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title: "天界覺浪盛禪師語錄 · 示陳玉尺居士"
description: "天界覺浪盛禪師語錄是明代高僧覺浪道盛的語錄彙編由弟子大成大奇等人編集道盛活躍於明末清初屬臨濟宗高僧其思想融會儒釋應對當時社會動盪與佛教發展語錄內容涵蓋禪法開示機鋒問答及詩文展現其直指人心見性成佛的禪學特色該著作不僅是研究明末禪宗思想的重要文獻也反映了佛教在時代變遷中的適應與傳承於中國佛教史尤其是臨濟宗的法脈研究具有重要地位"
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### 示陳玉尺居士

古人云：「我宗無語句，亦無一法與人，不得已纔與人說個本分事，卻是將惡水驀頭澆也，孰能見門前剎竿即撩起便行？」雖然，佛祖出世，豈無方便激發使人自悟去？蓋人之所以不悟者，為有物障其悟門耳！何者是障悟門之物？但能不生異念，則全體光明、全體透徹，如百千大海不起風波，則徹底澄清無一毫迷昧。雖然，若執此理猶是偏見一邊，更須會得繁興大用，舉體全真、曾無異物，一任澄清與不澄清，風浪與不風浪，元不是他家事，則自無聖凡是非可得染污此本分也。不染污之旨，又不是絕無一念為不染污，但不見心外有法、法外有心；凡非他凡，聖非他聖，識非他識，智非他智。若真達不疑之道，則聖凡、魔佛、淨染、智識，皆是自心限量之法。故三祖《信心銘》云：「至道無難，唯嫌揀擇；但莫憎愛，洞然明白。纔有是非，紛然失心；一心不生，萬法無咎。六塵不惡，還同正覺；迷生寂亂，悟無好惡。」知得此意，則不特與佛祖把手並行，亦與大地眾生一時同成正覺。自古及今何曾有一法非心法？何曾有一心是異心哉？若能體會此意，如人夢中說夢，及乎憤地得一醒來，或得親友驀地呼起，則求夢中一法了不可得，夢中一切幻法皆是吾心之幻法也。知得是吾心幻法，則夢非是夢；不知是吾心幻法，則覺亦非覺矣！今參學底人，秪要見得一法是心外之法，則不見一心是法外之心也，又何本分性命之不開悟，無端生死之不了徹哉？居士能久久於此親自勘破㘞地醒來，則見大千沙界海中漚，一切聖賢如電拂矣！雖然尚有向上關捩子直須撥轉，始能驅耕奪食，異類中行，秉殺活刀開佛祖眼，乃不墮於聖凡情解。到者裏畢竟作麼生撥得轉向上關捩子？請君吸盡西江水，倒駕鐵船陸地行。

> 古人いわく、「我が宗には言葉も句もなく、また一法も人に与えるものはない。やむなく人に向かって本分のことを語るのは、まさに汚れた水を頭から浴びせるようなものだ。誰が門前の刹竿を見て、すぐに衣を引き寄せて立ち去ることができようか？」と。 しかしながら、仏祖が世に現れたからには、方便を用いて人々を奮い立たせ、自ら悟らせる道がなかったわけではない。人が悟れないのは、悟りの門を妨げるものがあるからだ。その妨げるものとは何か？ただ、異なった念を起こさなければ、全体が光明となり、全体が透き通り、百千の大海が風波を起こさないように、徹底して清らかで、少しの迷いもなくなる。だが、もしこの理を執着すれば、それもなお偏った見方に過ぎない。さらに、繁興の大用を会得し、全体を挙げて真実そのものであり、もとより異なるものなどないこと、清らかであろうがなかろうが、風浪があろうがなかろうが、そもそもこれらは自分の本来の事ではないと知るべきである。そうすれば、聖凡や是非といったもので、この本分を汚染することは自ずとなくなる。 この「汚染しない」という宗旨は、決して一念もないことをもって汚染しないとするのではない。ただ、心の外に法はなく、法の外に心はないと見ることだ。凡は他ならぬ凡、聖は他ならぬ聖、識は他ならぬ識、智は他ならぬ智である。もし疑いのない道に真に達すれば、聖凡・魔仏・浄染・智識は、すべて自心が限りをなす法である。ゆえに三祖の『信心銘』に曰く、「至道に難きこと無し、ただ嫌い択ぶことを避く。ただ憎み愛することなかれ、洞然として明白なり。わずかに是非あれば、紛然として心を失う。一心生ぜざれば、万法に咎め無し。六塵は悪しからず、還って正覚と同じ。迷いには寂と乱とが生じ、悟りには好悪無し。」と。 この意味を知れば、仏祖と手を携えて並んで歩むのみならず、大地の衆生とともに同時に正覚を成就する。古より今に至るまで、いかなる法であれ心の法でないものがあろうか？いかなる心であれ異なる心があろうか？もしこの意味を体得すれば、それは夢の中で夢を語るようなものだ。やがて大地に憤って醒め、あるいは親しい友に突然呼び起こされれば、夢の中の一法すらも得ることができず、夢の中の一切の幻法は、すべてわが心の幻法であると分かる。これがわが心の幻法であると知れば、夢は夢ではない。わが心の幻法であると知らなければ、覚醒もまた覚醒ではないのである。 今、参学している者は、ただ一法が心の外にあると見ることなく、一心が法の外にあると見ることのないようにせよ。そうすれば、どうして本分の性命が開悟せず、無端の生死が明らかにならないことがあろうか？居士が長くこのことを自ら勘破し、ハッとして醒めれば、大千の砂界が海の中の泡であり、一切の聖賢が電光の一閃のようなものであると見るであろう。 しかしながら、なお向上の関節子が存在し、これを撥り転ぜねばならない。そうして初めて、耕す者を駆り、食を奪い、異類の中を行じ、殺活の刀を握り、仏祖の眼を開くことができる。そうして初めて、聖凡の情解に堕ちることがないのである。 この境地に至って、一体どのようにして向上の関節子を撥り転ずべきか？ 君よ、西江水を飲み尽くし、鉄の船を陸に逆さまに駕せ。