---
title: "論事 · 第八章　煻煨論"
description: "論事是南传佛教上座部典籍巴利三藏中的一部重要论典，收录于论藏阿毗达摩之中。传统上归因于佛陀在世时目犍连子帝须长老所著，其定型约在公元前3世纪阿育王时期。本书主要内容以辩论形式呈现，通过立自宗、破异端的五支论法，系统批驳了当时佛教内部大众部等派别的两百多种不同观点，全面阐述了上座部正统教义。論事是研究原始佛教分裂后部派佛教思想异同及早期佛教教义发展的核心文献，具有极高的历史与哲学价值，是理解佛教根本教义和早期部派争论的关键著作。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmgn11cyy1qdsjl04wz2uyb62"
---

### 第八章　煻煨論

今名煻煨論。此處，彼執「諸比丘！一切是燃」、「一切之行是苦」等之諸經為不如理，於無差別「一切之行是煻煨而餘燼之熱灰」之邪執，現在之雞胤部。

一

（自）一切行無區別是煻煨耶？（他）然。（自）非有樂受、身樂、心樂、天樂、人間樂、利得樂、恭敬樂、乘輿樂、牀樂、自在樂、支配樂、家住樂、沙門樂、有漏樂、無漏樂、取樂、無取樂、有食樂、無食樂、有喜樂、無喜樂、禪樂、解脫樂、欲樂、出家樂、孤獨樂、寂定樂、正覺樂耶？（他）然。（自）若「有樂受……乃至……正覺樂」者，汝！不應言：「一切行是無區別而為煻煨。」

> 全ての行（現象）は区別なく、まさに熱灰の塊なのでしょうか？ （他者）その通りです。 （自）楽しい感覚、身体的な喜び、精神的な喜び、天界の喜び、人間の喜び、利益の喜び、尊敬の喜び、乗り物の喜び、寝床の喜び、自由の喜び、支配の喜び、家に住む喜び、沙門の喜び、煩悩のある喜び、煩悩のない喜び、執着のある喜び、執着のない喜び、食物のある喜び、食物のない喜び、喜びの伴う喜び、喜びのない喜び、禅定の喜び、解脱の喜び、欲望の喜び、出家の喜び、独居の喜び、寂静の喜び、正覚の喜びは存在しないのですか？ （他者）いや、存在します。 （自）では、「楽しい感覚……正覚の喜び」が存在するなら、あなたは「全ての行は区別なく、まさに熱灰の塊である」と言うべきではありません。

二

（他）不應言：「一切行無區別為煻煨。」耶？（自）然。（他）非世尊所仰耶？曰：「諸比丘！一切是燃。諸比丘！如何是一切是燃耶？諸比丘！眼是燃。眼識是燃。眼觸是燃。彼緣眼觸而生，領納之樂、苦、非苦非樂亦燃。依何為燃耶？我說：『依貪火、瞋火、癡火是燃，依生老病死憂悲苦惱愁是燃。』耳是燃，聲是燃……乃至……鼻是燃，香是燃……乃至……舌是燃，味是燃……身是燃，觸是燃……乃至……意是燃，法是燃，意識是燃，意觸是燃，彼依意觸而生，領納之樂、苦、非苦非樂亦燃。依何是燃耶？我說：『依貪火、瞋火、癡火是燃，依生老病死憂悲苦惱愁是燃。』」，有如是之經耶？（自）然。（他）是故，一切行是無區別為煻煨。

> では、こう言うのはどうでしょうか。「すべての営み（行）には区別がなく、すべて熱く燃えている」と。 （自答）そうです。 （他問）しかし、世尊はこうおっしゃったのではないですか。「比丘たちよ、すべては燃えている。では、すべてが燃えているとはどういうことか。比丘たちよ、眼は燃えている。眼の認識は燃えている。眼と触れることは燃えている。そして、眼との触れ合いから生じる、楽、苦、楽でも苦でもないと感じることも、すべて燃えている。では、何によって燃えているのか。私は言う。『貪りの火、怒りの火、無知の火によって燃えている。そして、生、老、病、死、憂い、悲しみ、苦しみ、悩み、嘆きによって燃えている』と。耳も燃えている。音も燃えている……。鼻も燃えている。香りも燃えている……。舌も燃えている。味も燃えている……。身体も燃えている。触れるものも燃えている……。心も燃えている。心の対象も燃えている。心の認識も燃えている。心と触れることも燃えている。そして、心との触れ合いから生じる、楽、苦、楽でも苦でもないと感じることも、すべて燃えている。では、何によって燃えているのか。私は言う。『貪りの火、怒りの火、無知の火によって燃えている。そして、生、老、病、死、憂い、悲しみ、苦しみ、悩み、嘆きによって燃えている』と。」という経典がありますか？ （自答）その通りです。 （他問）だからこそ、すべての営み（行）には区別がなく、すべて熱く燃えていると言えるのです。

三

> 三

（自）一切行無區別為煻煨耶？（他）然。（自）非世尊所仰耶？曰：「諸比丘！此為五妙欲。何等為五耶？眼所識之色為可愛、可親、可意、妙好、可悅、可欲者。耳所識之聲……鼻所識之香……乃至……舌所識之味……乃至……身所識觸之可愛、可親、可意、妙好、可悅、可欲者。諸比丘！實此等為五妙欲。」有如是之經耶？（他）然。（自）是故，不應言：「一切行無區別為煻煨。」

> （自）あらゆる行が等しく熾火の燃えさしである、と言うべきでしょうか。 （他）そうです。 （自）しかし、世尊がこのように仰せになった経典はないのではありませんか？ 「比丘たちよ、これらが五つの妙なる欲望である。どのような五つか。 眼で識別される色で、愛しく、親しみやすく、快く、素晴らしく、喜ばしく、執着を生むもの。 耳で識別される音…鼻で識別される香り…舌で識別される味…身で識別される触れられるもので、愛しく、親しみやすく、快く、素晴らしく、喜ばしく、執着を生むもの。 比丘たちよ、実にこれらが五つの妙なる欲望である。」 このような経典があるではありませんか。 （他）その通りです。 （自）それゆえ、「あらゆる行が等しく熾火の燃えさしである」と言うべきではありません。

四

> 四（し）

（他）不應言：「一切行無區別為煻煨。」耶？（自）然。（他）然非世尊所仰耶？曰：「諸比丘！汝等之得，汝等之領得依梵行住為剎那之領會。諸比丘！依我所見名地獄之六觸處。於其處，依眼而見如何之色耶？唯見不可愛色而非可愛色。唯見不可親色而非可親色。唯見不可意色而非可意色。依耳而聞如何之聲耶？……乃至……依鼻而嗅如何之香耶？……乃至……依舌而覺如何之味耶？……乃至……依身而觸知如何之觸耶？……乃至……依意而知如何之法耶？唯知不可愛色而非可愛色。唯知不可親色而非可親色。唯知不可意色而非可意色。」有如是之經耶？（自）然。（他）是故，一切行無區別為煻煨。

> （他）それでは、「すべての行（形成されたもの）には区別がなく、すべて熱灰のごときものである」と言うべきではないのですか？ （自）その通りです。 （他）しかし、世尊は次のように仰ったではありませんか？すなわち、「比丘たちよ、あなたがたが得たもの、あなたがたが会得したものは、淨らかな行い（梵行）に住することによる一瞬の悟りである。比丘たちよ、私が見るところの地獄の六つの触れるところ（六触処）とは、そこにおいて、眼によってどのような色を見るのか。ただ愛されない色のみを見て、愛される色は見ない。ただ親しみにくい色のみを見て、親しめる色は見ない。ただ意にかなわない色のみを見て、意にかなう色は見ない。耳によってどのような声を聞くのか…乃至…鼻によってどのような香りを嗅ぐのか…乃至…舌によってどのような味を感じるのか…乃至…身によってどのような触れを感じるのか…乃至…意によってどのような法を知るのか。ただ愛されない法のみを知って、愛される法は知らない。ただ親しみにくい法のみを知って、親しめる法は知らない。ただ意にかなわない法のみを知って、意にかなう法は知らない」という経典があるではありませんか？ （自）その通りです。 （他）ゆえに、すべての行には区別がなく、すべて熱灰であると言えます。

五

> 五

（自）一切行無區別為煻煨耶？（他）然。（自）非世尊所仰耶？曰：「諸比丘！汝等之得，汝等之領得是依梵行住為剎那之領會。諸比丘！依我所見名天之六觸處。於其處，依眼而見如何之色耶？唯見可愛色而非不可愛色。唯見可親色而非不可親色。唯見可意色而非不可意色。依耳而聞如何之聲耶？……乃至……依鼻而嗅如何之香耶？……乃至……依舌而覺如何之味耶？……乃至……依身而觸知如何之觸耶？……乃至……依意而知如何之法耶？唯知可愛色非而不可愛色。唯知可親色而非不可親色。唯知可意色而非不可意色。」有如是之經耶？（他）然。（自）是故，不應言：「一切行無區別為煻煨。」

> 「すべての行為（行）は、区別なく熱灰（とうい）のごときものなのでしょうか？」 「そうです。」 「しかし、世尊はこう仰ったのではないでしょうか。『比丘たちよ、あなたがたが得たもの、あなたがたが体得したものは、梵行（清らかな実践）によって一瞬の理解を得たことによるものである。比丘たちよ、私が見るところによれば、天の六つの感覚の領域がある。そこでは、眼で見るどのような色も、愛しいものだけが見え、愛しくないものは見えない。親しみやすいものだけが見え、親しみにくいものは見えない。心にかなうものだけが見え、心にかなわないものは見えない。耳で聞くどのような音も……鼻で嗅ぐどのような香りも……舌で味わうどのような味も……身で触れるどのような触れ心地も……心で知るどのような法（現象）も、愛しいものだけを知り、愛しくないものは知らない。親しみやすいものだけを知り、親しみにくいものは知らない。心にかなうものだけを知り、心にかなわないものは知らない』と。このような経文があるではありませんか？」 「そうです。」 「だからこそ、『すべての行為（行）は、区別なく熱灰のごときものだ』と言うべきではないのです。」

六

> 六

（他）不應言：「一切行無區別為煻煨。」耶？（自）然。（他）世尊所仰，曰：「無常是苦。」一切行非為無常耶？（自）然。（他）若「世尊所仰，曰：『無常是苦。』一切行為無常。」是故汝應言：「一切行無區別為煻煨。」

> （他）「すべての行（現象）に違いはなく、すべて煻煨（火の燃え殻）のようなものだ」と言ってはならないのか？ （自）その通りだ。 （他）世尊は「無常であること、それが苦である」とお説きになった。すべての行は無常ではないのか？ （自）その通りだ。 （他）ならば、世尊が「無常であること、それが苦である」と仰せられ、すべての行が無常である以上、あなたは「すべての行に違いはなく、煻煨のようなものである」と言うべきではないか。

七

> 七

（自）一切行為煻煨耶？（他）然。（自）施是不可愛果、不可親果、不可意果、不純果、苦根、苦異熟耶？（他）實不應如是言……乃至……。（自）戒……乃至……布薩……乃至……修……乃至……梵行是不可愛果、不可親果、不可意果、不純果、苦根、苦異熟耶？（他）實不應如是言……乃至……。（自）施非是可愛果、可親果、可意果、純正果、樂根、樂異熟耶？（他）然。（自）若「施是可愛果、可親果、可意果、純正果、樂根、樂異熟」，汝！不應言：「一切行無區別為煻煨。」（自）戒……乃至……布薩……乃至……梵行非是可愛果、可親果、可意果、純正果、樂根、樂異熟耶？（他）然。（自）若「梵行是可愛果、可親果、可意果、純正果、樂根、樂異熟」，汝！不應言：「一切行無區別為煻煨。」

> すべての行（行い）は熱く灼ける灰のごときものか？ （他者）「そうです。」 （自ら）「布施は愛すべき結果、親しむべき結果、意にかなう結果、純粋でない結果、苦しみの根、苦しみの異熟をもたらすのか？」 （他者）「実に、そのように言うべきではありません……（中略）。」 （自ら）「戒律……（中略）布薩……（中略）修行……（中略）梵行（清らかな行い）は愛すべき結果、親しむべき結果、意にかなう結果、純粋でない結果、苦しみの根、苦しみの異熟をもたらすのか？」 （他者）「実に、そのように言うべきではありません……（中略）。」 （自ら）「布施は愛すべき結果、親しむべき結果、意にかなう結果、純粋な結果、楽しみの根、楽しみの異熟をもたらすのではないのか？」 （他者）「そうです。」 （自ら）「『布施は愛すべき結果、親しむべき結果、意にかなう結果、純粋な結果、楽しみの根、楽しみの異熟をもたらす』のなら、『すべての行は区別なく熱く灼ける灰のごときもの』と言うべきではない。」 （自ら）「戒律……（中略）布薩……（中略）梵行は愛すべき結果、親しむべき結果、意にかなう結果、純粋な結果、楽しみの根、楽しみの異熟をもたらすのではないのか？」 （他者）「そうです。」 （自ら）「『梵行は愛すべき結果、親しむべき結果、意にかなう結果、純粋な結果、楽しみの根、楽しみの異熟をもたらす』のなら、『すべての行は区別なく熱く灼ける灰のごときもの』と言うべきではない。」

八

> 八

（自）一切行無區別為煻煨耶？（他）然。（自）非世尊所仰耶？曰：

> すべての行（修行や行為）には区別がなく、ただ灰や炭のようなものなのでしょうか？ （他）その通りです。 （自）それは世尊が仰ったことではないのでは？ 答え：

「知足見聞其法者獨居樂。於世間不瞋恚，對生有制〔己〕者樂。於世間離貪欲超脫諸欲者樂。我慢調伏者實最上樂。依安樂而得此樂是為究竟樂。得三明，是為最上樂。」

> 知足して、その教えを聞き見る者は、独りでいることに安らぎを見出す。 世間において怒ることなく、生じるものに対して自分を制する者は、安らぎを得る。 世間における貪りの欲から離れ、あらゆる欲望を超え出た者は、安らぎを得る。 「我（が）慢」を調伏した者こそ、まことの最上の安らぎを得る。 安らぎに依って得られるこの安らぎこそ、究極の安らぎである。 三つの明らかな智慧を得ること、それが最上の安らぎである。

有如是之經耶？（他）然。（自）是故，不應言：「一切行無區別為煻煨。」

> このような経典があるのか？（他者）あります。（自己）ゆえに、「すべての行為（行）は区別なく、熱した灰のうえのようなものである」と言うべきではない。