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title: "首楞嚴經義海 · 本文"
description: "首楞嚴經義海是唐代高僧懷迪參與證義宋代咸輝排經入注的楞嚴經重要注疏。該書成於唐宋佛教義學鼎盛期以科判方式系統梳理經文結構並融入精要注釋深入闡釋首楞嚴三昧如來藏心性等核心教義。其內容涵蓋禪修次第五十陰魔辨析及圓通法門被譽為開顯楞嚴深廣義海之鑰。此注疏融合南北宗見解在漢傳佛教中具有權威地位是研究楞嚴經思想與實踐的重要文獻對天台華嚴禪宗等宗派皆產生深遠影響。"
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稽首我大師 十方調御尊 佛頂首楞嚴大覺如來藏 圓明諸聖眾 上首龍尊王常闢大慈門 救攝眾生者 願垂加護我顯說妙難思 普共諸含靈 速證真如海

> 謹んで、我が大師に礼拝いたします。 十方世界を調御される尊い方、 仏の頂上である首楞厳。 大いなる目覚めの如来蔵。 円く明らかな聖なる僧団。 その上首である龍尊王。 常に大慈悲の門を開き、 衆生を救い導く方々よ。 願わくは、私を加護し、 妙なる教えを説き示してください。 全ての命あるものと共に、 速やかに真如の海を証得できますように。

將釋此經十門分別一教起因緣二藏乘分攝三教義分齊四所被機冝五能詮體性六所詮宗趣七教迹前後八傳譯時年九通釋名題十別解文義初中二一緫二別緫者謂詶因詶請顯理度生一代教興皆由此矣若原佛本意唯為一大事因緣欲令眾生開示悟入佛之知見雖三車通許唯賜白牛但為一乘無三及二也別者有十故說此經一為克示真三昧故謂阿難遭難蓋無真定故謂諸佛得成菩提妙奢摩他三摩禪那最初方便及佛告許云有三摩提名大佛頂首楞嚴王具足萬行十方如來一門超出妙莊嚴路至於再請責己將謂惠我偈讚希有等乃至如來諷歎名金剛王如幻三昧勑說圓通文殊揀顯指三世佛同此一門道場加行成就聖位立此經名破滅七趣辨識諸魔皆為此也二為廣破諸妄執故謂阿難執妄迷真匿王執常為斷七處徵詰三疑拒諍佛再語云若汝執悋分別覺觀為汝心等故約心見二門隨執廣破此之執相不離人法也三為開顯妙明心故謂阿難初請三昧佛先審問發心既陳愛見之源全迷真實之體遂云眾生無始生死相續皆由不知常住真心此真妙明即是菩提涅槃元清淨體故阿難自責不知寂常如來許可發妙明性先就心見二門乍徵乍顯後約三科七大分明顯會令於法法咸見性常俱徧俱融含攝無礙眾皆領悟自知心徧十方諸所有物皆即菩提妙體元明心徧含裹十虛身土虛空了無所得唯一本妙常住不滅洎滿慈疑於有相慶喜再責因緣佛隨開示令得知見矣四為決斷眾疑網故謂佛顯示真見阿難隨見疑生或縮斷離身因緣自爾和合非合執相疑性諸大徧圓滅妄生妄成真不真修無常因獲常住果疑網既眾佛隨斷之矣五為辨析修行門故謂佛廣示藏體慶喜深解現前舉喻天王賜與華屋雖知所賜將入無門已悉多聞不逮修習故請問云從何攝伏疇昔攀緣入佛知見佛舉二義決定以為發覺初心謂止及觀斯為要也初令以湛旋妄成不生滅次令審詳煩惱知根降伏一根既返餘根自旋諸妄銷亡不真何待六為分別邪正行故謂阿難已悟修行後代罔知邪正雖期正道多䧟邪宗水灌漏巵若為取滿慶喜請云眾生去佛漸遠邪師說法至多欲令心入佛乘遠魔無退佛舉四種明誨諸聖同途戒根不虧定慧可據如其不切清禁禪慧洪深鬼屬魔民斯難逭免析進却步誠可悲夫七為顯咒功能勝故謂慶喜難在登伽如來遣咒徃救承力雖至密言闕聞況能潛護根門防閑宿習齋戒不稟而自備果證不遠而可得消難獲利自行化他因人果人靡不由此而辨其事也八為證入有階降故謂理絕修證事存階漸偏一則病空有圓通則融真俗故不損寂滅而建立諸位阿難知機為請如來就行開示始從漸次終乎極果於無生忍中立五十七位不斷而斷惑障必亡非證而證神用斯備豈同魔外都無位次耶文云是種種地皆以金剛觀察如幻十種深喻奢摩他中用諸如來毗婆舍那清淨修證漸次深入耳九為廣示諸魔境故修禪觀人靡不有初而鮮克有終者蓋不諳其魔境妄生取著不了唯心遂𣲖諸道佛慈無緣不問自說觀中破陰每陰十種五十境界分析邪源末代修禪免為所惑十為究盡妄想源故謂五陰諸經皆說未聞五妄想成今明破一陰時出一妄想破則從麤至細起則自細現麤其之根源唯一識陰識陰無體但是圓常文云湛入合湛歸識邊際既知五陰咸是妄想五陰攝法何所不該論云一切諸法唯依妄念而有差別若離心念則無一切境界之相也由斯十意而說此經二藏乘分攝者謂三藏之中修多羅攝二藏之中菩薩藏攝若此攝彼則兼該二三持戒證果有小乘故徵難辨析最明顯故諸乘之中一乘所攝若此攝彼亦該諸乘十二分中契經方廣二分所攝攝彼如前三教義分齊者依賢首大師二義分別一約教詮法通局顯分齊謂以義分教教類有五一小乘教但說我空縱少說法空亦不明顯但依六識三毒建立染淨根本未盡法源故多諍論二大乘始教亦名分教但說諸法皆空未盡大乘法理故名為始但說一切法相有不成佛故名為分三大乘終教亦名實教說如來藏隨緣成阿梨耶識緣起無性一切皆如定性二乘無性闡提悉當成佛方盡大乘至極之說故名為終以稱實理故名為實四大乘頓教緫不說法相唯辨真性亦無八識差別之相呵教勸離毀相泯心但一念不生即名為佛不依地位漸次故說為頓五一乘圓教所說唯是法界性海圓融緣起無礙相即相入帝網重重主伴無盡也若於五中顯此經所詮正唯終教兼於頓圓若將此經與五教通局攝者五唯後三攝此此緫攝彼諸教二約法生起本末顯分齊依起信論明諸染法本末五重論中初唯一心為本源二依一心開二門一心真如門所謂心性不生不滅二心生滅門謂依如來藏與生滅合名阿梨耶識三依此識明二義一覺義謂心體離念等二不覺義謂不如實知真如法一不覺心動等四依後義生三細一依不覺故心動名業相二依動故能見名轉相三依見故境界妄現名現相五依最後生六麤一智相依境分別也即法執俱生二相續相依智起念不斷即法執分別三執取相心起著故即我執俱生四計名字相我執分別上四皆惑五起業相業也六業繫苦相報也若以諸宗就此五重顯分齊者謂人天唯齊業報小乘齊後四麤法相極於三細終頓圓通詮本末方窮初一心源初一心源即此經常住真心性淨明體經標此心為宗本故一切因果世界微塵因心成故二根本中說為無始菩提涅槃元明體故第一重約見約心或破或會至於備歷三科七大咸言妙真如性等即心真如門經喻瞪目合手眚見燈光性明圓故因明發性識精元明性一切心等即生滅門第二重滿慈致疑佛舉本覺明妙性覺必明妄為明覺覺非所明因明立所等即本覺不覺也了然自知發真歸元覺迷迷滅等即始覺也第三重三相四輪晦昧為空空晦暗中結暗為色等即三細第四重引起塵勞煩惱聚緣內搖趣外奔逸業果眾生二種相續等即後六麤第五重由是此經具詮本末學者備覽足見幽深四所被機冝者依圓覺䟽略有二種初料揀後普收初謂樂著名相以文為解者繫滯行位高推聖境者情尚於空觸言賔無者自恃天真輕猒進習者固執先聞擔麻棄金者如上皆非其器反上即皆是器後普收一切眾生皆有佛性但得聞之無不獲益謂宿種深者悟入淺者信解都無種者亦皆熏成圓頓種性如華嚴經食金剛喻若約五性正被菩薩性及不定性兼為餘性作遠因緣三聚之中為正定聚令增妙行為不定聚令修信心為邪定人作遠因緣也五能詮體性者略作四門一隨相門復二一聲名句文體體用假實二相資故二通攝所詮體若不詮義文非教故二唯識門前二不離識所變故然有本質影像之異三歸性門此識無體唯真如故四無礙門心境理事交徹相攝以一心法有二門故六所詮宗趣者即有通別初謂統論佛教因緣為宗以佛聖教自淺至深說一切法不出因緣二字若佛滅後賢聖弟子相承傳習通大小乘宗途有五如起信䟽別明此經者又有緫別緫以心境空徧計如虵鬼經云如虛空花本無所有又經云妄為色空及與聞見寂依他如影像等經云當處出生隨處滅盡等藏性圓滿由空寂故圓滿成實經云此見及緣元是菩提妙淨明體等凡聖平等為宗下云迷悟死生了不可得又聖凡無二路又生死涅槃皆即狂勞等令修行者忘情由悟宗故下云即汝心中狂性自歇旋流無妄等佛由情忘故經云歇即菩提即同如來等觀行速成文云方便易成就為趣又以前趣為宗令惑業消滅三緣斷故三因不生永絕輪廻若得妙發三摩提者則妙常寂有無二無無二亦滅起大神用不須天眼自然觀見等安樂身心快然獲大安隱自在一為無量小中現大等為趣別有五對一教義二事理三境行四行寂五寂用皆初宗後趣此五亦是從前起後漸漸相由也若以要言之不出解行修證初解如來藏為宗行首楞嚴為趣謂佛許示真修却約心見徵解故次修此真定為宗證彼藏體為趣故下請云雖獲大宅要因門入等七教迹前後者佛說此經非謂一時頓說說必前後集者約類緫為一部謂佛初說匿王在座敘外致疑破彼斷見後至阿難疑問七趣舉瑠璃王誅釋種姓善星比丘妄說法空二俱生身䧟入地獄瑠璃豈非匿王之子王死為嗣方誅瞿曇豈有事之未形而預致問耶故知此經非一時說若以文義徃定即法華後涅槃前也經文明指耶輸受記持地證經以義徃推序歎聲聞非約小行應身無量度脫眾生法華已前無此歎故聲聞入實法華已前亦無顯露今經有故各說圓通諸小乘者皆敘本時或述今遇盡證圓妙法華前無應知在後然又不唱入滅之期定涅槃前二經同部此經居中俱醍醐味無所疑也八傳譯時年下云大唐神龍元年乙巳歲五月二十三日中天竺沙門般剌蜜諦於廣州制止道場譯先是三藏將梵本汎海達廣州制止寺遇宰相房融知南銓聞有此經遂請對譯房融筆授烏長國沙門彌伽釋迦譯語翻經纔竟三藏被本國來取奉王嚴制先不許出三藏潛來邊境被責為解此難遂即去廻房融入奏又遇中宗初嗣未暇宣布目錄闕書時禪學者因內道場得本傳寫好而秘之遂流北地大通在內親遇奏經又寫隨身歸荊州度門寺有魏北舘陶沙門慧振搜訪靈迹常募此經於度門寺遂遇此本初得科判又據開元中沙門智昇撰釋教目錄二十卷其第九云大佛頂首楞嚴經十卷大唐沙門懷迪於廣州譯迪循州人住羅浮山南樓寺久習經論備諸五梵因遊廣府遂遇梵僧未詳其名對文共譯勒成十卷經之題目紙數文句與今融本並不差異迪筆受經旨緝綴文理等今詳二經譯人雖別譯本是同或恐迪因證義各據流行故今目錄書寫有異不爾豈無一處差別譯主名字何得未詳耶二本既同今解融本九通釋名題者。

> この経典を解釈するにあたり、十の観点から分別して説明する。 第一に、教えの起こる因縁。 第二に、経蔵・菩薩蔵などの分類と摂属。 第三に、教えと義理の範囲と区分。 第四に、教化の対象となる機根。 第五に、教えを伝える本体。 第六に、教えの宗旨と趣旨。 第七に、教えの流布における前後関係。 第八に、翻訳された年代。 第九に、経題の総合的な解釈。 第十に、本文の個別的な解釈。 そのうち、最初の「教起因縁」には、総論と各論の二つがある。 総論としては、仏が教えを説かれるのは、因（衆生の願い）に応え、請（問い）に応じ、理（真理）を顕し、衆生を救済するためであり、一代の教えの興起は全てこの理由による。もし仏の本来の意図を探れば、ただ一つの大事因縁、すなわち衆生に仏の知見を開き、示し、悟らせ、入らせようとするためである。三車（声聞・縁覚・菩薩の三乗の教え）を仮に許しても、最終的に与えられる白牛の車（一乗の教え）はただ一つであり、三乗や二乗（声聞・縁覚の二乗）はないのである。 各論としては、この経を説く理由が十ある。 第一に、真実の三昧を明確に示すためである。阿難が遭難したのは、真の定（三昧）がなかったからである。諸仏が菩提を成就するための、微細な止観である「奢摩他」「三摩」「禅那」の最初の方便と、仏が「大仏頂首楞厳王」という名の三摩地があり、万行を具足し、十方の如来が一つの門として超出する「妙荘厳路」があると告げ許されたこと、さらに阿難が再び請い、自らを責めて「恵みを与えよ」と偈を讃えたこと、そして如来がこれを「金剛王如幻三昧」と称賛し、文殊菩薩に円通の法門を選ばせ、三世の諸仏が皆この一つの門によることを示し、道場の加行によって聖位を成就し、この経の名を立て、七趣（七つの迷いの世界）を破し、諸々の魔を識別するために説かれたこと。これらは全てこのためである。 第二に、様々な誤った執着を広く破するためである。阿難が妄を執り真に迷い、波斯匿王が常を断（無常）と誤認したことなどから、七処にわたる心の探索、三つの疑惑と問答、仏の再びの教え「もし汝が分別覚観を執着して汝の心とするならば」に至るまで、心と見（認識）の二門にわたって執着を広く破している。この執着の相は、人我執と法我執を離れない。 第三に、妙なる明浄な心を開き顕すためである。阿難が初めて三昧を請うた時、仏は先にその発心を尋ねられ、愛欲の源を述べたことから、真実の体を完全に迷っていることを知り、「衆生が無始以来生死に相続するのは、常住の真心を知らないからである。この真妙明な心こそ、菩提・涅槃の元清浄体である」と説かれた。阿難が自ら「寂常」を知らないと責めるのに対し、如来は「妙明性」を発顕することを許可し、まず心と見の二門について問答を交わし、後に三科（五蘊・十二処・十八界）と七大（地・水・火・風・空・見・識）について明確に融会し、一切の法において性（真如）が常にあり、全てに遍じ、融合し、障りなく含摂することを示した。これにより、参会者たちは皆悟り、心が十方に遍満し、存在する全てのものが菩提の妙体であり、元の明らかな心が十方の虚空を包み、身も土も虚空も得るものがなく、ただ一つの本来妙なる常住不滅のものがあることを自覚した。さらに富楼那が有相について疑問を発し、阿難が再び因縁を問うたのに対し、仏は随って開示し、知見を得させたのである。 第四に、多くの疑惑の網を断ち切るためである。仏が真の見を顕示するにつれ、阿難はそれに随って疑惑を生じ、あるいは縮小し、あるいは離脱し、因縁や和合・非和合などについて執着と疑念を抱いた。その疑惑の網は多く、仏はそれに随って断ち切られたのである。 第五に、修行の門を明確に区別するためである。仏が蔵体（如来蔵）を広く示し、阿難が深い悟りを得て、天王が華屋を賜うた喩えを挙げた時、賜うたものを知りながらも入る門がないことを知り、多聞（多く聞くこと）が修行に及ばないことを悔いて、「いかにして昔からの攀縁（執着）を調伏し、仏の知見に入るべきか」と問うた。仏は「止（奢摩他）と観（毘婆舎那）」という二つの意味を挙げて、発覚の初心とされた。まず、清らかな心で妄念を回転させて不生不滅を成就させ、次に煩悩を詳細に審察し、その根を知って降伏させる。一根が返れば、他の根も自然に回転し、諸々の妄念は消え去り、真実でないものは何もなくなると説かれた。 第六に、正邪の行を分別するためである。阿難は既に修行を悟ったが、後の時代の人々は邪正を知らず、正道を志しながらも邪宗に陥ることを憂えた。漏れる器に水を注ぎながら、どうして満たすことができようか。阿難が請うて、「衆生は仏から遠く離れ、邪師の説法が多くなっています。どうか心を仏乗に入れ、魔に退転しないようにさせてください」と言うと、仏は四種の明誨（明確な教え）を挙げられ、諸聖も同じ道を歩むこと、戒根を欠かさなければ定慧が依拠できること、もし清らかな禁戒を守らずに禅慧だけ深めても、鬼や魔の仲間となるのは免れ難いことを示された。その分析は微細にわたり、まことに悲しむべきことである。 第七に、咒（陀羅尼）の功徳の優れたことを示すためである。阿難が摩登伽女の難に遭った時、如来は咒を遣わして救わせた。その力によって救われたものの、密言（秘密の言葉）を聞くことはなかった。ましてや、密に根門を護り、習気を防ぎ、戒律を守らなくても自然に備わり、果証を遠ざからずに得ることができ、災難を消し、利益を得て、自らを修行し他を教化し、凡夫も仏も、この咒によらずして成就することはない。 第八に、証入に段階があることを示すためである。理は修証を絶しているが、事としては段階が存在する。偏って空に執着するのは病気であり、円通すれば真俗が融合する。それゆえ、寂滅を損なわずに諸々の位を建立するのである。阿難が機を知って請い、如来はこれに応じて修行の道を開示し、漸次から始まって極果に至るまで、無生忍の中に五十七位を立て、断ぜずして断ち、惑障は必ず滅し、証せずして証し、神用は備わる。どうして魔や外道のように位次がないのと同じであろうか。経文に「この種々の地は、皆、金剛観察・如幻の十種の深い喩えを用いて、奢摩他の中において諸仏の毘婆舎那（観）を用いて、清らかに修証し、漸次に深く入る」とある。 第九に、諸々の魔境を広く示すためである。禅観を修める人は、初めは良いが、終わりを全うする者は少ない。それは、魔境をよく知らず、妄りに取着し、唯心を悟らずに諸道に堕ちるからである。仏の慈悲は縁を待たず、問わずして自ら説かれた。観の中で五陰を破り、各陰に十種、合わせて五十の境界があり、その邪源を分析して、末代の修禅者が惑わされることのないようにされた。 第十に、妄想の源を究め尽くすためである。五陰は諸経でも説かれるが、五陰が妄想から成ることは聞かれていない。今、一陰を破る時に一妄想が出ることを明らかにする。破る時は粗から細へ、起こる時は細から粗へ現れる。その根源はただ一つの識陰であり、識陰には実体がなく、ただ円常（完全に常住なるもの）である。経に「湛入合湛、識の辺際に帰す」とある。五陰が全て妄想であると知れば、五陰が法を摂する範囲は、何が含まれないであろうか。論に「一切諸法は、ただ妄念に依って差別がある。もし心念を離れれば、一切の境界の相はない」とある。以上の十の理由によって、この経は説かれたのである。 第二の「蔵乗分摂」とは、三蔵（経・律・論）の中では修多羅蔵（経蔵）に属し、二蔵（声聞蔵・菩薩蔵）の中では菩薩蔵に属する。この経が他を摂する場合は、二蔵三蔵をも兼ねる。なぜなら、持戒や証果には小乗も含まれ、また、問答の厳密な分析が最も明確だからである。諸乗（三乗）の中では一乗に属する。この経が他を摂する場合は、諸乗をも兼ねる。十二部経（十二分教）の中では、契経（長行）と方広経の二つに属する。他を摂するのは前と同じである。 第三の「教義分斉」とは、賢首大師（法蔵）の二つの意味による分別に依拠する。 第一に、教えが法を詮釈する広狭によって分斉を顕す。教えを意味によって分類すれば、五種類がある。 一、小乗教：ただ我（自我）の空のみを説き、少し法（現象）の空を説いても明確ではない。ただ六識・三毒に依って染浄の根本を建立し、法の源を尽くしていないので、多くの論争がある。 二、大乗始教（分教ともいう）：ただ諸法皆空を説くが、大乗の法理を尽くしていないので「始」という。また、一切の法相は有るが、成仏しないものがあると説くので「分」という。 三、大乗終教（実教ともいう）：如来蔵が縁に随って阿梨耶識となり、縁起は無性であり、一切は如（真如）であること、定性の二乗や無性の一闡提もすべて成仏することを説く。ここに至って大乗の極説を尽くすので「終」という。実理にかなうので「実」という。 四、大乗頓教：全く法相を説かず、ただ真性のみを弁別する。八識の差別の相もない。教えを呵責し、離れることを勧め、相を毀ち、心を滅する。ただ一念も生じなければ名づけて仏とし、地位や段階に依らないので「頓」という。 五、一乗円教：ただ法界性海の円融、縁起無礙、相即相入、帝網重重、主伴無尽のみを説く。 五教の中でこの経の所詮を示せば、正しくは終教に属し、頓教と円教を兼ねる。もしこの経と五教との関係を広狭で捉えれば、五教のうち後の三教がこの経を摂し、この経はそれらの諸教を総摂する。 第二に、法の生起する本末によって分斉を顕す。『起信論』に依って、諸々の染法の本末五重を明らかにする。 論において、初めに一心（本源）があり、第二に一心によって二門が開かれる。すなわち、心真如門（心性は不生不滅）と心生滅門（如来蔵が生滅と和合して阿梨耶識と名づく）である。第三に、この識によって二義（覚・不覚）が明らかにされる。第四に、不覚によって三細が生じる。（業相・転相・現相）第五に、最後に六麤が生じる。（智相・相続相・執取相・計名字相・起業相・業繋苦相） もし諸宗をこの五重によって分斉を示せば、人天乗は業報に限られ、小乗は後の四麤に限られ、法相宗は三細に及び、終・頓・円の諸宗は本末を通じて初めの一心源に及ぶ。この一心源こそ、この経の常住真心・性浄明体である。経はこの心を宗本とし、一切の因果・世界・微塵は心によって成る。二つの根本において、無始菩提涅槃・元明体と説かれている（第一重）。見や心について、あるいは破し、あるいは会して、三科・七大に至るまで「妙真如性」などと言うのは心真如門であり、経の喩え（瞪目・合手・眚見燈光など）や「性明圓故」「因明發性」「識精元明」「性一切心」などは心生滅門である（第二重）。富楼那が疑いを発し、仏が「本覚明妙」「性覺必明」「妄為明覺」「覺非所明」「因明立所」などを挙げるのは、本覚・不覚であり、「了然自知」「發真歸元」「覺迷迷滅」などは始覚である（第三重）。「晦昧為空」「空晦暗中」「結暗為色」などは三細である（第四重）。「引起塵勞」「煩惱聚緣内搖」「趣外奔逸」「業果相續」「衆生相續」などは後の六麤である（第五重）。このように、この経は本末を具に詮釈しており、学ぶ者は一覧してその深遠さを見ることができる。 第四の「所被機冝」とは、『円覚疏』に依れば、大別して二種ある。初めに機根を選別し、後に全てを収める。選別とは、名相に執着して文義を解釈する者、位にこだわって聖境を高く推す者、空を好んで「無」に触れる者、天真を恃んで修習を軽んじ嫌う者、先入観に固執して宝を捨てる者などは、器ではない。これらと反対の者は、器である。後に、全てを収めるとは、一切の衆生に仏性があり、聞くことを得れば利益を得ない者はない。宿世の習いの深い者は悟り、浅い者は信解し、種子の全くない者も皆、円頓の種性に熏習される。『華厳経』の金剛の喩えの如し。もし五性で言えば、正に菩薩性および不定性を教化し、他の性には遠因縁とする。三聚（正定聚・邪定聚・不定聚）の中では、正定聚のために妙行を増進させ、不定聚のために信心を修めさせ、邪定聚のために遠因縁とするのである。 第五の「能詮体性」とは、略して四門とする。 一、随相門：さらに二つに分かれる。声・名・句・文を体とし、体用は仮実であり、相資ける。二、通摂所詮：もし義を詮釈しなければ、文は教ではない。 二、唯識門：前の二つは識を離れず、識が変じたものである。しかし、本質と影像の違いがある。 三、帰性門：この識には実体がなく、ただ真如のみである。 四、無礙門：心と境、理と事が交徹し相摂する。一心に二門があるからである。 第六の「所詮宗趣」とは、通（共通）と別（特別）がある。 通としては、統論すれば仏教は因縁を宗とする。仏の聖教は浅から深に至るまで、一切の法を説いて因縁の二字を出ない。仏滅後、賢聖の弟子が相承して伝習し、大乗・小乗に通じて宗途が五つあることは、『起信疏』の如し。 別にこの経を明らかにすれば、さらに総と別がある。 総じて、心と境が空（遍計所執性、蛇や鬼の如し。経に「虚空花の如く本より有ること無し」「妄りに色空及び聞見と為す」等）であり、寂（依他起性、影像の如し。経に「当処に出生し、随処に滅尽す」等）であり、蔵性が円満（空寂によって円満し実となる。経に「此の見及び縁は、元是れ菩提妙浄明体」等）であり、凡聖が平等であることを宗とし（「迷悟生死、了るに不可得」「聖凡無二路」「生死涅槃、皆即ち狂労」等）、修行者に情を忘れさせ（宗を悟ることによって、「汝の心中の狂性自ら歇み、流を旋らして妄なし」）、仏と等しくならせ（情を忘れることによって、「歇即是菩提」「即同如来」等）、観行を速成させる（「方便、易成就」）ことを趣とする。 また、前の趣を宗とし、惑業を消滅させ（「三縁断ずるが故に三因生ぜず」）、輪廻を永絶させ（「若し妙発三摩提を得れば、則ち妙常寂、有無二無く、無二も亦た滅す」）、大いなる神用を起こし（「天眼を須ゐずして自然に観見」等）、安楽（「身心快然として大安穏を獲」）自在（「一を為無量と為し、小の中に大を現ず」等）とすることを趣とする。 別には五対ある。一、教と義。二、事と理。三、境と行。四、行と寂。五、寂と用。いずれも初めを宗とし、後を趣とする。この五つは、前から後へと起り、漸く相由するものである。 要約すれば、解・行・修・証を出ない。初めに如来蔵を解するを宗とし、首楞厳を行ずることを趣とする。なぜなら、仏は真の修を示すと許しながら、心と見について問答して解を明らかにされたからである。次に、この真の定を修するを宗とし、蔵体を証するを趣とする。よって、後に「大宅を得たりと雖も、門によるを要す」と請うている。 第七の「教迹前後」とは、仏がこの経を説かれたのは、一時に説かれたのではない。説かれた時には必ず前後があり、編集者が類によって一部にまとめたものである。仏が初めに説かれた時、波斯匿王が列席して外道の疑いを述べ、断見を破られた。後に阿難が七趣について疑問を発した時、瑠璃王が釈迦族を誅殺し、善星比丘が法空を妄説して、共に生身で地獄に堕ちたことに言及している。瑠璃王は波斯匿王の子であり、王が死んでから後を継いで瞿曇（釈迦族）を誅殺したのであって、まだ起こっていないことを予め問うはずがない。ゆえに、この経は一時に説かれたものではない。もし文義によって時を定めれば、『法華経』の後、『涅槃経』の前である。経文には、耶輸陀羅が授記され、持地菩薩が経を証することが明確に示されている。また、序分において声聞を嘆ずるのは、小さな行いに基づくものではなく、応身が無量の衆生を度したことによる。『法華経』以前には、このような嘆きはない。声聞が実教に入ることも、『法華経』以前には明らかにされていない。今、この経にはそれが明らかにある。諸々の小乗の者が円通を説く時、皆、本時の因縁を述べ、あるいは今の遇会を述べて、円妙を証している。『法華経』以前にはこのようなことはない。よって、後にあるべきである。しかし、また入滅の時期を唱えていないので、『涅槃経』の前であることは確かである。二経は同部であり、この経はその中間にある。共に醍醐味であり、疑うべきことはない。 第八の「伝訳時年」とは、後に示すように、大唐神龍元年（705年）乙巳歳五月二十三日、中天竺の沙門・般剌蜜諦が広州の制止道場で翻訳した。先に、三蔵は梵本を携えて海路で広州の制止寺に到着した。宰相の房融が南の役所にいることを知り、この経があると聞いて、共に翻訳するよう請うた。房融が筆受し、烏長国（ウッディヤーナ）の沙門・弥伽釈迦（メーガ・シャーキャ）が訳語を担当した。翻訳が終わると、三蔵は本国から来た者に、王の厳しい命令で国外への持ち出しが禁じられていたのを破って密かに来たことを責められ、この難を解くために帰国した。房融は奏上したが、中宗が即位したばかりで、公布する暇がなく、目録にも記載されなかった。当時、禅の修行者が内道場でこの本を得て、書き写して秘蔵し、北方に流布した。大通（神秀）が内道場にいて、自ら奏上して経を得、随身して荊州の度門寺に持ち帰った。魏の北の舘陶の沙門・慧振が霊迹を捜し求めて、この経を度門寺で得て、初めて科判を作った。また、開元年間（713-741年）に沙門・智昇が撰した『釈教目録』二十巻の第九に、「大仏頂首楞嚴経十巻、大唐の沙門・懐迪、広州に於いて訳す」とある。懐迪は循州の人で、羅浮山の南楼寺に住み、長く経論に習熟し、五梵（五種の梵語）に通じていた。広州に遊学した時、梵僧に遇い、その名は詳らかではないが、共に文を対照して翻訳し、十巻に編成した。経の題目・紙数・文句は、現在の房融本と全く異ならない。懐迪が筆受して経旨を綴り、文理を整えたとされる。今、二つの経を詳しく見ると、訳者は異なるが、訳本は同じである。あるいは懐迪が証義に加わり、それぞれの流行に従ったためであろう。そうでなければ、一箇所も違いがなく、訳主の名前がどうして詳らかでないことがあろうか。二本が同じである以上、今は房融本を解釈する。 第九の「通釈名題」については、以下の通りである。

大佛頂如來密因修證了義諸菩薩萬行首楞嚴經

經有五名題目三號者謂該教行人理因果顯密悉具足故先略配者上之三字是緫即一經法體緫含教理行果教行明指理果義含明指者文云有三摩提名大佛頂此指行也又云雖蒙如來佛頂神咒又云亦說此咒名如來頂此指教也教有顯密顯了宣示令悟修無妄即前後諸文祕密受持令障盡功著即是咒辭義含者寂照含空故名為大性覺妙明等故名為佛此顯理也我以不滅不生合如來藏周徧法界等故名大明極即如來等故名佛此顯果也頂者至極無上之義也若以此三字全約理說藏體周徧無不含容曰大即體大靈照不昧離諸妄想曰佛佛有二義一自性顯照義即相大二隨緣現益義即用大此大及佛是至尊至極無上無過諸佛所師之法故名為頂三大之義不離一心故名一心為大佛頂如來下別顯勝能初八字約果人自行修證說教利他以別顯即十方如來依此法門修因證果顯了宣說究竟利他也諸菩薩下八字約因人修習具足自他諸行以別顯菩薩行門自利利他廣多無量此之真定咸具足故文殊歎云此是微塵佛一路涅槃門等次廣釋者大者當體得名常徧為義當體者不同法相宗揀小名大大外有小可揀猶是分限豈為至大今以藏體性無邊涯絕諸分量強名為大常徧者常則竪窮三世徧則橫該十方竪者過去無始未來無終無有一法先之唯此先於諸法故名大也涅槃云所言大者名之為常徧者十方窮之無有涯畔涅槃又云所言大者其性廣博今經常徧廣有其文仍具三義如下可見佛頌者究竟覺也覺有二義一本二始本謂藏體靈鑒無昧絕諸妄想具足無量性功德故起信云所言覺義者謂心體離念離念相者等虛空界無所不徧法界一相即是如來平等法身依此法身說名本覺始覺義者依本覺故而有不覺依不覺教而有始覺始覺是用本覺是體用合體時始本不二名究竟覺究竟覺者即前藏性顯現時也無上最極名之為頂此約果位以顯法體名佛頂也若約現事即今佛頂放光化佛所說教行是故教行俱號佛頂也如來者如謂本覺來謂始覺始本合故名為如來此指一佛即該諸佛下說教行俱約諸佛以顯同故密四者有二一教二行教者下說心咒是佛密語唯佛與佛乃能知之不通他解但言而受之思而持之滅障成德也行者以此奠定具空假中即是一心非縱橫並別不可思議具足萬行三世諸佛同此法門此行成時名三祕藏是故稱密修謂行因證謂克果地前地上緣真二種俱名為修初地妙覺分滿二果同名為證所修所證俱大佛頂此自行也如觀音圓通了義者說教化他詮表義理無有覆相窮理盡性稱實該故下文云宣勝義中真勝義性令汝會中定性聲聞皆獲一乘寂滅場地非有餘說故名了義諸菩薩萬行者三世因人各修其行自利利他有無量義今舉大數故名萬也此之三昧具斯多義故下文云有三摩提名大佛頂首楞嚴王具足萬行等首楞嚴者梵語也涅槃云首楞者含一切事竟嚴者名堅即一切事究竟堅固也得此三昧觀法如幻於法自在能破最後微細無明能獲二種殊勝之力現身說法無礙自在故下經中名為如幻金剛王佛母妙蓮華等此三昧以無分別智寂用為體以一切法皆同智性窮盡法界更無遺餘名一切事究竟一切事言無離染淨此智現時染淨都盡一法不立又染法究竟盡淨用究竟顯如下文云我以不滅不生合如來藏而如來藏唯妙覺明圓照法界是故一為無量等又云塵垢應念消成圓明淨妙等既觀如幻不為物壞能破無明故名堅固經者訓法訓常是貫是攝謂依此言說詮顯性相今物生解故稱為法一切諸佛皆同此說故名為常能令義理無有散失名之為貫以此化生令不顛墜稱之為攝若約所詮如來藏體說名經者亦具四義謂此心性諸佛所師可䡄可則故名為法不生不滅無有變異故名為常上聖下凡情與非情無不同此故說為貫具諸功德徧含染淨故稱為攝心性既爾一切法亦然故下文云五陰六入生滅去來本如來藏故一切法任運有四義悉名為經。

> <note place="inline">この経典には五つの名称があり、その表題には三つの種類がある。これは、教え、修行者、道理、因果、顕密がすべて備わっていることを示している。まず簡単に説明する。上の三文字は総称であり、一つの経典の法体である。これには教・理・行・果が含まれ、教と行は明らかに指し示し、理と果は含蓄されている。明らかに指し示しているとは、経文に「三摩提あり、これを大仏頂と名づく」とあり、これは行を指す。また「如来の仏頂神咒を蒙るといえども」とあり、また「この咒を如来頂と名づく」ともある。これらは教を指す。教には顕と密があり、顕とは明らかに示して悟りと修行に誤りがないようにさせるもので、前後の諸文がこれにあたる。密とは秘密裡に受持させ、障りを滅し功徳を現すもので、これは咒の文言である。含蓄されているとは、寂照が空を含むから「大」と名づけ、性覚が妙明だから「佛」と名づける。これは理を明らかにしている。我が不滅不生をもって如来蔵に合し、周遍法界するなどを「大明の極」と名づけ、如来などと名づける。これを「佛」と名づける。これは果を示す。「頂」とは至極無上の義である。もしこの三文字をすべて理の面から説くなら、蔵体は周遍して含まないところがなく「大」と名づける。これが体大である。霊照が明らかで諸々の妄想を離れることを「佛」と名づける。佛には二義あり、一は自性顕照の義で相大、二は随縁現益の義で用大である。この大と佛は、至尊至極で、これを超えるものはなく、諸佛の師とする法であるから「頂」と名づける。三大の義は一心を離れないから、一心をもって大佛頂と名づける。「如来」以下の文は、別して優れた力用を示す。初めの八字は、果上の人が自ら修行し証を得て、教えを説き他を利することを、別して顕す。すなわち十方の如来がこの法門に依って因を修し果を証し、明らかに説き尽くして究竟的に他を利することを示す。「諸菩薩」以下の八字は、因位の人が修行を習い、自他の諸行を具足することを別して顕す。菩薩の行門は自利利他が広大無量であり、この真定がすべて具わっているからである。文殊は歎じて「これ微塵佛の、一路涅槃門なり」と述べる。次に広く解釈する。「大」とは当体をもって名とし、常徧を義とする。当体とは、法相宗のように小を選んで大と名づけるのとは異なる。そちらでは大の外に小があり選ぶことができるが、それには限度がある。どうして至大と言えようか。今は蔵体の性に辺際なく、諸々の分量を絶しているから、強いて「大」と名づける。常徧とは、常は竪に三際に窮まり、徧は横に十方に該まる。竪とは、過去に始まりなく未来に終わりなく、これに先んじる法は一つもない。唯これが諸法に先んじるから大と名づける。涅槃経に「大と言うは、之を常と名づく」とある。徧とは十方に窮めて際涯がないこと。涅槃経にまた「大と言うは、その性広博なり」とある。今の経典に常徧の義が広くあることは、以下のように明らかである。「佛」とは究竟覚である。覚に二義あり、一は本覚、二は始覚。本覚とは蔵体の霊鑑が明らかで諸々の妄想を絶し、無量の性功徳を具足すること。起信論に「覚の義と言うは、心体の念を離れるを謂う。念を離れる相は、虚空界に等しく、徧くないところなく、法界一相、即ち是れ如来の平等法身なり。此の法身に依りて本覚と名づく」とある。始覚の義とは、本覚に依って而も覚不あり、覚不に依って而も始覚あり。始覚は用、本覚は体なり。用が体に合する時、始も本も不二となり、究竟覚と名づく。究竟覚とは、即ち前の蔵性が顕現する時である。無上最極を「頂」と名づける。これは果位に約して法体を顕すから、佛頂と名づける。もし現事に約せば、即ち今の佛頂が光を放ち化佛を現じて教行を説くのであり、教行ともに佛頂と号する。「如来」とは、「如」は本覚、「来」は始覚である。始覚と本覚が合するから如来と名づける。これは一佛を指すが、諸佛に該まる。下に説く教行は、すべて諸佛に約して同じことを顕すからである。「密」には二つあり、一は教、二は行。教とは、下に説く心咒は佛の密語であり、唯佛と佛のみ之を知ることができ、他には通解しない。ただ口に受け、思いを持ち、障りを滅し徳を成すのである。行とは、この真定が空仮中の三観を具足し、即ち一心であり、縦横並別にあらず、不可思議であり、万行を具足する。三世の諸佛は同じくこの法門である。此行が成る時、三祕蔵と名づける。故に密と称する。「修」とは因を修行すること、「証」とは果を得ることである。地前と地上、缘真の二種類を俱に修と名づけ、初地と妙覚、分満の二果を同じく証と名づける。修する所も証する所も俱に大佛頂である。これは自行である。観音の円通了義の如きは、説法教化し、義理を表し示し、覆い隠す相がない。理を窮め性を尽くし、実相に称い該まる。下文に「勝義の中の真勝義性を宣べ、汝が会中の定性声聞をして、皆一乗寂滅場地を得せしむ」とある。余説にあらざるを、了義と名づける。「諸菩薩万行」とは、三世の因人、各々其の行を修し、自利利他に無量の義あり。ここに大数のみを挙げ万と名づける。この三昧はこれらの多くの義を具える。故に下文に「三摩提あり、大佛頂首楞嚴王と名づけ、万行を具足す」等とある。首楞嚴は梵語である。涅槃経に「首楞は一切事を含み竟り、嚴は堅と名づく。即ち一切事究竟堅固なり」とある。この三昧を得れば、法を観じて幻の如く、法に於いて自在であり、最後の微細無明を破し、二種の殊勝の力を獲て、身を現じ法を説くこと礙なく自在である。故に下の経に「幻の如き金剛王佛母妙蓮華等」と名づける。この三昧は無分別智の寂用を体とし、一切法が皆智性と同じく、法界を窮尽して遺余なきを、一切事究竟と名づける。一切事の言は、染浄を離れず。此の智が現ずる時、染浄ともに尽き、一法も立たない。また染法は究竟して尽き、浄用は究竟して顕れる。下文に「我が不滅不生をもって如来蔵に合するに、如来蔵は唯妙覚明にして法界を円照す。故に一をもって無量と為す」等とある。また「塵垢は念に応じて消え、円明浄妙と成る」等とある。既に幻の如く観ずるが故に、物によって壊されず、無明を破することができるから堅固と名づける。「経」とは法と常とを訓じ、貫くことと攝めることである。この言説に依って性相を顕し示し、物をして解を生ぜしめるから法と称する。一切諸佛は皆この説を同じくするから常と名づける。義理を散失せしめないから貫くと名づけ、これをもって衆生を化し、顛墜させないから攝めると称する。もし所詮の如来蔵体に約して経と説くなら、また四義を具える。この心性は諸佛の師とするところ、軌則とすべきであるから法と名づけ、不生不滅で変異がないから常と名づけ、上聖下凡、情と非情、これと同ならざるはなく、故に貫くと説き、諸功徳を具え、染浄を徧く含むから攝めると称する。心性が既にそうであるなら、一切法もまたそうである。故に下文に「五陰六入、生滅去来、本より如来蔵なり」とある。故に一切法は任運に四義を具え、すべて経と名づける。</note>

一名中印度那爛陀大道場經於灌頂部錄出別行

此別目也印度月名具云即特伽此云月邦以此大國形諸小國如星中月彼有五印此當中也即一境之鄰名此境之中有多國別最尊大者號摩竭提此云大體以緫攝故或云不害皆義翻也那彌陀此云施無猒即龍名也四域記云菴沒羅國有池池中有龍名施無猒寺近彼池故以標號大道場者沙門體心修道之地也佛滅度後六帝緝興遐踈維宇園林普合都建一門主客萬僧住持增峻印度名寺莫先於此故名曰大灌頂部者彼有五部此當其一毗盧為主既標部處尋檢可憑無謂近翻疑非正說。

> 〈注記：これは別名である。インドで月を「即特伽」といい、「月邦」と訳す。この大国が諸小国に対して、星の中の月のような存在であることに由来する。そこには五つのインドがあり、これはその中央に位置する。一つの境域に隣接するこの地には、多くの国々がある。最も尊く大きな国を「摩竭提」といい、「大体」と訳す。すべてを統括するからである。あるいは「不害」ともいい、どちらも意味による翻訳である。「那彌陀」は「施無猒」と訳し、龍の名である。「四域記」に、菴没羅国に池があり、池の中に龍がいて、「施無猒」と名づけられたとある。寺がその池に近いため、その名を標示とした。「大道場」とは、沙門が心を修める地である。仏の滅後、六人の帝王が相次いで興こし、遠く離れた建物や庭園を整え、すべてを一つの門として統合した。主客万人の僧侶が住持し、その荘厳さは増していた。インドの名高い寺で、これに勝るものはなかった。故に「大」と名づけられた。「灌頂部」とは、五つの部があるうちの一つで、これがそれに当たる。毘盧遮那仏を主とする。その部と場所を標示した以上、検索して確かめることができる。「近頃の翻訳であるからといって、正しい説ではないと疑うのは無意味である」との意。）

大唐神龍元年龍集乙巳五月己卯朔二十三日辛丑

長安三年則天罷政中宗嗣位是歲改為神龍元年龍集者龍星亦曰歲星歲行一次也集居也乙巳即所舍之次朔穌也月死復穌穌生也。

中天竺沙門般剌密諦於廣州制止道場譯

天竺亦云乾竺乾豆身毒印度等沙門云勤息取生善滅惡之稱般剌密諦此云到彼岸譯者以有才智通四方語名曰象胥之學四方各有其名今取比方掌語者也。

菩薩戒弟子前正諫大夫同中書門下平章事清河房融筆授

雖為宰官而受大乘戒者經云欲受國王位時乃至百官受位時應先受菩薩戒一切鬼神救護王身百官之身也資於師長以父兄之道事之故云弟子正諫者今之諫議也舉賢達能大扶進人故曰大夫中書門下二者之名平和章明國政之事曰平章事筆授或云筆受謂以此方文體筆其所授梵本緝綴潤色令順物情不失正理也。

烏長國沙門彌伽釋迦譯語

國名未詳彌伽釋迦此云能降伏翻梵為華故云譯語其中證義應有別錄餘如翻譯時年中說。

標

宜陽叅學比丘應乾集錄師云文字性空無離文字說解脫法必也捨文字而見法非見法也謂此娑婆界聲論得宣明眾生迷本聞循聲故流轉此經故假阿難示遭魔嬈溺在愛坑雖具多聞未全道力故殷勤啟請十方如來得成菩提最初方便亦是十方如來究竟修證最後垂範今標指要義道濟和尚就依長水璿師科節仍更刪繁補闕後之學者無滯於名言耳此經一部十軸先釋題目後銷本文題有緫別緫即二十字其中十九字所詮之義經之一字能詮之文本有五名今智具三號正宗經中七大科第五出聖教名殊經云文殊師利法王子在大眾中即從座起而白佛言當何名是經佛答五名見第八卷不復錄耳大佛頂三字是一部經之宗本含攝教行人理因果顯密悉具足故教行明指理果義含明指者文云有三摩提名大佛頂首楞嚴王具足萬行十方如來一門超出妙莊嚴路此指行也又云雖蒙佛頂神咒又云亦說此咒名如來頂此指教也教有顯密顯即十軸中前後諸文密即四百十九句心咒義含者謂大佛頂三字寂照含虛曰大此指當人法身體大非對小得大也性覺妙明曰佛即指當人般若也至極無上曰頂指當人解脫也謂當人得此首楞嚴三昧勇健定力更是此三德祕藏不縱不橫不並不別亦具體相用三大不離當人一心也如來密因八字別顯妙用三世果人依此大佛頂之體從果入因不滯名相直顯心源於無修而修無證而證自利利他隨機設教直指人心決了大義更無不了之設諸菩薩下八字謂三世因人從生死地而反妄歸真修五十七位差別智門從因入果如下經中阿難請問如是修證佛三摩提未到涅槃云何名為乾慧之地四十四心至何漸次得修行曰詣何方所名入地中云何名為等覺菩薩故佛答阿難指大佛頂妙性圓明離諸名相本無世界眾生因妄有生因生有滅生滅名妄滅妄名真是有菩提涅槃二轉依號故聖人立三漸次令行人從因入果返妄歸真舉喻如淨器中除去毒蜜以諸香水及雜灰湯洗滌其器後貯甘露一者除其助因不食五辛二者刳其正性殺盜邪妄不起三者違其現業根境解脫謂塵既不緣根無所偶返流全一六用不行十方國土皎如瑠璃內含寶月從是漸修入乾慧地此自利也未與如來法流水接即以此心起十信十住十行十回向煖頂忍世第一位十地等覺妙覺也五十七位皆從三種漸次以金剛觀察如幻十種深喻奢摩他中用諸如來毗鉢舍那清淨修證漸次深入金剛觀察者即是首楞嚴定也亦名勇健三昧亦名一切事竟堅固也下文云是名妙蓮華金剛王寶覺如幻三摩提彈指超無學又文殊歎云此是微塵佛一路涅槃門是故三世果人因人皆以大佛頂為體建法幢竪宗旨也此上十九字是所詮之義經之一字是能詮之文字般若也謂義理須假此文字為教貫攝流通後代也若㨿西竺梵語修多羅此華夏翻為線或云素怛覽此翻為契線者能貫華不散契者契佛理契生機此華夏云經者經能持緯此方組織布帛不散亂也又經者聖人之教也具常法攝貫四義常則道軌百王法乃德模千葉生資教攝永出樊籠理籍文貫長離散滅百王不易千代良規利物詮真目為經也此依名相而解若約當人如來藏性為經者亦具四義謂此心性不生不滅無有變異名常諸佛所師可軌可則名法上聖下凡情與非情無不同此名貫具諸功德徧含染淨名攝心性既爾一切法亦然故下文云五陰六入生滅去來本如來藏故一切法任運有四義悉名為經上來略解釋緫題意。

## 首楞嚴經義海卷第一

### 音釋󱈜

句宣切。鏤

盧脩切雕刻也。確

苦角切堅也。銓

此緣切謂選也。󱇮

音題筌󱇮也。抃

皮變切拊手也。峋

相倫切。㡭

吉詣切與繼同。研

倪堅切窮究也。𧷤

士華切深也。󵖥

將遂切󵖥李地名。沇

以轉切。慤

克角切。璀璨

璀七罪切璨七旦切璀璨玉壳也。噫

於其切歎也。詰

溪吉切問也。酬酢

酬市流切酢仕各切酬酢謂以言相咨報也。矛盾

予莫浮切盾食尹切。擷掇

擷奚結切掇都活切擷掇採取也。巵

章移切飲酒器也。逭

胡玩切逃也。眚

所景切目病生翳也。

音枯奢也。