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title: "厦門南普陀寺志 · 會泉和尚傳"
description: "厦门南普陀寺志由释寄尘法师于民国时期编撰，是一部记载福建厦门南普陀寺历史沿革的佛教寺志。全书系统梳理了寺院自唐代开山以来的发展历程，包括建筑兴废、高僧事迹、法脉传承与宗教活动，并收录碑刻文献等珍贵史料。作为近代佛教地方志的代表作，它不仅为研究闽南佛教史与寺院文化提供了重要依据，更彰显了南普陀寺作为观音道场在汉传佛教中的重要地位，对了解中国近现代佛教发展具有较高的学术与文献价值。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmgn10h7h1m4tjl04txuee8o7"
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### 會泉和尚傳

> 会泉和尚伝

默如

> 沈黙の如く

會泉和尚：別號印月；明性為其名，俗姓張，福建同安人也。童年多承母訓，因其年方七歲，父即西逝，故惟母是所依怙。至年十三，乃覺人生於世，生活問題，由自解決，方不失其獨立之精神，於是立習商業，以逞其志耳，至年十四，忽遭不幸，母亦棄世。由是囘想起來，父母相繼去世，前後未及十年，甚感世相既如此無常，如此幻化，則人生之意味甚寡，終難避免死之一途。既而因覽岳傅，審悉忠孝確為人之根本；然往往事實與志願相悖，因環境之阻礙，遂不能達到目的，由此厭世觀念頓生，出家思想漸萌。至年十九，毅然出家，遂投於虎溪巖善温和尚座下落髮而為僧矣。然此僅具僧伽之形像，尚未獲得僧伽之精神。——僧伽之形像者，身著圓領方袍也；僧伽之精神者，依佛戒律而實行也——故其年滿二十，乃受具於漳州南山寺學公和尚。此為會泉和尚出家與受具之因緣也。

> 会泉和尚は、別号を印月と称し、明性がその名である。俗姓は張氏で、福建省同安の人である。幼少のころより母の教えを多く受けたが、7歳の時に父が他界したため、ただ母のみを頼りとした。13歳に至り、人生においては生活の問題を自ら解決してこそ独立の精神を失わないと悟り、商業を学んでその志を遂げようとした。ところが14歳の時、不運にも母もまたこの世を去った。こうして振り返ってみると、父母が相次いで世を去り、その間わずか10年にも満たなかった。世の中の姿がかくも無常であり、かくも幻のごとくであるならば、人生の味わいは極めて薄く、結局は死という一途を避けられないと深く感じた。その後、『岳伝』を読んで、忠孝が確かに人の根本であることを知ったが、しばしば現実は志と背き、環境の妨げによって目的を達成できないことを思い知り、ここに厭世の念がたちまち生じ、出家の想いが次第に芽生えた。19歳の時、思い切って出家し、虎渓岩の善温和尚のもとに身を投じ、そのもとで髪を下ろして僧となった。しかし、これはただ僧伽の形を備えたにすぎず、まだ僧伽の精神を得たわけではなかった。――僧伽の形とは、円領方袍を身にまとうことである。僧伽の精神とは、仏の戒律に従って実践することである。――そのため、20歳の時に漳州南山寺の学公和尚のもとで具足戒を受けた。これが会泉和尚の出家と受戒に至る因縁である。

受具已後，已知戒律，固為僧伽身心之軌範，然欲煉一純善之僧格，及一有用之人材，則非修習禪定與研究教理不為功。和尚本此自利利他之宗旨，發起無畏精神，百折不撓，效玄奘之西遊，學善財之南詢，誠可欽仰。茲略述其參訪知識之經歷，即可見其精進之一斑矣。和尚二十二歲，航海至浙省之天童寺，聽諦閒法師講法華經；同年夏，復遊南海聽幻人法師講法華經。廿三歲，復囘天童，聽寒橋法師講楞巖經；同年冬，進禪堂，練習禪定。二十四歲，聽天童延請之幻人法師所講之楞嚴宗通；經期畢後，常州復請幻人法師講法華經，乃又隨之而去聽講。二十五歲，夏，遊焦山，聽通智法師講楞嚴經；冬，進住高旻禪堂。二十六歲，冬，至金山，進大禪堂習定。二十七歲，春，至大通和悅洲，聽月霞老人講楞嚴經；夏，來天童，聽通老法師講楞嚴經；冬，進禪堂打七。二十八歲，復回本省，至廈門南普陀寺，襄助淨心和尚代參老和尚傅戒。二十九歲，住泉州小雪峰，親近佛化法祖，殆有三載。祖示以禪宗法語云：「剔眉露出通天眼，返照身心練是空」。由是和尚了知楞嚴經中指見是心之語，亦不可得也。卅二歲，再至天童聽道階法師講便蒙鈔及唯識三十論。三十三歲，與太虛大師同住天童聽法華經；同年秋，至泉州承天寺，襄助啟建水陸道場，以作冥陽兩利之法事。和尚受具後之十餘年來，皆度如此之雲水生活，飄零他方，行踪無定。——由福建而浙江，由浙江而江蘇，由江蘇而安徽，往來循環，不暫停息。——然而身體安泰，精神舒適，一瓶一鉢，足以維持生活，三衣隻具，亦能到處安身。雖則備嘗艱辛，屢遭挫折，而和尚胸懷坦白，無事自若，以其另有精神上之安慰故也。其安慰為何？受善知識之熏習。如飲醍醐，得大導師之開導，若被甘露。——孔子之所謂「發憤忘食，樂以忘憂」者，——是也。故其終能造成閩省僧界中之一翹楚人物。古人云：「不受一番寒徹骨，那得梅花撲鼻香」？其斯之謂歟！此為會泉和尚參方與學道之經歷也。

> 具足戒を受けた後は、すでに戒律を知り、それが僧伽の身心の規範となることを固く自覚していました。しかし、純粋で善い僧としての人格と、社会に役立つ人材を育てるためには、坐禅による修行と教理の研究を積まなければ、その成果は得られません。和尚は、この自利利他の宗旨に基づき、恐れることのない精神を奮い起こし、百折不撓の努力で、玄奘三蔵のインド巡礼や、善財童子の南インド遍歴に倣いました。その志は、まことに敬服に値します。ここに、和尚が師を訪ね歩いた修行の一端を記せば、その精進ぶりがうかがえるでしょう。 和尚は二十二歳の時、海路で浙江省の天童寺に渡り、諦閒法師から法華経の講義を受けました。同年の夏には南海を訪れ、幻人法師から法華経を聴聞しました。二十三歳で再び天童寺に戻り、寒橋法師から楞厳経を学びました。同年の冬には禅堂に入り、坐禅の修行を始めました。二十四歳の時、天童寺に招かれた幻人法師による『楞厳宗通』の講義を受けました。その講義が終わると、常州から幻人法師が法華経の講義を依頼されたため、和尚もそれに従って聴講しました。二十五歳の夏には焦山を訪れ、通智法師から楞厳経を聴き、冬には高旻寺の禅堂に住み込みました。二十六歳の冬には金山寺に移り、大禅堂で坐禅を修行しました。二十七歳の春には、大通和悦洲に行き、月霞老人から楞厳経の講義を受けました。夏に天童寺に戻り、通老法師から楞厳経を聴聞し、冬には禅堂で「打七」の修行に参加しました。二十八歳で故郷の福建省に戻り、厦門の南普陀寺で、浄心和尚が代参老和尚に代わって行う戒律の伝授を補佐しました。二十九歳からは泉州小雪峰に三年近く滞在し、仏化法祖に親しく学びました。法祖は、禅の教えとして「眉を剔って通天の眼を露出し、身心を返照して練るは是れ空」という言葉を示しました。この教えによって、和尚は『楞厳経』にある「指見是心」の言葉もまた、実体として捉えるべきものではないと悟りました。三十二歳の時、再び天童寺で道階法師から『便蒙鈔』と『唯識三十論』を学びました。三十三歳の時には、太虚大師と共に天童寺で法華経を聴聞しました。同年の秋には、泉州の承天寺で、冥陽両利の法要である水陸道場の設営を補佐しました。 和尚が具足戒を受けてからの十数年間は、まさに雲水の生活を送り、他郷を漂泊し、足跡は定まりませんでした。福建から浙江へ、浙江から江蘇へ、江蘇から安徽へと、行き来を繰り返し、休む間もありませんでした。しかし、身体は安らかで、精神は爽快でした。一瓶一鉢のわずかな持ち物で生活は十分に成り立ち、三衣一具あればどこにでも身を置くことができました。辛苦を味わい、幾度も挫折を経験しながらも、和尚の胸中は常に明朗で、何事にも動じることがありませんでした。なぜなら、そこには別の精神的な安らぎがあったからです。その安らぎとは何か。それは、優れた師匠の教えに触れることであり、それはまるで醍醐を飲むかのような心地よさであり、偉大な導師の導きは、甘露を浴びるかのようなものでした。孔子が言うところの「発憤して食を忘れ、楽しみて憂いを忘れる」とは、まさにこのことでしょう。こうして和尚は、ついに福建省の僧侶界において、卓越した人物となることができました。古人が言う「一番の寒さ、骨に徹する苦しみを受けずんば、いずくんぞ梅の花の鼻を撲つ香りを得んや」とは、このことを指すのでしょうか。以上が、会泉和尚の師を訪ね歩き、仏道を学んだ歩みです。

受此一番辛勤，知識既富矣！而道德亦宏且大矣！於是聲聞國內，名播十方，尤其閩南人士——莫不非常敬重之，愛戴之，景仰之，擁護之！而和尚亦本其愛己愛人愛教之熱忱，以從事於化導社會宏揚佛法之工作，而不稍懈焉！有人請其學術演講者則演講之；有人請其通俗布教者則布教之；有人請其主席叢林者則主席之；有人舉其領袖僧眾者則領袖之。和尚畢生事業，不出於此。其他叢林中之上座大德，惟以幽閒生活是務，安樂自在為圖，較之和尚，不亦霄壞乎？

> このような努力によって、知識は豊かになり、道徳もまた広く大きくなった。そこで国内に名声が広まり、十方に名が知れ渡った。特に閩南（びんなん）の人々は、皆、この和尚を非常に敬い、慕い、仰ぎ、支持した。和尚はまた、己を愛し、人を愛し、仏教を愛する熱意をもって、社会を導き仏法を広める仕事に励み、少しも怠ることはなかった。学術講演を依頼する人がいれば講演し、一般向けの説教を依頼する人がいれば説教し、寺院の住職にという依頼があればそれに応じ、僧侶のリーダーに推挙されればそれを務めた。和尚の生涯の事業は、これ以外にはなかった。他の寺院の高僧たちが、ただ静かな生活を求め、安楽で自由であることだけを願っていたのに比べれば、和尚とどれほどの差があることか。

然則和尚宏法之歷程又為如何歟？茲請述之。和尚三十四歲因受泉州小雪峯之請，講楞嚴經。三十六歲，囘虎溪巖，靜修三載。三十九歲，因受台灣人士之請而講經。四十三歲，主席泉州承天寺，弘法數年。五十一歲，主席厦門南普陀寺，創辦閩南佛學院。五十四歲，退院，請太虛大師主席。五十五歲，至台灣講經。五十八歲，於承天寺講楞嚴經。五十九歲，於虎溪巖再講楞嚴。今年（民國二十二年）六十歲，於萬石巖新建佛學研究社，以領僧眾從事於佛學之研究。今後於佛教之貢獻，於眾生之利益，當不可限量，茲者，不能預記，且止於斯。此為會泉和尚弘法與利生之概略也。

道學兼優，固為人所尊敬恭養，而會泉和尚之所以特為閩南人士謳歌讚歎而不已者，蓋必有其因緣也。按余所知者約有兩點，即（一）和尚布教與演講之方法，尤其通俗演講，人皆曰善。其口詞之鋒芒銳利者，足以使懦夫聽而精神卓立也；其理論之切實誠懇者，足以使頑者聽而態度潔廉也。其布教時，往往一般人民，甚或一聆法音，頃刻滿目中之淚珠汪汪，霎時心理上誠意懇懇，於是油然而生起皈敬三寶之觀念。其說法之動人有如此者！故閩南人士頻延和尚說法，而和尚亦不憚煩慳悋「法施」，——所謂遇緣即應——是也。今之閩南人士，信仰佛法，有如此之眾者，未始不由其說法之力所感化也。（二）和尚住持南普陀，尤其創辦閩南佛學院，人皆曰善。蓋佛教在近十年來，如在風雨漂搖之中，內部不振，大有死氣沉沉之現象，而外界因之蔑視與欺侮，甚至覬覦寺產，提倡撥出以充教育經費。故和尚自主席南普陀以來，本其關心中國佛教前途之旨，乃商榷於本寺轉逢和尚，創辦一閩南佛學院，以育僧材。然此教育之經費，並無恒產可恃，即以香火收入，勉為其艱。由創辦以來，至今未告暫停，誠為中國僧教育機關中之首屈一指矣！於是僧材輩出，僧格提高，社會人土亦因而改其鄙棄之態度，而敬之愛之之不暇矣。而吾人得受僧教育之訓導者，未始不由其提倡僧教育之功德也。

此上二者，不過就其大者而言之，其他小節，不勝枚舉，姑止於此耳。至其將來之歷史，雖不能預記，想於佛教必更有驚人之發展矣！

民國一十二年，四月五日，作於閩南佛學院三友樓