曰：『友！汝不知、不見，而汝求、愛其人耶？』如是問時，彼言：『然也。』布吒婆樓！汝意云何？此人如是之所說，無不合於事實耶？」

> 例えば、ある人がこう言ったとします。「私はこの国で、あの国にいる一番の美女を求め、愛している。」すると、人々は彼にこう尋ねます。「では友よ、あなたがこの国で求め愛している、あの国の一番の美女とは、クシャトリアの娘ですか、バラモンの娘ですか、ヴァイシャの娘ですか、それともシュードラの娘ですか？」そう尋ねられると、彼は「いいえ、わかりません」と答えます。 さらに人々は尋ねます。「友よ、あなたが求めるその国の一番の美女とは、どのような名前で、どのような姓なのですか？また、その女性は背が高いのか、低いのか、中くらいなのか？肌の色は青黒いのか、真っ黒なのか、黄金色なのか？彼女は村に住んでいるのか、町に住んでいるのか、都市に住んでいるのか？」こう尋ねられても、彼は「いいえ、わかりません」と答えます。 そして人々は問います。「友よ、あなたはその人を知らず、見たこともないのに、その人を求め愛しているのですか？」そう問われて、彼は「そうです」と答えます。 パッタパーダよ、あなたはどう思いますか？この人の言うことは、まったく理にかなっていないのではないでしょうか？

「世尊！此人如是之所說，確實不合於事實。」

> 「世尊よ、この人が語ったことは、実際の事実とは全く合っておりません。」

三六

> 「三六」

「布吒婆樓！實如是沙門、婆羅門，雖如是說、如是見：『我於死後，一向幸福、無病。』我往訪彼等，問曰：『諸友！汝等如是說、如是見，云我死後，一向幸福、而且無病。是真實否？』如是言時，彼等承認〔曰：〕『然也。』我更問彼等曰：『諸友！然者，汝等覺知、現見一向幸福之世界而住耶？』如是問時，彼等答：『不然。』我又如是問彼等曰：『諸友！然者，汝等知覺一夜、或一日，半夜或半日，一向幸福之我耶？』如是言時，彼等答：『不然。』我又如是問彼等曰：『諸友！然者，汝等了知，實現此一向幸福世界之道、道跡耶？』如是言時，彼等答：『不然。』我更如是問彼等曰：『諸友！然者，汝等曾聞天神說示一向幸福之音聲——「諸尊！為實現一向之幸福世界，而行善業；是正道行者，所以者何？諸尊！我等所行正道，如是生一向幸福之世界」耶？』如是言時，彼等答：『不然。』布吒婆樓！汝意云何？彼等沙門、婆羅門如是之所說，無不合事實耶？」

> 「ポッタパーダよ、実際、ある修行者やバラモンたちが、『私は死後、完全に幸せで、苦しみがない』と語り、そのように見なしている。私は彼らのもとを訪ねて尋ねた。『友よ、あなた方は「私は死後、完全に幸せで、しかも苦しみがない」と語り、そう見なしている。それは本当か？』と。こう尋ねると、彼らは『その通りです』と認めた。私はさらに彼らに尋ねた。『友よ、ではあなた方は、完全に幸せな世界を知覚し、現に見ながら〔そこに〕住んでいるのか？』と。こう尋ねると、彼らは『いいえ』と答えた。私はまたこう尋ねた。『友よ、ではあなた方は、一晩、あるいは一日、半晩、あるいは半日の間、完全に幸せな〔自分の〕姿を知覚しているのか？』と。こう言うと、彼らは『いいえ』と答えた。私はさらにこう尋ねた。『友よ、ではあなた方は、この完全に幸せな世界を実現するための道筋を知っているのか？』と。こう言うと、彼らは『いいえ』と答えた。私はさらにこう尋ねた。『友よ、ではあなた方は、天の神々が完全に幸せについての声を語るのを聞いたことがあるか？──「尊い方々よ、完全に幸せな世界を実現するために、善い行いをせよ。それが正しい道の行者です。なぜなら、尊い方々よ、私たちは正しい道を歩んだことで、こうして完全に幸せな世界に生まれたのです」と。』こう言うと、彼らは『いいえ』と答えた。ポッタパーダよ、あなたはどう思うか？ 彼ら修行者やバラモンの語るところは、すべて事実に合わないのではないか？」

「世尊！彼等沙門、婆羅門之所說，不合於事實。」

> 「世尊、彼らの沙門や婆羅門の説くことは、事実に合いません。」

三七

> 三七というのは、三つの七、つまり二十一のことを

「布吒婆樓！猶如於此有人，為登上高樓，於四大道作楷梯，〔人〕來問彼曰：『然，友！汝為登上高樓，而作楷梯，汝確知其高樓是在東方、西方、北方或南方耶？〔其高樓〕是高、低或中耶？』如是言時，彼答：『不然。』又問彼曰：『友！然者，汝不知、見其高樓，汝則為登其樓而作楷梯耶？』如是言時，彼答：『然也。』布吒婆樓！汝意云何？此人如是之所說，合於事實耶？」

> 「ポッタパーダよ。例えば、ある人が高殿に上るために、四つの交差点に階段を作るとしよう。すると、ある人が来て尋ねる。『友よ、あなたは高殿に上るために階段を作っている。その高殿が東にあるのか、西にあるのか、北にあるのか、南にあるのか、または高いのか低いのか、中くらいなのか、確かに知っているのか』と。このように言われて、彼は『いいえ、知りません』と答える。さらに問われる。『友よ、それならあなたは、その高殿を見たことも知りもしないのに、それに上るために階段を作っているのか』と。このように言われて、彼は『そうです』と答える。ポッタパーダよ、あなたはどう思うか。この人のこの言葉は、事実にかなっているだろうか。」

「世尊！彼人如是之所說，不合於事實。」

> 「世尊よ。あの人の言うことは、事実に合っていません。」

三八

> 三八

「如是，布吒婆樓！沙門、婆羅門如是見、如是說：『我於死後，一向幸福、無病。』亦如……〔乃至〕……布吒婆樓！汝意云何？彼等沙門、婆羅門如是之所說，合於事實耶？」

> 「このように、ポッタパーダよ。修行者やバラモンたちが、『私は死後、完全に幸福で、病気がない』と見なし、説く。また、そのように…（中略）…ポッタパーダよ。あなたはどう思うか。彼ら修行者やバラモンたちがそのように説くことは、事実にかなっているだろうか？」

「世尊！彼等沙門、婆羅門如是之所說，不合事實。」

> 「世尊よ、彼らの修行者やバラモンたちがそのように説くことは、事実に合いません。」

三九

> \*\*三十九\*\* 仏陀は言われた。「善

「布吒婆樓！有三種我得：麤之我得、意所成之我得、無形之我得。又，布吒婆樓！何者是麤之我得耶？謂：有形之〔色身〕，四大所成、摶食所養者，此為麤之我得。何者是意所成之我得耶？謂：有形之〔色身〕，具足大小支節、諸根圓滿，此為意所成之我得。何者是無形之我得耶？謂：無形色之想所成者，此為無形之我得。

> 「ポッタパーダよ、三種類の自己（我）の捉え方がある。すなわち、粗い自己、心によって作られる自己、形のない自己である。 では、ポッタパーダよ、粗い自己とは何か。それは、物質的な身体を持ち、四大元素から成り、固形物の食物によって支えられているものである。これが粗い自己である。 心によって作られる自己とは何か。それは、物質的な身体を持ち、すべての大きな手足の部分や小さな部分を備え、感覚器官が完全にそろっているものである。これが心によって作られる自己である。 形のない自己とは何か。それは、形や色のない表象（想）によって成り立っているものである。これが形のない自己である。」

四〇

> 「四〇」という言葉だけでは、文脈が

布吒婆樓！我實為永斷麤之我得而說法。依此而隨入，捨離雜染之諸法，增長清淨之諸法，於現法中，廣大智慧之圓滿，至自證、通達而住。然，布吒婆樓！對此，汝或者作如是思惟：『捨離雜染之諸法，增長清淨之諸法，於現法中，廣大智慧之圓滿，至自證、通達而住。然而，亦尚住〔有情〕之苦中。』布吒婆樓！勿如是思惟。所以者何？捨離雜染之諸法，增長清淨之諸法，於現法中，廣大智慧之圓滿，至自證、通達而住者，彼則得愉快、歡喜、輕安、正念、正智，得安樂而住也。

> 「ポッタパーダよ、私は、粗い自己を完全に断ち切るために教えを説いています。その教えに従って実践すれば、煩わしい汚れた法（現象）を離れ、清らかな法を育て、現世において、広大な智慧の完成に至り、自ら悟り、理解して安住することができるのです。 しかし、ポッタパーダよ、あなたはこう考えるかもしれません。『汚れた法を離れ、清らかな法を育て、現世において、広大な智慧の完成に至り、自ら悟り、理解して安住するけれども、そこには依然として苦しみがあるのではないか』と。ポッタパーダよ、そのように考えてはいけません。 なぜなら、汚れた法を離れ、清らかな法を育て、現世において、広大な智慧の完成に至り、自ら悟り、理解して安住する者こそ、喜悦、歓喜、心の軽やかさ、正しい気づき、正しい智慧を得て、安楽に安住するからです。」

四一

> 仏が、真理の世界に到達した者たちに

布吒婆樓！我為永斷意所成之我得而說法。依此而隨入，捨離雜染之諸法，增長清淨之諸法，於現法，智慧圓滿及其廣大，至自證、通達而住。然，布吒婆樓！對此，汝或者作如是思惟：『斷離雜染之諸法，增長清淨之諸法，於現法中，廣大智慧之圓滿，至自證、通達而住，亦尚住〔有情〕之苦中。』布吒婆樓！勿作如是思惟。所以者何？捨離雜染之諸法，增長清淨之資法，於現法，智慧圓滿及其廣大者，彼則得愉快、歡喜、輕安、正念、正智、得安樂而住也。

> ポッタパーダよ、私は、心によって作られた自我を永く断つための法を説きます。これに従って実践すれば、汚れた諸々の法を捨て離れ、清らかな諸々の法を増大させ、現世において智慧を完成させ、それを広大なものとし、自ら悟り、体得して安住することができます。 しかし、ポッタパーダよ、あなたはこう考えるかもしれません。 「汚れた諸々の法を断ち離れ、清らかな諸々の法を増大させ、現世において広大な智慧を完成させ、自ら悟り、体得して安住するとしても、それはなお苦しみのうちにあるのではないか」と。 ポッタパーダよ、そのように考えてはなりません。 なぜなら、汚れた諸々の法を捨て離れ、清らかな諸々の法を増大させ、現世において智慧を完成させ、それを広大なものとした者は、実に、喜び、歓喜、安らぎ、正念、正知、そして安楽を得て安住するからです。

四二

> 四十二

布吒婆樓！我實為永斷無形之我得而說法。依此而隨入，捨離雜染之諸法，增長清淨之諸法……〔乃至〕……得安樂而住也。

> ポッタパーダよ、わたしはまさに、形なき自己（無形の我）を永遠に断ち切るための教えを説いています。この教えに従い進むことで、煩わしい汚れの全てを捨て去り、清らかな性質を育て……（中略）……やすらぎと安らかな境地に至って住むことができるのです。

四三

> 四三

布吒婆樓！復若對我如是問：『尊者！尊者如何為永斷麤之我得而說法，依此而隨入，捨離雜染之諸法，增長清淨之諸法……〔乃至〕……通達而住耶？』如是問時，我如是答曰：『友！如是，我為永斷麤之我得而說法。依此而隨入，捨離雜染之諸法，增長清淨之諸法……〔乃至〕……通達而住也。』

> ポッタパーダよ、また、もし私にこう問いかける者がいたとしよう。 「尊師よ、尊師は、どのようにして『粗い自己』を完全に断つための教えを説き、それに従って実践し、汚れた法を捨て、清らかな法を増し、究極の智慧に達して安住するのでしょうか？」 そのように問われたなら、私はこう答えるだろう。 「友よ、私はそのようにして、『粗い自己』を完全に断つための教えを説く。それに従って実践し、汚れた法を捨て、清らかな法を増し、究極の智慧に達して安住するのです。」

四四

> 「四四」という言葉は、仏教の教

布吒婆樓！又若如是問我曰：『尊者！尊者如何為永斷意所成之我得而說法，依此而隨入，捨離雜染之諸法，增長清淨之諸法……〔乃至〕……通達而住耶？』如是問時，我如是答曰：『友！如是，我為永斷意所成之我得而說法。依此而隨入，捨離雜染之諸法，增長清淨之諸法……〔乃至〕……通達而住也。』

> バッダバッダよ、また、もし誰かが私にこう尋ねたとしたら、 「尊者よ、尊者は、意志によって作られた自己を完全に断ち切るために、どのように教えを説き、それに従って実践し、煩わしい汚れた諸々の法（現象）を捨て去り、清らかな諸々の法を増大させ……（中略）……そして、それを完全に理解して安住するのですか？」 と尋ねられたなら、私はこう答えるだろう。 「友よ、その通りだ。私は、意志によって作られた自己を完全に断ち切るために教えを説く。それに従って実践し、煩わしい汚れた諸々の法（現象）を捨て去り、清らかな諸々の法を増大させ……（中略）……そして、それを完全に理解して安住するのだ。」と。

四五

> 「四十五」

復次，布吒婆樓！有如是問我曰：『尊者！尊者如何為永斷無形之我得而說法，依此而隨入，捨離雜染之諸法，增長清淨之諸法……〔乃至〕……通達而住耶？』如是問時，我如是答曰：『友！如是，我為永斷無形之我得而說法……〔乃至〕……通達而住也。』布吒婆樓！汝意云何？如是，我之所說，合於事實耶？」

> さらに、ポッタパーダよ、このような問いが私に対してありました。「尊者よ。尊者はどのようにして、無形の我執を永遠に断ち切るための教えを説かれ、それに従って入り、煩わしい諸々の汚れを捨て去り、清らかな諸々の法を増大させ…（中略）…そしてそれらを徹底的に理解して安住されるのですか？」と問われた時、私はこのように答えました。「友よ。その通り、私は無形の我執を永遠に断ち切るために教えを説き…（中略）…徹底的に理解して安住するのです。」と。ポッタパーダよ、あなたはどう思いますか。このように、私の説いたことは、事実に適っているでしょうか。」

「世尊！如是之所說，實合於事實。」

> 「世尊。そのように説かれたことは、まさに事実にかなっております。」

四六

> 46

「布吒婆樓！恰如為登上高樓，於高樓之直下，建立一楷梯，有〔人〕問彼曰：『友！汝為登上高樓而建造楷梯，汝知其高樓，在東方、西方、南方或北方耶？是高、低，或中耶？』如是問時，彼如是答言：『友！如是為登上高樓，我在此高樓之直下，建立楷梯也。』布吒婆樓！汝意云何？此人之所說，合於事實耶？」

> 「ポッタパーダよ。ちょうど、高い楼閣に上るために、その楼閣の真下に梯子をかける人がいたとする。すると誰かが彼に尋ねる。 『友よ、あなたは楼閣に上るために梯子をかけているが、その楼閣が東にあるのか、西にあるのか、南にあるのか、北にあるのかを知っているのか。また、高いのか、低いのか、中くらいなのかを知っているのか。』 このように尋ねられた時、彼はこう答える。 『友よ、私はこの楼閣に上るために、この楼閣の真下に梯子をかけているのだ。』 ポッタパーダよ、あなたはどう思うか。この人の言葉は、事実にかなっているだろうか。」

「世尊！彼之所說，合於事實。」

> 「世尊（お釈迦さま）。あの方がおっしゃったことは、まさに事実と合っております。」

四七

> 四七という言葉は、仏教の文脈では

「布吒婆樓！此亦如是。若有人問我：『尊者！尊者如何為永斷麤之我得而說法……乃至……復如何為永斷意所成之我得而說法……乃至……復如何為永斷無形之我得而說法，依此而隨入，捨離雜染之諸法，增長清淨之諸法，於現法中，廣大智慧之圓滿，至自證、通達而住耶？』如是問時，我如是答曰：『友！如是，我為永斷無形之我得而說法。依此而隨入，捨離雜染之諸法，增長清淨之諸法……〔乃至〕……通達而住也。』布吒婆樓！汝意如何？我如是之所說，合於事實耶？」

> 「ポッタパーダよ、これもまた同じことである。もし誰かが私にこう問うたとしよう。『尊者よ、尊者はどのようにして粗い自己（我）を完全に断ち切るための教えを説かれるのでしょうか……また、どのようにして意によって形成された自己（我）を完全に断ち切るための教えを説かれるのでしょうか……さらに、どのようにして形なき自己（我）を完全に断ち切るための教えを説かれ、それに従って修行し、汚れた諸々の法を捨て去り、清らかな諸々の法を増大させ、現世において広大な智慧を完成させ、自ら証得し、悟りに達して安住するのでしょうか』と。そのように問われた時、私はこう答えるでしょう。『友よ、そのように、私は形なき自己（我）を完全に断ち切るための教えを説きます。それに従って修行し、汚れた諸々の法を捨て去り、清らかな諸々の法を増大させ……〔中略〕……悟りに達して安住するのです』と。ポッタパーダよ、あなたはどう思いますか。私がこのように説いたことは、事実に合っているでしょうか？」

「世尊！世尊如是之所說，合於事實。」

> 「世尊よ、あなた様がおっしゃったことは、まさに真実でございます。」

四八

> 四八

〔時〕，象首舍利弗白世尊言：「世尊！若當麤之我得時，則此意所成之我得是虛妄，又無形之我得亦是虛妄，正於其時，唯此麤之我得是真實耶？世尊！若當意所成之我得時，則此麤之我得是虛妄，又無形之我得亦是虛妄，正於其時，唯此意所成之我得是真實耶？世尊！若當無形之我得時，則此麤之我得是虛妄，又意所成之我得亦是虛妄，正於是時，唯此無形之我得是真實耶？」

> 〔時に〕舎利弗が世尊に申し上げました。「世尊よ。もし粗い自己（物質的な身体からなる自己）が得られている時には、この意によって作られた自己は虚偽であり、また形のない自己も虚偽であり、その時にのみ、この粗い自己が真実なのでしょうか。世尊よ。もし意によって作られた自己が得られている時には、この粗い自己は虚偽であり、また形のない自己も虚偽であり、その時にのみ、この意によって作られた自己が真実なのでしょうか。世尊よ。もし形のない自己が得られている時には、この粗い自己は虚偽であり、また意によって作られた自己も虚偽であり、その時にのみ、この形のない自己が真実なのでしょうか。」

四九

> 四十九

「象首！若當麤之我得時，決不稱意所成之我得，亦不稱無形之我得，唯稱麤之我得也。象首！若當意所成之我得時，決不稱麤之我得，亦不稱無形之我得，唯稱意所成之我得也。象首！若當無形之我得時，決不稱麤之我得，亦不稱意所成之我得，唯稱無形之我得也。

> 象首よ。もし粗い自己（物質的な自己）が得られる時には、決して巧みな自己（精神的な自己）とは呼ばれず、また無形の自己とも呼ばれず、ただ粗い自己と呼ばれるのです。 象首よ。もし巧みな自己が得られる時には、決して粗い自己とは呼ばれず、また無形の自己とも呼ばれず、ただ巧みな自己と呼ばれるのです。 象首よ。もし無形の自己が得られる時には、決して粗い自己とは呼ばれず、また巧みな自己とも呼ばれず、ただ無形の自己と呼ばれるのです。

象首！若有人問汝言：『過去世，汝存在，汝曾非不存在；未來世，汝應存在，汝當非不存在；於現在世，汝存在，汝當非不存在耶？』如是問時，象首！汝當如何答之耶？」

> 「象首よ、もし誰かがあなたにこう尋ねたとしよう。 『過去において、あなたは存在した。存在しなかったことはないだろう。 未来において、あなたは存在するはずだ。存在しないことはないだろう。 現在において、あなたは存在している。存在しないことはないだろう。』 そう問われたなら、象首よ、あなたはどのように答えるだろうか。」

「世尊！若有人如是問我：『汝已於過去存在，汝曾非不存在；汝於未來世當存在，汝當非不存在；汝於現世存在，汝正非不存在耶？』世尊！如是問我時，我如次答：『我於過去世存在，我曾非不存在；我於未來世存在，我當非不存在；我於現世存在，我正非不存在。』世尊！對如是問時，我為如是答。」

> 「世尊、もし誰かが私にこう尋ねたら――『あなたは過去にも存在し、存在しなかったことはないのですか。未来にも存在し、存在しないことはないのですか。現在も存在し、存在していないことはないのですか』と。世尊、そのように問われたなら、私はこう答えるでしょう――『私は過去にも存在し、存在しなかったことはありません。未来にも存在し、存在しないことはありません。現在も存在し、存在していないことはありません』と。世尊、このように問われたとき、私はこのように答えるのです。」

五〇

> 「五〇」

「象首！若又有如是問汝：『汝過去之我得曾存在時，則唯汝〔過去〕之我得是真實，未來之〔我得〕是虛妄，現在之〔我得〕亦虛妄耶？又，汝未來之我得當存在，則唯汝〔未來〕之我得是真實，過去之我得是虛妄，現在之我得亦虛妄耶？又，汝現在之我得正存在時，則唯汝〔現在〕之我得是真實，過去之我得是虛妄，未來之我得亦虛妄耶？』象首！如是問時，汝如何答耶？」

> 象頭よ、もしこのように問われるとしたらどうか。「あなたの過去の自己は実際に存在していたのであり、それゆえあなたの過去の自己だけが真実で、未来の自己は虚偽、現在の自己も虚偽なのか？また、あなたの未来の自己はこれから存在するのであり、それゆえあなたの未来の自己だけが真実で、過去の自己は虚偽、現在の自己も虚偽なのか？あるいは、あなたの現在の自己はまさに存在しているのであり、それゆえあなたの現在の自己だけが真実で、過去の自己は虚偽、未来の自己も虚偽なのか？」象頭よ、そのように問われた時、あなたはどう答えるのか。

「世尊！若如是問我：『汝過去之我得曾存在時……〔乃至〕……汝現在之我得正存在時，唯汝〔現在〕之我得為真實，過去〔之我得〕是虛妄，未來〔之我得〕亦虛妄耶？』世尊！對如是問時，我則如是答：『當我過去之我得曾存在時，則唯我〔過去〕之我得是真實，未來之〔我得〕是虛妄，又現在〔之我得〕亦是虛妄也。又，當我未來之我得當存在時，則唯〔未來〕之我得是真實，過去之〔我得〕是虛妄，現在之〔我得〕亦是虛妄也。又，當我現在之我得正存在時，則唯我〔現在〕之我得是真實，過去之我得是虛妄，未來之〔我得〕亦虛妄也。』〔世尊！〕對如是問，我當如是答。」

> 「世尊、もし私が『あなたの過去の自己は実在したのか…（中略）…現在の自己は実在しているのか。そして、ただ現在の自己だけが真実で、過去の自己は虚妄、未来の自己も虚妄なのか』と問われたら、私はこう答えるでしょう。『過去の自己が実在した時は、ただ過去の自己だけが真実で、未来の自己は虚妄、現在の自己も虚妄です。また、未来の自己が実在する時は、ただ未来の自己だけが真実で、過去の自己は虚妄、現在の自己も虚妄です。また、現在の自己が実在している時は、ただ現在の自己だけが真実で、過去の自己は虚妄、未来の自己も虚妄です。』世尊、このように問われたなら、私はそう答えるでしょう。」

五一

> 申し訳ありませんが、「五一」という単語だけ

「象首！此亦如是，麤之我得存在時，決不稱為意所成之我得，亦不稱為無形之我得，唯稱為麤之我得。象首！意所成之我得存在時……乃至……象首！無形之我得存在時，決不稱粗之我得，亦不稱意所成之我得，唯稱無形之我得也。

> 象首よ、これもまた同じだ。 粗い自己（我）が存在している時には、それを「意によって作られた自己」や「形なき自己」とは決して呼ばず、ただ「粗い自己」と呼ぶのである。 象首よ、意によって作られた自己が存在している時には……（同様に）…… 象首よ、形なき自己が存在している時には、それを「粗い自己」や「意によって作られた自己」とは決して呼ばず、ただ「形なき自己」と呼ぶのである。

五二

> 世の中の出来事は、すべて原因と条件が

象首！此恰如由牛而有牛乳，由乳而有酪，由酪而生酥，由生酥而有熟酥，由熟酥而醍醐味也。當有牛乳之時，決不稱為酪，亦不稱為生酥，亦不稱熟酥，又不稱為醍醐味，其時，唯稱為牛乳也。若酪之時……乃至……若生酥之時……乃至……若醍醐味之時，決不稱為牛乳，亦不稱為酪，亦不稱為生酥，亦不稱為熟酥，其時，唯稱為醍醐味也。

> 象頭よ。それはちょうど、牛から乳が得られ、乳から酪が、酪から生酥が、生酥から熟酥が、熟酥から醍醐味が生じるようなものだ。乳の段階では、決して酪と呼ばれず、生酥とも熟酥とも醍醐味とも呼ばれず、ただ乳と呼ばれるのみである。酪の段階でも同様に……醒酥の段階でも……そして醍醐味の段階では、決して乳とも酪とも生酥とも熟酥とも呼ばれず、ただ醍醐味と呼ばれるのみである。

五三

> 「五三」という経典の一節は、

象首！此亦如是，粗之我得存在時……乃至……象首！意所成之我得存在時……乃至……象首！無形之我得存在時，實不稱為粗之我得，亦不稱為意所成之我得，唯稱為無形之我得也。

> 象頭よ、これもまた同じだ。 「粗なる我（自我）」が存在する時……さらに……象頭よ、「心より成る我」が存在する時……さらに…… 象頭よ、「形なき我」が存在する時、それは「粗なる我」とも呼ばれず、「心より成る我」とも呼ばれず、ただ「形なき我」と呼ばれるのである。

象首！此等乃世間之共稱，世間之語辭，世間之名稱，世間之記述法，世尊正當利用此等而不著也。」

> 象頭（しょうとう）よ、これらの言葉は、世間で共通に使われている呼び方であり、世間の言葉づかいであり、世間の名称であり、世間の表現方法です。世尊はこれらを正しく用いられても、それに執着されることはありません。

五四

> 以下は、指定された条件に従った日本語訳です

世尊如是說時，布吒婆樓普行者曰：「偉哉！世尊！大哉！世尊！恰如扶起倒者，揭露覆蓋者，於迷者指示其道，於闇中持明燈，使有眼者見諸物。世尊以種種方便，說示教法。世尊！我今歸依佛陀、教法、比丘僧伽。請世尊攝受我，我從今日以後，至命終，歸依為優婆塞。」

> 世尊がこのように説かれたとき、修行者ポッタパーダは言いました。「素晴らしい！世尊よ。実に素晴らしい！世尊よ。それはまるで、倒れたものを起こし、覆い隠されたものを開き、道に迷った人に道を示し、暗闇の中で灯りを掲げて、目ある者にものを見せるかのようです。世尊は様々な方法を用いて教えを明らかにしてくださいました。世尊。私は今より、仏陀（目覚めた方）に帰依し、その教えに帰依し、比丘の僧団に帰依いたします。どうか世尊、私をお受け入れください。私は今日から命が終わるまで、優婆塞（在家の信者）として帰依いたします。」

五五

> 五五

又象首舍利弗白世尊言：「偉哉！世尊！大哉！世尊！恰如扶起倒者，揭露覆蓋者，於迷者指示其道，闇中持來明燈，使有眼者見諸物。世尊以種種方便，說示教法。世尊！我今歸依佛陀世尊、教法、比丘僧伽。世尊！願得於世尊面前出家、得受具戒。」

> そこで舎利弗が世尊に申し上げました。「素晴らしいことでございます、世尊。何と素晴らしいことでございます、世尊。まるで倒れた者を起こし、覆いをはぎ取り、迷える者に道を示し、暗闇の中に灯りを持ち込み、目ある者に物を見せるかのようです。世尊はさまざまな方法で教えを示してくださいます。世尊、私は今こそ、仏陀世尊とその教え、そして比丘の僧団に帰依いたします。どうか世尊のもとで出家し、具足戒を受けることをお許しください。」

五六

> 五六

如是，象首於世尊之面前出家、受具戒。受具戒後，尊者象首舍利弗，則止住獨處，不放逸、熱心精懃而住，因此不久，良家之子捨家而出家，現在於最上梵行之究竟，自證、通達而住，自知：「生已盡、梵行已立、所作已辦、不受後有。」確實尊者象首舍利弗，成為阿羅漢之一。

> さて、象首尊者は、世尊のもとで出家し、正式な戒を受けました。戒を受けた後、象首尊者は、大師・舎利弗のもとで、ひとり離れて過ごし、怠ることなく、熱心に努力を続けました。その結果、やがて良家の子息が家を出て出家するその目的である、最高の梵行の究極を、自ら悟り、体得し、そして、「生は尽きた。梵行は完成された。なすべきことはなされた。もはや、この世に再び生まれることはない」と知りました。こうして、確かに象首尊者は、阿羅漢の一人となったのです。