金光明経文句 巻第四
隋の天台智者大師の説
門人灌頂録
空の章
「空」には四種類があると考えられます。それは、色を滅して空に入る、色そのものが空である、辺を滅して空に入る、辺そのものが空である、という四つです。この経典は諸乗の懺悔に通じるもので、四種類の空を必要としますが、今この品でただ「空」と示されているのは、特に「辺そのものが空である」ことを指しているのです。なぜそう言えるのでしょうか。経典に「無量の余経がすでに空を広く説いている」とあるからです。ですからここでは略して解き明かしているのです。
また、「空」とは、有を空じ、無を空じることを意味します。有を空じるとは、二十五有という塊のような存在を空じること。無を空じるとは、二乗の灰のような無を空じること。両辺が清らかになることを「空」と呼びます。ただこのように説明すると、迷える者は名前に惑わされて真理を混同し、超える悟りを得ることができません。そこで今、六つの句に分けて説明します。
一、空が非有非無を破る 二、非有非無が空を破る 三、空が非有非無を修する 四、非有非無が空を修する 五、空は即ち非有非無である 六、非有非無は即ち空である
「空が非有非無を破る」とは、凡夫や邪見の非有非無の見解、二乗の偏った非有非無の証、別教の教道が執着する非有非無の門、これらすべてが〈空品〉の空によって破られるということです。
凡夫や邪見の見解には様々な種類があります。一に単四見、二に複四見、三に具足四見です。単四見は理解しやすいでしょう。複四見とは、有有有無、無有無無、亦有亦無有亦有亦無無、非有非無有非有非無無、これらが複四見です。具足四見とは、一つの句の中に四つの句をすべて含み、四四十六句となるため、具足と呼ばれます。単四見であれ複四見であれ具足四見であれ、すべて苦集が広大無辺です。非有非無と計っていても、実際は妄見に過ぎないため、〈空品〉の空によって破られるのです。
「二乗の偏った非有非無の証」とは、常見を断じて非有と言い、断見を断じて非無と言うことです。有無二見が滅びて残らず、三界の見思が永遠に尽き、生滅度の想い、安穏の想いが生じ、梵行はすでに立ち、なすべきことはすでに成し遂げられ、後に有を受けることはありません。これを保ってそれ以上、三菩提を求めることはありません。しかし二乗が真実を発する際、常見を断じ断見を断つその門は同じではありません。ある者は有門から入り(『阿毘曇』の如く)、ある者は無門から入り(『成実論』の如く)、ある者は亦有亦無門から入り(『昆勒』の如く)、ある者は非有非無門から入ります(『那陀迦旃延経』の如く)。断と常を離れることを聖中道と呼びます。四門ともに断常を断つことは中道と同じ名ですが、実際は偏りを保って証を取っているため、〈空品〉の空によって破られるのです。
「別教の教道が執着する非有非無の門」とは、仏が鈍根の菩薩のために方便権巧として四門で中道を説いたもので、あの筏の譬えのようです。意を得ない者は、四門で諍いを起こします。ですから『涅槃経』に「真善妙有なる大般涅槃は空であり、仏性もまた色であり、非色であり、非色非非色である。もしそれぞれ一門に執着すれば、如来に対して諍訟の心を起こし、中道を見ることができない」とあります。この教門に執着する者は、やはり〈空品〉の空によって破られるのです。新本には「初地の菩薩は有相の道を行おうとする」とあり、これが一門の意です。文中には四門の説がすべて含まれています。『大経』に「これより以前、我らはみな邪見の人と呼ばれる」とある通りです。
「非有非無が空を破る」とは、逆に凡夫や邪見の空の見解、二乗の空の証、教道の空の門が二辺に堕しているため、中道の非有非無によって破られるということです。
「相修する」とは、空の見解、空の証、教道の空が、中道の非有非無を修すべきであるということ。非有非無の見解、非有非無の証、非有非無の教門が、中道の空を修すべきであるということです。
「相即する」とは、二辺を破る空が即ち中道の非有非無であるということ。中道の非有非無が即ち二辺を破る空であり、二つではなく別でもないということです。般若は一つの法ですが、仏は種々の名で説かれます。空は即ち非有非無ですが、非有非無を名としないのは、略説するためです。ですから〈空品〉と言うのです。
この品が来た意図は、〈懺品〉が悪を破り、〈讚品〉が善を生じさせ、〈空品〉が導いて成し、悪を滅ぼし善を生じさせるためです。また、導いて成し、用・宗・体などを成すためでもあります。ですから『釈論』に「もしこの空がなければ、一切のなすべきことはない」とあります。上の品を導いて成すため、〈空品〉を明らかにするのです。
また、常果が体を顕わし、悪を滅ぼし善を生じさせることは、空を明らかにしないわけではありません。利根の者はすでに理解していますが、鈍根の者のために大悲心を起こし、さらに五陰の生法が本性として空寂であることを明らかにするのです。
この品には四十五行の偈があり、二つに分けられます。初めの四行半は「空」について説こうとする意図を述べ、次の四十行半が実際に「空」を説いています。
「無量余経」とは、広く説かれた経典を指して、ここでは簡略に明らかにしようとしているのです。また、簡略な表現によって広大な内容を示そうとしているとも言えます。
もし『般若経』を指すなら、この経典は方等部に含まれません。もし『般若経』を指さないなら、他の経典は「空」の義を広く明らかにしていないことになります。これはどういうことでしょうか。
答えましょう。諸経典の前半部分は結集者が順序立てて編集しましたが、後半部分はすべて前半の例に従って収められています。一例を挙げて他の類推とします。
例えば『阿含経』には「仏が涅槃に入ろうとされた時、舎利弗は仏の滅を見るに忍びず、先立って仏のもとを去った。均頭が衣鉢を捧げて仏のもとに来た」とあります。これは最後の出来事です。しかしそれが十二年前に編集された『阿含経』の中に集められているのですから、『阿含経』の後半部分が『涅槃経』に至るまでを含んでいることがわかります。
また、方等部の経典の順序は『法華経』の前にありますが、「先に霊山で既に声聞に授記した」と説かれています。これは方等部が『涅槃経』に至ることを示していないでしょうか。
さらに『大品般若経』の順序は『法華経』の前にありますが、『大智度論』には「須菩提は法華経の中で授記された。では諸菩薩は必定なのか、不必定なのか」とあります。これによって『般若経』もまた『涅槃経』に至ることがわかります。
このように推論すれば、「順序」と言うのは前半部分を指し、「互いに指し示す」というのは後半部分を指すのです。結集者は後半部分の意味や内容が同じ類いであれば、前半部分に集めたのです。ある者は順序に反していると言って知りませんが、実際には反していないのです。
この経典は方等部の後半部分に属し、『般若経』を広説として指し示しても、義理に妨げはありません。
「略而解説」とは、仏には略説と広説の二つの方法があり、四つの場合に分けて考えるべきです。
1. 名も義もともに広い場合。例えば十八空、二十空、二十四空などです。 2. 名も義もともに略な場合。例えば「一独空」などです。 3. 名は広いが義は略な場合。例えば法性、実相、実際、如如、法界など多くの名が、一つの義を共に表す場合です。 4. 名は略だが義は広い場合。例えば生空・法空という二つの名は、その義が非常に広大です。凡夫の地位から究極の仏果に至るまで、すべて「衆生」と呼ばれます。『大智度論』に「衆生の無上なる者は仏なり」とある通りです。凡夫の五蘊から極まる仏地に至るまで、色解脱、受想行識解脱とも称されます。『大智度論』に「法の無上なる者は涅槃なり」とある通りです。
今ここで略説として生空・法空の二つを説き、下文に「五陰の舎宅を観ること悉く空寂なり。善女よ、まさに観よ、何の処にか人及び衆生有らん」とあるのが、その義です。
衆生の根が鈍いとは、根機と縁が同じでないからです。ある者は広説を聞いて悟り、これを利根と名づけ、ある者は略説を聞いて悟り、これを鈍根と名づけます。
この言葉は逆さまのように思えますか?舎利弗は一聞して悟りを得ました。これは略説による利根です。目連は再聞して悟りを得ました。これは広説による鈍根です。
この経典の意図は、悟りを得る側から利鈍を明らかにするのではなく、聞いて保持する側から利鈍を論じているのです。利根の人は広く聞いても保持でき、鈍根の人は略説を聞いてこそ保持できます。今の機根には悟りを得る機はあっても、広く保持する機はないので、「広く知ることができない」と言うのです。
「無量空義」とは、二乗の真諦は有量の空義であり、菩薩の中道は無量の空義です。この経典が明らかにする法性実相こそ、無量の空義なのです。
「異妙方便」とは、つまり四悉檀の方便であり、巧みに前文で果を明らかにし因を明らかにし、悪を滅ぼし善を生じさせる種々の分別などを示したものです。
「大悲心を起こす」とは、一段の衆生が「有」に執着する病が重いので、大悲もまた重いのです。
「我今演説」とは、「演」は広いことを意味し、略と相反します。前に論じた生空・法空の二つは名が略であり、今論じる生法の二義は、広く説くことを言うのです。
「衆生の意を知る」とは、この一類の機根が略説を好み略説に適し、略説に対して略説によって悟ることを知るので、「意を知る」と言うのです。
「空を説かんとする意を叙べ」終わりました。
「この身は虚偽である」から下の四十行半の偈は、第二に正しく空を明かす部分である。さらに二つに分かれる。初めに「身は虚偽」から下の十九行半は、生空(人空)と法空の二つの空の境(対象)を明かす。二つ目に「善女よ、まさに観よ」から下の二十一行は、生空と法空の二つの空観(観法)を明かす。境がなければ観は正しくなく、観がなければ境は顕わにならない。ここで『摩訶止観』の中の十番の境と智を検討する不可思議の説明を引くべきである。下文に「不可思議の智境、不可思議の智照」とあり、新訳本には「如如の法、如如の智」とあるのが、この意味である。
空の境を明かす部分もまた二つに分かれる。初めに「この身は虚偽である」から下の十七行半は実法の境を明かし、二つ目に「水火風の種」から下の二行は仮想の境を明かす。実法とは、五陰には実体がないと観じ、十六我(我の観念)には人がいないと観ずることである。空観が真理に至るので、実法という。身体はまだ死んでいなくても、虚仮で臭く穢れているので、仮想という。また慧行(智慧による修行)と行行(事相を伴う修行)ともいう。空に縁って直ちに入るのを慧行といい、事相を帯びて兼ねて修するのを行行という。また正道と助道ともいう。空観が理に順うのを正道といい、不浄観で貪りを破るのを助道という。小乗では正道を修して煩悩を断じるのを慧解脱の人といい、助道を修して煩悩を断じるのを倶解脱の人という。『大品般若経』に、菩薩が発心して一切智と相応するのは正道を修する者であり、神通を遊戯し仏国土を浄めるのは助道を修する者であると明かす。『法華経』で大車の従者と名づけるのは、この意味である。『涅槃経』に正しい智慧は遠離であり、十の相を遠離して大涅槃に住すると明かす。また、白骨を諦観して二十五有を破り、王三昧を成ずる。多くの経典が同じくこの二つの意義を論じ、互いに広略がある。今の経文は略して明かし、正と助の意味を示すのである。
実法の境もまた二つに分かれる。初めに「身は虚偽」から下の十行半は苦果について境を論じ、二つ目に「諸の因縁より」から下の七行の偈は集因について境を論ずる。この苦集を観じて道滅を起こすのである。もし四諦を見ることができれば、生死を断ずることができる。生有がすでに尽きれば、もはや諸有を受けることがない(云云)。
苦の境はさらに三つに分かれる。「身は虚偽」から下の二句は生空の境を明かし、次に「六入の村落」から下の九行の偈は法空の境を明かし、次に「身は空虚にして虚偽」から下の一行は上の生法二空の境を結ぶ。「この身は虚偽である」を生空の境とするのは、五陰をかき集めて身を成し、我・人・衆生・寿者があると計って身見が生ずるからである。もしその生が虚偽であると体得すれば、身を求めることができず、身見は起こらず、その他の知見もまた寂滅する。ゆえに仮の生について生空の境とするのである。また、この身の根源を検討すれば、一念の妄想が父母の遺体に託されるのが、仮の名の始まりである。この赤白二滴は色陰である。苦楽を覚えるのは受陰である。この苦楽を想うのは想陰である。三性(善・悪・無記)を具えるのは行陰である。中に住して識るのは識陰である。また、精血は地大であり、湿潤は水大であり、暖気は火大であり、気命は風大である。四大が空を囲むのは空種であり、心がこれに依って住するのは識種である。これが実法の始まりである。この身と名が妄偽の法に依っていると観じれば、どうして真実といえようか。ゆえに虚偽というのである。
空聚(空の集まり)とは、身と名が積聚したもので、水上の泡が空を囲んで起こり、泡の名もまた起こるようなものである。起こればすなわち滅があり、泡の名もまた滅する。無明の業力が父母の体に託されれば、すなわち陰の泡が起こる。陰の泡が起こればすなわち身と名が起こり、陰の泡が滅すれば身と名も滅する。ゆえに空聚というのである。
「六入の村落」から下は法空の境を明かす。どうしてそうわかるか。この文はただ細かく根と塵を検討し、人我を論じない。ゆえに法空の境であると知るのである。文は三つに分かれる。初めの一行は六根を明かし、次の三行は十二入を明かし、次の五行は十八界を明かす。六入とは六根である。識を生ずることができるので根という。塵の趣くところなので入という。また識の入るところでもあるので、六入というのである。その元初を検討すれば、ただ三つの事がある。命・暖・識である。凝った酥や薄い酪のように、七日ごとに一変し、巧みな風によって吹かれ、五つの胞が開張し、四大の浄色をかき集めて、眼・耳・鼻・舌・身などの諸根を結成する。諸根が立てば、すなわち識を生ずる作用がある。これが色を開いて五とし、心はただ一つとするのである。識は根に依って住するので、村という。塵はここから入るので、結賊の止まるところという。眼は見、耳は聞き、鼻は嗅ぎ、舌は嘗め、身は触れ、意は縁る。それぞれに伺うところがあり、互いに濫れることがない。ゆえに各々相知らずというのである。
「眼根は色を受く」から下は十二入を明かす。さらに色を開いて十とし、一入の少分を合わせる。心を開いて二とし、十二入を成ずるのである。塵が根に入り、根もまた塵に入る。互いに涉入するので、通じて入という。根は識を生ずる力が強いので、別に根という。塵は汚す意味が強いので、別に塵という。一つの根と塵が互いに涉入するので、各々自らを縁うという。他の根はこの塵に入らず、この塵は他の根に入らない。ゆえに他を縁って行かずというのである。
「心は幻化の如し」から下は十八界を明かす。さらに心を開いて八とし、色を十とする。界とは、隔別して濫れないので、界という。文は三つに分かれる。一、「心は幻化の如し」から下は、識が諸根に遍在することを明かす。たとえ眼や耳が塵に対していなくても、心は追い縁ってあらかじめ念う。ゆえに馳騁(走り回る)という。人が坐したまま天下を馳せるようなものである。愚癡のゆえに、根と塵が空しく険しいことを知らないので、賊に害されるのである。『大般涅槃経』に(云云)とある通りである。二、「心は常に依止す」から下は、識が常に根にあることを明かす。ゆえに六根という。識が常に塵にあるので、境界という。もし識が根と塵にないとするなら、どうして対すればすぐに覚えることがあろうか。すぐに覚えるゆえに、常に根と塵にあるのである。『大智度論』に「根が壊れず、心が聞こうと欲し、また声があれば、衆縁和合して聞くことができる」とあるのが、この意味である。三、「心は六情に処す」から下は、識が根に対して乍出乍入(出たり入ったり)することを明かす。鳥が網の中にいて出入りし、間関(行き来)し、一つをついばみ一つを捨て、周り巡って始めに戻り、暫時も休息しないようなものである。識が根の網の中にあるのもまた同じで、ある時は耳にあり、ある時は眼にあり、去り還ることに定まりがない。たとえ定まりがなくとも、常にあると論ずることができる(云云)。
「身は空虚にして偽りなり」から次の一行までは、第三に生空と法空の二つの空の境を結びつけるものです。
「身は空にして長養すべからず」とは、生空の境を結びつけるものです。「長養」とは十六の要素の一つです。長養がすでに空であるならば、他の十五の要素もまた空であり、これによって生空の境が結び成されるのです。
「また正しき主なし」とは、法空の境を結びつけるものです。『遺教経』に「この五根は、心をその主とす」とあります。これは託胎の始めに、心が諸根の最初にあることを明らかにし、これを主と名づけています。しかし実際には、心は諸根を制御することはできず、根が互いに大きく違えば、心は悩みを受けることになります。身体が病むとき、心もまた病に従います。どうして主といえるでしょうか。
ある時は互いに主を論じ合うこともあります。例えば、地は四つの微細な要素を持つため鈍重で、水に制せられます。水は三つの微細な要素しか持たないため、火に制せられます。火は二つの微細な要素しか持たないため、風に制せられます。風は一つの微細な要素しか持たないため、心に制せられます。心には微細な要素がないため、主となることができます。しかし、心もまた四大に悩まされるため、主としての意義は成り立たず、故に「正しき主なし」と言うのです。
「諍訟あることなし」とは、もし四大が実在すると考えれば、互いに矛盾が生じます。四匹の蛇が互いに争い、四つの国が互いに拒み合うように、諍訟が起こり得ます。今、四大が空であると観じれば、空であることに執着することもなく、故に「諍訟あることなし」と言うのです。これは法空の意味を結びつけるものなのです。
「善女よ、観よ」以下の二十一行は、第二に生法二空観を明かすものである。文は二つに分かれる。初めの八行半は修因の生法二空観を明かし、次の十二行半は果成の起用を明かす。因中もまた二つに分かれる。初めの三行半は苦集に約して生法二空観を明かし、次に「無明体相」以下の五行は十二因縁に約して生法二空観を明かす。苦集に約する部分もまた二つに分かれる。初めに「善女」以下の一行半は衆生空を明かし、次に「如是諸大」以下の二行は法空を明かす。問う。四諦十二縁は二乗の法である。どうして菩薩の観門となりうるのか。答える。四諦十二縁は三乗に通じる観境である。たとえば大道は貴賤ともに遊ぶが、小人たちが行ったからといって民庶に属すると決めつけることはできない。通意とはどういうことか。『涅槃経』に「我は昔、汝らとともに四真諦を見ず」とある。また「凡夫には苦ありて諦なし。声聞には苦ありて苦諦あり。菩薩は苦を解して苦なくして真諦あり。諸仏如来には真ありて実あり」とある。なぜそうなのか。二乗は有量の四諦を観じ、菩薩は有量無量の四諦を観じるからである。『大経』に「十二因縁には凡そ四種あり。下智の観ゆえに声聞を得、中智の観ゆえに縁覚を得、上智の観ゆえに菩薩を得、上上智の観ゆえに仏菩提を得る」とある。また別意がある。『大品』に「十二因縁は独り菩薩の法なり。たとえば仏が昔、儒童として衆行を行えども波羅蜜にあらず。然燈仏を見て無生法忍を得、一念相応して苦空に習応し、乃至滅空に習応し、無明空に習応し、乃至老死空に習応す。諸の相応の中、空相応最も第一なり。空をもって行を導くゆえに皆な波羅蜜と名づく。無生法忍を得たるゆえに、仏すなわち記を授く」とある。知るべし、菩薩はどうして四諦十二縁を観じないことがあろうか。二乗は同じく観ずるといえども、観法に異なりがある。声聞は諸の果を観じて、総じて一の苦諦観となす。諸の煩悩および業を観じて、総じて一の集諦観となす。また苦と集とは総じて現在である。ゆえに総相観というのである。縁覚は苦を七と観じ、現在五、未来二とする。集を五と観じ、過去二、現在三とする。三世を別に観じ、苦集を別に開く。ゆえに縁覚の別相観というのである。総別に違いはあるが、ともに自調自度であり、ともに析生法二空観である。菩薩とは異なる。菩薩は衆生のために四等六度を修し、四諦十二縁を観じて生法二空となす。今、譬えを挙げてこれを示す。五本の指を握って拳とするようなものである。もし一本の指に一拳あれば、五拳あるべきである。もし一本の指に拳がなければ、五本あってもどうして拳があるだろうか。我・人もまたそうである。五陰をかき集めて衆生となる。一陰に衆生があれば、五衆生あるべきである。一陰に衆生がなければ、五陰があってもない。すなわち陰を求めて衆生を得ず、陰を離れて衆生を求めても得ない。拳を求めて拳を得ないといっても、皮骨の指が存することを妨げない。人を求めて人を得ないといっても、五陰の法が存することを妨げない。二乗の人が生空を得たとき、まだ法空を知ることができず、さらに指の皮肉骨髓を分分に推求しても指を得ず、地水火風を窮めて隣虚に至っても色を得ず、前念後念もまた想受なし。指を求めて指を得ず、はじめて指なきことを知る。法を求めて法を得ず、はじめて法虚なることを知る。すでに生法二空の境を得ず、また生法二空の智も得ない。通菩薩の観もまたそうである。これが菩薩と二乗の析生法二空の相であり、ただ自行と為他との違いがあるだけである。もし別菩薩の体空を論ずれば、これとは永遠に異なる。鏡の中の拳を見るようなものである。懸体すでに空であれば、尋ね探す労はない。鏡の中の拳がすでに虚であれば、鏡の中の指も実ではない。鏡の中の拳指がすでに虚であれば、鏡の外の拳指もまた実ではない。衆生もまたそうである。ただ名字があるだけで、これを衆生と名づける。この名字はもとより自ら空であり、検討して後に空となるのではない。名がすでに仮名であれば、法もまた非法である。名を体すればすなわち法を体する。『大品』に「我性は色性の如く、色性は我性の如し」とある。今世の生法は無明行によるものである。五果がすでに虚であれば、二因がどうして実であろうか。下文に「本性空寂、無明ゆえに有り」とある。無明がすでに寂であれば、無明から生ずるものが、どうして寂でないことがあろうか。生法二境を得ないといっても、よく了々として二境を通達し、境に染まられることがない。生法二空智を得ないといっても、よく了々として二空智を通達し、智に浄められることがない。染でもなく浄でもなく、二辺を双亡して、正しく中道第一義諦に入り、よく二諦を双照する。三諦朗然として、前後なく一時に大覚し、この甚深なる法性と相応し、金剛宝蔵を具足して得る。これが菩薩の体生法二空観である。諸の小乗師は析空を説くといえども、外道の義と同じである。なぜか。色を析いて極めて隣虚に至り、あるいは塵を存して破らず、あるいは塵を破って尽くす。もし存して破らなければ、ただ常見である。もし塵を破って尽くせば、ただ断見である。断常が宛然としてある。邪でないというなら、何を邪というのか。諸の大乗師は体空を説くといえども、小道と同じである。なぜか。単に体慧を用いて、一念に心を空ずることができず、遊戯神通し、仏国土を浄め、仏の知見を具足して解釈することができず、どうして三智を一心中に得、五眼を具足して菩提を成じることができようか。小乗の壞法の人に似て、三明六通願智頂等がなく、ただ慧解脱の人にすぎない。小でないというなら、何を小というのか。今の経の首軸は深く極まり広い。〈序品〉に「無量甚深の法性に遊ぶ」とあり、〈空品〉に「如来の真実法身を求む」とあり、〈捨身品〉に「寂滅無上の涅槃を求む」とある。どうして世間人の邪見を用いることができようか。どうして小乗の析を用いることができようか。どうして大乗師の体解をもってこの空義を解することができようか。「善女よ、観よ」以下の一行半は生空観を明かす。初めの一句は対告勧発、次の一句は上の境を指し、次の四句は正しく観を作す。善女とは菩提樹神である。諸仏の説法には必ず対揚があり、一人に寄せて衆を訓える。ゆえにその人に告げるのである。また時衆の機縁は善女に宜しい。もし対告を聞けば宿善が発生する。また男天は方便を表し、女天は智度を表す。智度を説いて愚著を破らんと欲するゆえに、女天に告げるのである。また仏は道樹において道を得た。この道を説かんと欲するゆえに、樹神に対告するのである。これは四悉檀を表し、対告には因縁がないわけではない。当観とは、一人を勧めて諸を例とする。一切の菩薩は必ず智度を修めなければならない。この道によらない菩薩はいない。ゆえに当観というのである。諸法とは、上の四諦十二因縁の仮なり実なり二空の境を指す。名目は略ではあるが、法を摂することは遍くである。ゆえに諸法というのである。如是とは、正しく総観を明かす。如是には三義がある。すなわち如事、如理、如非事非理である。如事とは、助道の仮想不淨流濫の如しである。如理とは、生法二空無法の如しである。如非事非理とは、法性法身の如しである。また事はすなわち如理、如非事非理である。非事非理もまたすなわち如理、すなわち如事である。理はすなわち如事、すなわち如非事非理である。三法は一異ならず、ゆえに如是という。三法はまた一異なり、ゆえに諸法という。何処にか人あらんとは、理観を点出する。何処とは、もし色処に人あれば、四陰を須いず。もし色処に人なければ、四処にもまた人なし。五処に都て人なし。ゆえに何処にか人あらんという。また果処にすでに人なければ、無明行の因処にもまた人なし。因果合してもまた人なし、因を離れ果を離れてもまた人なし。ゆえに何処にか人あらんというのである。人すでに無ければ、衆生十六知見等も皆な無し。ゆえに及以衆生というのである。本性空寂とは、非事非理観を点出する。本性には事無く、また空も無し。空はもとより事を空ず。すでに事無ければ、空は何をか空ずる。事無きゆえに事寂、空無きゆえに空寂。本性かくの如し。今始めて然るのではない。ゆえに本性空寂というのである。無明ゆえに有りとは、事観を点出する。もしその空にしてまた空ならば、どうしてこの事があるだろうか。すでに事あればすなわち空あり、すでに空あればすなわち非事非理あり。この三種は悉く無明ゆえに有るのである。無明癡あるゆえに行あり、行あるゆえに生法あり、すでに生法あればすなわち助事の観あり、助来りて正を助くればすなわち空理の観あり、正助本を顕せばすなわち非事非理の観あり。この事を知らざるを無明と名づける。『浄名経』に「癡より愛有ればすなわち我病生ず。病生ずるゆえにすなわち薬起こる」とある。これがこの義である。もし無明が本性空寂なることを知れば、尚お無明無く、どうして事理、非事非理があるだろうか。畢竟清淨。ゆえに空慧と称するのである。ただ我見深重にして、学道の大障となる。凡夫のなすところは恒に我とともにす。我行、我住、坐臥言語、我に離るること無し。我行施戒、乃至我行智慧。もし他遺体をかき集めて我を計るならば、この我は疏鈍である。もし法塵を執して我を計るならば、この我は密利である。たとえば一法を執して、我知我解と謂い、法に於いて我を起こし、随って一句を執して是れ実とし、余は皆な妄語とすれば、すなわち辺見である。道に非ずして道と謂えば、すなわち戒取である。理に非ずして理と謂えば、すなわち見取である。当たらずして当たると謂えば、すなわち邪見である。自ら是として他を陵ぐれば、すなわち慢である。これを撥てばすなわち瞋、これを誉めればすなわち愛、これを破ればすなわち疑、了せざればすなわち癡。十使煩悩は我を根本とし、自ら覚知せず日夜増長す。たとえ世智弁聡たること長爪鍱腹の如く、石を難ずれば石裂け、樹を難ずれば樹折れ、水を難ずれば水竭き、火を難ずれば火滅すとも、道より弥遠し。たとえ禅に随い梵世に極まり非想に至るも、我心常に在り、将に出でんとすればまた還る。このような凡邪は尚お暖法無く、どうして我を破ることができようか。広くこの我を説けば、すなわち二十種の身見である。すなわち陰に即して五を計り、陰を離れて五を計り、我の中に五陰あり、陰の中に五我有り。これをもって二十とする。もし一陰が我ならば、余陰には我無し。もし併せて我ならば、すなわち五我有り。この義然らず。もし陰を離れて我有れば、すでに陰を離るるならば、我は誰が我か。この義然らず。もし陰の中に我有れば、すなわち陰は我に盛んである。器に果を盛むが如く、屋に人を貯むるが如し。この義然らず。もし我の中に陰あれば、すなわち陰は我の内にあり。この義然らず。これをもって三十種の身見を破る。これは外境に約してかくの如く説く。しかるにその内心はなお我を計る。また反って観るべし。すなわち智に我有り、智を離れて我有り、我の中に智あり、智の中に我有り。この義皆な然らず。また二十種の身見を破る。内外合数すれば、すなわち四十種の身見。これを生空と名づける。『毘曇』に「我見は共等の因なり。我見起こる時は未だ身口を動かさず、我見の後に思惟生ずる時に方って身口を動かす」とある。我見を断じたれば、衆生空を悟る。『成論』は我見の心すなわち思惟と明かし、よく身口を動かす。我見を断じたれば、すなわち衆生空を悟り、また法空を悟る。大乗は我見すなわち諸法を具すと明かす。どうして思惟を具さないことがあろうか。衆生空を悟れば、すなわち実法空を悟る。二十種の身見を破ることは、上の三句に通じて皆なこれを用いる。もし事に即して理ならば、何処にか人あらん。陰に即し陰を離るるも、陰の中に人無く、人の中に陰無し。二十種の見破る。ゆえに何処にか人あらんという。能観の智、智すなわち是人、智を離れて人有り、人の中に智あり、智の中に人有り。この計りもまた破る。ゆえに何処にか人あらんという。もし非事非理本性空寂観を作すならば、本性空寂にして、本より陰に即し陰を離るること無し。陰人人陰すでに無ければ、このような計り破る。ゆえに何処にか人あらんという。能観の智、本性もまた寂。ゆえに何処にか人あらんという。もし助道不淨観を作す時、もし悪心取境を観ずれば、すなわちは污穢の五陰である。もし善心慚愧を観ずれば、すなわちは方便隠没の五陰である。この見は皆な色に依る。色すなわち不淨。不淨なるゆえに人無く我無し。ゆえに何処にか人あらんという。能観の観智もまたかくの如し。ゆえに何処にか人あらんという。もし悟を得て論ずれば、二十種の身見を破ることは、衆生空を得て再び見惑無きことである。しかして二十種の観を作す者は、実惑を除く。実惑もし除かれば、すなわち修道に入る。すなわち応に何処にか法あらんと言うべし。もし未だ悟を得ずして論ずれば、二十種の観を作すといえども、見惑未だ除かれず、しかして仮名の上に於いて愛を伏し、度て実法に於いて我を計る。ゆえに『法華経』に「衆生は処々に著す。一を捨てて一を取る。屈歩虫の如し」とある。須らく実法の上にさらに二十種の観を作し、空慧を分明ならしめ、処々に作して咎無からしむべし。「如是諸大」以下の二行は実法観を明かす。上の生空悟を得れば、すなわち法を解する。未だ悟を得ざるがゆえにさらに説くのである。文もまた三つに分
金光明経文句 巻第四