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title: "幻有傳禪師語錄 · 引"
description: "幻有传禅师语录是明代高僧幻有正传的禅宗语录由弟子密云圆悟天隐圆修等编集收录了禅师的开示法语机缘问答和诗文作品内容体现了临济宗的禅法精髓与教学风格该书成于明代晚期反映了当时禅宗的发展面貌对研究明清禅宗思想及临济宗传承具有重要价值是了解临济宗心性论与修行实践的重要文献在佛教典籍中占有一定地位"
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### 駁語引

物莫不有響響必有因有因則偏不偏係焉不偏乃當偏則不當空印正量論因清凉作為當乎否耶昔韓子目之為弗平之聲良有以也然清凉又豈無因因雜華覺首答文殊偈語譬如河中水湍流競奔逝各各不相知諸法亦如是清凉據性空初取江河競注而不流證不相知未為不可葢性住義無乖真諦俗諦不背性空一體非二者也䟽終且謂肇論既以物各性住而為不遷則濫小乘無容從此轉至餘方下論云談真有不遷之稱導俗有流動之說則以真諦為不遷而不顯真諦之相若但用物各性住為真諦相寧非性空無可遷也不真空論方顯性空義約俗諦為不遷耳其言如此殊未知肇公作四論依三諦立宗本有五法且物不遷何嘗外此別有信住義體但易其名耳試觀三諦性住性空信無多質復不會導俗導字乃方便語却會錯了反以肇公物各性住作常情論為非真諦相遂使空印亦以遷字會錯了乃用無常生滅法駁肇公亦不偏且謬耶况肇論前有談真則逆俗順俗則違真之順字與此導字首尾相照一貫者而宗本有曰諸法實相謂之般若能不形證漚和功也惜清凉空印皆以形證之又不解談真有不遷之稱導俗有流動之說乃是乖而不可異其唯聖言之轉語耳然幻有寧獨無因因如來語何耶葢吾釋尊出世設教度生原以根身噐界有情無情同個氣分一體故耳楞嚴所謂根塵同源縛脫無二孰謂性空而非性住同體乃不相知不見徵心佛令阿難以手挃頭又挃其足謂云頭有所覺足應無知是可謂相到而知耶非相到知耶其有辯耶其無辯乎豈不以人身為一小天地以一例諸可知也又華嚴所謂情與無情共一體亦豈虛語即舉山河大地明暗色空雲騰鳥飛等相如我明明見時無別有見如我了了知之無別有知曷嘗非一體而弗容契會耶清凉但知初據性空引江河競注而不流以不相到故為不相知而未會性住性空一體實相知輙未曾相到耳又但知物各性住濫小乘無容從此轉至餘方而未知小乘此生此滅與大乘空義當生即有滅不為愚者說無間一線以心有大小為差又以性空故不流而見有流物不遷乃即流而不見有流其旨竟不相侔者矣因語及此噫吾欲無言可乎。

> そもそも、物には必ずその響きがある。響きには必ず原因がある。原因があれば、偏りと偏らないことがあり、それによって正否が分かれる。偏らなければ正しく、偏れば正しくない。空印が『正量論』に基づき、清凉が書いた『因論』を「当」と評したのは正しいのか、否か。 昔、韓子はこれを「平らかでない声」と見なした。それにはもっともな理由がある。しかし、清凉に原因がなかったわけではない。その原因は『華厳経』の覚首が文殊の偈に答えた言葉にある。すなわち、「譬えば河の中の水が湍流し、競い流れ去るように、各々は互いに知らず、諸法もまた同じである」という文である。清凉は性空に基づき、まず「江河は競い流れても留まらず」を取り、「不相知」を証明した。これは間違いとは言えない。なぜなら、性住の義は真理に反せず、世俗の真理にも背かず、性空と一体で二つではないからである。 疏の終わりでは、『肇論』が「物各性住」を以て「不遷」としているのは、小乗に類する誤りであり、「ここから他の場所に転ずる」という意味ではない、としている。そして下の論では、「真を談ずれば不遷の称あり、俗を導けば流动の説あり」と述べ、真諦を不遷としても、真諦の相を示していない。もし単に「物各性住」を真諦の相とするならば、それは性空による「遷るべきものなし」を意味するのではないか。『不真空論』に至って初めて性空の義を示し、俗諦を以て不遷とするのである。このように述べるが、肇公が四論を作ったのは三諦に基づき、宗本には五法がある。『物不遷論』がこれ以外に別に「信住」の義体を持つわけがない。ただ名を変えただけである。 試みに三諦と性住・性空を見よ。多くを論じる必要はない。また、「導俗」の「導」の字を「方便」の意味と解していない。これを誤解し、肇公の「物各性住」を常識的な見解と見なし、真諦の相ではないとした。そのため空印も「遷」の字を誤解し、無常・生滅の法を用いて肇公を論破しようとした。これは偏っており、誤りである。 ましてや『肇論』には、「真を談ずれば俗に逆い、俗に順えば真に違う」という「順」の字があり、この「導」の字と首尾一貫している。宗本には「諸法実相を般若と謂う。これを形証せざるは、漚和の功なり」とある。惜しいかな、清凉も空印もともに「形証」の意味を誤解した。また、「真を談ずれば不遷の称あり、俗を導けば流动の説あり」という言葉は、乖離していながらも異なることのできない、聖言の転語であることを理解しなかった。 しかし、幻有に原因がないわけではない。原因は如来の言葉にある。なぜなら、我が釈尊が世に現れ、教えを説き、衆生を救うのは、元来、根身・器界・有情・無情が同じ気分であり、一体であるからである。『楞厳経』にいう「根塵同源、縛脱無二」とは、性空と性住が一体でありながら、不相知であることを示している。仏が阿難に「手で頭を打ち、足を打て」と言われ、「頭に覚えがあれば、足は無知であるべきだ」と問われたのは、これは相到って知るのか、相到らずして知るのか。弁別できるのか、できないのか。人間の身体を一小天地と見なせば、類推して知ることができる。 『華厳経』にいう「情と無情、共に一体」も虚言ではない。山河大地、明暗色空、雲の騰り鳥の飛ぶなどの相は、我が明らかに見るときに別に見るものはなく、明らかに知るときに別に知るものはない。一体でありながら、契り会うことができないのか。清凉は初めに性空に基づき、「江河は競い流れても留まらず」を以て「不相到」のゆえに「不相知」としたが、性住・性空が一体であり、実相を知るのに「到る」ことを要しないことを理解していない。また、「物各性住」が小乗に類し、「ここから他の場所に転ずる」意味がないことを知りながら、小乗の此の生と此の滅が、大乗の空義における「当に生ずれば即ち滅す」とは異なり、「愚者には無間の一線を説かず」ということを知らない。心の大小によって差があるのである。性空のゆえに流れず、流れるものがあると見る。不遷は即ち流れの中にあって流れるものを見ない。その旨は全く同じではない。 このような話に及んで、ああ、私は言いたくても言えないのであろうか。

時大明萬曆丙午歲建寅元宵日寓京師普照禪寺無衣老人釋迦正傳識

> 時は明の万曆丙午の年、建寅の月、元宵の日。京師の普照禅寺に寓する無衣老人、釈迦正伝が記す。