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  1. 仏説人本欲生経 (佛說人本欲生經)
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人本欲生経 (人本欲生經)

「人本欲生經」について

後漢 · 底本の訳者:安世高

6,272 字 · 約 21 分

『人本欲生経』は、後漢時代の著名な経典翻訳家・安世高によって漢訳された重要な仏教経典です。安世高は中国仏教史上最も早い時期の訳経僧の一人として、2世紀に活躍し、仏教の中国伝来の礎を築きました。この経典は初期の漢訳仏典に属し、主に人間の欲望の本質と解脱への道を探求しています。内容は四諦・十二因縁といった仏教の核心的な教義に及び、欲望を智慧によって断ち切り解脱に至ることを強調しています。初期中国仏教の重要な文献として、『人本欲生経』は仏教伝来初期の思想的特徴を反映しており、中国仏教発展史の研究において重要な価値を持ち、漢訳仏典体系の中でも独特の地位を占めています。


佛說人本欲生經

仏説人本欲生経

後漢安息三藏安世高譯
聞如是:

私がこのように聞きました。

一時,佛在拘類國,行拘類國法治處。是時,賢者阿難獨閑處傾猗念,如是意生:「未曾有是,意是微妙本,生死亦微妙中微妙,但為分明易現。」便賢者阿難,夜已竟,起到佛。已到,為佛足下禮已,訖一處止。已止一處,賢者阿難白佛:「如是我為獨閑處傾猗念,如是意生:『未曾有是,意是微妙本,生死亦微妙中微妙,但為分明易現。』」

ある時、釈尊は拘類国におられた。そこは拘類国の法律に基づいて治められている場所であった。そのとき、尊者の阿難は、一人静かな場所で、深く考えに耽っていた。そして、このような思いが心に浮かんだ。「これは未曾有のことだ。心こそが、この微妙な世界の根源である。そして、生と死もまた、微妙な中のさらに微妙なものである。しかしながら、このことは、はっきりと理解しようとすれば、容易にその姿を現すものである。」こうして、夜が明けた時、尊者の阿難は、釈尊のおられる場所へと向かった。到着すると、釈尊の足に礼拝し、その後、黙って片隅に座った。そして、その場所に座ったまま、尊者の阿難は釈尊にこう申し上げた。「私はこのように、一人静かな場所で、深く考えに耽り、このような思いが心に浮かびました。『これは未曾有のことです。心こそが、この微妙な世界の根源です。そして、生と死もまた、微妙な中のさらに微妙なものです。しかしながら、このことは、はっきりと理解しようとすれば、容易にその姿を現すものです。』と。」

佛告阿難:「勿說是分明易知易見,深微妙。阿難!從有本,生死是。阿難!從本因緣生死,如有不知、不見、不解、不受,令是世間如織機躡撰往來,從是世後世,從後世是世,更苦世間居,令不得離世間。如是因緣,阿難!可知為深微妙。從有本生死,明亦微妙。若有問:『有老死因緣?』問是,便報:『有因緣。』『何因緣,阿難!老死?』便報:『生故。』若有問:『有生因緣?』問是,便報:『有因緣。』『何因緣生?』『有故為生。』若有問:『有因緣有?』便報:『有因緣有。』『何因緣有?』報:『受因緣有。』若有問:『有因緣受?』報:『有因緣受。』『何因緣受?』報:『為愛求因緣受。』如是,阿難!從愛求因緣受,從受因緣有,從有因緣生,從生因緣老、死、憂、悲、苦、不可意、惱生,如是為具足最苦陰。從是有習,生因緣,阿難!為老死,是故說,是為從是致有是,當從是,阿難!分明,為生因緣老死。若,阿難!無有生,為無有魚、魚種,無有飛鳥、飛鳥種,為無有蚊虻、蚊虻種,為無有龍、龍種,為無有神、神種,為無有鬼、鬼種,為無有人、人種。各各種若如有,如有生無有,亦無應有令有生。一切,阿難!無有生,為有老死不?」

仏が阿難に告げられた。「これを『わかりやすく、知りやすく、見やすく、深く微妙である』と言ってはならない。阿難よ、存在(有)を根源として、生死(生まれ変わり)があるのである。 阿難よ、この根源的な因縁(条件)による生死を、もし知らず、見ず、理解せず、受け入れなければ、この世はまるで織り機の梭(ひ)のように行ったり来たりし、この世から次の世へ、次の世からこの世へと、苦しみの世界に居続けることになる。世間を離れることができないのである。このような因縁ゆえに、阿難よ、これは深く微妙であると知られるべきだ。存在を根源として生死があること、その道理もまた微妙なのである。

もし『老いと死には因縁(条件)があるのか?』と問われれば、それに対しては『因縁がある』と答えよ。『何が因縁となって老いと死があるのか、阿難よ?』と問われれば、『生があるからだ』と答えよ。 もし『生には因縁があるのか?』と問われれば、それに対しては『因縁がある』と答えよ。『何が因縁となって生があるのか?』と問われれば、『存在(有)があるからだ』と答えよ。 もし『存在には因縁があるのか?』と問われれば、『因縁がある』と答えよ。『何が因縁となって存在があるのか?』と問われれば、『執着(取)が因縁となって存在がある』と答えよ。 もし『執着には因縁があるのか?』と問われれば、『因縁がある』と答えよ。『何が因縁となって執着があるのか?』と問われれば、『渇愛(愛)の追求が因縁となって執着がある』と答えよ。

このように、阿難よ。渇愛の追求を因縁として執着があり、執着を因縁として存在があり、存在を因縁として生があり、生を因縁として老い、死、憂い、悲しみ、苦しみ、思い通りにならなさ、悩みが生じる。これによって、まさに苦しみの塊が完全に集まるのである。これにより習い(習慣的な因果の連鎖)があるのだ。

生を因縁として老いと死がある、阿難よ。だからこそ、『これがあるから、あれがある』と言われるのである。このことから、阿難よ、はっきりと理解せよ。生を因縁として老いと死がある、と。

もし、阿難よ、生というものが全く存在しなかったとしたら。魚や魚の種類が全く存在せず、鳥や鳥の種類も全く存在せず、蚊や虻(あぶ)やその種類も全く存在せず、竜や竜の種類も全く存在せず、神々や神々の種類も全く存在せず、鬼や鬼の種類も全く存在せず、人や人の種類も全く存在しなかったとしたら。それぞれの種類がもしあるように存在するとしても、もし生というものが全く存在しなければ、生を存在させるものもありえない。一切の生が全く存在しなければ、はたして老いと死は存在するだろうか?」

阿難白佛言:「不。」

阿難が仏様に申し上げました。「いいえ、そうではありません。」

佛便告阿難:「從是因緣當知,為從是本、從是習、從是因緣,老死為生故,生因緣,阿難!為老死。生因緣,阿難!為老死。若有問:『有因緣生?』可報:『有因緣生。』『何因緣生?』『為有因緣故。』從是,阿難!因緣當知,令從是有,有因緣生。若,阿難!有因緣無有,寧有魚、魚種,飛鳥、飛鳥種,蚊虻、蚊虻種,龍、龍種,神、神種,鬼、鬼種,人、人種。各各種如應應有,無有亦無有者,為有無有。一切,阿難!無有,為有生不?」

そこで仏は阿難に告げられた。「この因縁によって知るべきである。これが根本であり、これが習いであり、これが因縁である。老死は生があるからであり、生を因縁として、阿難よ、老死がある。もし『生には因縁があるのか』と問うならば、『生には因縁がある』と答えるべきである。『何がその因縁か』と言えば、『有(存在)が因縁である』と。このように、阿難よ、因縁によって知るべきである。有があるからこそ、生があるのである。もし、阿難よ、有という因縁が全くなかったならば、魚や魚の種類、鳥や鳥の種類、蚊や虻の種類、竜や竜の種類、神や神の種類、鬼や鬼の種類、人や人の種類が、それぞれに応じて存在するであろうか。いや、一切存在しないであろう。阿難よ、一切が無かったならば、生があるであろうか(いや、ない)。」

阿難言:「不。」

阿難が言いました。「いいえ、そうではありません。」

「是故,阿難!從是發、從是本、從是習、從是因緣,生為有有故,從有因緣,阿難!為生。若有問:『有因緣有?』便言:『有。』『何因緣,阿難!有?』可報:『為受因緣,有因緣有。』如是分明,為受因緣有。設,阿難!受因緣無有,亦無有受有。一切,阿難!無有受,為有現不?」

「だからこそ、アーナンダよ。 この【執着・渇愛】という出発点から、この原因から、この習慣から、この縁から、【存在】があるからそれが実現する。 存在という縁があるから、アーナンダよ、生まれるのだ。 もし『存在には縁があるのか?』と問われたら、『ある』と答えなさい。 『では、アーナンダよ、何の縁で存在はあるのか?』と問われたら、 『執着〔の作用〕という縁によって、存在はあるのだ』と答えるがよい。 このように明らかに、執着〔の作用〕という縁によって存在があるのだ。 もし、アーナンダよ、執着〔の作用〕という縁がまったくなかったなら、 また、執着による存在もありえない。 一切、アーナンダよ、執着がなければ、存在が現れることがあるだろうか?」

阿難報:「不。」

阿難が答えた。「いいえ。」

「如是,阿難!為從是起、從是本、從是習、從是因緣令有受。受因緣,阿難!為有,有因緣,阿難!受。有因緣,阿難!受。如是問對:『為有何因緣有受?』可報:『愛因緣。』從是因緣,阿難!當知為愛因緣受。若,阿難!無有愛,亦無有受,亦無有當受。一切,阿難!無有愛,為有受不?亦有受名不?」

「そういうことだ、アーナンダ。触(触れること)が起こり、触が基となり、触が習慣となり、触が因縁となって、受(感じること)があるのだ。アーナンダ、受には、渇愛が因縁となって存在がある。アーナンダ、存在が因縁となって、受がある。このような問答があるだろう。『何を因縁として受があるのか?』と問われたら、『渇愛を因縁として』と答えるべきだ。アーナンダ、この因縁によって、渇愛を因縁として受があると知るべきである。アーナンダ、もし渇愛が全くないならば、受もなく、これから受けることもない。アーナンダ、一切において渇愛がなければ、受があるだろうか? また、受という名があるだろうか?」

阿難言:「不。」

阿難が言いました。「いいえ、そうではありません。」

「如是,阿難!為從是發、從是本、從是習、從是因緣,為愛因緣受。愛因緣,阿難!為受。如是,阿難!為愛因緣求,求因緣利,利因緣計,計因緣樂欲,樂欲因緣發求。以往愛因緣便不欲捨慳,以不捨慳因緣便有家,以有家因緣便守,從守行本,阿難!便有刀杖,從有刀杖,便有鬪諍言語、上下欺侵、若干兩舌多非,一致弊惡法。若,阿難!本無有亦無所守,亦無有守。一切,阿難!無有守,為有刀杖、鬪諍語言、上下欺侵、若干兩舌多非,一致弊惡法不?」

「阿難、まさにこのように、執着[愛]を縁として感受[受]が生じるのです。執着を縁として感受がある――これが縁起の道理です。さらに、阿難、執着を縁として追い求め[求]が生じ、追い求めを縁として利得[利]が生じ、利得を縁として分別[計]が生じ、分別を縁として欲望への執着[楽欲]が生じ、欲望への執着を縁として執拗な追求[発求]が生じます。

執着に基づいて、手放さないという吝嗇[慳]が生まれ、吝嗇に基づいて執着[家]が生まれ、執着に基づいて守ろうとする心[守]が生まれます。守るという行為から、阿難、刀や杖が生じ、刀杖から争いや罵り、中傷、嘘、悪口など、様々な悪しき行為が現れます。

阿難、もし根源に執着がなく、守る対象もなく、守るという行為そのものが存在しなかったなら、そもそも刀杖や争い、罵り、欺瞞、二枚舌、悪口など、様々な悪しき現象が生じるでしょうか?」

阿難言:「不。」

阿難が言いました。「いいえ、そうではありません。」

「如是,阿難!是從是發、是為本、是為習、是為因緣,刀杖、鬪諍語言、上下欺侵、若干兩舌多非,一致弊惡法。從守故,阿難!便有刀杖、鬪諍語言、上下欺侵、若干兩舌多非,一致弊惡法。如是,但為多苦,為從五陰習致,家因緣令有守。是故,為說是,當從是知。阿難!為家因緣守。若家因緣無有,已無有受,當何因緣有家?一切家因緣無有,寧有家不?寧有刀杖、鬪諍語言、上下欺侵、若干兩舌多非,一致弊惡法不?」

「まさにその通り、阿難よ。これは『守る』ということが原因で起こり、『守る』を根本とし、『守る』を縁として生じるのです。刃や杖、争いや口論、上下による欺瞞や侵害、様々な両面語や悪口など、これら全ての悪しき法は、『守る』ことに起因しています。阿難よ、『守る』があるからこそ、刃や杖、争いや口論、上下による欺瞞や侵害、様々な両面語や悪口など、これら全ての悪しき法が生じるのです。

このように、これは多くの苦しみをもたらします。これは五蘊(ごうん)という執着の集まりから生じ、『家』という因縁によって『守る』という状態が生まれるのです。故に、こうして説かれたことを通じて、あなたはこの道理を理解すべきです。

阿難よ、『家』の因縁によって『守る』ということが生じるのです。もし『家』という因縁が全く無ければ、執着する対象も無くなり、いったい何を因縁として『家』が存在し得るでしょうか? 全ての『家』の因縁が無くなったなら、はたして『家』は存在するでしょうか? また、刃や杖、争いや口論、上下による欺瞞や侵害、様々な両面語や悪口など、これら全ての悪しき法が存在するでしょうか?」

阿難言:「不。」

阿難が言いました。「いいえ、そうではありません。」

「如是,阿難!從是有、從是本、從是習、從是因緣令有守,為守故從家,阿難!令有守,難捨慳因緣令有家,從是因緣有是,當從是因緣知。阿難!為難捨慳因緣令有家,若難捨慳,阿難!無有,亦無有受。已無有受,寧當有慳難捨不?一切,阿難!慳難捨已無有,寧當有家不?」

「このように、アーナンダよ。『守る』ということが存在するのは、それに基づき、それを根源とし、それに慣れ親しみ、それを縁として生じるのです。『守る』があるからこそ、人は家を持つことになります。アーナンダよ、『守る』があるのは、執着(しゅうじゃく)を捨てがたいという縁によって家が存在するからです。このような因縁によって『守る』が存在するのだと、そう理解すべきです。アーナンダよ、執着を捨てがたいという縁によって家があるのです。もし執着を捨てがたいということがまったく無く、執着もまた無いならば、どうして執着を捨てがたいということがありえましょうか。すべて、アーナンダよ、執着を捨てがたいということがまったく無くなったなら、どうして家が存在しえましょうか。」

阿難白佛言:「無有。」

阿難が仏に申し上げました。「そのようなことはありません。」

「如是,阿難!從是起、從是本、從是習、從是因緣受家,慳難捨故,阿難!令有家。從往受,阿難!因緣,令有慳難捨,是故有是言,亦從是因緣有是。如是,當從是因緣,阿難!可解,為從發受,從是受慳難捨。若,阿難!發受無有,寧有受?亦何因緣往受?一切,阿難!無有發受,寧當有慳難捨不?」

「そうである、阿難よ。このことから起こり、これを根本とし、これに習い、この因縁によって、ものを惜しみ手放しがたい心が生じる。それによって、阿難よ、所有というものがある。過去の執着から、阿難よ、因縁によって、ものを惜しみ手放しがたい心がある。ゆえにこの言葉があり、またこの因縁によってこれがある。このように、この因縁によって、阿難よ、理解できるであろう。執着の発生から、この執着によってものを惜しみ手放しがたいのだ。もし、阿難よ、執着の発生が無ければ、執着があるだろうか?また何の因縁によって執着が生じるのか?すべて、阿難よ、執着の発生が無ければ、ものを惜しみ手放しがたい心があるだろうか、いや、ない。」

阿難白佛言:「不。」

阿難が仏様に申し上げました。「いいえ、そうではありません。」

「如是,阿難!從是起、從是本、從是習、從是因緣,令慳難捨,為發往受,故亦為發。有因緣故,阿難!令有慳難捨。欲貪因緣,阿難!令有發。是故說是,當從是因緣,阿難!知,為從欲貪因緣令發。若欲貪,阿難!無有,已無有因緣,亦何因緣當有欲貪?一切,阿難!欲貪無有,寧當有發往不?」

「そうだ、アーナンダ。このことから起こり、これを根本とし、これに習い、この因縁によって、吝嗇(けち)で手放しがたい心が生じ、それが未来への執着を生み出し、また作用を引き起こすのです。因縁があるからこそ、アーナンダよ、吝嗇で手放しがたい心が存在するのです。欲望と執着の因縁によって、アーナンダよ、作用が生じるのです。ゆえにこう説きます。この因縁によって、アーナンダよ、知りなさい。欲望と執着の因縁から作用が生じると。もし欲望と執着が、アーナンダよ、存在しなければ、その因縁もなく、いったい何の因縁によって欲望と執着が生じるというのでしょう?すべてにおいて、アーナンダよ、欲望と執着が存在しないならば、未来への執着や作用などあり得るでしょうか?」

阿難言:「不。」

阿難が言いました。「いいえ、そうではありません。」

「如是,阿難!從是發、從是本、從是習、從是因緣,令發為有欲貪。故為從欲貪,阿難!令發、已發。從發往令有欲貪。是故為說,當從是因緣知,為從發往令有欲貪。若無有發往,阿難,亦無有令發往。一切,阿難!雖發往若有貪欲不?」

「このように、アーナンダよ。その発生があり、それを根源とし、それに慣れ親しみ、それを因縁として、生存への欲求と執着が生じるのです。ゆえに、アーナンダよ、その欲求と執着から、生存が生じ、すでに生じたのです。生存から進んで、欲求と執着があるのです。ですから、次のように知るべきです。生存から欲求と執着がある、と。もし、アーナンダよ、生存がなければ、生存へと進むこともありません。すべて、アーナンダよ、生存があっても、そこに欲望の執着はないでしょうか?」

阿難言:「不。」

阿難が言いました。「いいえ、そうではありません。」

「如是,阿難!為從是有、從是本、從是習、從是因緣,貪欲為有,發往因緣令有欲貪,從是利故,阿難!令發往。為從是說是。當從是因緣知,為從利因緣令發往。若,阿難!以無有利亦無有求,亦何因緣有求?一切,阿難!已無有利,寧當有發往不?」

「そういうわけだ、阿難よ。欲望が存在するのは、あるものに基づき、それを根源とし、それに慣れ親しみ、それを原因としているからである。その欲望を手に入れるために、人は行動を起こすのである。その利益のゆえに、阿難よ、人は行動に赴くのだ。そういう理由から、こう言われている。つまり、そのような因果関係によって理解すべきであり、利益という原因によって行動が生じるのである。もし、阿難よ、利益がなければ、求めることもない。そもそも、何の原因があって求めることがあろうか?すべてにおいて、阿難よ、利益がなくなってしまったならば、はたして行動を起こすことがあり得るだろうか?」

阿難言:「不。」

阿難が言いました。「いいえ、そうではありません。」

「如是,阿難!從是有、從是本、從是習、從是因緣,發往利故,利故亦發求,從求因緣故令有利。故說是,從是因緣當知,令從求因緣有利。若求因緣,阿難!無有,亦何因緣有求?亦從何因緣求?一切,阿難!以無有求,若有見利不?」

「阿難、このように、『有る』ということを基盤として、『本来ある』という基盤があり、そこから習慣的に生じ、因縁によって利益を求め始めるのです。利益があるからこそ求めも起こり、求めるという因縁によって利益がもたらされます。だからこう説かれています。この因縁によって知るべきです。『求める』という因縁から利益があると。もし求めるという因縁が存在しなければ、どうして求めることがあるでしょうか。また、何の因縁によって求めるのでしょうか。阿難、一切において、求めることが無ければ、利益を見ることはないのではないでしょうか。」

阿難言:「不。」

阿難が言いました。「いいえ、そうではありません。」

「如是,阿難!從是有、從是本、從是習、從是因緣,為有利,為有求故。求故,阿難!令有利,從愛故令有求。是故說,當從是知,令從愛求。若,阿難!無有愛,亦無有求,亦無有因緣求,亦無有愛。一切,阿難!愛無有,寧當有求不?」

「そういうことだ、阿難よ。『有る』ということがあり、それを基盤とし、それを習慣とし、それを原因・条件として、利益があり、求めるものがあるのだ。求めるがゆえに、阿難よ、利益が生じる。愛執があるからこそ、求めるものがあるのだ。ゆえに、次のように知るべきである。すなわち、愛執があるから求めるのである。もし、阿難よ、愛執が全くなければ、求めるものもなく、求める原因もなく、愛執もないのだ。すべて、阿難よ、愛執が無くなったならば、はたして求めるものがあるであろうか?」

阿難言:「不。」

阿難が言いました。「いいえ、そうではありません。」

「如是,阿難!從是有、從是本、從是習、從是因緣,有愛故令有求,求故令有愛。彼,阿難!欲愛亦有愛。是二皆痛相會,有痛因緣。阿難!若有問是,便言:『有。』『何因緣有?』便言:『更因緣有。』從是因緣,阿難!亦當知,令更因緣痛。若,阿難!眼不更,亦無有應當更,眼亦不得更。一切,阿難!眼已不更,寧有眼更不?亦有眼當因緣生不?為樂為苦、為亦不樂亦不苦。」

「そういうことなのです、アーナンダ。この『ある』という状態があり、これを基盤とし、これを根源とし、これを習慣とし、これを原因と条件として、執着(愛)があるから求めることが生まれ、求めるから執着があるのです。アーナンダ、ここでの欲求の執着(欲愛)も執着(有愛)も、どちらも感受(痛)と結びついています。感受を原因・条件として存在するのです。アーナンダ、もし誰かが『何かがあるのですか?』と問うなら、あなたは『あります』と答えるべきです。『何を因縁としてあるのですか?』と問うなら、『接触(更)を因縁としてあります』と答えるべきです。この因縁によって、アーナンダ、あなたは知るべきです。接触を因縁として感受があるのだと。アーナンダ、もし眼という接触が存在しなければ、接触されるべきものもなく、眼という接触そのものもありえません。アーナンダ、全てにおいて眼という接触がなかったなら、眼の接触は存在するでしょうか?また、眼を因縁として生じる感受はあるでしょうか?それが楽であれ、苦であれ、あるいは楽でも苦でもないものであれ。」

阿難應:「不。」

阿難が答えた。「いいえ。」

「如是,阿難!從是有、從是本、從是習、從是因緣,令眼更痛。眼更因緣,阿難!令眼知痛;耳亦如是、鼻亦如是、舌亦如是、身亦如是、心不更,阿難!亦無有當更,亦無更因緣令心更。一切,阿難!心無有更,寧當有心更入因緣令有痛不?令有樂不?令有苦不?令有不苦不樂不?」

「このように、阿難よ。これがあるから、これを根本とし、これに習い、これを因縁として、眼に苦痛を生じさせるのです。眼に触れる因縁によって、阿難よ、眼に苦痛を知らせるのです。耳もまた同じ、鼻もまた同じ、舌もまた同じ、身もまた同じです。しかし心は触れることがありません。阿難よ、触れるべきものもなく、触れる因縁もないので、心が触れることはありません。すべてにおいて、阿難よ、心には触れることがないのです。どうして心に触れ入る因縁があって、痛みを生じさせ、楽しみを生じさせ、苦しみを生じさせ、苦しくもなく楽しくもない感覚を生じさせることがありましょうか?」

阿難應:「不。」

阿難が答えます。「いいえ、違います。」

「如是,阿難!是為有、是為本、是為習、是為因緣,痛令有更,心更因緣,阿難!令有痛。若有問:『有因緣更不?』對:『為有。』『何等更有因緣?』對:『為名字因緣。』當從是,阿難!可知,令從名字因緣更。若從所處有,亦從所處應受,令名身聚有。若,阿難!從所處有,亦從所處應受無有,為有更有名字不?」

「そうである、阿難よ。これが『有』であり、これが根本であり、これが習慣であり、これが因縁である。感覚(痛)が認識(更)を生じさせる。心の認識には因縁がある。阿難よ、それによって感覚が生じる。もし『因縁によって認識があるのか』と問われれば、『ある』と答えよ。『どのような因縁によってか』と問われれば、『名称(名前)という因縁によって』と答えよ。これによって、阿難よ、知るがよい。名称(名前)という因縁によって認識が生じるのである。もし、あるところに存在があり、またあるところで受け取られるべきものがあれば、それによって身体という集まりが存在する。もし、阿難よ、あるところに存在があり、またあるところで受け取られるべきものが全くないならば、その場合、名称(名前)はさらに存在するであろうか?」

阿難言:「不。」

阿難が言いました。「いいえ、そうではありません。」

「若,阿難!從所處有,亦從所應受無有,令名身有無有,寧當有對更不?」

「アーナンダよ、もしある場所に(名身が)存在し、またそれに相当する受(感受作用)が存在しなければ、名身は存在することになるだろうか。そもそも、そのような場合に、対となる触(接触)が生じることはあり得ないではないか?」

阿難言:「不。」

阿難が言いました。「いいえ、そうではありません。」

「一切,阿難!名字亦色身無有,為有更不?為從有更不?」

「アーナンダよ、一切のものには、名前もなければ色形もないのだ。それでは、何か別のものが存在するのか?いや、別のものから生じるのでもないのだ。」

阿難言:「不。」

阿難が言いました。「いいえ、そうではありません。」

「如是,阿難!為從是是發、為從是是本、為從是是習、為從是是因緣、從是是更令、從是名字。名字因緣,阿難!令有更。阿難!『有名字因緣?』設有問,便對:『為有。』『何因緣名字?』謂識因緣為有。當從是因緣,阿難!解知,為識因緣名字。若識,阿難!不下母腹中,當為是名色隨精得駐不?」

「このように、阿難よ。それに基づいて生じ、それを根源とし、それを縁とし、それを原因として、そこから縁起が生じ、そこから名前が生じる。名前という縁(原因)によって、阿難よ、縁起が存在する。阿難よ、『名前という縁があるのか?』と問われるなら、『ある』と答えるべきである。『何が原因で名前があるのか?』と言うならば、それは認識(識)が原因となって存在すると知るべきである。この原因によって、阿難よ、認識を縁として名前があると理解しなさい。もし、阿難よ、認識が母の胎内に宿らなければ、その名前と形(名色)が、どのようにして留まり、固着することができるだろうか?」

阿難言:「不。」

阿難が言いました。「いいえ、そうではありません。」

「若識,阿難!母腹已下不得駐去,為有名字得致不?」

「阿難よ、もし識(意識)が胎内に入った後に留まらずに出て行ってしまったなら、名前(物質的な形や個体としての存在)は成り立つでしょうか?」

阿難言:「不。」

阿難が言いました。「いいえ、そうではありません。」

「識,阿難!為本。若男兒、若女兒,已壞、已亡,令無有,為得名字令增長、令所應足不?」

阿難よ、「識(認識するはたらき)」は根本なのです。もし、男であれ女であれ、その識がすでに壊れ、なくなってしまったなら、名前として成り立つことはなく、増え広がったり、その役割を十分に果たすことはできるでしょうか?

阿難言:「不。」

阿難が言いました。「いいえ、そうではありません。」

「如是,阿難!從是起有、從是本、從是習、從是因緣,為名字從識,識因緣,阿難!為有名字。『有因緣,阿難!識?』若問是,便對:『有。』『從何因緣有識?』『名字因緣有識。』當從是因緣,阿難!分別解,為名字因緣識。若,阿難!識不得名字駐已,識不得駐、得增上,為有生、老、死、苦、習能致有不?」

「そういうことだ、阿難よ。『有(存在)』というものは、『識(認識)』という名前を生み出す基盤であり、源であり、よりどころであり、因縁なのだ。阿難よ、識(認識))には、その因縁があるのだよ。

『阿難よ、識には因縁があるのか?』と問われたら、『ある』と答えなさい。『その因縁とは何か?』と問われたら、『名前(名:[自他を区別する概念])が識の因縁である』と答えなさい。

阿難よ、このように因縁をよく理解しなさい。すなわち、名前(名)が識の因縁となるのだ。

もし、阿難よ、識が名前(名)に拠りどころを持たなければ、識はとどまることができず、成長することもできない。そうであれば、生、老、死、苦といった、さらなる苦しみを生み出す因縁が存在しうるだろうか?」

阿難言:「不。」
「如是,阿難!從是致、從是本、從是習、從是因緣,識令有名字,名字因緣有識。是如是為識因緣名字,名字因緣識,止是說名、止是處對、止是諍本現,當從有慧莫受。幾因緣,阿難!為計痛是為身?」

「このように、阿難よ。これによって生じ、これを根源とし、これに慣れ親しみ、これを原因・条件として、識(認識)が名前(名称)を持ち、名前によって識が存在する。このようにして、識と名前は互いに原因・条件となり合っている。こうした関係を、名前と識の縁起という。これこそが『迷いの語り』を超え、『執着の対象』を超え、『争いの根源』を超えたあり方である。智慧ある者は、これに執着してはならない。阿難よ、いったいいくつの因縁によって、私たちは感受(痛み・感情)を身体(自己)と見なしてしまうのだろうか?」

阿難言:「是法本從佛,是法正本佛,自歸本佛,願令佛說,令從佛說,是說受解利。」

阿難が申し上げました。「この教えはもともと仏さまから出たものです。この教えの根本は仏さまにあり、そのよりどころも仏さまです。どうか仏さまご自身がお説きください。仏さまの説かれるままに受け止め、理解し、その利益を得ることができますように。」

佛言:「聽!阿難!善哉,善哉!諦受念,佛便說。」
賢者阿難應:「唯然,從佛聞。」

賢者アーナンダは「はい、仏様からお聞きしました」とお答えした。

佛便說是:「或,阿難!有見,是痛為身;或有見,是痛計非身,但為身更痛法見是為身;或一身為是痛,見不為身亦不為痛法,見痛法計是不為身,但為見是身為身。彼,阿難!或為在是痛計為身,當為對說:『是是痛,賢者!為三輩:有樂痛、有苦痛、有不樂不苦痛。是,賢者!三痛見,何痛應作身?』樂痛時,阿難!是時二痛已為滅。為苦?亦不樂亦不苦?是時但為樂更。樂痛,阿難!非常,苦要滅。樂,阿難!痛已滅,離身不在身計。是如是。是時,阿難!苦痛更時,是時為兩痛已滅,為樂亦苦,是時但為更苦痛。苦,阿難!痛非常,苦盡法。苦,阿難!痛已盡,身不復更知。是時,阿難!亦不苦、亦不樂、不更是痛。是時兩痛滅,痛亦苦,但為是時,不苦不樂更是痛。不苦不樂,阿難!痛法,非常、苦盡。不苦不樂,阿難!痛已盡,應無有身,自有是計。或,阿難!為行道,為是非常法,痛為計見身;或有,阿難!為行道,放散樂苦痛,為自見計身。如是,阿難!因緣不應可為痛作身見身。彼,阿難!或不痛計見是身,但為身法更痛。便可報:『若,賢者!無有痛更,亦不見所更,寧當應有是不?』是時,阿難比丘!不痛為見計非是身,寧應是法更痛亦見是身不?」

そこで仏は阿難に説いた。「ある見解では、この感受(痛)こそが自己であると見なす。また別の見解では、感受は自己ではないが、身体が感受する現象を自己と見なす。あるいは、一つの感受全体を自己とみなし、感受も感受の対象も自己ではないとしながら、感受の現象を自己と見なす見解もある。

阿難よ、『感受を自己と見なす』見解を持つ者には、こう説くべきである。 『賢者よ、感受には三種類がある。楽受、苦受、不苦不楽受である。この三つの感受の中で、どれを自己と見なすのか?』

楽受を経験している時、阿難よ、その時には残りの二つの感受(苦受と不苦不楽受)は消えている。苦受も不苦不楽受もなく、ただ楽受だけが経験されている。楽受は無常であり、苦しみを終わらせる性質を持つ。楽受が滅びれば、もはや自己として執着する対象はなくなる。

次に、苦受を経験している時には、楽受と不苦不楽受の二つが消えている。苦受もまた無常であり、苦しみを尽くす法である。苦受が滅びれば、身体はもはやそれを知ることはない。

さらに、不苦不楽受を経験している時には、楽受と苦受の二つが消えている。不苦不楽受もまた、無常であり、苦しみを尽くす法である。これが滅びれば、自己と見なすべきものは何もない。

阿難よ、ある修行者は、無常なる感受(法)を観察し、それを自己と見なす。また別の修行者は、楽と苦の感受を離れ、それを自己と見なす。しかし、このように感受を自己と見なすことは、道理にかなわない。

一方で、感受そのものを自己と見なさず、『身体が経験する感受の現象』を自己と見なす者には、こう問うべきである。 『賢者よ、もし全く感受がなく、経験されるものも何もないならば、そこに「自己」はあり得るだろうか?』

この時、阿難よ、比丘は感受を自己と見なさないが、身体が感受する現象を自己と見なすことは、正しいのだろうか?」

阿難言:「不?」

阿難が言った。「そうではないのですか?」

「如是,阿難!是因緣亦不應、亦不可令;或一無有痛計是身,但為身更痛。彼,阿難!所不計痛為身,亦不見是痛非身、亦不身更痛、亦痛法不見不計是身,但為計我為不覺是身是身。便可報:『一切,賢者!自計身,不更痛,寧應有身不?』是時,比丘!不痛為身,身亦不更痛,痛法亦不為身,有身但為不覺身耳。如是觀身,寧應身不?」

「アーナンダ(阿難)よ、このようにして、縁起というものは『作られたもの』でも『為されたもの』でもない。あるいは、「身体に全く痛みがない」と想定して、それを『身体である』と見なすこともない。ただ、身体は身体として、より多くの痛みを感じるものである。

アーナンダよ、彼(修行者)は、痛みを『身体』であると想定せず、痛みが『身体ではない』とも見ない。また、身体が痛みを感じることもなく、痛みという現象自体を『身体』であると想定したり見なしたりもしない。ただ、『私は身体を、身体として気づいていない』と想定しているだけである。

その時に、もし『賢者よ、自らを身体と想定し、痛みを感じないならば、それでもなお、身体があると言えるだろうか?』と問えるだろうか。

その時、比丘よ、痛みは身体ではなく、身体もまた痛みを感じることはない。痛みという現象もまた身体ではない。『身体がある』というのは、ただ身体に気づいていないだけのことである。このようにして身体を観察するとき、はたして身体はあると言えるだろうか?」

阿難言:「不。」

阿難が言いました。「いいえ、そうではありません。」

「如是因緣,阿難!不應令無有痛為身,亦不身為更、亦不應法為身、亦不應不覺身為身。如是,阿難!一切痛為作身已痛見。見是身,幾因緣?阿難!或為行道,不為痛作身為見不見身。」

「このように、アーナンダよ。苦しみのないものを自己とみなしてはならない。また、身体を自己とみなしてはならず、心の働きを自己とみなしてはならず、苦しみを感じないものを自己とみなしてもならない。そのように、アーナンダよ。あらゆる苦しみを自己とみなして、苦しみをあるがままに見るのだ。では、この自己というものは、どのような原因によって生じるのか?アーナンダよ。ある時は修行の道によるものであり、苦しみを自己とみなさずに見たり、見なかったりするのである。」

阿難報:「是法本從佛教,令亦從佛,願佛為說。佛說已,弟子當受,令是說當為解利。」

阿難がお答えしました。「この教えはもともと仏様からいただいたものであり、今また仏様からお聞きしたいと願っております。どうか仏様がお説きください。仏様がお説きになれば、弟子たちはそれを受け、この教えを理解し利益を得ることができますように。」

佛告阿難:「聽是,受是,諦受,重受,念是,當為說。」如是賢者阿難從佛聞。
佛便說是:「有,阿難比丘!不為痛作身,亦不見痛為身,亦不為身更,亦不痛法計為身,亦不見身見為身,亦不從或有是身,亦不從是見見是身已,如是見不復致世間。令不復受世間已,不復受致世間便不復憂,已不復憂,便無為度世,便自知為已盡,生老病死憂已畢,行已足,所應作已作,不復還在世間。齊是,阿難!或為行道,不計痛為身,自方便作,亦不見見為身,幾因緣,阿難!或為行道,為色作身?」

仏はこう説かれた。「アーナンダ比丘よ、『ある』というならば、苦痛をもって身とすることなく、また苦痛を身と見ることもなく、身のために苦痛を変えることもなく、苦痛を法として身と数えることもなく、身という見解を身と見ることもない。また、『これが身である』という執着からも、『この見解によって身を見る』という執着からも離れる。このように見るならば、もはや世間に執着することはない。世間への執着を離れたならば、再び世間の苦しみを受けることはない。苦しみを受けなくなったならば、憂いもなくなる。憂いがなくなったならば、無為の境地に達し、自ら知る。すなわち『生、老、病、死、憂いのすべてが尽きた。修行は完成し、なすべきことはなされた。もはや世間に戻ることはない』と。ここに至って、アーナンダよ、ある修行者は道を実践し、苦痛を身と数えず、自ら方便を施して修行する。また、見解を身と見ることもない。アーナンダよ、どのような因縁によって、ある修行者は道を実践し、色(物質的存在)をもって身とするのであろうか?」

阿難報:「法本從佛,教令亦從佛,願佛為說。佛說已,弟子當受,令是說當為解利。」

阿難が答えました。「教えの根本は仏様から来ており、教えそのものも仏様に従っています。どうか仏様がお説きください。仏様がお説きになれば、私たち弟子はそれを頂いて、この教えを理解し、利益を得ることができるでしょう。」

佛告阿難:「聽是,受是,諦受,重受,念是,當為說。」如是賢者阿難從佛聞。

仏は阿難に告げられた。「よく聞き、受け取り、真剣に受け止め、繰り返し味わい、心に刻みなさい。これから説き明かそう。」このようにして、賢者アーナンダは仏の教えを聞き受けたのである。

佛便說是:「有,阿難!或為行道,為少色行為身。阿難!或為行道,為不少色行為身,亦色無有量行為身,但為少不色行為身;或有,阿難!為行道,亦不為少色,亦不為無有量色,亦不色少行為身;或有,阿難!為行道,亦不為少色,亦不為無有量色,亦不無有少色行為身,但為不色無有量行為身。彼,阿難!或為行道,少色行為身現在。阿難!或為行道,少色行為身,己身壞死,令復見身相像。如是不為是對行對,如是致亦如是。齊是,阿難,或為行道,色少行為身,自方便計作。齊是,阿難!或為行道,色少行為身,自方計作。齊是,阿難!或為行道,色少行為身,令結使。彼,阿難!或為行道,不少色為作行身,但為色無有量計作為是身。現是,阿難!或為行道,色無有量為計作身,身已壞死,令復現身相像。如是不為是對行對,如是致亦如是。齊是,阿難!或為行道,為計身色無有量。齊是,阿難!或為行道,令色無有量為身,令使結。彼,阿難!或為行道,不少色亦無有量色,計但為念少色為身現在。阿難!或為行道,不色少為計身,身壞死,令復見身相像,如是不為是對行對,如是致亦如是。齊是,阿難!或為行道,不色少自計為致身。齊是,阿難!或為行道,不色少令身使結。彼,阿難!或為行道,亦不色少、亦不色無有量,亦不無有色少、亦不無有色無有量,為墮行身現在。阿難!或為行道,亦不色少、亦不色無有量,亦不無有色少、亦不無有色無有量,為計墮身,己身壞死,令復見身相像,如是不為是對行對,如是致亦如是。齊是,阿難!或為行道,不色無有量自計為致身。齊是,阿難!或為行道,令不色為使結。齊是,阿難!或為行道,自計為致身,身幾因緣,阿難!為行道,色不行作身?」

そこで仏は阿難に告げられた。「阿難よ、ある修行者は、行道のために、少ない色の働きをもって身体とする。阿難よ、またある修行者は、行道のために、少ない色の働きではなく、無量の色の働きをもって身体とするが、少ない非色の働きをもってする。阿難よ、またある修行者は、行道のために、少ない色でもなく、無量の色でもなく、色の少ない働きをもって身体とすることもなく、ただ非色の無量の働きをもって身体とする。阿難よ、彼らは行道のために、少ない色の働きをもって身体として現に生きている。阿難よ、また行道のために、少ない色の働きをもって身体としていた者が、その身が壊れ死んだ後、再び身の形相を現すことがある。これは正しい行いへの対とはならず、同じようにその境地に至る。ここに至るまでが、阿難よ、行道のために、少ない色の働きをもって身体とすることを、自ら工夫して作り為すのである。ここに至るまでが、阿難よ、行道のために、少ない色の働きをもって身体とすることを、自ら工夫して作り為すのである。ここに至るまでが、阿難よ、行道のために、少ない色の働きをもって身体とすることを、煩悩の結びとする。

阿難よ、またある修行者は、行道のために、少ない色をもって身体の働きを作るのではなく、ただ色の無量を計らって、これをもって身体とする。阿難よ、また行道のために、色の無量を計らって身体としていた者が、その身が壊れ死んだ後、再び身の形相を現すことがある。これは正しい行いへの対とはならず、同じようにその境地に至る。ここに至るまでが、阿難よ、行道のために、色の無量を計らって身体とするのである。ここに至るまでが、阿難よ、行道のために、色の無量をもって身体とすることを、煩悩の結びとする。

阿難よ、またある修行者は、行道のために、少ない色でもなく無量の色でもなく、ただ少ない非色を念じて、身体として現に生きている。阿難よ、また行道のために、少ない非色をもって身体と計らっていた者が、その身が壊れ死んだ後、再び身の形相を現すことがある。これは正しい行いへの対とはならず、同じようにその境地に至る。ここに至るまでが、阿難よ、行道のために、少ない非色を自ら計らって身体に至るのである。ここに至るまでが、阿難よ、行道のために、少ない非色をもって身体とすることを、煩悩の結びとする。

阿難よ、またある修行者は、行道のために、少ない色でもなく、無量の色でもなく、少ない非色が無いわけでもなく、無量の非色が無いわけでもなく、行いの境地に堕ちて身体として現に生きている。阿難よ、また行道のために、少ない色でもなく、無量の色でもなく、少ない非色が無いわけでもなく、無量の非色が無いわけでもなく、計らって境地に堕ちた身体としていた者が、その身が壊れ死んだ後、再び身の形相を現すことがある。これは正しい行いへの対とはならず、同じようにその境地に至る。ここに至るまでが、阿難よ、行道のために、非色の無量を自ら計らって身体に至るのである。ここに至るまでが、阿難よ、行道のために、非色をもって煩悩の結びとするのである。ここに至るまでが、阿難よ、行道のために、自ら計らって身体に至るのである。阿難よ、身体を成り立たせる因縁はいくつあるのか。行道のために、色の働きによらずに身体を作るとは?」

阿難報:「是法本從佛,教令亦從佛,願佛為說。佛說已,弟子當受,令是說當為解利。」

阿難が答えました。「この教えはもともと仏様からいただいたものです。戒めの教えも仏様からいただいております。どうか仏様がお説きください。仏様がお説きになれば、弟子たちはそれを受け入れ、この教えを解き明かし、利益を得るでしょう。」

佛告阿難:「聽是,受是,諦受,重受,念是,當為說如是賢者阿難從佛聞。」

仏は阿難に告げられました。「よく聞き、よく受け止め、しかと受け、心に深く刻み、それをしっかりと念じなさい。これからお前のためにそのように説こう。」賢者の阿難は仏からこの言葉を聞きました。

佛便說是:「或,阿難!為行道,或不為色作身、亦不為色計為身,亦不為色無有量、亦不為色少、亦不為色無有量計為身。彼,阿難!為行道,不少色為作身,亦不為計是身現。是,阿難!為行道,不為少色作身,亦不為墮是身,己身壞死,令不復見是身相像,不為是對行對,如是是無有。齊是,阿難!為行道,為不少色為身,亦不計為是身。齊是,阿難!為行道,為不少色,為身不使結。彼,阿難!或為行道,不為色無有量為身,亦不作色為身現在。是,阿難!為行道,不色無有量為身,亦不計是身,己身身壞死,令不復見身相像,不為是對,如是如是是為無有是。齊是,阿難!為行道,不色無有量為身,亦不墮身計。如是,阿難!齊是或為行道,不色無有量為身,不使結。彼,阿難!或為行道,不為不色少為身,亦不墮身計現。是,阿難!為行道,不色少為身,亦不墮身計,己身壞死,令不復見身相像,不為是對,如是如是是為無有是。齊是,阿難!為行道,不為不色少為身,亦不墮身計。如是,阿難!齊是為行道,不為不色少令不使結。彼,阿難!或為行道,不行不色無有量為身,亦不墮計是身現。是,阿難!為行道,不為不色,阿難!為身,亦不墮計為成身,己身壞死,如是身令不復見是計,不為是對,如是如是是為無有是。齊是,阿難!為行道,不行不色無有量為身,亦不墮計是身。齊是,阿難!為行道,不行不色無有量,亦令不使結。齊是,阿難!或為行道,不行不色無有量為身,亦不成身、亦不墮計是身,亦有是七處,阿難!令識得駐、亦有二受行從得解。

そこで仏は阿難にこう告げられた。「修行のために、色(身体)を『我』と見なさず、色を『我』と執着して考えず、色に限りがあるとも限りがないとも見なさず、また限りがないと執着して『我』と考えることもない。阿難よ、修行する者は、わずかな色をもって『我』とせず、それを『我』と現に執着することもない。そうして、この身が壊れて死に、その姿形が二度と見えなくなっても、それに執着して対抗することはない。このようにして、全く執着のない境地に至るのである。この程度に達して、阿難よ、修行する者は、わずかな色をもって『我』とせず、それを『我』と執着することもない。これをもって、わずかな色によって束縛されることもない。

また、阿難よ、ある修行者は、限りのない色をもって『我』とせず、それを現に『我』とすることもない。そうして、この身が壊れて死に、その姿形が二度と見えなくなっても、それに執着して対抗することはなく、このようにして全く執着のない境地に至るのである。この程度に達して、阿難よ、修行する者は、限りのない色をもって『我』とせず、『我』という執着に陥ることもない。これをもって、限りのない色によって束縛されることもない。

また、阿難よ、ある修行者は、『色はない』と見なしてわずかな『我』とすることもなく、また『我』という執着に陥って現にすることもない。そうして、この身が壊れて死に、その姿形が二度と見えなくなっても、それに執着して対抗することはなく、このようにして全く執着のない境地に至るのである。この程度に達して、阿難よ、修行する者は、『色はない』と見なしてわずかな『我』とせず、『我』という執着に陥ることもない。これをもって、『色はない』という考えによって束縛されることもない。

また、阿難よ、ある修行者は、『限りのない色はない』と実践して『我』とせず、また『我』という執着に陥って現にすることもない。そうして、この身が壊れて死に、その姿形が二度と見えなくなっても、その執着に陥ることなく対抗することはなく、このようにして全く執着のない境地に至るのである。この程度に達して、阿難よ、修行する者は、『限りのない色はない』と実践して『我』とせず、また『我』という執着に陥ることもない。これをもって、『限りのない色はない』という考えによって束縛されることもない。

このように、阿難よ、これらの七つの場所によって、識(認識)は安住し、また二つの感受の修行によって解脱に至るのである。」

「有色,為令從是,有若干身若干思想,辟或人、或天,是為第一識止處。

「色を持つものたち。それらを超えさせるために、多くの異なる身体と多くの異なる思考を持つ者たち。あるいは人々、あるいは天の者たち。これが第一の識の止まり処である。」

「有色,為令從是,一身若干思想,辟天名為梵天,長壽本在處,是為第二識止處。

有色の者よ、これを[1]従わせるために、一つの身体に多くの異なる考えを持ち、天の中で梵天(清浄なる天)と名付けられる者となり、長寿の本来の在り処にいること、これが第二の識の静止する場所である。

「有色,為令從是,一身若干思想,辟天名為明聲,是為第三識止處。

色のある者は、これによって、一つの身体に様々な想いを抱く。天における「明声」と呼ばれる境地。これが第三の識の止住するところである。

「有色,為令從是,一身一像,思亦一,辟天名為遍淨,是為第四識止處。

第四の識住は「色界(物質的な世界に属するもの)において、これを統べるために、一つの身体、一つの姿を持ち、また思考も一つに統一されている境地。天の名を遍浄という」と説かれます。

「有不色,為令從是,一切從色想度,多想滅,為無有量空空慧受意止,辟天名為空慧行,是名第五識止處。

色を超え、この状態に至るために、一切の色の想いを超え、多くの想いを滅し、無量の空の智慧を受けて心をとどめる。天においては空の智慧の行いと名づけられ、これを第五の識のとどまる処という。

「有不色,為令從是,一切從空行竟,過無有量識,從慧受意止,辟天名為識慧,是名為第六識止處。

色の認識を超え、そこからさらに進み、あらゆるもの(認識)を空の行い(無辺空処)として、その境地を完全に修め、さらに識別する作用(認識)が無限にある領域(無辺識処)を智慧によって確かに観察し、心をそこに留める悟りの境地に到ります。これを第六の「識(識無辺処)に心を留める領域」と呼びます。

「有不色,為令從是,一切從識慧過度,無有量不用從是慧意受止,辟天名為不用從受慧,是為第七識止處。

色を超え、そこから離れるために、すべてを識と智慧によって超え渡り、無限でありながら、その智慧によって心を留めることなく、天の名を「不用に従う智慧」と呼ぶ。これが第七の識の止むところである。

「何等為,阿難!亦有二受行從得解?有從色因緣行道,令不更思想,辟天名為不思想,是為一受行從得解;有從不色因緣行道,一切從不用得度為受不思想,亦有思想受行止,辟天名為不思想亦有思想,是為二受行從得解。彼,阿難!所第一識止處,為從色行、因緣行道,若干身若干思想,辟名為人亦一處。若,阿難!行道,是識止處已知、亦知是識,從是習,亦知從是沒,亦知是所樂、亦知是更苦、亦知是從得出要。如有知是時,阿難!為行道所識止處,可應求、可應望、可應往處?」

「阿難よ、何が二つの受の行(認識の働き)からの解脱なのか。 色(物質)を因縁とする行(修行の道)によって、思いを生じさせない境地に至るものがある。天において「無想」と呼ばれる。これが一つ目の受の行からの解脱である。 また、非色(物質によらない)を因縁とする行によって、すべての「無所有処」(何もない境地)から度され、「無想」とされる受の行を超え、なおかつ「有想」(想いがある)という受の行も止まった境地に至るものがある。天において「非想非非想」と呼ばれる。これが二つ目の受の行からの解脱である。

阿難よ、最初の識の止住する場所とは、色の行を因縁とする道によって、様々な身体と様々な思想がある境涯であり、人の世と一つの天の処である。 阿難よ、もし修行者が、この識の止住する場所をすでに知り、またこの識がそこから生じ、そこから滅び、そこに楽(愛着)があり、そこに苦があり、そこから出離する要を得ることを知るならば、その時、阿難よ、この識の止住する場所において、まさに求めるべきもの、望むべきもの、行くべきものとして解するのである。」

阿難言:「不。」

阿難が言いました。「いいえ、そうではありません。」

「彼,阿難!第二識止處,為從色行因緣行道,若干身一想,辟天名為梵身,長壽本第一在處。若,阿難!行道,是識止處以知,亦是識止處從是習、亦知從是沒、亦知是所樂、亦知是更苦、亦知是從得出要。如有知是時,阿難!為行道所識止處,可應求、可應望、可應住處?」

「阿難よ、第二の識の止住する処(第二識住)とは、色(物質的な形態)に基づく行いによって生じる道であり、多くの異なる身体ながら一つの想いを持つものたち、すなわち梵身天と呼ばれる者たちの境地である。彼らは長寿であり、最初に存在する場所である。 阿難よ、もし修行者がこの識の止住する処をあるがままに知り、この識の止住する処が生じる原因(習)を知り、そこから消え去ることを知り、そこに楽があることを知り、そこに苦があることを知り、そこから解脱する道(出要)をあるがままに知るならば、阿難よ、その修行者はこの識の止住する処を修行の道として、求めるべきであり、望むべきであり、とどまるべきであると言えるであろうか?」

阿難對言:「不。」

阿難は答えた。「いいえ。」

「彼,阿難!第三識止處,為從色行因緣行道,一身若干想,辟天名為明。若,阿難!為行道,是識止處已知,亦是識止處從是習、亦知從是沒、亦知是所樂、亦知是更苦、亦知是從要得出,如有知是時,阿難!為行道,所識止處,可應求、可應望、可應住處?」

「アーナンダよ。第三の識の安住する境地(識住処)とは、物質(色)から生じる行い(行)を縁として道を歩み、一つの身体でありながら多くの想いを持つものたちの世界であり、明るい天(明の天)と名づけられる。 アーナンダよ、もし道を歩む者として、この識の安住する境地をすでに知り、またこの識の安住する境地がそこから生じると知り、またそこから消滅すると知り、またその味わいを知り、またその過患を知り、またそこからの出離をあるがままに知るならば、その時、アーナンダよ、道を歩む者として、識の安住する境地に、求めるべきものがあり、望むべきものがあり、とどまるべきものがあると言えるだろうか?」

阿難對言:「不。」

阿難が答えました。「いいえ。」

「彼,阿難!第四識止處,為從色行因緣行道,一像身一思想,辟天名為遍淨。若,阿難!為行道,是識止處已知,亦是識止處從是習、亦知從是沒、亦知是所樂、亦知是更苦、亦知從是要得出。如有知是時,阿難!為行道,所識止處,可應求、可應望、可應住處?」

「また、アーナンダよ、第四の識のとどまるところとは、色ある行いを縁として道を歩み、一つの姿、一つの想いを持つ天の境地であり、遍浄天と名づけられる。もしも、アーナンダよ、修行者がこの識のとどまるところをすでに知り、この識のとどまるところが縁によって生じることを知り、そこから消え去ることを知り、その喜びを知り、その苦しみを知り、そこから解脱する道を知るならば、その時、アーナンダよ、修行者は識のとどまるところにおいて、求めるべきもの、望むべきもの、とどまるべきものを知るであろうか?」

阿難對言:「不。」

阿難は答えた。「いいえ。」

「彼,阿難!第五識止處,為從不色行因緣行道,一切從色得度,地想已沒,無有量空空慧行受止,辟天名為空慧。若,阿難!為行道,是識止處已知,亦是識止處從是習、亦知從是沒、亦知是所樂、亦知是更苦、亦知從是要得出。如有知是時,阿難!為行道,所識止處,可應求、可應望、可應住處?」

「阿難よ、第五の識の止住する処とは、無色の行(無色界の修行)を因縁として道を行うことにより、あらゆる色(物質的存在)から解脱し、地の想い(地の概念)も滅び去り、無量の空(虚空)における智慧の行いが止住する状態である。天(神々)はこれを『空慧(空の智慧)』と名付ける。 阿難よ、道を行う者が、この識の止住する処をすでに知り、またこの識の止住する処がこのように習い(繰り返し修めること)から生じることを知り、またこのように滅び去ることを知り、またこれが楽しむべきものであることを知り、またこれが苦しみを更に生むことを知り、またこれから出離(解脱)すべきであることを如実に知るとき、 阿難よ、その時、道を行う者は、識の止住する処において、求め、望み、とどまるべきであると言えるであろうか。」

阿難對言:「不。」

阿難は答えた。「いいえ。」

「彼,阿難!第六識止處,為從不色行因緣行道,一切從空慧度,識無有量受慧行止,辟天名為識慧。若,阿難!為行道,是識止處已知,亦是識止處從是習、亦知從是沒、亦知是所樂、亦知是更苦、亦知從是要得出。如有知是時,阿難!為行道,所識止處,可應求、可應望、可應住處?」

「阿難よ、第六の識の止まるところとは、形なきものの作用を縁として道を行じ、すべてを空の智慧によって超え、識には限りがなく、智慧の働きによって止まるものである。これを天の世界において『識慧』と名付ける。 もし阿難よ、道を行じる者が、この識の止まるところをすでに知り、またこの識の止まるところが習い(原因)から生じることを知り、またそこから消え去ることを知り、またそれに楽むことを知り、またそれに苦しむことを知り、またそこから出離する道を如実に知るならば、その時、阿難よ、道を行じる者にとって、識の止まるところは求めるべきものとなり、望むべきものとなり、とどまるべきものとなるであろうか。」

阿難對言:「不。」

阿難は答えた。「いいえ。」

「彼,阿難!第七識止處,為從不色行因緣行道,一切從識慧度,無有量不用已捨受慧行,辟天名為不用受慧行。若,阿難!為行道,是識止處已知,亦是識止處從是習、亦知從是沒、亦知是所樂、亦知是更苦、亦知從是要得出。如有知是時,阿難!為行道,所識止處,可應求、可應望、可應住處?」

「アーナンダよ、第七の識の安住処とは、無色の行を縁として道を実践し、全てを智慧によって完全に超え、限りがなく、もはや何も受け入れないという捨受の智慧によって実践する境地である。これは天において『無所有処』と呼ばれる。アーナンダよ、もし比丘が道を実践するならば、この識の安住処をあるがままに知り、この識の安住処が生じる原因を知り、この識の安住処が滅する因縁を知り、この識の安住処における楽を知り、この識の安住処における苦を知り、この識の安住処から出離する道を知る。このようにあるがままに知るとき、アーナンダよ、道を実践する比丘は、この識の安住処において、求めるべきもの、望むべきもの、安住すべきものがあるだろうか?」

阿難對言:「不。」

阿難は答えた。「いいえ。」

「彼,阿難!第一受行從得解,有從色因緣行道,無有想亦不受,辟天名不思。若,阿難!為行道,已知是從受,亦知從受習、亦知從是沒、亦知是所樂、亦知是更苦,亦知從是要得出。如有知是時,阿難!為行道,是受行從得解,可應求、可應望、可應住處?」

「阿難よ、第一の受行は、解脱を得ることから生じるものです。色を因縁として道を行うものがあり、想いはなく、また執着もなく、天を超えた境地を『不可思議』と名付けます。阿難よ、もし道を行うならば、このように受(感受)から生じることを知り、また受から生じる習い(習慣)を知り、また受が滅することを知り、また受における楽(楽しみ)を知り、また受における苦を知り、また受から出離する要(方法)を知るべきです。このように知るとき、阿難よ、道を行う者は、この受行から解脱を得ることで、求めるべきもの、願うべきもの、安住すべき境地を得るのです。」

阿難對言:「不。」

阿難は答えた。「いいえ。」

「彼,阿難!第二受行從得解,有從不色因緣行道,一切不用從慧得度,過無有思想亦未離思想為受行止,辟天名為無有思想解。若,阿難!為行道,是受行從得解已知,為是解從是習,亦知從是沒、亦知是所樂、亦知是更苦、亦知從是要得出。如有知是時,阿難!為行道,是受行從得解,可應求、可應望、可應住處?」
阿難對言:「不。」

阿難は答えた。「いいえ。」

「若,阿難!為行道,如是知、如是見,說為不知不見,若有是結使。是時應說為常、是時應說非常、是時應說世間有本、是時應說世間無有本、是時應說得道以死復生、是時應說得道不得死,為有無有度世死,從是結使。是時,阿難!為行道,是七識止處二受行從得解。如是,如有從諦慧見、從是意已解、已得解脫,是名為,阿難!為行道無所著從慧得解脫。亦有,阿難!八解脫處。何等為八?色觀色,是為第一解脫處;內觀色不想外觀色,是為第二解脫處;觀三十六物淨身受觀行止,是為第三解脫處;一切從色想已度,滅地想,若干想不念,無有量空慧已受竟,辟天名為空慧,是名為第四解脫處;一切從空慧已度,無有量識慧受竟,辟天名為識慧,是名為第五解脫處;一切從識慧得度,無所有不用受慧竟行,辟天名為不用無所用慧行,是為第六解脫處;一切從不用慧得度,無有思想亦不無有思想竟受止,辟天名為思想,是名為第七解脫處;一切從無有思想竟得度,滅思想亦覺盡身已更竟受止,是為第八解脫處。若已,阿難!行道,七識止處二受行從得解脫,亦是八解脫處是。如有是慧已,更見從是竟戢却不用,已得解脫,如是本福已身更竟止,是名,阿難!行道無所著從兩行得解脫。」

「阿難よ、もし道を修行する者が、このように知り、このように見ているにもかかわらず、『知らず、見えず』と言うなら、そこには束縛(結使)がある。その時こそ『常』と言うべきであり、その時こそ『無常』と言うべきであり、その時こそ『世間には根源がある』と言うべきであり、その時こそ『世間には根源がない』と言うべきであり、その時こそ『悟りを得ても死後に再生する』と言うべきであり、その時こそ『悟りを得て死なない』と言うべきであり、『世を超える死があるか、ないか』という束縛があるのだ。 その時、阿難よ、道を修行する者は、これらの七つの識のとどまる場所(七識住)と二つの感受の行いから解脱を得る。このように、真理による智慧の見解を持ち、それによって心が解かれ、すでに解脱を得たならば、これを、阿難よ、『道を修行して、執着なく、智慧によって解脱した者』というのである。

また、阿難よ、八つの解脱の場所(八解脱)がある。その八つとは何か。

第一に、色を見て色を観じること。これを第一の解脱の場所という。 第二に、内に色を観じて、外に色を想わないこと。これを第二の解脱の場所という。 第三に、三十六の身体の部分を観じ、清らかな身体の感受を観じ、行を修めてとどまること。これを第三の解脱の場所という。 第四に、すべての色の想いを超え、地の想いを滅ぼし、さまざまな想いを念じず、無限の空の智慧を受けて完成する。空の境地と呼ばれる天を、空の智慧という。これを第四の解脱の場所という。 第五に、すべての空の智慧を超え、無限の識の智慧を受けて完成する。識の境地と呼ばれる天を、識の智慧という。これを第五の解脱の場所という。 第六に、すべての識の智慧を超え、何もないところ(無所有処)を、何も用いない智慧として受けて完成し行ずる。無所有処の天を、無用の智慧の行という。これを第六の解脱の場所という。 第七に、すべての無所有の智慧を超え、想いがあるのでもなく、想いがないのでもないところ(非想非非想処)を受けてとどまる。これを想いの天という。これを第七の解脱の場所という。 第八に、すべての非想非非想処を超え、想いを滅ぼし、感受も尽き、身体を超えて完成しとどまる。これを第八の解脱の場所という。

もし、阿難よ、道を修行する者が、七つの識のとどまる場所と二つの感受の行いから解脱を得、さらにこれらの八つの解脱の場所もまた同様に、この智慧をもってさらに見て、それらをことごとく収め、捨てて用いず、すでに解脱を得たならば、このように根本の福徳によって、身体を超えて完成しとどまる。これを、阿難よ、『道を修行して、執着なく、二つの行いから解脱を得た者』というのである。」

佛說如是,阿難受行。

仏様はこのようにお説きになり、阿難はその教えを受けて実践しました。

佛說人本欲生經

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