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title: "太虛大師全書．第七編　法界圓覺學(第1卷) · 庚一　總明"
description: "太虛大師全書第七編法界圓覺學第一卷由近代佛教改革領袖釋太虛撰寫，成書於民國時期，正值中國佛教面臨現代化轉型之際。該卷闡述法界圓覺思想，以華嚴與唯識學為基礎，深入解析眾生本具的圓滿覺性與宇宙實相，強調修行者透過止觀與發菩提心證入法界。太虛大師融通教理與實修，提出人生佛教理念，對當代漢傳佛教復興影響深遠。本書為研究近代佛教思想與法界圓覺學的重要經典。"
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### 庚一　總明

> 庚一　総明

『阿難！彼善男子修三摩提想陰盡者，是人平常夢想銷滅，寤寐恆一。覺明虛靜猶如晴空，無復麤重前塵影事，觀諸世間大地山河，如鏡鑑明，來無所黏，過無蹤跡。虛受照應，了罔陳習，唯一精真；生滅根元，從此披露。見諸十方十二眾生，畢殫其類。雖未通其各命由緒，見同生基，猶如野馬熠熠清擾，為浮根塵究竟樞穴；此則名為行陰區宇。若此清擾熠熠元性，性入元澄，一澄元習，如波瀾滅化為澄水，名行陰盡，是人則能超眾生濁。觀其所由，幽隱妄想以為其本。

案曰：想陰盡者，『是人平常夢想銷滅，寤寐恆一，覺明虛靜猶如晴空，無復麤重前塵影事。觀諸世間大地山河如鏡鑑明，來無所黏，過無蹤跡。虛受照應了罔陳習，唯一精真』。即觀音圓通章所云：『盡聞不住，覺所覺空』。亦第三漸次中所云：『十方國土皎然清淨』。亦即信心、念心、精進心之境界。蓋第一番活死動靜俱空，則色陰破；而第二番死活靜動具空，則想陰破。然色陰破既現受陰區宇，今想陰破亦現行陰區宇。故曰：『生滅根元從此披露，見諸十方十二眾生，畢殫其類。雖未通其各命由緒，見同生基，猶如野馬熠熠清擾，為浮塵根究竟樞穴；此則名為行陰區宇』。此為定心中第四區宇之行陰，及第四層殼之眾生濁也。各命由緒，謂一個眾生有一個「命根」之由緒也。若通各命由緒，即現識陰、命濁，故此揀曰未通。見同生基，猶如野馬熠熠清擾，為浮塵根究竟樞穴。此正行陰之相。然所見為同生之基，乃阿賴耶識之相分。意識所轉始覺智慧，反觀旋照而及乎此，故曰見同生基。為器界根身之一切色法本質所依，故曰為浮塵根究竟樞穴。猶如野馬熠熠清擾，正剎那剎那微細生滅之相也。扼要言之，依本悟心旋照聞性，從初即為反竭阿陀那識，聞精（代表六根所現識精）、聲塵（代表六精所緣前塵）不偶不接，同分妄見所現宇宙萬物，銷落而成空劫一色，謂之色陰區宇。此色陰區宇為器世間（宇宙物我萬有現象）之未形色質，正阿賴耶識之相分。受陰區宇，則是意識上內我見所依淨色根身（非現形可指之身體），亦是阿賴耶識相分，想陰區宇，則是意識內所根依之末那識，乃意識與阿賴耶識間之一重蒙障。此重蒙障透過，意識乃親見乎阿賴耶識上為現象器界根身之本質，及餘一切種子之相分。然猶未通各命由緒，則以未見阿賴耶識見分，為末那識執為內自我體故也。此行陰中，意識所轉始覺智、雖已能與阿賴耶識之相分直接通達，尚未透過；故未能與藏識見分直接通達。若行陰盡，超眾生濁，則能直接通達藏識見分；始不為末那識蒙執為我。但猶為之蔽為涅槃，未能透過而知即心自性，故成識陰區宇。此若透過，即觀世音忽超世出世間，初發心成佛矣。是故五陰區宇，皆以末那識之妄想為本。皆在意識轉為之始覺智、與所歸之阿賴耶識之間。將此五重陰濁蒙障破除，始能真得初卷所指『識精元明能生諸緣諸緣所遺之無始涅槃元清淨體』為本因地心；可依之以圓成果地修證。大乘起信論所云決定三阿僧祇劫修證，正此果地之修證也（上來為修圓照三昧，破五重陰濁之總觀，寄明於此）。此中幽隱妄想，正指阿賴耶上極深細之相分，亦末那識蒙意識始覺前之一迷惑。妄想，乃迷惑之別名。

> 案に曰く、想陰が尽きるとは、「この人は平常の夢想が消え去り、目覚めている時も眠っている時も常に一つであり、覚明虚静は晴れ渡った空のようで、もはや粗重な前塵の影事はない。世間の大地山河を観るに鏡が明らかに映すがごとく、来るものに執着なく、過ぎたものに跡はない。虚に照応を受けて、もはや陳習はなく、ただ一つの精真のみが残る」というものである。これは観音円通章にいう「聞くことを尽くして住せず、覚と所覚とが空なる」ことである。また第三の漸次にいう「十方の国土は皎然として清浄なり」ということでもある。すなわち信心・念心・精進心の境界でもある。そもそも第一番目の生き死に・動静ともに空となれば色陰が破れ、第二番目の死に生き・静動ともに空となれば想陰が破れる。しかして色陰が破れたならば受陰の区宇が現れ、今想陰が破れたならば行陰の区宇が現れる。故にいう、「生滅の根元ここより披露し、十方の十二衆生を見るに、その類をことごとく尽くす。いまだその各命の由緒を通ぜずといえども、同生の基を見ることは、野馬の熠熠として清く擾るがごとく、浮塵根の究竟の枢穴となる。これを名づけて行陰の区宇という」と。これが定心の中の第四の区宇たる行陰であり、第四の殻たる衆生濁である。各命の由緒とは、一つの衆生に一つの「命根」の由緒があることをいう。もし各命の由緒を通ずるならば、すなわち識陰・命濁が現れる。ゆえにここでは「未通」と簡別するのである。同生の基を見ることは、野馬の熠熠として清く擾るがごとく、浮塵根の究竟の枢穴となる。これがまさに行陰の相である。しかして見るところの同生の基とは、阿頼耶識の相分である。意識の転ずる所の始覚智慧が、反観し旋照してここに及ぶ。ゆえに「同生の基を見る」という。器界・根身の一切の色法の本質のよりどころとなる。ゆえに「浮塵根の究竟の枢穴となる」という。野馬の熠熠として清く擾るがごとしとは、まさに刹那刹那の微細な生滅の相である。要約していえば、本悟の心に依って聞性を旋照し、初めから阿陀那識を反竭する。聞精（六根に現ずる識精を代表する）と声塵（六精の縁ずる前塵を代表する）とが相偶さず相接せず、同分の妄見の現ずる宇宙万物は、銷落して空劫の一色となる。これを色陰の区宇という。この色陰の区宇は器世間（宇宙・物我・万有の現象）の未だ形ならざる色質であり、まさに阿頼耶識の相分である。受陰の区宇は、意識の上の内我見のよりどころたる浄色根身（現形して指し示すべき身体ではない）であり、これも阿頼耶識の相分である。想陰の区宇は、意識の内に根ざす末那識であり、意識と阿頼耶識との間の一重の蒙障である。この一重の蒙障を透り抜ければ、意識ははじめて阿頼耶識の上に現象・器界・根身の本質およびその余の一切の種子の相分を親しく見るのである。しかしていまだ各命の由緒を通ぜざるは、いまだ阿頼耶識の見分を見ず、末那識がこれを執して内なる自我の体となすがゆえである。この行陰の中にあって、意識の転ずる所の始覚智は、すでに阿頼耶識の相分と直接に通達しうるも、いまだ透り抜けず。ゆえに蔵識の見分と直接に通達することはできない。もし行陰が尽きて衆生濁を超えるならば、はじめて蔵識の見分に直接通達しうる。はじめて末那識の蒙執によって我とされない。しかしまだ涅槃と蔽われ、透り抜けて即心自性たることを知るに至らない。ゆえに識陰の区宇となる。これが透り抜ければ、すなわち観世音が忽ち世間・出世間を超え、初発心して成仏するのである。このゆえに五陰の区宇は、みな末那識の妄想を本とする。みな意識の転ずる始覚智と、帰するところの阿頼耶識との間にある。この五重の陰濁の蒙障を破り除いて、はじめて初巻に指す所の「識精元明、諸縁を生じ、諸縁の遺る所の無始涅槃元清浄体」を本因地の心としうる。それに依って果地の修証を円成しうるのである。大乗起信論にいう決定して三阿僧祇劫に修証すとは、まさにこの果地の修証である（上は修円照三昧・五重陰濁を破する総観を、ここに寄せて明かす）。この中の幽隠妄想とは、まさに阿頼耶の上の極めて深細なる相分を指し、また末那識が意識の始覚を蒙う前の一迷惑である。妄想とは、迷惑の別名である。