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title: "清淨道論 · （二）二法（七種）"
description: "清淨道論是五世紀上座部佛教論師佛音尊者所造的一部系統性巨著由覺音法師譯為中文。該論以戒定慧三學為框架詳細闡述了修行者從初學至證悟涅槃的完整清淨之道。內容涵蓋七清淨與十六觀智並匯總了南傳佛教的禪修理論與實踐方法體系嚴密被譽為佛教禪修百科全書。該論是上座部佛教最具權威的修行指南之一對南傳佛教國家影響深遠至今仍是禪修教學與佛學研究的重要典籍。"
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### 二

> 二つ

於二種分，（一）〔作持、止持〕依世尊「此事應作」而遂行制定學處，此是「作持〔戒〕」；又言「此事不應作」！禁止不可作，此是「止持〔戒〕」。其中此語義〔如次〕：作持是具戒之人人行作於此中，為令諸戒圓滿而動作；依此〔止持戒〕而遵守所禁止。此中由信〔起〕精進所成就者為作持，由信所成就者是止持。如是依作持、止持為二種。

> 二つの種類に分けられる。（一）「作持（なすべきこと）」と「止持（してはならないこと）」である。 世尊が「このことは行うべきである」とおっしゃったことに従って学処（学ぶべき教え）を定められたのが「作持戒」である。また、「このことは行ってはならない」と禁止されたのが「止持戒」である。 ここでその意味を説明すると、作持とは、戒を具えた人が、ここにおいて戒を完全なものにするために行動することである。そして止持とは、禁止されたことを守ることによって成り立つ。 このうち、信によって精進を起こして成し遂げられるのが作持であり、信によって守られるのが止持である。このようにして、作持と止持の二種類とされるのである。

（二）〔等正行、初梵行〕於第二之二法，「等正行」是最上正行等正行即是等正行〔戒〕，或關於等正行而制定者，是等正行〔戒〕。此除活命第八，乃〔其他微細〕戒之同義語。「初梵行」者，是道梵行之初位，是此活命第八之同義語。於此〔修行〕之前分應為徧淨，故是道之初位。是故言「而彼之身業、語業、活命是極清淨」。

> （二）〔等正行、初梵行〕在第二組的二法之中，「等正行」是指最殊勝的正行，也就是戒律，或者說，是針對與等正行相關的事項所制定的戒律。這除了「活命第八」之外，是其餘微細戒律的同義語。「初梵行」則是指梵行（清淨修行）的初階，也就是「活命第八」的同義語。在此修行之前的階段，必須使身心完全清淨，因此這是修道的起點。所以說：「他的身業、語業、活命都極為清淨。」

或者說微細學處之戒是等正行戒。餘為初梵行戒。或攝二種毘崩伽，戒是初梵行；攝犍度之義務〔犍度〕是等正行。

> あるいは、微細な学処の戒は「等正行戒」であり、それ以外のものは「初梵行戒」である。あるいは、二種の毘崩伽（波羅夷と僧残）に含まれる戒は「初梵行戒」であり、犍度に含まれる義務は「等正行」である。

由其〔等正行之戒〕成就，初梵行戒始成就。是故言：「諸比丘！若彼比丘……不得等正行法之圓滿而能得初梵行法之圓滿者，實無是處。」如是依等正行、初梵行為二種。

（三）〔離、不離〕於第三之二法，離殺生等是「離戒」，餘之思等是「不離戒」，如是離、不離為二種。

> （三）「離れる」「離れない」について。第三の二法では、殺生などを離れることが「離戒（離れるという戒）」であり、それ以外の思（こころ）などは「離れない戒」である。このように、「離れる」と「離れない」の二種類がある。

（四）〔依止、不依止〕於第四之二法，依是愛依、見依之二依。此中「我由此戒或生天或其他之天」，望如是成就而持戒，此名為「愛依止」；「依戒而淨」，此依淨之見而持戒者，此為「見依止」。其次出世間戒或〔出世間〕資糧〔原因〕之戒，此為「不依止」。如是由依止、不依止為二種。

> （四）〔依止・不依止〕第四の二法について、依止には愛依止と見依止の二つがある。ここで「私はこの戒によって天に生まれよう、あるいは他の天に生まれよう」と、そのような成就を望んで戒を保つ場合、これを「愛依止」と呼ぶ。「戒によって清らかになる」と、この清らかになるという見解によって戒を保つ者は、これを「見依止」と呼ぶ。次に、出世間の戒、あるいは〔出世間の〕資糧（原因）となる戒は、これを「不依止」とする。このように依止・不依止の二種類となる。

（五）〔時限、終身〕於第五之二法，行時之限界而受持戒是「時限〔戒〕」。受持生命之限，盡其所受用戒是「終身〔戒〕」。如是依時限、終身為二種。

> （五）〔時限・終身〕第五の二つの法について、戒を受けて保つ期間に限りがあるものを「時限戒」といいます。生涯の限り、その受けた戒を受用し尽くすものを「終身戒」といいます。このように、時限と終身の二種類があります。

（六）〔有制限、無制限〕於第六之二法，依利得、名譽、親戚、肢體、生命〔付條件〕有制限〔戒〕，言「有制限〔戒〕」；其相反者為「無制限〔戒〕」。

> （六）〔限られたもの、限られていないもの〕第六の二法について、利益、名声、親戚、体の一部、生命〔という条件〕が付いている場合、それを「限られた〔戒め〕」と言います。その反対のものが「限られていない〔戒め〕」です。

於無礙解〔道〕亦言：「於彼戒有制限者何耶？戒亦有制限利得、制限名譽、制限親戚、制限肢體、制限生命。何者戒亦有制限利得耶？此或者因利得，緣利得，原因於利得，違犯所受持之學處。此制限於利得者。」依此方法，餘他亦〔推察〕可詳知。

> 無礙解（道）についても、こう言われています。「その戒において、制限があるとは何か。戒にもまた、利得による制限、名声による制限、親族による制限、身体による制限、生命による制限がある。どのように戒に利得による制限があるのか。これはある人が、利得のゆえに、利得に縁って、利得を原因として、受持した学処（戒律）を犯すことである。これが利得による制限である。」この方法に従って、他のものについても同様に詳しく知るべきである。

於無制限〔戒〕之解答亦說：「於〔無制限〔戒〕〕不制限利得者何耶？於此，或有人因利得，緣利得，於利得之原因，甚至不生起違犯所受持學處之心，何況彼違犯〔此〕耶？此戒為不制限利得。」依此方法，餘他亦〔推察〕可詳知。

如是由有制限、無制限為二種。

> このように、「限りがあること」と「限りがないこと」の二つの種類がある。

（七）〔世間、出世間〕於第七之二法。一切之有漏戒是「世間〔戒〕，無漏〔戒〕是出世間戒」。

> （七）〔世間・出世間〕第七の二法について。一切の有漏の戒は「世間の戒」であり、無漏の戒は「出世間の戒」である。

此中，世間〔戒〕是持殊勝有，又以為出離有之資糧（原因）。所謂「律是為律儀，律儀是為無後悔，無後悔是為愉悅，愉悅是為喜，喜是為輕安，輕安是為樂，樂是為定，定是為如實知見，如實知見是為厭離，厭離是為離欲，離欲是為解脫，解脫是為解脫知見，解脫知見是為無取著般涅槃也。為此而有〔律〕之論議，為此而有〔律〕之考量，為此而有近習，為此而有傾聽。即此無執著為心解脫也」。

> ここで、世間の戒は殊勝な有（すぐれた存在）を保つものであり、また出離の有（迷いを離れる境地）への資糧（原因）であると見なされる。すなわち、「律は律儀のためであり、律儀は後悔なきためのものであり、後悔なきことは愉悦のためであり、愉悦は喜びのためであり、喜びは軽安（心身の安らぎ）のためであり、軽安は楽のためであり、楽は定のためであり、定は如実知見（あるがままに見ること）のためであり、如実知見は厭離（厭い離れること）のためであり、厭離は離欲のためであり、離欲は解脱のためであり、解脱は解脱知見のためであり、解脱知見は無取着の般涅槃（執着なく完全に静まること）のためである。このために律についての論議があり、このために律についての考量があり、このために親しく学ぶことがあり、このために傾聴がある。すなわち、この執着なきことが心の解脱である」と説かれる。

出世間〔戒〕是齎有之出離，又觀察智之地（基礎）也。

> 出世間の戒は、この世を離れるための支えであり、また智慧を観察するための土台でもあります。

如是，依世間、出世間為二種。

> このように、世間と出世間という二つの区別があります。