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title: "清淨道論 · 三種善與十相成就"
description: "清淨道論是五世紀上座部佛教論師佛音尊者所造的一部系統性巨著由覺音法師譯為中文。該論以戒定慧三學為框架詳細闡述了修行者從初學至證悟涅槃的完整清淨之道。內容涵蓋七清淨與十六觀智並匯總了南傳佛教的禪修理論與實踐方法體系嚴密被譽為佛教禪修百科全書。該論是上座部佛教最具權威的修行指南之一對南傳佛教國家影響深遠至今仍是禪修教學與佛學研究的重要典籍。"
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### 〔三種善與十相成就〕

其次言「有三種善成就十相」，此〔句〕中由初中後有三種善，又知由其等初中後之相而有十相成就。於此有次之聖典〔文句〕。

> 次に「三種の善が成就し、十の相がある」と説かれています。この文において、初め・中・終わりによって三種の善があり、また、それらの初め・中・終わりの相によって十の相が成就することを知ります。これについて、次のような聖典の言葉があります。

於初禪〔一〕行道之清淨為初，〔二〕捨之隨增為中，〔三〕喜悅為後。

> 初禅においては、 〔一〕修行の道が清らかになることが始まりであり、 〔二〕執着を捨てることが次第に増し、 〔三〕喜びと安らぎが訪れることが結びとなる。

〔一〕於初禪行道之清淨為初者，於初有幾何相耶？於初有三相。（一）彼由結縛，心為清淨。（二）為清淨故，心於中止（奢摩他）相行道。（三）行道故，心躍入初禪。由結縛心清淨，清淨故心於中止相行道及行道故，心躍入初禪，〔此〕於初禪行道之清淨為初，於初有此等三相。故言初禪於初善成就三相。

> 初禅における行の清浄が最初の段階として、その最初にはいくつの相があるのでしょうか。最初には三つの相があります。 （一）結びつきから、心が清らかになること。 （二）清らかになったので、心が止まる相（奢摩他）において行うこと。 （三）行うことによって、心が初禅に躍り入ること。 結びつきから心が清らかになり、清らかになったので心が止まる相において行い、行うことによって心が初禅に躍り入る。これが、初禅における行の清浄の最初の段階であり、その最初にはこれらの三つの相があります。したがって、初禅は最初に三つの相が善く成就されると言われます。

〔二〕初禪捨之隨增為中者，於中有幾何相耶？於中有三相。（四）捨置清淨之心，（五）捨置止之行道心，（六）捨置一性之顯現〔心〕。捨置清淨之心，捨置止行道之心，及捨置一性之顯現〔心〕，〔此〕於初禪捨之隨增為中，於中有此等三相。故言於初禪是在中善成就三相。

> 〔二〕初禅の捨が増大して中となるとは、その中にどのような相があるのでしょうか。その中には三つの相があります。（四）清らかな心を置き去ること、（五）止の行法の心を置き去ること、（六）一性の顕現〔の心〕を置き去ることです。清らかな心を置き去ること、止の行法の心を置き去ること、そして一性の顕現〔の心〕を置き去ること、これらが初禅の捨が増大して中となる際に存在する三つの相です。したがって、初禅においては、この三つの相が善く成就されていると言われます。

〔三〕於初禪喜悅為最後、於後有幾何相耶？於後有四相。（七）生初禪之諸法依不〔互〕凌駕〔其他〕之義有喜悅。（八）依諸根一味之義有喜悅。（九）依近此持精進義有喜悅。（一〇）依習行之義有喜悅。於初禪喜悅為最後，於後有此等四相。故言初禪於後善成就四相。

> 〔三〕初禅において喜びが頂点に達した後、さらにどのような相があるのでしょうか。その後には四つの相があります。（七）初禅に生じる諸々の法が互いに妨げ合わないという意味で喜びがあります。（八）諸根が調和して一つになるという意味で喜びがあります。（九）この状態を保つために精進を近づけるという意味で喜びがあります。（一〇）修行を積み重ねるという意味で喜びがあります。初禅において喜びが頂点に達した後、これら四つの相があります。したがって、初禅の後には四つの相が善く成就されると言われます。

其中，或人人〔即無畏山者〕解脫：「行道之清淨。」是有資糧〔即安止定之原因〕近行，「捨之隨增」是安止，「喜悅是觀察」。然，「成專一心是躍入於行道清淨，以隨增捨，依智為喜悅」是聖典所說故，依來於安止之中，有「行道之清淨」，依中捨之作用，有「捨之隨增」，諸法依〔互〕不凌駕其他而作此等，〔即〕為清白，依智作用之成就知有「喜悅」。其詳說云何？

> その中で、ある人々〔つまり無畏山の人々〕は、「道の清らかさ」を解脱として解釈します。これは資糧〔つまり安止定の原因〕であり、近行です。「捨の随増」は安止であり、「喜びは観察」です。しかし、「専一の心を成して道の清らかさに躍り入り、捨の随増によって、智慧に依って喜びとする」と聖典に説かれているため、安止に至ることで「道の清らかさ」があり、中捨の作用によって「捨の随増」があります。諸々の法は互いに他を凌駕することなくこれらを成し、清らかであり、智慧の作用の成就によって「喜び」があると知られます。その詳しい説明はどのようなものでしょうか？

〔一〕〔行道之清淨〕生起安止時，稱〔五〕蓋之煩惱群為禪之結縛，（一）由其結縛，心得清淨。（二）為清淨故則無障，〔心〕於中止（奢摩他）相行道，即〔無惛沈掉舉〕起平等安止定。又其〔安止定〕直前之〔種性〕心，依轉變於一相續，有近於如性〔即安止狀態〕，名為中之止相行道。（三）如斯行道故，依近於如性，名為躍入初禪〔心〕。先如斯存前心，令成就〔三〕行相者，〔此〕初禪之生起來唯剎那，故當知為「行道之清淨」。

> 〔一〕〔行の道の清浄〕安止が生起するとき、〔五〕蓋の煩悩の群れを禅の結びつき（結縛）と呼びます。（一）この結びつきによって、心は清らかになります。（二）清らかであるがゆえに障害がなく、心はその中で止まり（奢摩他）、相（すがた）を修める道を歩みます。すなわち、〔昏沈や掉挙なく〕平等な安止の定が起こります。また、その〔安止定〕の直前の〔種性〕の心は、一つの連続した流れの中で転変し、如性〔すなわち安止の状態〕に近づきます。これを「中の止相行道」と呼びます。（三）このように道を歩むことによって、如性に近づくことを「初禅に躍り入る」と言います。まずこのように前の心を保ち、〔三〕つの行相を成就させます。〔これが〕初禅の生起はほんの一瞬のことですから、「行の道の清浄」であると知るべきです。

〔二〕〔捨之隨增〕其次，如斯能清淨彼〔心〕而不更令清淨故，不行清淨之努力，（四）名為捨置清淨心。依近於止（奢摩他）之狀態，止行道〔心〕不更努力於等持，（五）名為捨置止行道心。又止行道，故捨煩惱之會合，顯現於單獨之〔心〕，不更努力於一姓之顯現，（六）名為捨置一性之顯現〔心〕。如斯〔有三相〕中捨之作用，當知是「捨之隨增」。

> 〔二〕〔捨の随増〕次に、このようにしてその〔心〕を清浄にしたならば、それ以上に清浄にしようとせず、清浄にする努力を行わない状態を、（四）清浄心の捨置と呼ぶ。止（奢摩他）に近づいた状態において、止の行道〔心〕が等持にこれ以上努力しないことを、（五）止行道心の捨置と呼ぶ。また、止の行道によって煩悩の集まりを捨て、単独の〔心〕が現れ、一つの性質の顕現にこれ以上努力しないことを、（六）一性顕現〔心〕の捨置と呼ぶ。このように〔三つの相〕における捨の作用は、「捨の随増」であると知るべきである。

〔三〕〔喜悅〕如斯捨隨增時，（七）其〔禪心〕生稱為定慧之雙連法，有互相不凌駕〔其他〕之作用〔行相〕，（八）又信等諸根由種種煩惱之解脫故，由解脫而有一味作用〔行相〕，（九）又此〔瑜伽〕者近此——〔即〕彼互不凌駕而隨順於一昧——以持精進〔行相〕，（一〇）又其〔禪心〕，作用於〔滅沒之〕剎那，有習行〔之行相〕，此等一切行相——以智見雜染之過患與淨化之功德等，令如法、喜悅、清淨、清白故——令成就，故成諸法〔互〕不凌駕〔其他〕等者，〔即〕令清白之智，成就作用者，當知說為「喜悅」。

> （三）〔喜び〕このように捨が増すとき、（七）その〔禅の心〕は、定と慧の二つが連なり、互いに他を圧倒することなく作用する〔あり方〕として生じ、（八）また、信などの諸根は、さまざまな煩悩からの解脱によって、解脱ゆえに一つの味わいとして作用する〔あり方〕をもち、（九）さらに、この〔瑜伽行者〕は、この状態——すなわち、互いに圧倒せず、一つの味わいに順じる——を保つべく精進する〔あり方〕をとり、（一〇）また、その〔禅の心〕は、〔滅びゆく〕刹那に作用し、習熟する〔あり方〕を有する。これらのすべてのあり方は——智をもって雑染の過ちと清浄の功徳とを見きわめ、法のとおりに、喜びをもって、清らかで汚れのない状態へと導くゆえに——成就される。したがって、諸法が〔互いに〕他を圧倒しないなどということは、清らかさへと導く智が、その作用を成就するものであると知るべきであり、これを「喜び」と説くのである。

於其〔修習心〕，依捨而智成為明顯——所謂說：「又以策勵心，由捨而善捨置，由慧而慧根增加，由捨而種種煩惱心解脫，由解脫、慧而慧根增加，解脫之故，彼等〔信、慧、精進、定等〕諸法為一味，依一味之義而有修習。」——故智之作用，而喜悅為最後之說明。

> その〔修習心〕において、捨に依って智慧が明らかになるのです――すなわち、「また、心を励まして、捨によって善く捨て置き、智慧によって智慧の根を増し、捨によって様々な煩悩の心から解き放たれ、解脱と智慧によって智慧の根が増し、解脱するゆえに、それら〔信、慧、精進、定など〕の諸法は一味となり、一味の意味によって修習が行われる」と説かれています――ゆえに、智慧の働きによって、喜びが最後に説明されるのです。

今「證得初禪之地徧」，此中，數之次第故為「初」。最初之生起故為初。所緣之思惟故，又反對〔之五蓋〕燒盡故為禪。其次地之曼陀羅（圓輪），依一切之義言為「地徧」。依其〔地之曼陀羅〕所得之相，又得其相，亦以言為地徧。對此，說：「證得初禪之地徧。」（以上初禪之說明畢）。

> 「初禅の地遍を証得する」とは、ここで、順序において「初」である。最初に生じるから「初」である。対象を思惟すること、また〔五蓋という〕障害を焼き尽くすことから「禅」である。次に、地の曼荼羅（円輪）は、あらゆる意味において「地遍」と言える。その〔地の曼荼羅〕によって得られる相、またその相を得ることも「地遍」と言う。これについて、「初禅の地遍を証得する」と説かれる。（以上、初禅の説明終わり）