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title: "天王水鑑海和尚住金粟語錄 · 行狀"
description: "天王水鑑海和尚住金粟語錄是清代禪宗高僧慧海所說，由弟子原澂、原上等人編錄的語錄集成。該書成於清初，反映了當時臨濟宗的禪風與修行實踐，內容包括慧海和尚在金粟寺期間的法語、開示、機鋒問答及詩偈，生動體現了禪宗直指人心、見性成佛的宗旨。作為臨濟宗的重要文獻，此語錄不僅傳承了禪門心法，對研究清代佛教史與禪學思想也具有珍貴價值，為後世學人提供了修行與參究的重要依據。"
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## 天王水鑑海和尚住金粟語錄卷二

嗣法門人原哲、原璨等編

### 行狀

金粟費隱容和尚行狀

師諱通容，號費隱，閩之福清何氏子。生而挺異，舉止不凡。六歲入鄉校，授讀魯論諸書，輒自口中喃喃，儼若偈語梵聲，識者知其為出世之器也。十四歲，二親繼器，師哀悼無已，遂詣三寶寺，禮慧山祝髮，躬親眾務，無間晷刻，如是者三年。十六歲，與青林友人共住，朝暮盤桓此事。偶登鼓山喝水嵒，口占曰：「嵒上艸色肥，嵒下水流急，策杖上嵒顛，山空人獨立。」頻伽在㲉，音自不同，虎生三日，氣已吞牛矣。十九歲，每與青林對機，曾無話墮，林對眾曰：「此公譬如畫龍，若一點睛，便當飛去。」是時師乃起參方之志。首謁壽昌無明禪師，舉所參無字請決，明曰：「任汝恁麼看。」於是力參無字。旬餘，值明陞座，見一僧出眾對機，愈益奮勵，不遑寢食。忽一日，身世俱空，話頭脫落，排闥入方丈，曰：「今日看破和尚家風了也。」明曰：「你有甚見處？」師即喝，明曰：「是事不恁麼。」師繞一匝，明曰：「祇如世尊拈華，意旨如何？」師拂袖出。次參博山無異禪師，取道天龍，適異亦寓天龍，師見即問：「步來？車來？」異曰：「你管我作麼？」師曰：「不涉途路，要和尚道。」異不理，師又問：「至道無難，唯嫌揀擇，是如何？」異曰：「我行路辛苦，不能為汝道。」師曰：「和尚今日被蕅絲牽倒了也。」茶次，又問：「師唱誰家曲？宗風嗣阿誰？」異曰：「汝那裏學者虛頭來？」師將異連座一推，幾乎倒地。異徵師所自，師述見壽昌因緣，異曰：「一箇棺材，兩箇死漢。」師乞指決，異教參話頭，隨至博山。未幾，謁湛然禪師於雲門。湛問：「汝那裏來？」師豎扇。湛曰：「德山因甚不會末後句？」師一喝。湛曰：「莫掠虛好。」師曰：「今日親見和尚。」至匡廬，見憨山大師。問：「古人道：『離心意識參，絕凡聖路學。』意旨如何？」山曰：「待汝離卻心意識，向汝道。」師一喝。山曰：「者箇後生弄觜。」師曰：「要且無人證明。」便出。二十五歲，作偈見志曰：「吾年二十五，氣海吞佛祖。不過古人關，豈蹋今時路。」有閩僧定林，于眾前稱師推倒無異，喝散憨山。師應聲曰：「天下衲僧做一擔擔。」眾皆譁然稱善。十餘年，雖遊歷洞下諸老之門，咸蒙賞識。但自覺本分上不甚相應，每趺坐自傷，不覺泣下。偶慧輪僧持密雲悟和尚龍池語錄至，師展閱，歎曰：「者老漢有大過人處，必能為我了事。」一日，聞悟赴天台，憩吼山。師冒雨往見。問：「覿面相提事如何？」悟以番菩提珠劈頭便打。師曰：「錯。」悟又打。師盡力一喝。悟祇打。師祇喝。至第七打，師頭顱幾裂。所有伎倆知解，泮然冰釋。乃對悟曰：「我識汝是臨濟兒孫，請坐。」悟坐定，師翻身將悟拄杖打悟三下，曰：「汝佛法元來如此。」持拄杖便行。悟曰：「且來，且來。」師不顧。悟隨步奪回拄杖，打師一下。師曰：「看破了也。」是年乃熹廟天啟二年，師三十歲也。次年，掩關于姚江陳賢嶺。自是日用知見，如布袋盛錐子，一一露出。感悟和尚法乳之恩，乃修通法嗣書上通玄。悟手復嚴正，師資氣分水乳之合。師出關往見，悟問：「熏風自南來，殿閣生微涼，汝作麼生會？」師曰：「水向石邊流出冷，風從華裏過來香。」悟曰：「離此又作麼生？」師曰：「放和尚三十棒。」悟曰：「除卻棒又作麼生？」師即喝，悟曰：「喝後聻？」師曰：「更要重說偈言？」悟休去。師歸閩，上博山禪師書曰：「夫人出世主張宗門，須是超方眼目、具嚴大手段，始不負達摩西來單傳直指之風，亦不昧此道堂皇闊略不是邊隅，故撥火明道、開田說法，乃至亂艸邊、钁頭下皆有舉揚此道者，豈例授以死工夫為然哉？竊為單傳之道貴在直指，宋元以還幾死繩墨，不是河南提唱公案，便是江西死看話頭，而臨時指點、當機契證竟無聞焉。」師在菩提珠下翻身，悟得祖師活意，眼目精明、機用超卓，反觀從前所遊爐𩍁咸成死法，故無論是聖是凡、是長是幼，當頭一拶令伊別有生機。三十三歲至茶洋山構菴棲止，山最幽僻，時聞山魈虎狼之聲，一住三載。時悟和尚住金粟，湖海畢集，以書召師激勵學者，且云：「亦可了彼此未完公案耳。」師復曰：「大丈夫兒豈因一幅紙波波挈挈不自休息乎？」是年，迻鼓山編茅曰別峰，復住三載。悟再召師至金粟，立為西堂，師辭。一晚，索熏風自南來頌，師呈曰：「匝匝熏風正令機，通身觸著冷無依，分明一句離情謂，教我如何舉似伊？咄！須著眼，莫遲疑，好看當人額下眉。」悟曰：「描也被汝描成，畫也被汝畫就，祇如描也描不成，畫也畫不就，汝又作麼生？」師便出。明年歸閩，福清緇白請悟住黃檗，懇師介紹，復至金粟，始就西堂職。又明年，隨赴黃檗，悟上堂曰：「隻葉片舟泛海中，乘風來到福城東，洪波浩浩無餘事，只作拋綸擿釣翁。還有衝浪金鱗麼？出來相見。」師以坐具覆頂曰：「會麼？」悟打曰：「一釣便上。」師一喝歸眾。是秋七月望日，悟陞座，特以源流衣拂付師焉。壬申，悟赴育王，召師主金粟，師辭，以居山為念。癸酉，福清士紳以黃檗萬福禪寺起師開法，師就之入院。上堂，禪衲雲臻，始一香拈出以供悟和尚。時悟以師為傑出臨濟，而師亦以法門為大任矣。當陽直指，不開岐路，截斷廉纖，離去情謂，唯以衲僧性命舉揚弘法，從此起住三載，遠邇欽風。丙子，遷建寧之蓮峰。丁丑，省覲悟和尚于天童，悟撾鼓陞堂，舉師首眾，且曰：「大似降尊就卑。」以師開法日久故云。秋，赴溫之法通，如邵金門、周應宗、陳三有諸薦紳，盤桓禪道，殆無虛日。戊寅，嘉禾郡守鄭瑄、鹽官邑侯朱應熊，及杭、嘉兩郡縉紳，請師補金粟廣慧禪寺。寺乃康居會公開山，刱始于吳赤烏之年，歲久浸廢，其基址半屬民業。悟和尚購贖回寺，大建禪林，為說法初祖。嗣應天童，命石車乘禪師主席，緝其未備，而師之來尚有未完者，師住十年，乃大成之。所以金粟奉塔者唯三，祠象者亦唯三，蓋以三和尚所成之席，後雖有數代住持，不過繕壞補偏，現成說法。至若瓊樓、玉殿、金田、香園，則三和尚已悉備之，號曰全盛道場，洵不誣矣。師弘法暢懷在金粟，得人俊傑在金粟，整清規、礪方來在金粟。師十坐道場，打鳳羅龍，碎骨取髓，至於日與超宗異目，鐵額銅頭，縱橫殺活，廓顯全機者，則金粟勝之矣。一日，見朝宗忍禪師，以世諦聰明，著書議論佛祖公案，師作《闢謬》諭之，深錐痛拶，不啻師資明訓，終不以謬見而棄之。蓋師婆心救世，不使一人一錯永錯，必多方援引究明而後已，故復有《判說》、《勘語》諸書，以駁諸方。師嘗曰：「吾豈好辯哉？蓋持正法門不得已耳。」壬午秋，悟和尚訃至，師挂真舉哀，如器所生。復率孝廉王谷上通玄治喪，當眾燒遺拂、磨圖章，以杜代付之弊，舉林埜奇禪師繼席通玄。冬，悟和尚龕至天童，師詣修供。明年春，復上天童，送悟和尚靈龕入塔，陽羨諸紳請師繼席龍池，師舉萬如微禪師應之。乙酉，武林徐道真建禪院于皋亭之黃鶴峰，請師退居，師顏其院曰直指。蓋值國變，烽煙四起，師蒲團地坐，攝心行道，以祈國寧，而世謂師將無心領眾，更有僧天空請師退居于天目者。丙戌，四明韋郡伯，慈谿、定海兩令公，同郡之薦紳，請師住天童景德禪寺。時明州亢旱日久，迨師至，甘霖大沛，入院之辰，朗霽如初，俱謂師道力所致。即日陞座，龍象圍繞，食堂幾盈萬指。於是縣悟和尚象于法堂，每晨率眾敬禮，三年無間，孝思悽愴，飲水知源。遂鼎新悟和尚塔，幢樹塔銘、道行二碑，墓木既植，香火嵷󱎠。小天童諸祖之塔，歲入剝盡，鞠為茂艸，護塔之廬、贍僧之田，久被侵沒。師不勝其憂，乃感督臺張公驅馬親視，毅然恢復。師遂將諸祖之塔次第修營，并廣緝叢林未備，大復本山故產。今說法天童，食堂受享者，大半師之力焉。師不獨道開人天眼目，且功布太白者多矣。維今住祖席者，謂廣聚眾，多刻書，以此取勝，視興修祖庭，力復產業，為唱道外事。殊不知東土學道之士，不似西乾習禪比丘，望煙消而捧缽，乞食千門；待晷迻而縣榻，樹下一宿。然安清眾接方來，而雲堂法產可視為外事，亦可少也哉！此師為弘道根本也。己丑，拂衣出山，抵武林，直指明州。當事與諸紳敦延還山，師力辭之。時語谿檀護請師住福嚴，雲間當道又延師開法超果，兩地交迎。師先應超果之期，登堂說法，萬眾圍繞。況雲間古稱樂善好道，鄉先生日與郡之官僚入室請益，師大開武庫，隨求與焉。人與非人，歡喜取足，一期告滿，楖栗橫肩。韜明宗公迎至龍華，上海高令公延入內署，為少子薙髮摩頂。復至虎丘，埽隆祖塔。時申公青門、姜公如農、周公子佩，皆追隨問道。暮春，入福嚴院。福嚴乃真歇了公道場，而琳宮貝殿，幾鄰瓦礫，山林有待師來復興。未幾，蘇杭當事與諸縉紳請師住禹航之徑山萬壽禪寺。時徑山法席久虛，僧規彫弊，老屋敗椽難以擊目。師高登猊座，浩歸湖海，植德鐫頑，叢林改觀。室中垂五問：水既無筋，因甚長流不斷？佛祖公案猶空中紙鷂，向何處收取線索？鵬摶峰與晏坐峰相交，且道說箇甚麼？風扇大野，畢竟作何形色？望江亭上垂機，誰是知音？酬語紛紛，契機寥寥。師念茲山為列祖道場，無堂祠奉，乃于大雄殿之右闢址建堂曰列祖，以祠本山說法八十一代之祖；又于殿之左建堂曰名宿，以奉諸方流寓觀光者；又于不動軒後建方丈五楹。師住五年，百廢具舉，每見諸方有乖法門者，痛與彈斥，不避怨嫌。先是，洞宗有僧遠門者，集《五燈續略》，私心自用，變換祖燈，將已定在前之南嶽抑之于後，復將在後之青原抬之于前，馬祖之天王、石頭之天皇，不本皇藏碑文，仍復矯亂，更乃私撰人名，假設機緣，以續其宗，誠子虛大人、烏有先生。師直筆，偽者削之，錯者正之，間有崛起遙嗣者，列之未詳，乃成書曰《五燈嚴統》。嚴者，嚴其承虛接響；統者，統歸本宗正脈。洞下因而失恃，群然吠起。師喟然曰：「我以清理祖燈撥亂反正，其知我罪我，我乃何辭焉？」且黃檗琦公應扶桑君請，君見《嚴統》，不勝欣然，乃命刊刻以布諸國。於乎！慧命斯寄，祖燈賴傳，人天眼正，應自不昧。自此天上人間、龍宮海藏展轉流通，何有盡日？況法道濫觴之際、亂統滿地之時，天不生師，一出隻手以整頓之，則傳燈錯亂、人天眼瞎，又奚止萬古如長夜哉？壬辰，師六十大誕，僧俗祝慶者幾三千人，雲間曹侍郎峨雪作文同眾紳稱壽，毘陵楊殿元「靜山有五峰，今日高天下，萬指都教拜下風」為賀。秋，往龍池埽傳祖塔，孤雲鑑公請過溧陽，馬總戎迎于萬古寺，上堂。四眾雲來，法座幾陷，東嘉林內翰可任到山參謁不遇，有日本為參承雙徑山，機緣恰兆乳峰間。蓋林公後雖嗣雪竇，視此亦有懷感于師者。頻年以來，法門混亂，可勝為言？冒之者既久假而不歸，旁觀者亦從流而同醉，自《嚴統》之書一出，皆相顧瞻喪至無措足地。若果能擔當法道，具丈夫剛骨者，自必面稟有師，況無根瑞艸，智者不貴；威音以後無師者，盡屬天然外道，而拈華一脈、正宗嫡派何有乎？是以師亟亟提持，著書救正，使知宗門珍重、源流靡假、師承有據、僭竊無從，師一段苦心而不避怨嫌者如此矣。昔者禹抑洪水，天下蒼生安；孔子作《春秋》，亂臣賊子懼。師述《嚴統》，清禪海以無淆、正人心而不死，千古耿光，魔外恐懼，師配二聖，不亦可乎？甲午，師曳杖辭五峰，至金閶，琴川諸紳請退居虞山之維摩。上堂，舉給事馮濟川三不得話著語，時織方嚴子張在座下有省，呈偈通所得，師不許，再加徵詰，乃許之。丙申，鹽城賈邑宰迎赴永寧，淮之人士勤懇問道至無虛日。吳門沈太史子美、華亭沈太史繹堂暨諸紳削牘走淮，延師主堯峰興福禪院，繇是返棹過秦郵、昭陽間，叩道瞻依者接踵，師應之未暇。淨慧木陳忞禪師遣職遠迎，及抵邗關，木親候于道左，遂假僧舍少憩敘闊，木堅請過淨慧，師謝，乃解維還虞嶺。秋，入堯峰，薦紳顧松交、姚文初、趙明遠、沈匡來等送師入院，帆影交映，緇素喧闐，水陸之路為之不通。師拈棒陞座，如意指揮，百萬人天，靈山未散。冬，起禪期，五堂安眾，舉東西二堂首座秉拂說法，獅子窟中獅子哮吼，師老而愈健，鉗錘衲子朝夕更勤，法席之盛冠于今昔。丁酉，語水使符請再住福嚴，師允之。時徑山僧眾齎撫臺啟迎師還山，然師自出雙徑後，請還山者三，師俱堅辭不赴，乃入福嚴購木以興叢席。福嚴自唐宋來以壯麗著稱，明熹宗時遭舞馬之變，迄師應請後，而飛樓涌殿萬礎千楹，不四歲而厥功告成，師于此寺誠有夙緣矣。辛丑，師為法求人，精勤不倦，唯以提宗接物為任，禪侶日親，縉紳參請無虛日。三月，示微疾，門人勸進藥餌，師笑卻之。題悟和尚象贊并自題真贊，畣括蒼周太守問道書。諸門人以問疾至，師款接甚歡，命侍者出道具散眾。二十九日，晨起，諭頭首職事曰：「今日內外諸務不必白我。」午，呼門人行觀等至榻前，手書遺囑，顧視微笑而逝。闍維，於天中山北，煙光所及，舍利如雨，頂骨齒牙俱不壞，五色燦然，光燿奪目。合山禪人虔禱，獲舍利無算。門弟子思所善後，開覺將來，無傷先志，各請建塔。蓋師遺囑有曰：「老僧死後，不可出訃音、受諸方弔奠，即從火化，火滅灰飛，吾之後事完矣。亦不得造塔，免占人間地，免累世間財。行狀不須修，塔銘不須請，更不可喧動人耳目。故曰：生如寄，死如歸，喧動何益乎？」此師末後所說法要也。雖師埽除名相，揭空諸有，而光明照燿，何處遮蓋？世或以為造塔請銘，相違師意，殊不知師在高高峰頂立，我輩在深深海底行，諸見圓融，何往不是？如是，則舍利分煇，塔幢各建，閩之有黃檗，楚之有興陽，語谿之有福嚴，鹽官之有金粟，四山窣堵，千載瞻依。夫舍利之繇來者，起自西乾釋迦舍利，動至八斛四斗；東土馬祖舍利，乃至千萬，永明壽身如鱗砌。隆慶閒，四十里內，焰所至處，舍利如雨。先聖既往，後聖罕聞。蓋舍利者，道德之所在，一真寂滅之所藏，匪獨堅剛而不壞，尤且神化以無方。是秋，棲賢敬和尚執喪而回，哀禮火場，復于灰土中涌起舍利一十四顆，持歸立塔興陽。豈謂曰精血之凝，有若如此之靈耶？況師生平以法為任，稍見詭道，隨筆辯之，辯之不已，旋乃闢之，是是非非，苟或議論不當，三寸舌根幾同灰燼，又曷能有此五色燦然照燿，堅固不朽哉？是則師為釋迦、馬祖諸師一出，異身說法，此一明驗矣。師生萬曆癸巳五月二十四日，寂于順治辛丑三月二十九日，春秋六十九，夏臘五十六。開法自黃檗、蓮峰、法通、金粟、天童、超果、徑山、維摩、堯峰、福嚴十坐道場，說法二十九年，宗風洋溢，海宇欽崇。付法弟子隱元琦等六十四人，嗣法孫唱師道，各占山頭，以及曾玄繩振，未易數也。至於親承爐𩍁，得旨而歸，齎函請益，聊闚鞭影，王臣國士，宿衲名流，亦未之或知。師鉗錘玅密，陟其門者，無不虛往實歸。師為人坦率，日用施設，無不平常。故師之子隱元琦，扶桑國王迎往，稽首稱師，虔懇問道，直尊為彼國初祖。師之孫憨璞聰，　本朝首膺明覺禪師之號，召入大內，賜紫說法。師聞而一笑，無介于懷。雖法眼照空，寵辱不驚，不足為子孫榮。然非師之道德所鍾，而能臻此者歟？師浮雲世事，弊屣行蹤，天童故產。既復法席重興，芒鞋挂壁，撩起即行，不作蚖蛇戀穴態，亦不為子孫計，真如應菴祖之為人也。師說法數萬言，不假雕琢，自然錦繡，排山倒海，波浪千層，真如佛果祖之嘉錄也。師直心無偽，直行真實，無論親疏，當頭生按。是則極慈悲，又極惡辣，眼光炯炯，爍破天下，舌底津津，埽蕩邪宗。大矣哉！臨濟功臣，天童真子，一切群生之依怙也。師自頭顱裂碎，法眼豁開，萬別千差，如日處晝。故礙膺既去，親切拈來，十坐道場，一棒指出，學者臨機，無不脫穎。慧海謁師于雙徑，師問：「汝那裏來？」海即喝，師曰：「放汝三十棒。」海又喝，遂起名受具。繼而幾番相見，劈面火蛇，毛骨俱寒，他可知矣。師趨寂後，有雲石僧者，從天台來，遇師于中途與孤雲鑑公冉冉同行。僧問：「何往？」師曰：「天台去。」僧曰：「何無相從？」師曰：「有孤雲在。」僧不忍遽別，隨師二十餘步，師推開曰：「汝自去。」僧乃拜別。及扺杭，知師于三月廿九長逝矣，又知孤公五月八日化去矣。於乎！雲石者，何異宋雲遇少林于蔥嶺也？唯師雷霆一世，號令諸祖，明明聖真降蹟，事豈偶然哉？至於赤心扶祖道，厚德澤天人，豐功光泉石，懿行著叢林，又烏能備述？維是金粟舍利塔上一十七年無銘，寧無慨焉？茲海忝繼其席，實難辭責，僅以夏蟲之見，狀師之行，以請明眼筆下生光，放出師之面目，昭映斯山，為萬世寂滅光明之幢，是一切眾生之大幸也。謹狀。

> 師の諱は通容、号は費隠。閩（福建）の福清、何氏の子として生まれる。生まれながらにして異彩を放ち、挙動は凡庸ならず。六歳で郷校に入り、『論語』などの書を授けられると、口の中でつぶやく様は、まるで偈語や梵唄のようであった。識者は、これが出世の器であると知った。 十四歳の時、両親が相次いで亡くなると、師は限りなく哀悼し、三宝寺に赴いて慧山に礼し、剃髪を受けた。衆務に自ら親しみ、寸暇を惜しまず、このようにして三年を過ごした。十六歳、青林という友人と共に住し、朝夕、この一事（悟り）について語り合った。ある時、鼓山の喝水巌に登り、口ずさむように詠んだ。 「巌上の草色は肥え、 巌下の水は流れ急し。 杖をつきて巌の頂きに上れば、 山は空しく人ただ独り立つ。」 卵の中の頻伽鳥が、既に異なる音を発するが如く、虎が生まれて三日で、既に牛を呑む気概を持つが如し。十九歳、青林と機鋒を交わすたび、言葉に詰まることはなかった。林は衆に向かって言った。「この方は、ちょうど画龍のごとし。もし瞳を点じれば、たちまち飛び去るであろう。」この時、師は諸方を参拝する志を起こした。 まず寿昌の無明禅師を訪ね、参究していた「無」の字を挙げて決断を請うた。明は言った。「お前がそのように見るに任せよ。」そこで師は「無」の字を力いっぱい参究した。十数日後、明が上堂する折、ある僧が衆を出て機鋒を交わすのを見て、ますます奮励し、寝食を忘れた。ある日突然、身も世もともに空じ、話頭が脱落した。戸を押し開いて方丈に入り、「今日、和尚の家風を見破りました」と言った。明が「お前にはどんな見処があるのか」と問うと、師は即座に一喝した。明は「この事はそのようではない」と言った。師は一匝り回った。明は「例えば世尊が花を拈げられた、その意旨はどうか」と問うた。師は袖を払って出て行った。 次に博山の無異禅師を参じた。道を取って天龍に赴くと、ちょうど異も天龍に滞在していた。師は見るなり問うた。「歩いて来られたか？車で来られたか？」異は「お前が私をどうこうするのか」と言った。師は「途路には関わらず、和尚に道っていただきたい」と言った。異は取り合わなかった。師はまた問うた。「至道は無難、唯だ揀択を嫌う。これはどういうことか。」異は「私は道中が辛く、お前に説くことはできない」と言った。師は「和尚は今日、蓮の糸に引っ張られて倒れましたな」と言った。茶を飲む折、また問うた。「師は誰が家の曲を唱えられるか。宗風は誰を嗣がれるか。」異は「お前はどこでそんな虚ろなことを学んできたのか」と言った。師は異を座ごと押し、ほとんど倒れそうにした。異は師の出自を尋ねた。師が寿昌に会った因縁を述べると、異は言った。「一つの棺に、二人の死んだ漢か。」師が指決を乞うと、異は話頭を参究するよう教え、師は博山に随行した。 間もなく、雲門で湛然禅師を訪ねた。湛が「お前はどこから来た」と問うと、師は扇を立てた。湛は「徳山はなぜ末後の句がわからなかったのか」と問うた。師は一喝した。湛は「虚を掠めるな」と言った。師は「今日、和尚に親しくお目にかかりました」と言った。 匡廬に至り、憨山大師に会った。問うた。「古人は『心意識を離れて参じ、凡聖の路を絶って学ぶ』と言う。その意旨はどうか。」山は「お前が心意識を離れたら、お前に説いてやろう」と言った。師は一喝した。山は「この若僧は口先がうまい」と言った。師は「しかし、誰も証明する者がおりません」と言って出て行った。 二十五歳、偈を作って志を示した。 「吾れ年二十五、 気海は佛祖を呑む。 古人の関に過ぎずんば、 豈に今時の路を踏まんや。」 閩の僧、定林という者が、衆の前で師が無異を推し倒し、憨山を喝で散らしたと称揚した。師は声に応じて言った。「天下の衲僧を一担いで担いでいる。」衆はどっと沸き、善しと称えた。 十数年、洞下の諸老の門を遊歴し、皆から賞識を受けた。しかし、自覚するに本分の上ではあまり相応しくなく、毎日跏趺して自らを傷み、思わず涙を流した。ある時、慧輪という僧が密雲悟和尚の『龍池語録』を持って来た。師がそれを広げて読むと、嘆息して言った。「この老漢には大いに人に勝る所がある。必ずや私のために事を了らせてくれるであろう。」 ある日、悟が天台に赴き、吼山で休んでいると聞いた。師は雨を冒して会いに行った。問うた。「面と向かって提唱する事はどうか。」悟は番菩提珠を手に、いきなり頭を打った。師は「間違い」と言った。悟はまた打った。師は力いっぱい一喝した。悟はただ打つ。師はただ喝する。七度目に打たれた時、師の頭蓋はほとんど裂けんばかりであった。所有の伎倆や知解は、氷が解けるように消え去った。そこで悟に向かって言った。「私はお前が臨済の児孫であると知った。座に着きたまえ。」悟が座に着くと、師は身を翻して悟の杖を取り、悟を三度打ち、「お前の仏法は元来このようなものか」と言い、杖を持って立ち去ろうとした。悟は「待て、待て」と言った。師は振り返らなかった。悟は歩み寄って杖を取り戻し、師を一度打った。師は「見破った」と言った。この年は熹宗天啓二年、師三十歳の時であった。 翌年、姚江の陳賢嶺にて掩関した。これより日用の知見は、布袋に錐を盛ったように、一つ一つ露わになった。悟和尚の法乳の恩に感じ、通法嗣の書を修めて通玄に上った。悟の返書は厳正で、師資の気分は水と乳のごとく合った。師は関を出て会いに行った。悟が問うた。「薫風南より来たり、殿閣微涼を生ず。汝はどう会するか。」師は言った。「水は石辺より流出して冷く、風は華裏より过来りて香し。」悟は「これを離れてまたどうするか」と問うた。師は「和尚に三十棒を放つ」と言った。悟は「棒を除いてまたどうするか」と問うた。師は即座に喝した。悟は「喝した後はどうか」と問うた。師は「さらに重ねて偈言を説く必要があろうか」と言った。悟はそれで休んだ。 師は閩に帰り、博山禅師に書を送った。「人が世に出て宗門を主張するには、方外の眼目を超え、厳大な手段を備えていなければならない。そうして初めて達磨の西来、単伝直指の風を負うことなく、またこの道が堂々として広大であり、辺境のものではないことを曇らせない。だから火を撥いて道を明らかにし、田を開いて法を説き、乱草の辺りや鍬頭の下に至るまで、皆この道を挙揚する者がいる。どうして死んだ工夫を授けるのを例とすることができようか。ひそかに思うに、単伝の道は直指を貴ぶ。宋元以来、ほとんどが繩墨に死に、河南の提唱公案か、江西の死んだ話頭を見るだけで、臨時の指點、当機の契証はついに聞かれない。」 師は菩提珠の下で身を翻し、祖師の生き生きとした意を得て、眼目は精妙に、機用は超卓になった。以前に遊んだ炉鞴を振り返れば、皆が死んだ法となっていた。だから聖であれ凡であれ、長であれ幼であれ、頭から一拶して、彼らに別の生機を与えるのである。 三十三歳、茶洋山に至り、庵を構えて棲み止まった。山は最も幽僻で、時に山魈や虎狼の声を聞いた。一住すること三載。この時、悟和尚は金粟に住し、湖海の者が集まった。書を送って師を召し、学者を激励し、かつ「また、互いの未完の公案を了らせることもできる」と言った。師は返答した。「大丈夫の児たるもの、一枚の紙のために波波挈挈と自ら休むことなく動き回るべきであろうか。」この年、鼓山に移り、茅を編んで別峰と名付け、また三載住んだ。 悟は再び師を金粟に召し、西堂に立てようとしたが、師は辞した。ある晩、悟は「薫風南より来たり」の頌を求めた。師が呈上した。 「匝匝たる薫風、正令の機、 通身触れて冷く依る所無し。 分明なる一句、情謂を離る、 我をして如何がか伊に挙似せしめん。 咄！ 須らく眼を着くべし、疑うこと莫かれ、 当人の額下の眉を好看すべし。」 悟は言った。「描くも汝に描かれ、画くも汝に画かれた。ただ描くも描けず、画くも画けぬ時、汝はまたどうするか。」師は出て行った。 翌年、閩に帰った。福清の緇白（僧俗）が悟に黄檗に住むよう請い、師に紹介を懇願した。再び金粟に至り、初めて西堂の職に就いた。また翌年、黄檗に随行した。悟が上堂して言った。 「隻葉片舟、海中に泛び、 風に乗って福城の東に来たる。 洪波浩浩として余事無く、 只だ綸を抛ち釣を擿つる翁と作す。 衝浪の金鱗有るか？ 出で来て相見えよ。」 師は坐具で頭を覆って言った。「会うか？」悟が打って言った。「一釣りで上がる。」師は一喝して衆に帰った。 この秋七月十五日、悟が上堂し、特に源流の衣と拂子を師に付した。 壬申、悟は育王に赴き、師を召して金粟を主とさせようとしたが、師は辞し、山に居ることを念とした。癸酉、福清の士紳が黄檗万福禅寺を以て師を起こして開法させようとし、師はこれに就いて入院した。上堂すると、禅衲が雲のごとく集まり、初めて一炷香を拈じて悟和尚に供えた。この時、悟は師を傑出した臨済の者とし、師もまた法門を大任とした。当陽直指、岐路を開かず、廉纖を截断し、情謂を離れて、ただ衲僧の性命を以て挙揚弘法した。ここより起きて三載住み、遠近から風を欽んだ。 丙子、建寧の蓮峰に遷った。丁丑、天童で悟和尚を省覲した。悟は鼓を撾って上堂し、師を首衆として挙げ、かつ言った。「大いに尊を降ろして卑に就くが如し。」師が開法して日が久しいからである。秋、温の法通に赴いた。邵金門、周応宗、陳三有などの薦紳が禅道について語り合い、ほとんど空いた日はなかった。 戊寅、嘉禾郡守の鄭瑄、塩官邑侯の朱応熊、及び杭・嘉両郡の縉紳が、師に請うて金粟広慧禅寺を補った。寺は康居会公が開山し、創始は呉の赤烏の年であった。歳久しくして廃れ、その基址の半ばは民業に属していた。悟和尚が購い戻して寺とし、大いに禅林を建て、説法の初祖となった。嗣いで天童に応じ、石車乗禅師に命じて主席とし、未備を繕った。師が来た時にはまだ未完のものがあったが、師が十年住して、ようやく大成した。だから金粟に塔を奉る者は三和尚のみ、祠象もまた三和尚のみである。三和尚が成し遂げた席であり、後に数代の住持があっても、ただ壊れたものを繕い、偏りを補い、現成のままに説法したに過ぎない。瓊楼・玉殿・金田・香園に至っては、三和尚が既に悉く備えており、全盛の道場と号するのは、まことに偽りではない。 師が弘法して懐を暢ぶるは金粟にあり、人を得て俊傑なるは金粟にあり、清規を整え、方来を礪ますは金粟にあった。師は十座の道場に坐し、鳳を打ち龍を羅し、骨を砕いて髄を取った。日々に超宗異目の者と、鉄額銅頭の者を、縦横に殺活し、全機を廓顕したことについては、金粟が勝っていた。 ある日、朝宗忍禅師に会った。忍は世諦の聰明を以て、書を著して佛祖の公案を議論していた。師は『闢謬』を作ってこれを諭し、深く錐を刺し痛く拶り、師資の明訓に劣らなかったが、終に謬見を以て棄てることはしなかった。師は婆心を以て世を救い、一人でも間違って永遠に間違うことをさせず、必ず多方から援引して究明してからでなければやめなかった。だからまた『判説』『勘語』などの書を以て諸方を駁した。師は嘗て言った。「私はどうして好んで弁じようか。ただ正法の門を持するため、已むを得ないのである。」 壬午の秋、悟和尚の訃報が届いた。師は真影を掛けて哀悼し、実の親のごとくであった。また孝廉の王谷を率いて通玄に上り、喪を治めた。衆の前で遺された拂子を焼き、図章を磨き、代付の弊を杜った。林埜奇禅師を挙げて通玄の席を継がせた。冬、悟和尚の龕が天童に至ると、師は詣でて供養した。翌年春、再び天童に上り、悟和尚の霊龕を塔に送った。陽羨の諸紳が師に請うて龍池の席を継がせようとしたが、師は万如微禅師を挙げてこれに応じた。 乙酉、武林の徐道真が皋亭の黄鶴峰に禅院を建て、師に退居を請うた。師はその院を直指と名付けた。国変に遭い、烽煙四方に起こった時、師は蒲団に地坐し、心を摂めて行道し、国の安寧を祈った。世間では師が無心に衆を領するつもりはないと思った。さらに僧の天空が師に請うて天目に退居させようとした。 丙戌、四明の韋郡伯、慈谿・定海の両令公、同郡の薦紳が、師に請うて天童景德禅寺に住した。この時、明州は長らく大旱であったが、師が至ると甘霖が大いに降り、入院の日には、明るく晴れ初めのようになった。皆、師の道力によるものだと言った。即日上堂すると、龍象が囲繞し、食堂はほとんど一万指に満ちた。そこで悟和尚の像を法堂に掲げ、毎朝衆を率いて敬礼し、三年間絶えることがなく、孝思は悽愴で、水を飲んで源を知る思いであった。遂に悟和尚の塔を新しくし、幢を樹て、塔銘と道行の二碑を建て、墓木を植え、香火は嵷󱎠とした。小天童の諸祖の塔は、歳月で剥落し尽くし、茂った草となっていた。塔を護る廬や僧を養う田は、久しく侵され没していた。師はその憂いに勝てず、督臺の張公が感応して馬を駆って親しく視察し、毅然として恢復した。師は遂に諸祖の塔を次第に修営し、併せて叢林の未備を広く繕い、本山の故産を大いに復した。今、天童で説法し、食堂で享を受ける者は、大半が師の力によるものである。師はただ道を開いて人天の眼目とするだけでなく、太白に功を布くことも多かった。 今、祖席に住する者は、広く衆を聚め、多く書を刻むことを以て勝とし、祖庭を興修し、産業を力