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title: "太虛大師全書．第一編　佛法總學 · 緒言"
description: "太虛大師全書第一編佛法總學由近代佛教改革領袖釋太虛著於民國時期，成書於二十世紀上半葉。該編為大師佛學思想總綱，系統闡述佛法根本原理，涵蓋教理、修行與世出世法圓融之義。內容包括對佛教經典的統攝解說、人生佛教之理論基礎，以及對傳統佛學的現代詮釋。本書在近現代佛教史上具有里程碑地位，為人間佛教思想奠定理論基石，是研究中國佛教現代轉型與太虛大師思想的重要典籍。"
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### 緒　言

> 序文

「佛教」，平常都以寺菴中之僧尼為代表，以為不過一種禮拜式之宗教，何學之可言！此曰佛學，未免有所未喻，故先將學字解釋之。學字常義有二：一、是動詞，如學習學作，凡有所摹效練習，均可名學，如小兒學語學行等。二、是名詞，如學理學說，凡持之有故，言之成理，前後相應，有精深詳密之條理者，如科學哲學等，方可名學。今稱佛學，亦指有精密條理之學理而言。

> 「仏教」と聞くと、よく寺や庵の僧侶が代表するように思われ、ただの礼拝式の宗教であり、そこに何の学問があるのか、と思われがちです。そのように「仏学」と言われても、まだ理解しがたいかもしれません。そこでまず「学」という字の意味を説明しましょう。「学」には一般的に二つの意味があります。一つは動詞であり、学習したり習得したりすることを指します。何かを見習い練習することをすべて「学」と呼びます。例えば幼児が言葉を覚えたり歩くことを学ぶなどです。もう一つは名詞であり、学理や学説を意味します。根拠があり、道理が通っていて、前後が整合し、緻密で詳細な体系を持つもの、例えば科学や哲学などが「学」と呼ばれます。今「仏学」という場合も、精密な理論体系を持つ学問のことを指しています。

向來佛徒有所謂學佛與佛學之二語。學佛者，謂實踐修行；而佛學則講求明確精密之學理。其實學佛與佛學非二，凡學佛必先了解佛學之真理，然後始能貫徹實行。故欲實行學佛，必先究明佛之學理，佛之學理，尤貴實證。如依佛典固可得其理解，然所求之理解，乃是佛智所實證之境，若僅作為一種研究，則實際上仍未能證得。故講學應期於實證，期實證則須學佛之所行。

> 従来、仏教徒の間には「学仏」と「仏学」という二つの言葉があります。「学仏」とは実践的な修行を意味し、「仏学」とは明確で精密な学理を追究することを指します。しかし実際には、学仏と仏学は別々のものではありません。学仏を志す者は、まず仏学の真理を理解してこそ、初めて実践を貫くことができるのです。したがって、学仏を実践するためには、まず仏の学理を明らかにしなければなりません。そして、仏の学理は何よりも実際の検証（実証）を重視します。仏典に従えばその理解を得ることはできますが、求めるべき理解とは、仏の智慧が実際に証得した境地です。単なる研究として捉えるだけでは、実際にはその境地を証得することはできません。ゆえに、学問を語るならば実証を目指すべきであり、実証を目指すならば、仏の行いを学ぶことが必要なのです。

佛教何以有學？通常佛典內多稱佛法。有人言佛法即哲學，佛法即宗教。有人言佛法非哲學亦非宗教，只能稱佛法。今將佛法分為四種，即教理行果是也。教者，即佛現身於世間所說之法，遺留於後世教化有情者。在當時僅有言說，未留文字，故無書籍。其所說之語言，以音聲為體。依聲之高下長短成為名，集名成為句，名句依於文。多名多句多文之積聚，在佛學上謂之名句文身，此多名句文身，在佛當日以聲為主，聞者依佛所教修證，無文字之必要。及至佛說法度人事終，滅度之後，弟子因佛去世，恐後無所宗依，故將大眾所聞於佛之教法，就憶持多聞者傳誦所聞，由大眾證明錄成經典，此即佛之遺教。此佛之遺教，與通常之學理學說不同。蓋通常之學說，乃依半明半昧之常識推究所成，以所已知者推所未知，如科學方法，在其推究之中，得一番經驗加一層知識；若昔言天圓地方，後知地本球形，則說無確定，義時變動。佛之教法與餘學來源不同，乃是純由聖智中所流出之至教。故於教法上言，不能不用信力領受之，此點與信宗教無異。佛法非宗教亦非不是宗教，故欲講佛法必先信有佛。佛者、乃佛陀之簡稱，係覺者之義，覺者指已得無上正遍覺之人，此界中已得無上正遍覺者，曾有釋迦牟尼佛現身世間，說法度人，因有教法遺傳人世。然又不同其餘宗教者，則吾人能實行實證到於無上正覺，吾人亦即成佛，故吾人於佛終可平等。惟在未成佛以前，欲求成佛，不可不先信受佛之教法。然此信亦非盲從之信，蓋吾人若信有法界諸法之真實理，則覺悟此真理至於圓滿者，即是無上正覺。在佛之無上正覺中，無一剎那間不徹上徹下徹內徹外完全明了覺知者，非前念知一後念又知一也。在佛自覺已到圓滿地位，更不須學說學理及學習學作之學，故曰無學。然佛證入究竟覺悟境界，如虛空、如大圓鏡無不含照，而一切眾生未能證入法界萬有之真實相，所以迷昧顛倒生出許多煩惱痛苦，佛悲憫之，故施設名句文身之教法使之覺悟。

> なぜ仏教には学びが必要なのか。通常、仏典の中では「仏法」と呼ばれることが多い。ある人は「仏法は哲学であり、宗教である」と言い、またある人は「仏法は哲学でも宗教でもなく、単に仏法としか呼べない」と言う。ここでは、仏法を「教・理・行・果」の四つに分けて考えよう。「教」とは、仏陀がこの世に現れて説いた教えであり、後の世に遺して生きとし生けるもの（有情）を教化するものである。当時は言葉だけで文字は残されず、書物もなかった。その説かれた言葉は、音声を本体とする。音声の高低・長短によって「名」ができ、名を集めて「句」となり、名や句は「文」に依って成り立つ。多くの名・句・文が積み重なったものを、仏教学では「名句文身」と呼ぶ。この多くの名句文身は、仏陀が在世の頃は音声が主体であり、聞いた人々は仏陀の教えに従って修行し悟りを得たため、文字は必要とされなかった。 しかし、仏陀が人々を教え導くという仕事を終え、涅槃に入られた後、弟子たちは仏陀が亡くなられた後によりどころを失うことを恐れ、大衆が聞いた仏陀の教えを、よく記憶し多く聞いた者が読み上げ、大衆の証言を得て経典として書き留めた。これが仏陀の遺した教えである。この仏陀の遺教は、通常の学問理論や学説とは異なる。なぜなら、通常の学説は、明らかでありかつ曖昧な常識に基づいて推論し、既に知っていることから未知のことを推し量るものである。例えば科学の方法では、その推論の過程で経験を積み知識を増やしていく。かつては「天は丸く地は四角い」と言われたが、後に地球が球形であると分かれば説は確定せず、意味は常に変動する。仏陀の教法の由来は他の学問とは異なり、純粋に聖なる智慧から流出した至極の教えである。よって、教法については、どうしても「信」の力をもって受け入れる必要がある。この点は、宗教を信じることと変わらない。仏法は宗教ではないとも、宗教でないとも言い切れない。したがって、仏法を説こうとするならば、まず仏陀がいることを信じなければならない。仏陀とは、ブッダの略称で、「目覚めた者」という意味である。目覚めた者とは、すでに無上の正しい普遍の覚り（無上正遍覚）を得た人のことである。この世界において、無上正遍覚を得た者として、かつて釈迦牟尼仏がこの世に現れ、法を説き人々を救ったため、教法が人間世界に伝えられた。しかし、他の宗教と異なる点は、私たちも修行と実践によって無上の正覚に到達すれば、すなわち仏陀となることができるということである。ゆえに、私たちは最終的には仏陀と平等になりうるのである。ただ、まだ仏陀となっていない間は、仏陀となることを求めて、まず仏陀の教法を信じ受け入れなければならない。しかし、この「信」も盲目的な従順ではない。なぜなら、私たちが法界の諸々の存在の真実の理を信じるならば、この真理を悟って円満に至った者が、すなわち無上の正覚であるからだ。仏陀の無上の正覚においては、一瞬の間もなく、上も下も内も外も、完全に明らかに覚知していない時はない。前の瞬間に一つを知り、後の瞬間にまた別の一つを知るというようなものではない。仏陀は自ら覚ることがすでに円満の境地に達しており、もはや学説や学理、学び習うという学問を必要としない。ゆえに「無学」と言うのである。しかし、仏陀が悟った究極の覚りの境地は、虚空の如く、あるいは大きな円鏡（大円鏡）の如く、すべてを映し出さないものはない。一方、すべての衆生は、法界の万物の真実の姿を悟ることができず、迷い、顛倒し、多くの煩悩や苦しみを生み出している。仏陀はこれを哀れみ、名句文身という教法を設けて、彼らを覚醒させようとされたのである。

佛之教法有兩方面。一者符契真理，佛一念中普遍照了法界萬有之真實理，時時相應，無有一毫謬誤，故所說法皆契真理。一方面又符契根機，聞法者是何等根器，何種機感，即為之方便解說。此之兩方似相衝突，以眾生心智不與佛齊，隨順眾生則不契理。然隨機說法乃佛行化之權巧，漸次皆令通到佛之境界，所謂皆令入佛知見，此為無上正遍覺中施設流出之教法。惟此種施設，必係應機而起，佛與佛則不用此也。此所施設流出之教法，依萬法唯識言之則有兩方面：一、無漏清淨之名句文身，自無上正遍覺之佛心中流出，此由眾生機感乃自佛心中流出，謂之本質教。二、佛心所流出之名句文身，吾人不能直接親緣，祗能以有漏心依之為增上緣，在自心中生一種影象，謂之影象教。推此影象歸於本質，則佛教中所謂聖教或至教，乃為歷千古而不變，推四海而皆準之常法，無學可言。所以佛有學者，則在第二理法。其能詮理之影象教，係以佛說為增上緣，聞法者對於所聞之教法，思惟觀察得有了解，乃有佛教學理。凡稱為經者，皆是佛所說之法。後來又有依佛教法詳細申論推闡者，則稱之曰論。在論之成為精密詳確之學理者，如大毗婆沙論、瑜伽師地論等是也。推其根源，皆自佛所遺留之教法來者。佛之教法，本由得無上正遍覺而出，故吾人欲知佛教之真理，亦必須證得無上正遍覺。如何始可證之，又必講求修行方法，故第三者須講行。而行中有三增上學，即戒定慧是也。所謂如何持戒，如何修禪定，如何得大智慧。如此修行，則可得無上正遍覺，即是大菩提果，證知法界諸法實相，此即第四所謂果也。既得以後，亦可以此開示覺悟他人。

> 仏の教えには二つの側面があります。第一に、真理にかなっていることです。仏は一つの念において法界のすべてのものの真実を普遍的に照らし、常にそれに応じており、少しの誤りもありません。そのため説かれる法はすべて真理にかなっています。第二に、聞く者の機根にかなっていることです。法を聞く者がどのような根器を持ち、どのような機緣で感応するかに応じて、そのために方便をもって説き明かします。この二つの側面は一見矛盾しているように思えます。なぜなら、衆生の心は仏と同じではなく、衆生に従えば真理にかなわなくなるからです。しかし、機に応じて法を説くことは、仏が教化を行うための巧みな手段であり、徐々にすべての者を仏の境地に導くものです。いわゆる「すべてをして仏の知見に入らしめる」ということであり、これこそが無上正等覚の中から施し出された教えなのです。ただし、このような施しは必ず機に応じて起こるものであり、仏と仏との間では必要とされません。 この施し出された教えを、万法唯識の立場から見ると、次の二つの側面があります。第一に、無漏で清らかな名・句・文身が、無上正等覚の仏の心から流れ出るということです。これは衆生の機感によって仏の心から流れ出るものであり、「本質教」と呼ばれます。第二に、仏の心から流れ出た名・句・文身を、私たちは直接に親しく縁（えん）することができません。ただ有漏の心をもってこれを増上縁とし、自らの心の中に一つの影像を生じさせるのです。これを「影像教」と呼びます。この影像を本質にまで遡って考えるならば、仏教における「聖教」あるいは「至教」とは、千古を経ても変わらず、四海に及んでもすべての基準となる不変の法であり、そこに学問の余地はありません。では、なぜ仏教に「学」があるのかといえば、それは第二の理法（影像教）によるのです。その「理」を表す影像教は、仏の説法を増上縁とし、聞法者が聞いた教えについて思惟し観察して理解を得ることで、はじめて仏教学理となるのです。 一般に「経」と呼ばれるものは、すべて仏が説かれた法です。その後、仏の教えに基づいて詳しく論じ、推し広めたものは「論」と呼ばれます。論の中には、精密で詳細かつ確かな学理となったものもあります。例えば『大毘婆沙論』や『瑜伽師地論』などがそれです。その根源をたどれば、すべて仏が遺された教えに由来しています。仏の教えは、そもそも無上正等覚を得たことから生まれ出たものです。したがって、私たちが仏教の真理を知ろうとするならば、やはり無上正等覚を証（あか）さなければなりません。どのようにすれば証できるのでしょうか。そのためには必ず修行の方法を講じなければなりません。ゆえに第三に、行（修行）について説く必要があります。そして行の中には三つの増上学、すなわち戒・定・慧があります。いわゆる、どのように戒を保ち、どのように禅定を修め、どのように大智慧を得るかです。このように修行すれば、無上正等覚を得ることができます。すなわち大菩提（大いなる悟り）の果であり、法界の諸法の実相を証し知るのです。これが第四に説くところの「果」です。これを得た後には、この悟りをもって他の人々を開示し覚悟させることもできるのです。

然教理行果亦非截然隔別者，蓋思惟觀察即是行，因行而理愈明，理解與行同時並進，如行路然，目之與足同時發生作用。且雖少明理解未達究竟果位，然亦已成效果，雖少有效果不以自足，故能終達無上正遍覺也。常人思想知識皆不離我執法執，故所謂各種學理，不免妄情卜度推測，不能認為究竟真理。欲求真理，不能不依佛之教法，或古來大德之學理為研究時之根據。然則佛之學理，一為得聖果三乘有學之學理，半依聖教半依自證而成；一為初學者外內凡之學理，全依聖教聞思而成。佛學一名，大略如是。

> しかし、教え・理論・実践・結果は必ずしも完全に切り離されたものではない。よくよく考え観察することがすなわち実践であり、実践によって道理はますます明らかになる。理解と実践は同時に進むもので、あたかも歩くときの目の働きと足の動きが同時に作用するようなものである。また、少しの理解を得ても、まだ究極の悟りの境地に達していないとしても、すでに効果は現れている。しかし、わずかな効果で満足することなく進むからこそ、最終的に無上正等覚に至ることができるのである。 一般人は思考も知識も、すべて我執・法執から離れられない。したがって、いわゆる様々な学問理論も、どうしても誤った憶測や推測にとどまり、究極の真理と見なすことはできない。真理を求めようとするならば、仏の教え、あるいは古来の高僧の学理を研究の拠り所とせざるを得ない。そうであれば、仏の学理には二つある。一つは聖なる果報を得た三乗の有学の学理で、半分は聖教に依り、半分は自己の悟りによって成り立つ。もう一つは、初心者である内外凡の学理で、すべて聖教の聞思によって成り立つ。仏教学という名称は、おおむねこのような意味である。