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title: "太虛大師全書．第七編　法界圓覺學(第1卷) · 讚揚六祖功德以祝南華之復興"
description: "太虛大師全書第七編法界圓覺學第一卷由近代佛教改革領袖釋太虛撰寫，成書於民國時期，正值中國佛教面臨現代化轉型之際。該卷闡述法界圓覺思想，以華嚴與唯識學為基礎，深入解析眾生本具的圓滿覺性與宇宙實相，強調修行者透過止觀與發菩提心證入法界。太虛大師融通教理與實修，提出人生佛教理念，對當代漢傳佛教復興影響深遠。本書為研究近代佛教思想與法界圓覺學的重要經典。"
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### 讚揚六祖功德以祝南華之復興

> 六祖の功徳を讃え、南華の復興を祝う

──二十四年十二月在曹溪南華寺講──

> <note>一九二四年十二月、曹渓南華寺にて講演</note>

我這次一到廣州，即來曹溪，有兩點意思：一、是來瞻禮六祖肉身，二、是來慶祝六祖道場的重興。因禪宗叢林，由曹溪一脈，遍於天下；如日本、高麗之禪寺，皆祖宗於曹溪。唯自六祖以後，這曹溪南華寺即興盛時少，衰替時多。明朝亦曾經憨山大師重興；今則復有虛雲和尚來謀振興，誠是千載難得之盛會！故我來瞻禮六祖肉身，同時也就是慶祝六祖道場的復興。這樣、可見我這次來，實是向和尚及各位首領職事恭祝來的，本無什麼可說的法。但因在座還有如許新受戒的初發心者，及諸方來集的在家信眾，同在此六祖真身的道場相聚，實不無殊勝的因緣，故想讚歎一點關於六祖的功德，以資提倡。

> 私が今回広州に着いてすぐ曹渓に参りましたのには、二つの意味があります。一つは六祖の肉身を礼拝するためであり、もう一つは六祖の道場が再び興ることをお祝いするためです。禅宗の叢林は曹渓の一脈から天下に広がりました。日本の禅寺も高麗の禅寺も、みな曹渓を祖としています。ただ六祖以降、この曹渓南華寺は栄える時が少なく、衰える時が多うございました。明の時代には憨山大師が一度中興され、今また虚雲和尚が振興を図っておられます。まことに千年に一度の稀な盛会です。それゆえ私が六祖の肉身を礼拝に参りますことは、同時に六祖道場の復興をお祝いすることでもあります。こうして見ますと、私が今回参りましたのは、実に和尚さまならびに首領の皆さま、役職の皆さまに御祝いを申し上げるためでありまして、特に申し上げるような法はございません。しかしながら、この席にはまだたくさんの戒を受けたばかりの初発心の方々や、各方から集まった在家の信者の皆さまがおられ、ともにこの六祖の真身の道場にお集まりです。まことに殊勝なご縁がございますので、六祖の功德について少しばかり讃歎し、ご提唱の一助としたいと存じます。

在梁武帝時代，西土有智藥三藏航海南來。以前印度到中國的學者，大多取道西北而來，唯從海南而來，自三國時代的康僧會而後，恐就要算智藥三藏了。智藥三藏在廣東留有許多靈跡，先是在廣州光孝寺植菩提樹一株，預言百七十年後有肉身菩薩於此剃髮受戒。後到曹溪飲水有異香，乃尋至此處建寶林寺，並誌預言曰：『一百七十年有肉身菩薩，於此開演上乘，度無量眾，傳佛心印』。這所謂肉身菩薩，便是六祖大師，在佛教歷史上是早已證實了的。我們就在六祖一生的行事功德上，也可以確信六祖是大菩薩的應世。有許多人，往往以為六祖是斫草挑柴的目不識丁者出身，於是就認為佛教應該要完全棄離文字，因六祖不須文字而通達佛理；殊不知六祖是隨時機所宜示現如此，決非目不識丁者，而是成就無量言語文字三昧陀羅尼，非世間博學多聞、世智辯聰者所能望其項背的！這是從什麼地方證明呢！如壇經中所說：『聞無盡藏泥誦涅槃經，即知妙義』；又聽法達誦法華經至開示悟入佛之知見，即達奧旨；若非久植德本，智慧如海，何以臻此呢？又其聽人誦金剛經，即豁然開悟，亦是一種應機示現的方法；因當時金剛經正普遍弘盛於世，所以他就來參禮五祖，託聞金剛經而開悟了。因此、不但傳佛心印，而亦是傳持法藏；但這不單六祖如此，迦葉以來都是這樣的。又大小乘經論最精深微妙者，莫過於唯識各部經論，如楞伽、深密、華嚴諸經是；而楞伽四卷，傳佛心印，乃從初祖達摩歷代相傳者。在壇經中說：有智通比丘嘗『看楞伽經約千餘遍，而不會三身、四智，禮師求解其義』；六祖當時便為他解答說：『三身者，清淨法身，汝之性也；圓滿報身，汝之智也；千百億化身，汝之行也』。這樣寥寥數句，便把一切經論中所明三身之義，包括無遺。因其即在當人上說明三身，故說：『若離本性別說三身，即名有身無智』。蓋從本人而明三身，始顯佛法平等，學佛是人人本分上事，若不從自性明三身，則三身似乎完全屬於他人佛果上有的，豈非自己是無分的嗎？故考諸古德對經論三身所下之解義，未有若此昭然揭示者。

> 梁武帝の時代、インドから智薬三蔵が海を渡って南方に来られました。それ以前にインドから中国へ来た学者の多くは、北西の道を通って来ましたが、海南島の方面から来た人は、三国時代の康僧会以降、智薬三蔵をおいてほかにいないでしょう。智薬三蔵は広東に多くの霊験を残しました。まず広州の光孝寺に菩提樹を一本植え、「百七十年の後に肉身の菩薩がここで剃髪し受戒するであろう」と予言しました。その後、曹渓に至り、そこの水を飲むと不思議な香りがしたので、この地を訪ねて宝林寺を建て、こう予言を記しました。「百七十年の後に肉身の菩薩がここで上乗の法を説き、無量の衆生を救い、仏の心印を伝えるであろう」。この肉身の菩薩こそ六祖大師であり、仏教の歴史においてすでに証明されていることです。私たちは六祖の生涯の功徳をたどるだけでも、六祖が大菩薩の応世であると確信できます。多くの人は、六祖が草を刈り薪を担ぐ無学の出であるとして、仏教は文字を完全に捨て去るべきだと考えます。六祖は文字を必要とせずに仏理に通じたからです。しかし、六祖は時と機に応じてそのように示現されたのであって、決して無学ではなく、無量の言語文字三昧陀羅尼を成就された方であり、世間の博学多聞や世智弁聡の及ぶところではありません。これはどこで証明できるでしょうか。壇経に説かれているように、「無尽蔵尼が涅槃経を誦むのを聞いて、たちまち妙義を悟った」とあります。また法達が法華経を誦み、「開示悟入仏之知見」に至るのを聞いて、たちまち奥旨に達しました。もし久しく徳本を植え、智慧が海のようでなければ、どうしてここに至ることができましょうか。また人が金剛経を誦むのを聞いて、豁然と開悟されたのも、これまた機に応じた示現の方法です。当時、金剛経が世に広く弘まっていたので、五祖に参礼し、金剛経を聞いて開悟されたのです。したがって、仏の心印を伝えるだけでなく、法蔵をも伝持されたのです。しかしこれは六祖だけではなく、迦葉以来すべてこのようでした。また、大乗・小乗の経論の中で最も精深微妙なものは、唯識の諸経論に勝るものはありません。楞伽経、深密経、華厳経などがそれです。そして楞伽経四巻は、仏の心印を伝えるもので、初祖達磨から代々伝えられてきたものです。壇経には、智通比丘が「楞伽経をおよそ千余遍読んだが、三身と四智を理解できず、師に礼してその義を尋ねた」と説かれています。六祖はそのとき彼のためにこう答えられました。「三身とは、清浄法身は汝の性なり、円満報身は汝の智なり、千百億化身は汝の行なり」。このわずか数句で、一切の経論に説かれる三身の義を余すところなく含み尽くしています。それは、当の人において三身を説き明かされたからです。だからこそ、「もし本性を離れて別に三身を説けば、すなわち身はあって智がないことになる」と言われたのです。そもそも本人から三身を明らかにしてこそ、仏法の平等が現れ、学仏は人人の本分の上のことであると示されるのです。もし自性から三身を明らかにしなければ、三身はまったく他人の仏果の上にあるもののようになり、自分には分がないのではないでしょうか。古徳が経論の三身に対して下した解義を調べても、これほど明らかに示されたものはありません。

智通既明三身，復問四智之義云何？祖曰：『既會三身，便明四智，若離三身別談四智，此名有智無身』。此顯身智不二之理，與成唯識論、佛地經論等所明三身、四智之理，極為吻合。因法身即是四智所證清淨法界的理體，四智即是法身理體上所成之德用，成唯識論云：『四智品中真實功德，鏡智所起常遍色身攝自受用；平等智品所現佛身，攝他受用；成事智品所現隨類種種身相，攝變化身』。此中已說明四智和三身的交互關係，至於妙觀察智之妙用，即是觀機說法。故知三身不離四智，四智不離三身，此義甚深！佛常自說：『我於凡愚不開演』，而被六祖數言道破了。可知六祖是大聖菩薩應現的，若真是目不識丁的人，怎麼對於唯識高深的學理，能有如此程度的見地呢？並且他還在那首簡略的偈頌中，顯明和概括了轉識成智的深義。偈云：『大圓鏡智性清淨；平等性智心無病；妙觀察智見非功；成所作智同圓鏡。五八、六七果因轉，但轉名言無實性。若能轉處不留情，繁興永處那伽定』。

> 智通がすでに三身を明らかにした後、さらに四智の意味はどのようなものかと問うた。六祖は言われた。「すでに三身を会得したならば、そのまま四智も明らかになる。もし三身を離れて別に四智を語るならば、それは智があって身がないということになる」。これは身と智が不二である道理を示しており、『成唯識論』や『仏地経論』などで明かされる三身・四智の道理と、きわめてよく一致している。なぜなら法身とはすなわち四智が証する清浄法界の理体であり、四智とはすなわち法身の理体の上に成就される徳用だからである。『成唯識論』に云く、「四智品の中の真実の功徳、鏡智の起こすところの常に遍じる色身は自受用を摂し、平等智品の現ずるところの仏身は他受用を摂し、成事智品の現ずるところの随類の種々の身相は変化身を摂す」。ここにすでに四智と三身の交互関係が説明されている。妙観察智の妙用に至っては、すなわち機根を観て法を説くことである。ゆえに三身は四智を離れず、四智は三身を離れない、この道理ははなはだ深い。仏は常に自ら「我は凡愚のために開演せず」と言われたが、六祖はわずか数言でそれを見事に言い当てた。六祖が大聖菩薩の応現であることがわかる。もし本当に文字の読めない人であったなら、どうして唯識の高深な学理に対してこれほどの見地を持てようか。しかもかの簡略な偈頌の中で、転識成智の深い意味を明らかにし、概括している。偈に云く、「大円鏡智は性清浄なり、平等性智は心に病なし、妙観察智は功なきを見、成所作智は円鏡と同じ。五八・六七は果因に転ず、ただ名言を転ずるも実性なし。もし転ずる処に情を留めずんば、繁興も永く那伽定に処さん」。

大圓鏡智性清淨者，因第八阿賴耶識到佛果位轉成大圓鏡智之時，即捨去了一切有漏劣無漏的生死之法，與清淨的平等法界相應，無漏有為無為徹底圓明。但清淨法界雖然自性本然，生佛平等，而眾生迷故於中妄有生死，顛倒流轉；諸佛悟故，便如如相應，轉成大圓鏡智，究竟清淨法身了。

> 大円鏡智の本性が清浄であるとは、第八の阿頼耶識が仏の悟りの境地に達したとき、大円鏡智へと転じることを指します。そのとき、生と死にまつわる一切の煩悩に汚れた法も、劣った無漏の法もすべて捨て去られ、清らかで平等な法界と一体となります。無漏の有為法も無為法も、ことごとく完全に明らかになるのです。しかし、清浄な法界はもともとそのような性質であり、衆生も仏も平等であるにもかかわらず、衆生は迷っているために、その中で妄（まことならざるもの）として生と死を繰り返し、逆さまに流転してしまいます。それに対して、諸仏は悟っているため、そのままのあり方で法界と響き合い、大円鏡智へと転じて、究極の清浄な法身を完成されるのです。

平等性智心無病者，我們眾生所以有種種生老病死的病，其癥結即在維摩經所謂：『無明、有愛』。這無明、有愛，實是身心眾病的根源。廣言之，即是第七識恆時相應的我癡、我愛、我見、我慢的四種根本煩惱。因為第七末那識在染污因地，迷昧不智，恆執第八識見分為自內我，這便是愚不可及的我癡；由愚癡不了第八識的真相，妄起我見；依之更起貪著，故有我愛；由我愛故，高舉凌人，故有我慢。由此四種煩惱，隨逐於心，無量煩惱皆因此起，就有心病了。若將第七識上之心病去掉，心病自然痊愈，平等性智也自然現行了。故以心無病三字顯明平等性智，極為扼要。

> 平等性智のみ心に病がないというのは、私たち衆生にさまざまな生老病死の病があるのは、その根本原因が維摩経に説かれる「無明と有愛」にあるからです。この無明と有愛こそ、身心のあらゆる病の根源です。広く言えば、第七識に常に働いている我癡・我愛・我見・我慢という四つの根本煩悩のことです。第七末那識は汚れた因地にあって、迷いに覆われ智慧がなく、常に第八識の見分を自分の内なる我だと執着します。これが愚かこの上ない我癡です。愚かさゆえに第八識の真実の姿を理解できず、誤って我見を起こします。それに基づいてさらに貪り執着するので我愛が生じます。我愛があるゆえに他人を見下し高ぶるので我慢が生じます。この四つの煩悩が心に付き従い、無量の煩悩がすべてここから起こるので、心の病となるのです。もし第七識の上の心の病を取り除けば、心の病は自然に癒え、平等性智も自然に現れます。それゆえ「心無病」の三文字で平等性智を明らかに示すのは、きわめて要点を捉えています。

妙觀察智見非功者，通常往往以為妙觀察智，是一種由分別見解所起的智，實則妙觀察智乃是純粹的無分別智；若有分別的能觀所觀的見相，便落於顛倒分別的不妙觀想，反成為妙觀察智的障礙物了。無分別智，即是般若妙慧，由文字般若而觀照般若，由觀照般若而實相般若，即是到了無分別智的境界。但其最初由文字教理而起觀照，此教理亦即無分別的教理，此觀照亦須無分別的觀照，然此二位，總在能所對待之上，其目標在求證無分別智，故起加行無分別智，即觀照般若亦成無分別智了。由此再進，證得實相般若的根本無分別智，則與無分別性體、如如相應，理智不二，能所雙亡，方是根本的無分別智；由此根本無分別智，則所起後得智、加行智，都是無分別智，這便是妙觀察智。故妙觀察智若在分別見中，即非妙觀察智，所以謂『見非功』也。須由無分別智，空蕩一切分別之見，如虛空粉碎，大地平沉，了無所得，妙觀察智方才顯現，故以見非功顯妙觀察智，其扼要亦為諸論釋中所不能道者。

成所作智同圓鏡者，因前五識在因位中，與第八識同現量性境，若在見聞覺知上不落於獨頭意識，都和第八識一樣緣現量性境。但平常未與大圓鏡智相應，即無妙用，須待第八識轉成大圓鏡智，無垢識現五根清淨，則前五識亦隨之而轉成清淨的成所作事智，故云『同圓鏡』也。

五八、六七果因轉，但轉名言無實性，就是說：前五識與第八識轉識成智是在果位，第六與第七識轉識成智是在因位；這在唯識諸經論中，有詳細的說明，而六祖以此一句即能概括其義。但所謂轉，即轉捨依他起性上所有遍計分別的名言習氣。此名言習氣，即五法中的：名、相、分別。由此名言習氣，故從八識現起種種生滅流轉的染法。而所說的轉識成智，即轉此依他起性上名言習氣種種虛妄分別染法，便成為純粹無漏的淨智，非別有實物可轉也。實性、即指平等法身，從本以來不增不減，不垢不淨，無動無搖，無轉無不轉，故雖明五八、六七果因轉，唯轉生滅之法而成此實性本無轉變也。祗要在轉處不留情，當下即同佛果──繁興永處那伽定，行住坐臥，語默動靜，無不在定慧中生活了。那伽是梵語，此譯為龍，喻佛為人中之龍，常處定中，所謂『那伽常在定，無有不定時』；行亦禪定，坐也禪定，覓四威儀相了不可得，住於無住大般涅槃，寂而常用，用而常寂，常常應機現身說法而常常無相可得，常常無相可得而常常應機說法，窮未來際，無有窮盡。而六祖明轉八識成四智，即要歸到各人本身上來，要各人自己於轉處不留凡情，即是實現無分別無住相的四智菩提涅槃。平常日用行事，都是安住於四智菩提中，這是何等親切而有味！故六祖不但不目不識丁，而是具大智慧，具足文字語言三昧者，實非凡人所能測度。佛法簡直是各人本分上事，若於本分明了，則三藏十二部經，亦不過各人本分上的註解罷了。佛之說法度生，亦從其自己本分上示現說法度生，那末六祖之應化示現，亦何嘗不是自己本分上事呢！故繁興永處那伽定，亦可說是『那伽定永繁興用』。我們現在在六祖的道場中一切人物，莫非為六祖的繁興大用所建立，莫非是六祖的等流法身功德所示現；則如憨山大師，固是六祖的功德所示現，如今虛雲老和尚，應廣東四眾請，來興此道場，亦和六祖現身無異了！這樣去觀察體驗六祖的功德，則六祖功德遍滿此處，我們在六祖道場中的一切，都與六祖親切相應而當體無異六祖了。

現在各位新發心者在此受戒，須知六祖所說：『心地無非自性戒』的義理。受戒時雖有三師七證，以及種種方法儀式，要之、一切戒法，皆從釋迦牟尼佛身等流而出，法身生佛不二，本來自性清淨，自性清淨即是戒體，故受戒是不從他得，要以各人自性無垢心為清淨戒體，方名得戒。則各人所得自性戒，即同六祖自性戒；而在此受戒者，亦應知戒和尚、引禮師等所有人物，都是六祖功德所等流示現。如此成就一切功德，則這個三寶道場就成為真正的人天福田了。十二，十八，參禮六祖後講。

（竹摩記）見海刊十七卷三期