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title: "靈峰蕅益大師宗論 · 慈悲緣苦眾生論"
description: "靈峰蕅益大師宗論是明末高僧智旭的著作。明末佛教面臨內部僵化與外部挑戰，智旭大師立足天台宗，主張禪教律淨融合，回應時代弊病。該書匯集其書信、註疏與開示，系統闡述性相融通、淨土為歸的佛學思想，強調解行並進與實踐修行。作為中國佛教史上承先啟後的巨著，它深刻影響了後世漢傳佛教的發展，尤其對淨土宗的推廣貢獻卓著，被尊為淨土宗第九祖的智旭，其思想透過此論成為明清佛教的重要指南。"
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### 慈悲緣苦眾生論

> 慈悲と苦しむ衆生についての論

自佛性之理不明，同體之誼斯晦。但知好善惡惡，罔知與樂拔苦，異類傍生，藐若草芥，囹圄罪苦，視作當然。誰知蠢蠢含生，知覺無別，貿貿惡黨，人類是齊，迷性靈而有意招愆，已為可憫，因夙障而無端罹網，尤屬堪哀。乃有目睹悽惶，耳聆哀叫，不惟漠不關懷，方且快稱應爾。嗚呼！悲名拔苦，捨此輩以何緣？慈名與樂，向善趣而奚益。《戒本經》云「菩薩於惡人所，起慈悲心，深於善人。」良有以也。未探斯旨，藉口懲非，自恃暫居福報，邪慢盈懷。慶他劇受苦輪，羅剎無異。豈有稍悟常住慈心，而無同體切膚之痛者邪？或曰：慈悲與拔，乃果上之功能；慚愧勸懲，實因中之妙行。故尊崇賢善，名之為慚；輕拒暴惡，名之為愧。慚愧自嚴，方能斷惡修善；慈悲利物，乃是接世度生。何得初心，藉口大聖？噫！誤矣。夫慈悲慚愧，同稱善心，因中乃可同修，果上方能同滿。若如子論，則菩薩不修四無量心，佛果不名具足慚愧。失既非細，罪乃瀰天。詎知慈悲慚愧，恰恰相成？有慚愧者，方有慈悲；無慈悲者，即無慚愧。蓋由了達心佛眾生，三無差別，觀佛即心，是生慚愧；觀生即佛，是起慈悲。尊崇本有賢善之性，隨願與一切眾生性德之樂，輕拒迷真暴惡之習，隨願拔一切眾生性德之苦。有一分慚愧，方有一分慈悲，有十分慈悲，方為十分慚愧。汝今見此同稟血氣，同抱靈覺之流，背自真心，枉受困苦，不思拯拔，反起傲心，不惟無慈悲，正屬無慚愧耳。儻悟明心性，確知生佛體同，見此未來諸佛，枉墮三塗八難，便當惕目傷心，胼手胝足，如饑食渴飲，欲罷不能，何忍視作泛常，反以救援為迂務邪？只恐前生之善報有限，他世之苦果無窮，既永隔於圓悲，諸佛亦難授手。今日所以笑傲苦倫者，他日復為苦倫所笑傲也。悲夫。

> 仏性の真理が明らかでなければ、衆生一体という道理も曇ってしまう。ただ善を好み悪を憎むことだけを知っていて、苦しむ者に楽を与え、苦しみを取り除くことを知らない。動物などの異類の生き物を草芥のように軽んじ、牢獄の苦しみを当然のことと思う。しかし、蠢くすべての生きとし生けるものは、感覚において何ら変わりはない。迷い悩む悪党も、人間として同じである。自らの霊性に迷い、わざと罪を犯す者は、すでに憐れむべきである。因縁の障りによって、理由もなく苦しみの網にかかる者は、なおさら哀れむべきである。それなのに、目の前に苦しみ悲しむ姿を見ても、耳に哀れな叫びを聞いても、ただ無関心であるばかりか、かえって「当然の報いだ」と喜ぶ者までいる。ああ、悲とは苦しみを取り除くこと、この者たちを除いて、何を縁として修行するというのか。慈とは楽を与えること、善い境遇の者に向かって、何の益があるだろうか。 『戒本経』には「菩薩は悪人に対して、善人に対するよりも深い慈悲の心を起こす」とある。まことに理由があってのことだ。この趣旨を探求せず、悪を戒めるのを口実に、自らは一時的な幸運に安んじ、邪な慢心を抱いている。他人が過酷な苦しみの輪廻にあるのを喜ぶのは、羅刹と何ら変わらない。どうして、少しでも常住の慈しみの心を悟った者に、一体となった痛みがわからないはずがあろうか。 ある人は言う、「慈悲による与楽と抜苦は、悟りの果報における働きです。一方、慚愧による善への勧めと悪への戒めは、修行の因位における優れた実践です。ゆえに、賢善な人を尊敬し尊ぶことを慚といい、暴悪な人を軽んじ退けることを愧といいます。慚愧によって自らを厳かに律することで、初めて悪を断ち善を修めることができ、慈悲によって他者を利するのが、世に出て衆生を救済する道なのです。どうして初心者が、大聖人の境地を借りて口実にすることができましょうか」と。 ああ、それは間違いである。慈悲と慚愧は、ともに善心と称される。修行の因位において共に修め、悟りの果報において共に満ちるのである。もしあなたの論の通りなら、菩薩は四無量心を修めず、仏果は慚愧を具足したとは言えなくなってしまう。その誤りは小さくなく、罪は天にまで届くほどである。 どうして慈悲と慚愧が、まさに互いに支え合うものであることを知らないのか。慚愧があるからこそ慈悲があり、慈悲がなければ慚愧もないのである。すなわち、心と仏と衆生は、三つとも差別がないことを悟り、仏を我が心と観じるから慚愧が生じ、衆生を仏と観じるから慈悲が起こる。本来備わっている賢善の本性を尊び、その願いに従って、すべての衆生にその性徳の楽を与えようとし、真実に迷う暴悪の習いを軽んじ退け、その願いに従って、すべての衆生の性徳の苦しみを取り除こうとする。一分の慚愧があって初めて一分の慈悲があり、十分の慈悲があって、初めて十分の慚愧を具えたと言える。あなたは今、同じ血気を授かり、同じ霊覚を抱く人々が、自らの真心に背き、無駄に苦しみを受けているのを見ながら、救い出そうともせず、かえって傲慢な心を起こしている。それは慈悲がないばかりか、まさに慚愧がないことに他ならない。 もし心の本性を悟り、生きとし生けるものと己が一体であることを確かに知り、未来仏である彼らが無駄に三悪道や八難に堕ちているのを見れば、目を痛め心を傷め、手足を働かせて救わずにはいられないだろう。それは飢えていれば食べ、渇いていれば飲むのと同じで、やめたくてもやめられないものだ。どうしてそれを当たり前のことと見なし、かえって救済の努力を迂遠なことと軽んじることができようか。 ただ恐れるのは、前世の善い報いには限りがあり、来世の苦しみの果報は無限であることだ。すでに普遍の慈悲から永遠に離れてしまえば、諸仏でさえ手を差し伸べることはできない。今日、苦しむ者たちを笑い侮っている者が、いつの日か苦しむ者たちに笑い侮られる身となるのである。悲しいかな。