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title: "鶴峰禪師語錄 · 塔誌銘"
description: "鹤峰禅师语录是清代禅宗高僧济悟禅师的说法开示录由上震等人依据驹本刊印编纂而成全书收录了济悟禅师在鹤峰寺弘法时期的机锋对答法语开示和偈颂等内容生动体现了清代禅宗临济宗的风貌与修行精髓作为禅门重要文献该书不仅是研究济悟禅师思想及清初禅宗发展的重要史料也为后世学人提供了明心见性的修行指南在佛教典籍中具有独特的学术与实修价值"
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### 鶴峰悟禪師塔誌銘

敕授文林郎知山東嶧縣事桐谿仲弘道譔

> Written by Zhong Hongdao, Magistrate of Yixian County in Shandong and Scholar of Wenlinlang, from Tongxi.

和尚諱濟悟，號鶴峰，臨濟座上為三十三代，本籍吳門費氏裔。父思梅，母顧氏。幼見師敦禮釋迦，知有夙慧，遂送松陵羅漢寺光律師瑞芝剃染，時蓋十二歲云。稍長，受具于萬峰剖石和尚，夙夜修持不怠。時靈隱具老人住佛日，見師而異之，命參本來面目。師見燈花爆，遂有省。後同蘗菴和尚打七于大悲堂，逢具老人警策鄰單侍者，師聞之，遂大澈法源。偈載行狀中，不具述。自是華嚴、廣孝、顯寧、徑山、天寧諸剎歷充首規，具老人深相器重。迨分衛江西景德鎮，則結茅施茶，開闢古路，種作利濟不倦，一方皈依者甚眾。師歸靈隱，具老人益加印合，遂授衣缽焉。於是受京江之請，開堂於雲陽寶覺寺，五年之間，宗風丕振。吾里福善寺慕師高風，遂敦請移錫，使命再三，得師遘止。時即有五鶴來巢殿庭，都人士觀者咸以為與師號相符，殆天意也。蒞眾十年，凡正殿後樓莫不巍然金碧，葺而新之。中逢饑歲，雲廚罄如，師則封灶絕煙，與眾同餒。於是遠近聞者莫不負米擔薪，求師舉火，福善復興，亦叢林中一段佳話也。自是退休於姑蘇之寶樹、當湖之竺隱，而桐谿之寂照又相迎請，不得已再行。駐錫三年，即舉同門句公和尚主席，而退老於吾里之福壽禪林，蓋閉門卻掃，遂初志也。歲丁卯八月，距辭寂照之日已復四年，偶染微痾，遂有終焉之意。至九月初旬，索曆擇日，沐浴更衣，作偈別眾，有「生日前，重陽後，趁此時光，踔然便走」之句，果於十一日遂趺逝焉。嗚呼！師在濮水二十餘年，知交甚廣，惟與予及我友高子玉涵尤相友善。臨終，我兩人合掌恭送，師遂以後事托高，而以詩序及墓銘托予。今玉涵竭力營其喪葬，可謂不負托矣，而塔銘尚遲遲未就，予果何心敢負師委乎？師生于天啟六年九月二十日，寂滅于康熙念六年九月十一日，世壽六十二，僧臘四十有四。示寂後，門人戒雷、若水等卜葬於本寺開山和尚塔院之左，置桑地二畝三分于山門之內，取租以為春秋掃塔之費，為經久計也。遂系之以銘。銘曰：

> 和尚の諱は済悟、号は鶴峰。臨済宗の法席において三十三代目を継がれ、本籍は呉門の費氏のご出身。父は思梅、母は顧氏。幼少の頃、師が釈迦を深く礼拝される姿を見て、前世からの慧根があると知り、松陵の羅漢寺の光律師・瑞芝のもとで剃髪得度されました。その時わずか十二歳であったといいます。 少し成長されると、萬峰の剖石和尚のもとで具足戒を受け、昼夜を問わず修行に励まれました。当時、霊隠寺の具老人が仏日に住持されており、師を見て非凡さを感じ、「本来の面目」を参究するよう命じられました。師は灯花がはぜるのを見て、たちまち悟りの境地を得られました。後に蘗菴和尚と共に大悲堂で禅七に参加され、具老人が隣の侍者を厳しく指導されるのを耳にし、そこで法の根源を深く悟られたのです。その時の偈は行状に記されており、ここでは詳述しません。 それ以来、華厳寺、広孝寺、顕寧寺、径山寺、天寧寺など、諸大刹で首座を歴任され、具老人からも深く信頼されました。江西の景徳鎮に赴かれては、茅葺きの庵を結び、茶を施し、古い道を整え、人々のため尽くすことを厭わず、多くの人々が帰依されました。 師が霊隠寺に戻られると、具老人はますます師を認め、ついに衣鉢を伝授されました。こうして京江の招きに応じ、雲陽の宝覚寺で開堂され、五年の間に宗風を大いに振興されました。わが郷里の福善寺は師の高風を慕い、再三にわたり招請し、ついに師を迎えることができました。その時、五羽の鶴が殿庭に巣を作り、都の人々はこれを見て、師の号に符合する天意だと語り合いました。 十年にわたり大衆を導かれ、正殿や後楼など、すべてを立派に修復されました。ある時、飢饉が起こり寺の台所が空になると、師はかまどを閉じ、自らも食事を絶ち、大衆と共に飢えを分かち合われました。遠近の人々はこれを聞き、米や薪を運んで師に炊事を再開してほしいと願い、福善寺は再び興隆しました。これは叢林の佳話として今に伝わっています。 その後、姑蘇の宝樹庵、当湖の竺隠庵に退隠されましたが、桐谿の寂照寺から招請を受け、やむなく再び赴任されました。三年間住持された後、同門の句公和尚に後を託し、わが郷里の福寿禅林に退隠されました。もとより門を閉ざし、静かな隠居を望んでおられたのです。 丁卯の年八月、寂照寺を辞してから四年が過ぎ、軽い病にかかられた師は、ついに終焉の地と定められました。九月初旬、暦をめくって日を選び、沐浴して衣を改め、衆に別れを告げる偈を詠まれました。その中に「生日前、重陽後、この時節に乗じて、さっさと行こう」との句があり、果たして十一日に結跏趺坐のまま遷化されました。 ああ、師は濮水に二十余年住まれ、多くの知己を得られましたが、特に私と友人の高子・玉涵とは親しく交わられました。臨終の際、我々二人が合掌して恭しく見送ると、師は後事を高子に託し、詩の序と墓銘を私に託されました。今、玉涵は力を尽くして葬儀を営み、その託しに背かなかったと言えます。しかし、塔銘がまだ完成していないことを思うと、私は何としても師のご委託に応えねばなりません。 師は天啓六年九月二十日に生まれ、康熙二十六年九月十一日に寂滅されました。世寿六十二、僧侶としての年齢は四十四年でした。示寂の後、門弟の戒雷、若水らは本寺の開山和尚の塔院の左に葬ることを決め、山門の内に桑畑二畝三分を設け、その収穫をもって春秋の掃塔の費用とし、永続を図りました。ここに銘を記します。 銘に曰く。

三峰分派，雙徑彙源。京江顯化，濮水指南。衍靈隱之法乳，在福壽而歸全。道似川流而益永，塔如嶽峙而彌堅。

> 三つの峰が分かれて流派となり、 双つの径（こみち）が源に集う。 京の江にて顕（あき）らかに示され、 濮（ぼく）の水を以て指針となす。 霊隠（れいいん）の法乳（ほうにゅう）を広め、 福寿（ふくじゅ）にして全きに帰す。 道は川の流れのごとく、ますます永く、 塔は岳のごとく峙（そばだ）ち、ますます堅し。