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title: "太虛大師全書．第五編　法性空慧學 · 般若波羅密多心經述記"
description: "太虛大師全書第五編法性空慧學收錄近代佛教改革領袖釋太虛對中觀般若學的系統闡釋。本書成於民國時期，正值中國佛教面臨轉型，太虛大師融貫漢傳與藏傳中觀思想，以法性空慧為核心，深入解說龍樹中論的緣起性空義理，辨析空有關係，破斥頑空與實執。全編強調智慧解脫與人間佛教的實踐，為民國復興般若學的重要文獻，在佛教學術與修行體系中具有承先啟後的權威地位。"
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### 般若波羅密多心經述記

> 般若波羅蜜多心経述記

——九年十月在漢口黃州會館講——

> 1929年10月、漢口黄州会館にて講話

經者，本萬古不磨之真理，發為永久不易之定論也。經是通名，般若波羅密多心是別名。

般若、梵音，譯曰智慧。但世智世慧，恆為不正的、虛妄的、染污的，而即心自性的佛智慧，離過絕非，為正當的、真實的、清淨的，非漢語智慧二字之義所能賅，故仍名般若，以示揀別。

> 般若（はんにゃ）とは、梵語の音をそのまま使い、「智慧」と訳されます。しかしながら、世間一般で言う知恵や智慧は、しばしば正しくなく、虚ろで、煩悩に汚れています。一方、心そのものの本性である仏の智慧は、あらゆる過ちや誤りを離れ、正しく、真実で、清らかなものです。これは、漢語の「智慧」という二文字だけでは、その意味を完全に表しきれません。そこで、区別を明確にするために、あえて「般若」という原名のまま用いるのです。

吾人本心，圓明寂照，無非般若，祗以無始無明，虛妄習氣，互相熏發，故見聞覺知悉流逸於現前六塵境界、執此虛妄之相，復生虛妄之想，以妄緣妄，展轉顛倒，恬不為怪。若能反觀自省，銷歇虛妄相想，觀察此現前六塵境界中所有之森羅萬象全是虛妄，妄原無體，其本體即如來藏心妙真如性。譬若大圓鏡體，寂靜明照，隨緣現象不失其真，而物象之紛然雜陳者，雖非鏡體而仍不離此鏡體別有存在；般若智光，亦復如是。

> 人間の本来の心は、円満に明らかで静かに照らし、般若そのものである。ただ、はるか昔からの無明と、虚ろな習慣的な妄想が互いに影響し合って燃え上がるため、見る・聞く・感じる・知るすべてが、目の前の六つの感覚の対象へと流れ出てしまう。この虚ろな姿に執着し、さらに虚ろな思いを生み出し、虚ろなものに縁して虚ろなものを重ね、転々と逆さまになって、それをおかしいとも思わないのである。 もしも自分を振り返って内省し、虚ろな姿や思いを消し止めることができれば、目の前の六つの感覚の対象の中にある、あらゆる現象のすべてが虚ろなものであると観じることができる。虚ろなものには本来、実体がない。その本体こそ、如来の蔵心の妙なる真如の本性なのである。 たとえば、大きな鏡の本体が、静かに明るく照らし、縁に従って姿を映し出しても、その真実の性質を失わないようなものである。そこに映る様々な物の姿は、ごちゃごちゃと並んでいても、鏡の本体ではないが、それでも鏡の本体を離れて別に存在するものではないのである。般若の智慧の光も、またこれと同じである。

般若分三：一、文字般若，凡以名相而示者，如大地、山河、虛空、人物，其顯發者皆本心之妙相是。二、觀照般若，凡能明了而知者，如勝解、正定、善念、淨信，其現起者皆本心之妙用是。三、實相般若，此離言絕慮，為人人本有真心之妙體。

> 般若には三つの種類があります。第一は「文字般若」で、名前や形によって示されるもの、例えば大地、山や川、虚空、人や物など、その現れはすべて本来の心の素晴らしい姿です。第二は「観照般若」で、明らかに理解して知ることができるもの、例えば深い理解、正定、善い思い、清らかな信など、その現れはすべて本来の心の素晴らしい働きです。第三は「実相般若」で、これは言葉を離れ、思いを超えたものであり、すべての人が本来持っている真心の素晴らしい本体です。

波羅密多、梵音，譯曰到彼岸，或到究竟。彼岸之義，以吾人輪迴於生死海中，從生死之此岸，達到不生不死——涅槃之彼岸也。究竟，有成就、圓滿、永久之義，吾人在人間世，如謀衣、謀食、謀國家、謀社會、種種營求，無一可達究竟之目的，皆非究竟；到究竟者，一得永得，即達到彼岸之謂。就一時一事言，如吾人此時在此講經，此一部經講完時，亦得言究竟。

> 波羅密多は梵語の音写で、「彼岸に到る」または「究極に到る」と訳されます。「彼岸」の意味は、私たちが生死の海を輪廻している中で、生死という此岸から、不生不死——すなわち涅槃という彼岸に到達することを指します。「究極」には、成就・円満・永遠という意味があります。私たちは人間界において、衣服を求め、食物を求め、国家を思い、社会を思うなど、さまざまな営みを行いますが、そのどれも究極の目的に到達することはできず、すべて究極ではありません。究極に到るとは、一度得れば永遠に得ることであり、すなわち彼岸に到達することを意味します。また、一時や一事について言えば、たとえば私たちが今ここでこの経典を説いているように、この経典が説き終わった時も、また「究極」と言うことができます。

心有數義：一、肉團心，凡人以心居一身之中，生命相關，血脈相繫，遂以為此肉團心有了別作用，其誤謬處不待煩言。二、慮知心，凡人思慮了知，必有所思所知之相，但其相若有若無，若起、若滅、若往、若來，皆是虛妄，無一真實；故真實之心並不在此。三、集起心，謂宇宙萬有集積於中，遇緣而起者也。吾人往昔見聞之事物，今一憶及，能了了如在目前，正此心之作用，譬若大海波濤，一遇風緣隨時湧起。然起滅無常，有無不定，亦非不生不滅常住真體。四、真實心，即本心真實之體，常住不變，平等周遍；凡慮知心之所慮所知，與集起心之所集所起之法，皆為本體顯現之差別相。譬若大海水自性澄淨，而一切洪濤細浪，無非海水之變現相用而已。

> 心にはいくつかの意味があります。第一に、肉団心（物理的な心臓）です。一般の人は心が体の中心にあり、生命と深く関わり、血脈とつながっていることから、この肉団心に認識や判断の働きがあると思い込んでいますが、その誤りは言うまでもありません。第二に、慮知心（思考し認識する心）です。人が何かを考えたり知覚したりするとき、必ず考えられ知覚される対象（相）があります。しかしその相はあるかのようでいて実はなく、生じたり消えたり、去ったり来たりするもので、すべて虚ろで偽りであり、一つとして真実のものはありません。ですから本当の心はこの中にはないのです。第三に、集起心（すべてを集め起こす心）です。これは宇宙のあらゆるものがこの心に集まり蓄えられ、縁に遇うと現れ出るものをいいます。私たちが昔見たり聞いたりしたことを、今思い出すと、目の前にあるかのようにはっきりと浮かんでくるのは、まさにこの心の働きです。例えるなら大海の波が、風の縁に遇えばいつでも湧き上がるようなものです。しかし生じ消えして常がなく、あることもないことも定まらず、これもまた生まれもせず滅びもせず常住する真の本体ではありません。第四に、真実心（真実の心）です。すなわち本来の心の真実の本体であり、常住して変わらず、平等にすべてに満ちています。慮知心が考え知覚するところのものも、集起心が集め起こすところの法も、すべてこの本体が現れ示した様々な姿にほかなりません。例えるなら大海の水は本来清らかで澄んでいて、すべての大波も小波も、ただ海水が変化して現れた姿と働きにすぎないのと同じです。

般若波羅密多，合譯曰智慧到彼岸，或智慧到究竟。世人之所見聞覺知者，皆非究竟，皆是此岸，以無明愚癡為之障礙故也。如夢境中顛倒錯亂，皆睡眠昏迷之障礙，特在夢中不自覺知耳。此無明愚癡，蔽覆深厚，非藉金剛般若之力不能破除，一旦以般若智打破無明，即渡生死流而到彼岸，所謂「般若波羅密多」也。人當沉淪生死苦海，不思出離，正如破篷濫船飄流大海不能自主，日在風濤險惡之中而偷安旦夕，試一猛省，當急回頭！「人生一大夢耳」，此語亦熟聞之，凡所作為，皆可作為如夢如幻觀。人既因真心迷惑而有此人生之夢境，但能發明真心，則可覺悟而到彼岸。能發明此真心者，非般若智不可，故有般若則能發明真心，達到彼岸。此般若波羅密多心，所以合為一經之總名也。

> 般若波羅蜜多とは、智慧によって彼岸に至る、あるいは智慧によって究極に達するという意味です。世の人々が見たり聞いたり感じたり知ったりすることは、すべて究極のものではなく、すべて此岸（この世）のものです。なぜなら、無明（むみょう）と愚かさが妨げとなっているからです。ちょうど夢の中で物事が逆さまに混乱して見えるのは、眠りによる昏迷の妨げがあるからで、夢の中では自分でそれに気づかないだけなのです。 この無明と愚かさは、深く厚く覆いかぶさっているので、金剛の智慧の力によらなければ打ち破ることができません。ひとたび般若の智慧で無明を打ち破れば、すなわち生死の流れを渡って彼岸に至るのです。これが「般若波羅蜜多」といわれるものです。 人は生死の苦しみの海に沈み漂いながら、そこから出ようと思わないのは、ちょうど破れた帆と粗末な船で大海原を漂い、自分でどうすることもできず、日夜風浪の危険な中にあって、ただ一時の安らぎに甘んじているようなものです。ちょっと深く反省してみれば、すぐにでも向きを変えるべきではないでしょうか。 「人生は大きな夢にすぎない」という言葉は、よく耳にするところです。なすことすべてを、夢や幻のようなものと見なすことができます。人は真心（まごころ）が迷いによって覆われるがゆえに、この人生という夢を見るのです。しかし真心を発見することができれば、悟りを得て彼岸に至ることができます。この真心を発見できるものは、般若の智慧をおいてほかにありません。ゆえに般若があれば真心を発見し、彼岸に到達できるのです。 この般若波羅蜜多の心こそが、まとめて一つの経の総名とされているのです。

人遇善知識得聞佛法，了然有悟，仍慮知心之作用，其不能遽然與真實心相應者，正無始來無明虛妄習氣之集起心有以障之。於此須起觀照般若，反照集起心，打破其生夢之迷源，久之久之，豁然開朗，方能轉迷為悟，轉妄為真，而般若波羅密多之真實心自得顯現。

> 人が善知識に出会い、仏法を聞いて、はっきりと悟りを得たとしても、それでもなお、知る心の働きについて考えるとき、その心がすぐに真実の心と響き合えないのは、まさに遠い過去から続く無明の虚妄な習慣が積み重なってできた「集起の心」が、それを妨げているからです。ここで、観照の般若を起こして、この集起の心を照らし返し、迷いの夢を生み出す根源を打ち破る必要があります。そうして長い間繰り返しているうちに、ぱっと視界が開け、ようやく迷いを転じて悟りとし、虚妄を転じて真実とすることができ、般若波羅蜜多の真実の心が自然に現れてくるのです。

又心有譬喻之義；般若經多至七百餘卷，本經在般若經中，能總持一切；譬如人身中之有心，以心為總要機關也；故名般若波羅密多心經。又三藏十二部，經籍甚夥，而般若波羅密多，可為群經之心經，亦通。

> さらに、心には「かなめ（要）」という譬えの意味があります。般若経は七百余巻にも及びますが、この経典はその中で一切を総括して保つことができるのです。ちょうど人体における心臓が、全体の重要な器官であるように、この経もまた般若経全体の核心であることから、「般若波羅蜜多心経」と名付けられました。また、三蔵十二部に及ぶ多くの教典の中で、般若波羅蜜多がすべての経典の心髄と見なせるため、この名が通じるという解釈もあります。

觀自在菩薩，行深般若波羅密多時，照見五蘊皆空，度一切苦厄。

> 観自在菩薩は、深い般若波羅蜜多の修行をしているときに、五蘊がすべて空であることを照らし見て、すべての苦しみや災いから解脱された。

觀有考察研究之義，如觀念、觀想、觀慧，均在心上考察推究，不僅屬於眼目作用也。本心上能照之智，照了一切，如燈光之普照，鏡光之遍映是。

自者、自己，在者、常在，菩薩、即菩提薩埵之略，菩提譯覺，薩埵譯有情或人，合講即觀察自己常在而得覺悟之人也。所謂自己者何，外而山河國土，有情無情，內而身體形骸，五臟六腑，何一是我之自己？世人多謂身體為自己，試思組織身體之成分，不外地、水、火、風——四大，骨肉爪髮之堅質屬地，汗血精液之濕性屬水，流動屬風，冷暖屬火，四大和合而身生，四大分散而身滅，其所謂為自己者，果何在耶？夫真實的自己，無始、無終、無生、無滅、無往、無來，即般若波羅密多之真實心，人人本有，非從外來，自己常常實在，自己常常不覺，正如貧子身藏如意寶珠，而不自知，向人乞食，一旦經人道破，方始覺悟，即時取出作用，即時便成大富，不幾笑曩日苦向外求之為多事乎！故能觀到自己常在便是菩薩，不能觀到便是凡夫。本經即觀自在菩薩本自身所覺到修到者，向舍利子顯示而普益群生也。觀自在菩薩，又名觀世音菩薩。

> 観自在菩薩とは、自己を観じ、常に在るものを観じる者のことです。菩薩とは菩提薩埵の略で、菩提は「覚り」、薩埵は「有情（いのちあるもの）」または「人」と訳します。合わせて言えば、自己を観察して常に在るものを覚る人、ということになります。 では、自己とは何でしょうか。外の山河や国土、有情・無情のすべて、内の身体や骨格、五臓六腑のどれ一つをとっても、本当に自分の自己と言えるものはありません。世の人々は多く身体を自己だと言いますが、考えてみてください。身体を構成する要素は、地・水・火・風の四大にすぎません。骨や肉、爪や髪の固い質のものは地に属し、汗や血、精液などの湿ったものは水に属し、流れ動くものは風に属し、温かさや冷たさは火に属します。この四大が和合して身体が生まれ、四大が散じれば身体は滅びます。それでは、自分が自己だと言っていたものは、一体どこにあるのでしょうか。 本当の自己とは、始まりもなく終わりもなく、生まれることも滅することもなく、去ることも来ることもないものです。それが般若波羅蜜多の真実の心であり、すべての人が生まれながらに持っているもので、外から来たものではありません。自己はいつも確かに在るのに、人はいつもそれに気づいていません。あたかも貧しい者が身に如意宝珠を隠し持っていながら、それと知らずに人に物乞いをしているようなものです。あるとき人に指摘されて初めて気づき、すぐに取り出して使えば、たちまち大金持ちになれます。昔、外に向かって苦労して求めていたことが、なんと無駄だったかと笑えるのではないでしょうか。 自分の内なる常在の自己を観じられる人が菩薩であり、観じられない人が凡夫です。この経典は、観自在菩薩が自ら覚り、自ら修められた境地を、舎利子に向かって示し、すべての生きとし生けるものに広く利益を与えようとするものです。観自在菩薩は、また観世音菩薩とも呼ばれます。

行深般若波羅密多時，即由文字般若，起觀照般若，而達實相般若，功行甚深之時也。

> 深い般若波羅蜜多を行じるとき、すなわち文字の般若から観照の般若が起こり、そして実相の般若に達する。その修行が非常に深いときのことである。

五蘊、又名五陰。蘊、積聚義，陰、覆蔽義。謂積聚身心，蔽覆本性也。一曰色，質礙義，色、聲、香、味、觸、法之六塵，眼、耳、鼻、舌、身之五根皆是；並包括種種意義，無論顯色形色，凡宇宙萬有之物質現象均含在內——虛空亦在內，故曰色蘊。二曰受，領受義，有眼、耳、鼻、舌、身、意之受，意根之受，識藏之受。受有三：樂受、苦受、不樂不苦受也。三曰想，想相也，其範圍更為廣大。四曰行，行為也，有遷流不息義。五曰識，了別義，眼、耳、鼻、舌、身、意六識之外，更有第七末那識，第八阿賴耶識也。又簡單分為二法：色屬色法——物質，受想行識屬心法——精神，故色心二法，統括世間之物質精神有為生滅等法無有剩餘。

> 五蘊は、また五陰とも呼ばれます。蘊とは「積み重なる」という意味で、陰とは「覆い隠す」という意味です。つまり、心身を積み重ね、本性を覆い隠すことを指します。第一に色（しき）は、物質的な障りという意味で、色・声・香・味・触・法の六つの感覚対象（六塵）、そして眼・耳・鼻・舌・身の五つの感覚器官（五根）をすべて含みます。さらに広く捉えれば、目に見える色も形も、宇宙のあらゆる物質的な現象すべてを含みます——虚空さえもその中にあります。そのため色蘊と呼びます。第二に受（じゅ）は、感じ取るという意味で、眼・耳・鼻・舌・身・意による感受、意根による感受、深層意識（識蔵）による感受があります。受には三種類あります：楽しい感覚、苦しい感覚、楽しくも苦しくもない感覚です。第三に想（そう）は、心に浮かぶイメージや概念のことです。その範囲はさらに広大です。第四に行（ぎょう）は、心の働きや行為のことで、絶えず移り変わり流れ続けるという意味があります。第五に識（しき）は、物事を区別し認識するという意味で、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの認識作用に加えて、第七の末那識（まなしき）、第八の阿頼耶識（あらやしき）があります。また、これらを簡潔に二つの法に分けることもできます：色は色法——すなわち物質に属し、受・想・行・識は心法——すなわち精神に属します。このように色と心の二つの法は、この世の物質的・精神的なすべての生滅する現象を、余すところなく包括しているのです。

照見五蘊皆空者，觀自在菩薩當行深般若波羅密多時，其本心覺照周遍圓滿，如日光照臨，無幽不燭，無闇不破，凡世間一切有為虛妄及生滅不實之法，無不當下銷沈，悉歸空寂。但言空者，空其虛妄不實之相而已，一切法體，即如來藏真心，無可空故。苦厄者，生死煩惱也。依五蘊虛妄，而有種種生死煩惱，今所依之五蘊既空，則一切苦厄無不度脫。此觀自在菩薩自身證明之理，而結經人特表而出之也。

舍利子！色不異空，空不異色；色即是空，空即是色。受想行識，亦復如是。

以下對人顯示，故呼舍利子而告之。舍利子亦名舍利弗，為佛之大弟子。舍利譯鶖，其目最利；母名舍利，子以母名，故曰舍利子。

色為五蘊之首，舉一以概其餘也。現前形色最難破除，如吾人平常執身體為我，以明明有我之身體在也。然試為逐一觀察，其身體中之屬於地者為我耶？屬於水、火、風者為我耶？全體為我耶？一部為我耶？腦質、神經、五臟、六腑為我耶？如一一為我，則我亦多矣！若指人之形狀為我，其形狀由少而壯、而老、時時變遷，亦不可名為我；以數十年相續不斷為我，則數十年前、或數十年後，何以無我？況時間變化無常，有何自體？至此種種推求皆無可得，於是人將轉計曰：所謂我者，非指身體我，能受苦受樂受暖受冷，是能受者方可為我；遂捨色蘊而計受蘊為我。不知能受者，對於所受者而言，所受者忽苦、忽樂、忽有、忽無，虛妄無實，全無自體，則能受之我豈得真實？況事物未受以前與既受之後，我何所在？再三推想，又以能想相者為我，而想蘊之見起矣。但想因一人、或一事、或一物而起，未想以前豈非斷滅？若因想一人、為一我，想一事、或一物，又各為一我，所想者多至無盡，而我亦多至無盡耶？或人復計曰：想是虛妄，固不為我，今吾人之實在行為，則不可不謂為我矣！而行蘊之說起，謂人作善作惡，其中有一種力量，此能作者即我。不知所作善惡，亦有為虛妄之法，可見能作者定非真實之我。窮究到底，色、受、想、行，概不與我相涉，人將以了知色、受、想、行、種種非我者決定為我，此計識蘊為我也。但所了知者，毫無邊際，於所了知之中，既多方求我而不可得，則能了知者，又何能獨自為我？此五蘊法無我，經言早已詔我矣。然宇宙萬物，何一非五蘊而成？有情之有身心無論矣，即無情如草木土石，雖無受想行識，亦有色存。若說五蘊皆空，將世界人物一無所有，烏乎可？不知言空者，非吾人眼前見到之空，見到之空是與不空相對待，亦屬色法；所謂空者，謂空其假相之實有，雖有假相，而實體常空也。必知此義，方可講色不異空，空不異色數句。

菩薩發本心之光明，照見五蘊皆空，並非言除去大地山河之外，別有一處名空；凡宇宙萬有，無非和合連續對待之假相，真體顯時，相皆空寂；故曰色不異空。然空並非斷滅，亦非頑空，即是性色真空，為色蘊之本體。本體上雖無青、黃、赤、白、長、短、方、圓等等相，而此等假相，正依本體而立，為本體之顯現，故曰空不異色。譬如水上波浪，波浪取其形狀而言，其全體不異於水；宇宙萬有，正心上所起之波浪也。水體上原無種種波浪之相，若有此相，波浪滅則水應滅，今水體不滅，可見波浪皆是空相也。世人於有相處執色，無色處執空，故先破其異見，既知色空無異，更當進一步言色空是一非二，是絕對的，非相待的，故曰色即是空，空即是色。猶之波浪即水，水即波浪；既知波浪即水，不必滅波浪以求水，水即波浪，不致昧水以逐波浪也。受想行識，亦復如是。如云：受不異空，空不異受，受即空，空即是受。餘仿此。

舍利子！是諸法空相，不生不滅，不垢不淨，不增不減。

諸法、分類甚多，即五蘊諸法。空、即五蘊皆空之空。相謂實相，即般若波羅密多心。合言之，此諸法皆空之實相也。

吾人見有根身，見有世界，見有眾生，故有種種生滅，今五蘊皆空，故無生滅之相。又五蘊生則空滅，空生則五蘊滅，今蘊空為一，空相不離諸法，諸法即是空相，更無生滅之可言；如水波同體，何生何滅？真心本無垢淨，因有生滅等法為之障蔽，為之染污，而垢生焉；如鏡體本來光明，為塵所蔽，不能顯現耳！今既明五蘊本來無有，本無生滅之垢，故又曰不垢不淨。增減者，謂五蘊法有為增，五蘊法無為減，真心生為增，真心滅為減；但五蘊本無，真心常住，并無有無生滅，又何有增減，故終曰不增不減。此不生不滅，不但於般若波羅密多心見其如是，即現前一切生滅諸法，觀其自性，即為不生不滅之真實心體，亦無生、滅、垢、淨、增、減之可言。生滅等相既空，故能度脫一切苦厄也。

是故空中無色，無受、想、行、識。無眼、耳、鼻、舌、身、意，無色、聲、香、味、觸、法。無眼界乃至無意識界。

空相之中，全體即真，故無五蘊、六根、六塵、十八界等法。無、即空義。六根者：眼、耳、鼻、舌、身、意也。眼能見，耳能聞，鼻能嗅，舌能嘗，身能觸，此五根非指外現之浮根塵，乃能發生見聞覺知之功用，所謂淨色根也。意根能想過去未來，即思想心，分別心，此心所依托之根，即意。前五屬色法，意屬受、想、行、識之心法。五蘊既空，故六根亦空。六塵者：色、聲、香、味、觸、法也。色、眼識所見者，顯色、形色等是。聲、耳識所聞者，一切音聲是，如流水聲為無意義，說話聲為有意義。香、鼻識所嗅者，香、臭等是。味、舌識所嘗者，酸、甜、苦、辛等是。觸、身識所覺者，冷、熱、滑、澀等是。法、意識所分別者，名極普遍，凡意識所緣到之處，無論為有為無皆是。法有一分屬色，一分屬心，一分非心非色，其餘五塵概屬色法。五蘊既空，故六塵亦空。十八界者：上之六根、六塵、及六識——眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識，故曰眼界乃至意識界也。界者、界限義，種類義，此十八種類各有界限，作用不同也。由上以推，根、塵、識三，皆不外五蘊法，皆無自體，故一切皆空。

六根、六塵——統名十二處；加六識成十八界，為凡夫所有法與四聖相共者。以下乃出世三乘之法。

無無明，亦無無明盡；乃至無老死，亦無老死盡。

此十二因緣，緣覺所修之法也。一曰無明，煩惱通稱，即惑。二曰行，善惡行為，即業。此二指過去之因。三曰識，入胎最初之一念。四曰名色，胎中心色。五曰六入，胎中六根。六曰觸，出胎時之觸境。七曰受，領受現前塵境。此五指現在之果。八曰愛，貪愛。九曰取，取著。十曰有，由愛取之惑，生後有之業。此三指現在之因。十一曰生。十二曰老死。此二指未來之果。凡人生死死生流轉不息。皆由無明而起，故流轉門曰：無明緣行，行緣識，乃至生緣老死；即經言無明乃至老死也。若欲解脫生死，斷其根本，亦須先將無明滅盡，故還滅門曰：無明盡則行盡，行盡則識盡，乃至生盡則老死盡；即經言無明盡乃至老死盡也。

十二因緣，乃推五蘊之至詳者。五蘊既空，故十二因緣亦空。或謂：解脫生死正出世聖人之法，似無可空者。然依有生死可解脫者，亦屬凡夫心量，若菩薩行深般若波羅密多時，本無生死，何有解脫？故一切無之。

無苦、集、滅、道，無智亦無得。

此聲聞所修之法。苦、集、滅、道，曰四諦。諦、謂真理。苦諦，即人生真實之苦。但苦是結果，其因為集，由貪瞋癡所造之殺盜淫業，集積最久，一旦潰發，遂受無限之痛苦；正如一滴之水，積蓄沖決，終成江河也。吾人應知苦之結果，非天所定，非人所與，由我自作。苦既由我自作，亦可由我自滅，是為滅諦。但業已造成，滅之匪易，必有滅之之道——道有門徑方法等義——方可，從此道修行，是為道諦。修道以滅苦，其極果則成阿羅漢。但苦、集之所依者，仍不外五蘊法，五蘊既空，則苦、集無所依附，既無苦、集，又何有滅、道二諦耶？故曰無苦、集、滅、道。

智有俗智、真智：明四諦之智，俗智也。明滅盡苦集而證無苦無集之境，真智也。得者，得真實理而證無生無滅之涅槃也。今四諦既空，則無能明四諦之智，既無能得之智，又何有所得之涅槃哉？故曰無智亦無得。

前空中二宇，貫至亦無得止。

以無所得故；菩提薩埵，依般若波羅密多故，心無罣礙，無罣礙故，無有恐怖，遠離顛倒夢想，究竟涅槃。三世諸佛，依般若波羅密多故，得阿耨多羅三藐三菩提。

以無所得故句，承上起下也。承上者，從是故空中無色、無受想行識，乃至無智亦無得，皆無所得也。蓋行人若有所得，則有能得所得二相為之對待，是有二法，不能成般若波羅密多心也；譬如眼本清淨，入一浮塵適成障蔽。起下者何？一有所得，在圓明真心另添一物，正為修行之大障。以無所得故，菩提依般若波羅密多而成佛道也。凡人所依者，皆虛妄相，由此而有虛妄相想，執有所得則不能得者多矣！菩薩所依者，即是般若波羅密多，其心清淨圓融，故無罣礙。罣礙者，如見不出色，聞不出聲，六根功用各別，不能圓通，如蠶在繭，總難自由！何也？以有所得故也。凡事得一種，即有一種罣礙，如人賴衣食生活，為得衣食之故，必生出種種營謀，即有種種罣礙，若不欲得此，則種種罣礙皆無由而生。又人在世間，有種種危險，日在恐怖之中，此恐怖又因罣礙而起。如人依地而住，遇水則不能通行，故行江海必用船舶，由此遂有種種恐怖。又種田人，以耕種為生，一遇水旱等災，則恐怖無已；若無生計上之罣礙，則無恐怖矣。又兵荒病疫時代，不能安生樂業，以人依社會故不得免此恐怖耳。執身體為我，則以身體之罣礙，而有或病、或老、或死之恐怖，若不執為我體，則泰然自得，何憂何慮？為人不作虧心事，半夜敲門心不驚，此日常淺近之事，皆足證明其理也。且此中之理更為廣大者，凡人以妄想心取妄想法，因妄想之罣礙，其恐怖更自無窮，特人習焉不察而不自覺耳！遠離顛倒夢想，如參禪念佛，心不散亂，夢境自無，人在夢中皆以夢境為實在，吾人在人生之夢中亦然；當知吾人所有知識，無不從昏迷中來，自投胎以至出生，全為昏迷時代，不儼然睡中不知不覺乎！始於昏迷者，必終於昏迷，而其間數十年，雖半知半覺，亦不過以妄取妄，何嘗有覺悟明瞭之一日，究竟仍當終歸於不知不覺之中。但行人如能常作如夢觀，不於眼前夢境而生執著，則貪瞋癡三毒漸次斷除，去覺悟之時必不遠矣。吾人起心動念，皆起於昏迷，從昏迷而起者，無非夢境，夢境本是虛妄，夢中認為實在，醒來方知顛倒，迷妄為真，迷無為有，迷虛為實，顛倒之甚孰有逾於此者乎？人每以佛學為空，亦在夢中顛倒之列。人向來執為實在者皆是虛妄，但此虛妄亦依明覺真心而起，減一分夢想，即增一分真覺，一層一層漸次修證，所謂遠離顛倒夢想也。天、人、阿羅漢、辟支佛、菩薩，皆有夢想，惟菩薩能生覺悟，故得遠離；迨到覺悟圓滿，夢想全無，則法界虛空皆悉銷殞，所謂究竟涅槃也。涅槃譯曰圓寂，吾人心體本具之功德，向為夢想所障蔽，遠離夢想，則功德無不圓滿，妄念無不空寂，故曰：究竟圓滿，究竟寂滅。菩薩到究竟涅槃，即成佛道；故繼之曰：三世諸佛，依般若波羅密多故，得阿耨多羅三藐三菩提；即謂三世諸佛依般若波羅密多故而成佛也。阿耨多羅三藐三菩提，譯曰無上正等正覺；正覺揀別凡外，凡阿羅漢、辟支佛、皆有正覺，但非平等普遍正覺，祗自覺而不覺他；菩薩自覺覺他，可謂正等正覺，然非究竟圓滿，還是有上；惟佛方能徹底覺悟，故名無上正等正覺。

本經注重在無所得三字，有所得則一無所得，無所得則無所不得。妄想一空，真心全露，故諸佛菩薩，悉由此道而成。但此事皆人人本分內事，非過去諸佛菩薩所能獨得，特世人本身具足無量功德，不知反觀自性依教修證耳！

故知般若波羅密多，是大神咒，是大明咒，是無上咒，是無等等咒，能除一切苦，真實不虛。

咒者，一種有力量之言語，能成為事實也。神者，謂有妙力，能令不能解脫者而得解脫，不能成就者而得成就，故曰大神咒。大明者，照見五蘊皆空之智，非若世人逐年閱歷所得之智可比；般若之智，能明無量世界所依之無量眾生，悉皆燭照無遺。無上咒，以此般若波羅密多故，得阿耨多羅三藐三菩提，無有上之者。無等等者，等於無等之義；無等者，無比也，即究竟涅槃，而佛所得之阿耨多羅三藐三菩提、與究竟涅槃相等，故曰無等等咒。能除一切苦，真實不虛，謂真實能除一切苦也。一切苦者：如生、老、病、死、愛別離、怨憎會、求不得、五陰熾盛、八苦等。平常除苦之法亦多，如賑濟災荒，布施貧苦，祗能除一時一部分之苦，而不能永久普遍使脫苦海，即不得稱為真實不虛。蓋一切苦源，皆起於顛倒夢想，得般若波羅密多，能除迷啟悟，遠離夢想，故一切苦一除永除，究竟真實，究竟不虛。

故說般若波羅密多咒，即說咒曰：羯諦羯諦，波羅羯諦，波羅僧羯諦，菩提薩婆訶。

咒，即所說之音聲能總持一切，表示一切，固不可譯，亦不必譯也。此中名字言說，即般若波羅密多義。上所說者為顯，而咒為密。顯說者，以一種道理表示於人，而咒則為法之真體，不容解說。如醫生治病，開方與人者，顯也；不說明藥方，僅與丸藥令人照服者，密也。咒之密義，包含世出世間善法無不圓滿，並具有極大神力，人能常久持念，即依般若波羅密多而起無量不可思議功德。是般若波羅密多，誠吾人真常之法身慧命，較之生命，尤關緊要。

（史一如記）漢口印行