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title: "太虛大師全書．第七編　法界圓覺學(第1卷) · 子五　化以二乘喻"
description: "太虛大師全書第七編法界圓覺學第一卷由近代佛教改革領袖釋太虛撰寫，成書於民國時期，正值中國佛教面臨現代化轉型之際。該卷闡述法界圓覺思想，以華嚴與唯識學為基礎，深入解析眾生本具的圓滿覺性與宇宙實相，強調修行者透過止觀與發菩提心證入法界。太虛大師融通教理與實修，提出人生佛教理念，對當代漢傳佛教復興影響深遠。本書為研究近代佛教思想與法界圓覺學的重要經典。"
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### 子五　化以二乘喻

> 子五　二乗のたとえをもって教化する

『父遙見之，而語使言：「不須此人，勿強將來！以冷水灑面，令得醒悟，莫復與語」。所以者何？父知其子志意下劣，自知豪貴為子所難。審知是子，而以方便不語他人云是我子。使者語之：「我今放汝，隨意所趣」。窮子歡喜，得未曾有，從地而起，往至貧里以求衣食。

> 父は遠くからその子を見て、使者にこう言いました。「この者を連れてくる必要はない。無理に連れて来てはならない。冷水を顔にかけて目を覚まさせよ。それ以上、言葉を交わしてはならない」。なぜなら、父は自分の子が志が低く劣っていることを知っており、また自分が高貴な身分であることが子にとって受け入れがたいこともわかっていたからです。父は確かにその者が自分の子であると見抜いていたものの、方便を用いて、他の者には「これは私の子だ」とは語りませんでした。使者はその子に言いました。「今、お前を自由にする。好きなところへ行くがよい」。貧しい子はこの言葉を聞いて、かつてないほどの喜びを得て、地から立ち上がり、貧しい里へと向かい、衣食を求めて暮らしました。

此明啟發權心。豪貴、喻大乘。不語他人云是我子者，喻佛本知其曾發大心，今因時機未熟，教之不利，爰隨順其意，聽用小法修行，是即方便權說，而佛初不預言其曾發大心、原為佛子也。往至貧里求食，即用小法修行之謂。

> これは、方便の教えを明らかにするための譬えである。豪貴な家は大乗を喩える。他人に「これは我が子である」と言わないのは、仏が本来、その者がかつて大いなる心を起こしたことを知りつつも、今は時機が熟さず、教えても利益にならないため、その者の意に随って、小さな教えを用いて修行させることを許すのである。これこそが方便の教えであり、仏は初めからその者が大いなる心を起こしたこと、もともと仏の子であることを予め告げなかったのである。貧しい里に赴いて食物を求めることは、すなわち小さな教えを用いて修行することを指す。

『爾時、長者將欲誘引其子而設方便，密遣二人——形色憔悴無威德者——汝可詣彼徐語窮子：「此有作處，倍與汝直。窮子若許，將來使作。若言欲何所作，便可語之雇汝除糞，我等二人亦共汝作」。時二使人即求窮子，既已得之，具陳上事。爾時、窮子先取其價，尋與除糞。

> その時、長者はその息子を導こうとして、巧みな方法を設けました。密かに二人の者を遣わしました——姿形はやつれ、威厳もない者たちです。言いました。「あなたがたは彼のもとへ行き、穏やかにこの貧しい子に告げなさい。『ここに仕事がある。報酬は倍払う。』もし彼が承諾したら、連れてきて働かせなさい。もし『何の仕事か』と尋ねたら、『糞を掃除する仕事だ。我々二人も一緒に働こう』と伝えなさい。」その時、二人の使者は貧しい子を探し求め、見つけたならば、以上のことを詳しく伝えました。その時、貧しい子はまず報酬を受け取り、それからすぐに糞掃除を始めたのでした。

此明隨順誘引。二人、喻二乘之教義。理通一乘，此未明言，故云密遣。憔悴無威德，喻小乘功德缺乏莊嚴之相。除糞、喻修斷見、思等惑。二乘教義本通大乘，二乘所作亦趨一乘，而教法之力亦能助斷煩惱，故曰我等二人亦共汝作。先取價後除糞者，喻先得聞思之慧，後起修慧也。

> ここは、順に従って導き引き寄せることを明かす。二人の者は、二乗（声聞と縁覚）の教えをたとえている。その理は一乗に通じているが、ここではまだはっきりとは示されていないので、「密かに遣わす」と言うのだ。やつれ果てて威厳もないのは、小乗の功徳が荘厳な相を欠いていることをたとえる。糞を除くことは、見惑や思惑などの煩悩を断ち修行することをたとえる。二乗の教えはもともと大乗に通じており、二乗の行いもまた一乗へと向かっている。そして教えの力もまた煩悩を断つ助けとなるので、「我ら二人もまた共に汝と働く」と言うのだ。先に報酬を受け取り、後に糞を除くのは、まず聞くことと考えることによる慧を得て、その後、修行による慧を起こすことをたとえている。

『其父見子，愍而怪之。又以他日，於窗牖中遙見子身，羸瘦憔悴，糞土塵坌，汙穢不淨，即脫瓔珞細軟上服嚴飾之具，更著麤弊垢膩之衣，塵土坌身，右手執持除糞之器，狀有所畏。語諸作人：「汝等勤作！勿得懈息」。以方便故得近其子，後復告言：「咄！男子！汝常此作，勿復餘去，當加汝價。諸有所須盆器、米、麵、鹽、醋之屬，莫自疑難，亦有老弊使人，須者相給，好自安意。我如汝父，勿復憂慮。所以者何？我年老大而汝少壯，汝常作時，無有欺怠、瞋恨、怨言，都不見汝有此諸惡，如餘作人，自今已後如所生子」。

此明引入二乘。羸瘦汙穢等，喻雖修三慧，仍不免煩惱不淨之相。脫莊嚴之具、著麤弊之衣、執除糞之器、近與子言等，喻佛審觀眾生根器，隨順誘引之相。常作加價，喻令恆常修習，惑業可斷，則果位自增。盆器、米鹽等，喻三昧功德之法。老弊使人，喻四神足解脫所修之法，言此諸功德皆可獲得也。無有欺怠等，喻已能折伏三業之惡，復已堪為佛子也。

『即時長者，更與作字，名之為兒。爾時、窮子雖欣此遇，猶故自謂客作賤人，由是之故，於二十年中常令除糞。過是已後，心相體信，入出無難，然其所止猶在本處。

此明便登果位。名為兒者、喻預聖流，已斷初果見惑也。再二十年常令除糞，喻已斷思惑，證二果、三果也。心相體信，喻識達生空，得證解脫，成四果阿羅漢也。入出無難，喻自他俱利。仍止本處，喻雖已證涅槃，而心仍著小未能向大也。