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金光明経文句 (金光明經文句)


金光明經文句卷第四

金光明経文句 巻第四

隋天台智者大師說

隋の天台智者大師の説

門人灌頂錄

門人灌頂録

釋空品

空の章

夫空者,應有四種,謂滅色入空、即色是空、滅邊入空、即邊是空。此經通諸乘懺悔,應須四種空,而今品但標空者,專是即邊而空也。何故爾?經云「無量餘經已廣說空」,是故此中略而解說也。又空者,空有、空無。空有者,空二十五之塊有。空無者,空二乘之灰無。兩邊清淨,名之為空。直作此說,惑者迷名濫理,不能超悟。今作六句分別:空破非有非無、非有非無破空、空修非有非無、非有非無修空、空即非有非無、非有非無即空。空破非有非無者,所謂凡邪非有非無見,二乘偏住非有非無證,別教教道執非有非無門,悉為空品空所破也。凡邪之見多種,一單四見、二複四見、三具足四見。單四見,可解。複四見者,謂有有有無、無有無無、亦有亦無有亦有亦無無、非有非無有非有非無無,此是複四見。具足四見者,於一句中具有四句,四四十六句,故名具足也。雖單複具足,皆苦集浩然。雖計為非有非無,實是妄見,故為空品空所破也。二乘偏住非有非無證者,斷常見故言非有,斷斷見故言非無。有無二見滅無餘,三界見思永已盡,生滅度想、生安隱想,梵行已立、所作已辦、不受後有。保此而已,不復進求三菩提。但二乘發真,斷常見斷斷見,其門不同。或從有門入,如《阿毘曇》;或從無門入,如《成實論》;或從亦有亦無門入如《昆勒》;或從非有非無門入如《那陀迦旃延經》。離斷離常,名聖中道。四門俱斷斷常,名同中道,實是保偏取證,故為〈空品〉空所破也。別教教道執非有非無門者,佛為鈍根菩薩方便權巧作四門說中道,如彼栰喻。不得意者,四門成諍。故《涅槃》云「真善妙有大般涅槃空,佛性亦色、非色、非色非非色。若各執一門,則於如來有諍訟心,不見中道。」執此教門,猶為〈空品〉空所破也。新本云「初地菩薩欲行有相道」,斯即一門之意也,文中悉有四門之說。《大經》云「自此之前,我等悉名邪見人也。」非有非無破空者,還是凡邪之空見、二乘之空證、教道之空門,墮在二邊,故為中道非有非無所破也。相修者,見空、證空、教道空,應修中道非有非無也。非有非無見、非有非無證、非有非無教門,應修中道空也。相即者,破二邊空即是中道非有非無。中道非有非無,即是破二邊空無二無別。般若是一法,佛說種種名,空即是非有非無,而不以非有非無為名者,為略說故,故言〈空品〉也。此品來意者,〈懺品〉破惡、〈讚品〉生善,〈空品〉導成滅惡生善也。亦是導成用宗體等,故《釋論》云「若以無此空,一切無所作。」導成上品,故明〈空品〉也。又常果顯體,滅惡生善非不明空,利者已解,為鈍根故起大悲心,更明五陰生法本性空寂爾

「空」には四種類があると考えられます。それは、色を滅して空に入る、色そのものが空である、辺を滅して空に入る、辺そのものが空である、という四つです。この経典は諸乗の懺悔に通じるもので、四種類の空を必要としますが、今この品でただ「空」と示されているのは、特に「辺そのものが空である」ことを指しているのです。なぜそう言えるのでしょうか。経典に「無量の余経がすでに空を広く説いている」とあるからです。ですからここでは略して解き明かしているのです。

また、「空」とは、有を空じ、無を空じることを意味します。有を空じるとは、二十五有という塊のような存在を空じること。無を空じるとは、二乗の灰のような無を空じること。両辺が清らかになることを「空」と呼びます。ただこのように説明すると、迷える者は名前に惑わされて真理を混同し、超える悟りを得ることができません。そこで今、六つの句に分けて説明します。

一、空が非有非無を破る 二、非有非無が空を破る 三、空が非有非無を修する 四、非有非無が空を修する 五、空は即ち非有非無である 六、非有非無は即ち空である

「空が非有非無を破る」とは、凡夫や邪見の非有非無の見解、二乗の偏った非有非無の証、別教の教道が執着する非有非無の門、これらすべてが〈空品〉の空によって破られるということです。

凡夫や邪見の見解には様々な種類があります。一に単四見、二に複四見、三に具足四見です。単四見は理解しやすいでしょう。複四見とは、有有有無、無有無無、亦有亦無有亦有亦無無、非有非無有非有非無無、これらが複四見です。具足四見とは、一つの句の中に四つの句をすべて含み、四四十六句となるため、具足と呼ばれます。単四見であれ複四見であれ具足四見であれ、すべて苦集が広大無辺です。非有非無と計っていても、実際は妄見に過ぎないため、〈空品〉の空によって破られるのです。

「二乗の偏った非有非無の証」とは、常見を断じて非有と言い、断見を断じて非無と言うことです。有無二見が滅びて残らず、三界の見思が永遠に尽き、生滅度の想い、安穏の想いが生じ、梵行はすでに立ち、なすべきことはすでに成し遂げられ、後に有を受けることはありません。これを保ってそれ以上、三菩提を求めることはありません。しかし二乗が真実を発する際、常見を断じ断見を断つその門は同じではありません。ある者は有門から入り(『阿毘曇』の如く)、ある者は無門から入り(『成実論』の如く)、ある者は亦有亦無門から入り(『昆勒』の如く)、ある者は非有非無門から入ります(『那陀迦旃延経』の如く)。断と常を離れることを聖中道と呼びます。四門ともに断常を断つことは中道と同じ名ですが、実際は偏りを保って証を取っているため、〈空品〉の空によって破られるのです。

「別教の教道が執着する非有非無の門」とは、仏が鈍根の菩薩のために方便権巧として四門で中道を説いたもので、あの筏の譬えのようです。意を得ない者は、四門で諍いを起こします。ですから『涅槃経』に「真善妙有なる大般涅槃は空であり、仏性もまた色であり、非色であり、非色非非色である。もしそれぞれ一門に執着すれば、如来に対して諍訟の心を起こし、中道を見ることができない」とあります。この教門に執着する者は、やはり〈空品〉の空によって破られるのです。新本には「初地の菩薩は有相の道を行おうとする」とあり、これが一門の意です。文中には四門の説がすべて含まれています。『大経』に「これより以前、我らはみな邪見の人と呼ばれる」とある通りです。

「非有非無が空を破る」とは、逆に凡夫や邪見の空の見解、二乗の空の証、教道の空の門が二辺に堕しているため、中道の非有非無によって破られるということです。

「相修する」とは、空の見解、空の証、教道の空が、中道の非有非無を修すべきであるということ。非有非無の見解、非有非無の証、非有非無の教門が、中道の空を修すべきであるということです。

「相即する」とは、二辺を破る空が即ち中道の非有非無であるということ。中道の非有非無が即ち二辺を破る空であり、二つではなく別でもないということです。般若は一つの法ですが、仏は種々の名で説かれます。空は即ち非有非無ですが、非有非無を名としないのは、略説するためです。ですから〈空品〉と言うのです。

この品が来た意図は、〈懺品〉が悪を破り、〈讚品〉が善を生じさせ、〈空品〉が導いて成し、悪を滅ぼし善を生じさせるためです。また、導いて成し、用・宗・体などを成すためでもあります。ですから『釈論』に「もしこの空がなければ、一切のなすべきことはない」とあります。上の品を導いて成すため、〈空品〉を明らかにするのです。

また、常果が体を顕わし、悪を滅ぼし善を生じさせることは、空を明らかにしないわけではありません。利根の者はすでに理解していますが、鈍根の者のために大悲心を起こし、さらに五陰の生法が本性として空寂であることを明らかにするのです。

此品有四十五行偈,分為二:初四行半敘欲說空、次四十行半正說空。無量餘經者,指廣而明略,亦是標略以顯廣。若指《般若》,則此經非方等攝;若不指《般若》,諸經不廣明空義。此復云何?答:諸經前分結集人應作次第,而其後分皆攝入前例。且舉一以類諸。如《阿含經》云「佛將涅槃,舍利弗不忍見佛滅,前佛而去。均頭頭擎衣鉢來至佛所。」此是窮後之事。而在十二年前《阿含》中集,當知《阿含》後分至《涅槃》也。又方等次第在《法華》前,而云「先於靈山已為聲聞授記」,豈非方等至於《涅槃》。又《大品》次第在《法華》前,《釋論》云「須菩提於法華中授記故,而諸菩薩為畢定?為不畢定?」當知《般若》亦至《涅槃》。以此推之,言次第者是前分也,互相指者是後分也。結集者以後分明義氣類若同,向前集之;或者不知言乖次第,實不乖也。此經屬方等後分,指《般若》為廣說,於義無妨。略而解說者,佛有略廣二門,應作四句分別:或名義俱廣,如十八空、二十空、二十四空是也;或名義俱略,如一獨空是也;或名廣義略,如法性、實相、實際、如如、法界等眾多名,共名一義是也;或名略義廣,如生法二空之名,而義大廣。迄從凡地至于極佛皆名眾生。《釋論》云「眾生無上者佛是」。從凡夫之五陰極至佛地,亦稱色解脫、受想行識解脫。《釋論》云「法無上者涅槃是」。今言略說生法二空,下文云「五陰舍宅,觀悉空寂。善女當觀何處有人及以眾生?」即其義也。眾生根鈍者根緣不同,或廣說得悟名利根,或略說得悟名鈍根。此語似倒?身子一聞得悟,是略是利;目連再聞得悟,是廣是鈍。此經意不就得悟邊明利鈍,乃是聞持邊論利鈍。利人廣聞則能持,鈍人略聞方能持。今機但有得悟之機,無有廣持之機,故言不能廣知也。無量空義者,二乘真諦是有量空義,菩薩中道是無量空義。此經明法性實相,即是無量空義也。異妙方便者,即是悉檀方便,巧作上來辦果明因、滅惡生善種種分別等是也。起大悲心者,一段眾生著有病重,故大悲亦重也。我今演說者,演名為廣,與略相違。上論生法二空是名略,今論生法二義,故言演爾。知眾生意者,知此一機樂略宜略、對略悟略,故言知意也。敘欲說空意竟。

この品には四十五行の偈があり、二つに分けられます。初めの四行半は「空」について説こうとする意図を述べ、次の四十行半が実際に「空」を説いています。

「無量余経」とは、広く説かれた経典を指して、ここでは簡略に明らかにしようとしているのです。また、簡略な表現によって広大な内容を示そうとしているとも言えます。

もし『般若経』を指すなら、この経典は方等部に含まれません。もし『般若経』を指さないなら、他の経典は「空」の義を広く明らかにしていないことになります。これはどういうことでしょうか。

答えましょう。諸経典の前半部分は結集者が順序立てて編集しましたが、後半部分はすべて前半の例に従って収められています。一例を挙げて他の類推とします。

例えば『阿含経』には「仏が涅槃に入ろうとされた時、舎利弗は仏の滅を見るに忍びず、先立って仏のもとを去った。均頭が衣鉢を捧げて仏のもとに来た」とあります。これは最後の出来事です。しかしそれが十二年前に編集された『阿含経』の中に集められているのですから、『阿含経』の後半部分が『涅槃経』に至るまでを含んでいることがわかります。

また、方等部の経典の順序は『法華経』の前にありますが、「先に霊山で既に声聞に授記した」と説かれています。これは方等部が『涅槃経』に至ることを示していないでしょうか。

さらに『大品般若経』の順序は『法華経』の前にありますが、『大智度論』には「須菩提は法華経の中で授記された。では諸菩薩は必定なのか、不必定なのか」とあります。これによって『般若経』もまた『涅槃経』に至ることがわかります。

このように推論すれば、「順序」と言うのは前半部分を指し、「互いに指し示す」というのは後半部分を指すのです。結集者は後半部分の意味や内容が同じ類いであれば、前半部分に集めたのです。ある者は順序に反していると言って知りませんが、実際には反していないのです。

この経典は方等部の後半部分に属し、『般若経』を広説として指し示しても、義理に妨げはありません。

「略而解説」とは、仏には略説と広説の二つの方法があり、四つの場合に分けて考えるべきです。

1. 名も義もともに広い場合。例えば十八空、二十空、二十四空などです。 2. 名も義もともに略な場合。例えば「一独空」などです。 3. 名は広いが義は略な場合。例えば法性、実相、実際、如如、法界など多くの名が、一つの義を共に表す場合です。 4. 名は略だが義は広い場合。例えば生空・法空という二つの名は、その義が非常に広大です。凡夫の地位から究極の仏果に至るまで、すべて「衆生」と呼ばれます。『大智度論』に「衆生の無上なる者は仏なり」とある通りです。凡夫の五蘊から極まる仏地に至るまで、色解脱、受想行識解脱とも称されます。『大智度論』に「法の無上なる者は涅槃なり」とある通りです。

今ここで略説として生空・法空の二つを説き、下文に「五陰の舎宅を観ること悉く空寂なり。善女よ、まさに観よ、何の処にか人及び衆生有らん」とあるのが、その義です。

衆生の根が鈍いとは、根機と縁が同じでないからです。ある者は広説を聞いて悟り、これを利根と名づけ、ある者は略説を聞いて悟り、これを鈍根と名づけます。

この言葉は逆さまのように思えますか?舎利弗は一聞して悟りを得ました。これは略説による利根です。目連は再聞して悟りを得ました。これは広説による鈍根です。

この経典の意図は、悟りを得る側から利鈍を明らかにするのではなく、聞いて保持する側から利鈍を論じているのです。利根の人は広く聞いても保持でき、鈍根の人は略説を聞いてこそ保持できます。今の機根には悟りを得る機はあっても、広く保持する機はないので、「広く知ることができない」と言うのです。

「無量空義」とは、二乗の真諦は有量の空義であり、菩薩の中道は無量の空義です。この経典が明らかにする法性実相こそ、無量の空義なのです。

「異妙方便」とは、つまり四悉檀の方便であり、巧みに前文で果を明らかにし因を明らかにし、悪を滅ぼし善を生じさせる種々の分別などを示したものです。

「大悲心を起こす」とは、一段の衆生が「有」に執着する病が重いので、大悲もまた重いのです。

「我今演説」とは、「演」は広いことを意味し、略と相反します。前に論じた生空・法空の二つは名が略であり、今論じる生法の二義は、広く説くことを言うのです。

「衆生の意を知る」とは、この一類の機根が略説を好み略説に適し、略説に対して略説によって悟ることを知るので、「意を知る」と言うのです。

「空を説かんとする意を叙べ」終わりました。

從「是身虛偽」下四十行半偈,是第二正明於空。又為二:初從「身偽」下十九行半,明生法二空境;二從「善女當觀」下二十一行,明生法二空觀。無境觀不正、無觀境不顯,應引《止觀》中十番檢境智明不可思議。下文云「不可思議智境,不可思議智照」,新本云「如如法,如如智」,即其義也。明空境又二:初從「是身虛偽」下十七行半明實法境、二從「水火風種」下二行明假想境。實法者,觀五陰無法,觀十六無人。空觀詣理,故名實法;身雖未死,虛假臭穢,故名假想。亦名慧行、行行。緣空直入,名為慧行;帶事兼修,名為行行。亦名正道、助道。空觀順理,名為正道;不淨破貪,名為助道。小乘修正道斷結,名慧解脫人;修助道斷結,名俱解脫人。《大品》明菩薩發心與薩婆若相應者是修正道,遊戲神通淨佛國土者是修助道。《法華》名為大車儐從,即此意也。《涅槃》明正慧遠離,遠離十相,住大涅槃。又諦觀白骨,破二十五有,成王三昧。眾經同論此二義,而互有廣略。今經略明,正助意也。實法境又二:初從「身偽」下十行半約苦果論境、二從「從諸因緣」下七行偈約集因論境。觀此苦集而起道滅,若能見四諦則得斷生死。生有既盡已,更不受諸有(云云)。苦境又三:從「身偽」下兩句明生空境、次從「六入村落」下九行偈明法空境、次從「身空虛偽」下一行結上生法二空境。是身虛偽為生空境者,攬陰成身。計有我人眾生壽命,身見得生。若體其生名虛偽,則求身叵得,身見不起,餘知見亦寂,故約假生為生空之境。又檢此身原由,一念妄想託父母遺體,假名之始也。此赤白二渧,色陰也。覺苦樂,受陰也。想此苦樂,想陰也。具三性,行陰也。識於中住,識陰也。又精血是地大,濕是水大,煖是火大,氣命是風大,四大圍空是空種,心依此住是識種,此實法之始也。觀此身與名依妄偽法,豈可為真?故言虛偽。空聚者,身名積聚,如水上泡圍空而起,泡名亦起。起即有滅,泡名亦滅。無明業力託父母體,即陰泡起。陰泡起即身名起,陰泡滅則身名滅,故言空聚也。從「六入村落」下明法空境。何以知之?此文但細檢根塵、不論人我,故知是法空境。文為三:初一行明六根、次三行明十二入、次五行明十八界。六入者,六根也。能生於識,名之為根。塵之所趣,名之為入。亦為識之所入,故名六入也。檢其元初,但有三事,謂命、燸、識。如凝酥薄酪,七日一變,巧風所吹,開張五胞,攬四大淨色,結成眼耳鼻舌身等。諸根若立,則有生識之用。是為開色為五,心但為一。識依根住,故名為村。塵從此入,故言結賊所止。眼見耳聞鼻嗅舌嘗身觸意緣,各有所伺,不得相濫,故言各不相知也。從「眼根受色」下明十二入,更開色為十,并一入少分。開心為二,成十二入也。塵入於根,根亦入塵,互相涉入,通名為入。根生識強,別名為根。塵污義強,別名為塵。當一根塵互相涉入,故言各各自緣。他根不入此塵、此塵不入他根,故言不行他緣也。從「心如幻化」下明十八界。更開心為八、色為十。界者,隔別不濫,名之為界。文為三:一「心如幻化」下明識遍諸根。假令眼耳不對於塵,心亦追緣預念,故言馳騁。如人坐馳天下,以愚癡故,不知根塵空險,故為賊害。如《大經》(云云)。二「心常依止」下明識常在根,故言六根。識常在塵,故言境界。若謂識不在根塵,那忽即對即覺?以即覺故,故常在根塵。《釋論》云「根不壞、心欲聞、復有聲,眾緣和合故得聞。」即此義也。三「心處六情」下明識之於根乍出乍入。如鳥在網出入間關,啄一捨一周而復始,無暫休息。識在根網亦復如是,或在於耳或在於眼,去還無定。雖復無定,而得論常在(云云)。

「この身は虚偽である」から下の四十行半の偈は、第二に正しく空を明かす部分である。さらに二つに分かれる。初めに「身は虚偽」から下の十九行半は、生空(人空)と法空の二つの空の境(対象)を明かす。二つ目に「善女よ、まさに観よ」から下の二十一行は、生空と法空の二つの空観(観法)を明かす。境がなければ観は正しくなく、観がなければ境は顕わにならない。ここで『摩訶止観』の中の十番の境と智を検討する不可思議の説明を引くべきである。下文に「不可思議の智境、不可思議の智照」とあり、新訳本には「如如の法、如如の智」とあるのが、この意味である。

空の境を明かす部分もまた二つに分かれる。初めに「この身は虚偽である」から下の十七行半は実法の境を明かし、二つ目に「水火風の種」から下の二行は仮想の境を明かす。実法とは、五陰には実体がないと観じ、十六我(我の観念)には人がいないと観ずることである。空観が真理に至るので、実法という。身体はまだ死んでいなくても、虚仮で臭く穢れているので、仮想という。また慧行(智慧による修行)と行行(事相を伴う修行)ともいう。空に縁って直ちに入るのを慧行といい、事相を帯びて兼ねて修するのを行行という。また正道と助道ともいう。空観が理に順うのを正道といい、不浄観で貪りを破るのを助道という。小乗では正道を修して煩悩を断じるのを慧解脱の人といい、助道を修して煩悩を断じるのを倶解脱の人という。『大品般若経』に、菩薩が発心して一切智と相応するのは正道を修する者であり、神通を遊戯し仏国土を浄めるのは助道を修する者であると明かす。『法華経』で大車の従者と名づけるのは、この意味である。『涅槃経』に正しい智慧は遠離であり、十の相を遠離して大涅槃に住すると明かす。また、白骨を諦観して二十五有を破り、王三昧を成ずる。多くの経典が同じくこの二つの意義を論じ、互いに広略がある。今の経文は略して明かし、正と助の意味を示すのである。

実法の境もまた二つに分かれる。初めに「身は虚偽」から下の十行半は苦果について境を論じ、二つ目に「諸の因縁より」から下の七行の偈は集因について境を論ずる。この苦集を観じて道滅を起こすのである。もし四諦を見ることができれば、生死を断ずることができる。生有がすでに尽きれば、もはや諸有を受けることがない(云云)。

苦の境はさらに三つに分かれる。「身は虚偽」から下の二句は生空の境を明かし、次に「六入の村落」から下の九行の偈は法空の境を明かし、次に「身は空虚にして虚偽」から下の一行は上の生法二空の境を結ぶ。「この身は虚偽である」を生空の境とするのは、五陰をかき集めて身を成し、我・人・衆生・寿者があると計って身見が生ずるからである。もしその生が虚偽であると体得すれば、身を求めることができず、身見は起こらず、その他の知見もまた寂滅する。ゆえに仮の生について生空の境とするのである。また、この身の根源を検討すれば、一念の妄想が父母の遺体に託されるのが、仮の名の始まりである。この赤白二滴は色陰である。苦楽を覚えるのは受陰である。この苦楽を想うのは想陰である。三性(善・悪・無記)を具えるのは行陰である。中に住して識るのは識陰である。また、精血は地大であり、湿潤は水大であり、暖気は火大であり、気命は風大である。四大が空を囲むのは空種であり、心がこれに依って住するのは識種である。これが実法の始まりである。この身と名が妄偽の法に依っていると観じれば、どうして真実といえようか。ゆえに虚偽というのである。

空聚(空の集まり)とは、身と名が積聚したもので、水上の泡が空を囲んで起こり、泡の名もまた起こるようなものである。起こればすなわち滅があり、泡の名もまた滅する。無明の業力が父母の体に託されれば、すなわち陰の泡が起こる。陰の泡が起こればすなわち身と名が起こり、陰の泡が滅すれば身と名も滅する。ゆえに空聚というのである。

「六入の村落」から下は法空の境を明かす。どうしてそうわかるか。この文はただ細かく根と塵を検討し、人我を論じない。ゆえに法空の境であると知るのである。文は三つに分かれる。初めの一行は六根を明かし、次の三行は十二入を明かし、次の五行は十八界を明かす。六入とは六根である。識を生ずることができるので根という。塵の趣くところなので入という。また識の入るところでもあるので、六入というのである。その元初を検討すれば、ただ三つの事がある。命・暖・識である。凝った酥や薄い酪のように、七日ごとに一変し、巧みな風によって吹かれ、五つの胞が開張し、四大の浄色をかき集めて、眼・耳・鼻・舌・身などの諸根を結成する。諸根が立てば、すなわち識を生ずる作用がある。これが色を開いて五とし、心はただ一つとするのである。識は根に依って住するので、村という。塵はここから入るので、結賊の止まるところという。眼は見、耳は聞き、鼻は嗅ぎ、舌は嘗め、身は触れ、意は縁る。それぞれに伺うところがあり、互いに濫れることがない。ゆえに各々相知らずというのである。

「眼根は色を受く」から下は十二入を明かす。さらに色を開いて十とし、一入の少分を合わせる。心を開いて二とし、十二入を成ずるのである。塵が根に入り、根もまた塵に入る。互いに涉入するので、通じて入という。根は識を生ずる力が強いので、別に根という。塵は汚す意味が強いので、別に塵という。一つの根と塵が互いに涉入するので、各々自らを縁うという。他の根はこの塵に入らず、この塵は他の根に入らない。ゆえに他を縁って行かずというのである。

「心は幻化の如し」から下は十八界を明かす。さらに心を開いて八とし、色を十とする。界とは、隔別して濫れないので、界という。文は三つに分かれる。一、「心は幻化の如し」から下は、識が諸根に遍在することを明かす。たとえ眼や耳が塵に対していなくても、心は追い縁ってあらかじめ念う。ゆえに馳騁(走り回る)という。人が坐したまま天下を馳せるようなものである。愚癡のゆえに、根と塵が空しく険しいことを知らないので、賊に害されるのである。『大般涅槃経』に(云云)とある通りである。二、「心は常に依止す」から下は、識が常に根にあることを明かす。ゆえに六根という。識が常に塵にあるので、境界という。もし識が根と塵にないとするなら、どうして対すればすぐに覚えることがあろうか。すぐに覚えるゆえに、常に根と塵にあるのである。『大智度論』に「根が壊れず、心が聞こうと欲し、また声があれば、衆縁和合して聞くことができる」とあるのが、この意味である。三、「心は六情に処す」から下は、識が根に対して乍出乍入(出たり入ったり)することを明かす。鳥が網の中にいて出入りし、間関(行き来)し、一つをついばみ一つを捨て、周り巡って始めに戻り、暫時も休息しないようなものである。識が根の網の中にあるのもまた同じで、ある時は耳にあり、ある時は眼にあり、去り還ることに定まりがない。たとえ定まりがなくとも、常にあると論ずることができる(云云)。

從「身空虛偽」下一行,是第三結上生法二空境也。身空不可長養,結上生空境。長養是十六之一。長養既空,十五亦空,即是結成生空境也。亦無正主者,結上法空境。《遺教》云「此五根者,心為其主。」此明託胎之始,心在諸根之初,名之為主。其實不能控制諸根,根大相違,心為受惱;身病時,心亦隨病。寧得是主邪?或時更互論主,如地具四微則鈍,為水所制。水但三微,為火所制。火但二微,為風所制。風有一微,為心所制。心無有微,故得為主。復為四大所惱,主義不成,故言無正主也。無有諍訟者,若計有四大則有相違。如四蛇相陵、四國相拒,可有諍訟。今觀四大空,不能得空便,故言無有諍訟也。此是結上法空之意也。

「身は空虚にして偽りなり」から次の一行までは、第三に生空と法空の二つの空の境を結びつけるものです。

「身は空にして長養すべからず」とは、生空の境を結びつけるものです。「長養」とは十六の要素の一つです。長養がすでに空であるならば、他の十五の要素もまた空であり、これによって生空の境が結び成されるのです。

「また正しき主なし」とは、法空の境を結びつけるものです。『遺教経』に「この五根は、心をその主とす」とあります。これは託胎の始めに、心が諸根の最初にあることを明らかにし、これを主と名づけています。しかし実際には、心は諸根を制御することはできず、根が互いに大きく違えば、心は悩みを受けることになります。身体が病むとき、心もまた病に従います。どうして主といえるでしょうか。

ある時は互いに主を論じ合うこともあります。例えば、地は四つの微細な要素を持つため鈍重で、水に制せられます。水は三つの微細な要素しか持たないため、火に制せられます。火は二つの微細な要素しか持たないため、風に制せられます。風は一つの微細な要素しか持たないため、心に制せられます。心には微細な要素がないため、主となることができます。しかし、心もまた四大に悩まされるため、主としての意義は成り立たず、故に「正しき主なし」と言うのです。

「諍訟あることなし」とは、もし四大が実在すると考えれば、互いに矛盾が生じます。四匹の蛇が互いに争い、四つの国が互いに拒み合うように、諍訟が起こり得ます。今、四大が空であると観じれば、空であることに執着することもなく、故に「諍訟あることなし」と言うのです。これは法空の意味を結びつけるものなのです。

從「諸因緣和合而有」下七行偈,約集因明境,即是集諦。文為三:初兩行明集起相、次三行半明集相吞噬、次一行半明集善惡境。前三是慧行,後一是行行。前三是正觀境,後一是助道觀境。前一從無明生,後一從無明滅。若直論生滅者,未異小乘。無明本不生而生、不滅而滅,生滅不二而二爾。從諸因緣者,苦集通從因緣,欲明集義,須作集之因緣釋也。前三句假名起之因緣,後五句實法起之因緣。小乘破四大至隣虛細塵,從細塵則有麁塵,用此為起假實之因緣。今明麁可析盡、細塵亦盡,麁細俱盡,將何物作因緣?言因緣者,無明內惑為因,不了生法二空故;染愛於外為緣,觸處染著故。無明潤愛,集業得起,故言從諸因緣和合故起。以業起故,則有一念託胎招於苦果。此一念託胎由無明愛,能生之心既是虛妄,所生之心亦是虛妄,討其本末能所都虛,故言無有堅實也。妄想故起五句,明實法起之因緣。由妄想不了,一念託胎,五陰得起也。業力機關者,善惡業是機關主,色陰是機關具,受想行陰於中動作,去來進止以自娛樂。識陰依六入住,故言空聚。四大所造,故言成立也。隨時增減共相殘害者,竪論增減者,如《涅槃》十時別異。從歌羅邏時名增,壯時名盛,老時名減。橫論增減者,火增水減、水增火減,風地亦爾。又念念生滅,生是增、滅是減。又新諸根生故增,故諸根滅故減。又下文云「隨其時節共相殘害,春風夏火秋地冬水增減(云云)。」譬如四蛇初在篋時名生;四蛇力敵名壯;互相強弱名病;蛇鬪困暫息不動謂為調適,息已復鬪;蛇羸如老;蛇絕為死。如是增減,此是果身,如此由乎集業。四分等如地、嗔如火、欲如水、癡如風,此四分互相違。《瑞應》云「貪欲致老,瞋恚致病,愚癡致死。」例云等分致生。集業相噬,致令四大增損(云云)。同處一篋者,此明篋同性異。蛇有螫毒,四大有八萬四千煩惱,為害義同。《大經》以假身為篋,身待四大如篋貯蛇,篋壞則蛇去、身滅則大亡,如鳥在籠(云云)。又用業力為篋,業持四大,業謝則大散,如鳥在籠處處求出。心鳥亦然,未曾一念繫在身篋,恒常外馳。此則念念求死,非安身道也。其性各異者,二上升是陽,二下沈是陰。何故相違?猶其性別。性別那能和合成身?諸方亦二者,四大對四方,風東、火南、地西、水北。又對四時,風春、火夏、地秋、水冬。東與南屬陽而上升,西與北屬陰而下沈,故言二上二下。諸方亦二。若相對論者,東上西沈、南升北降。若論四維者,東方帶兩維:一維陽上、一維陰下。餘三方亦如是。或言一根中具四大,二上二下(云云)。悉滅無餘者,初見散滅,謂言風火向上、地水向下,比至上推不得於風火、下檢不見於地水,故言悉滅無餘也。苦果升沈碩異,由於集業善惡天乖(云云)。心識二性躁動不停者,《釋論》云「心意識一法異名,對數名為心、能生名為意、分別名為識。」又言「有異前起為心、次起為意、後了別為識,例如意識不得為一。」二性者,心有善惡性異,意之與識亦有善惡性異,故言二性也。躁動者,心前起時亦與數俱,意識後起亦與數俱,故言躁動。又如四大壞時,善惡業爭牽,不知從誰,故言躁動。但此業未謝,心常覺觀,況復業牽,寧不躁動?有熟牽、強牽。此世雖行善,先世惡業熟,既與時合即受惡報,故言熟牽。強牽者,人雖行惡,臨終之時善心猛盛,即隨善上升。熟牽、強牽,彌顯躁動,亦是隨業所作而墮諸有(云云)。「水火風種散滅壞時」下二行,明業謝棄苦器也。氣命盡,是風去,故言散。煖盡,是火去,故言滅。水盡則身爛,故言大小不淨盈流於外。地散滅是骨肉離解,故言如朽敗木。大小不淨者,身為大、四支為小,足支為大、手支為小,手為大、指為小,如是轉轉作大小,皆悉臭穢不淨盈流。此名助道。若正觀降伏煩惱,煩惱不伏,當修不淨,助破欲心。《釋論》云「三解脫是涅槃門,道品是開門法,不淨九想等是助開門法。」不淨是破欲初門,若進修背捨及大不淨,己身他身、一身多身、一國多國、山林石壁,一切依正皆悉不淨。即雖未爾,想力若成,怖畏心起,能大助道開發正慧。《大經》云「不淨觀亦實亦虛,能破煩惱故名為實,淨言不淨是故為虛。」此不淨觀亦具生法二空。《大經》云「諦觀白骨,一一支節何者是我?八色流光亦復無我,我不可得,即是生空。鍊骨人八色不見、四大無有於實,即是法空。」此就助道明於生法,終成正道爾。
從「善女當觀」下二十一行,是第二明生法二空觀。文為二:初八行半明修因生法二空觀、次十二行半明果成起用。因中又二:初三行半約苦集明生法二空觀、次從「無明體相」下五行約十二因緣明生法二空觀。約苦集又二:初從「善女」下一行半明眾生空、次從「如是諸大」下二行明法空。問:四諦十二緣是二乘法,云何是菩薩觀門?答:四諦十二緣通是三乘觀境,譬如大道貴賤同遊,不可群小行之而判屬民庶。通意云何?《涅槃》云「我昔與汝等不見四真諦(云云)。」又云「凡夫有苦無諦,聲聞有苦有苦諦,菩薩解苦無苦而有真諦,諸佛如來有真有實。」所以然者?二乘觀有量四諦,菩薩觀有量無量四諦。《大經》云「十二因緣凡有四種:下智觀故得聲聞,中智觀故得支佛,上智觀故得菩薩,上上智觀故得佛菩提。」復有別意,《大品》云「十二因緣獨菩薩法。如佛昔為儒童,雖行眾行,非波羅蜜。見然燈佛,得無生法忍,一念相應習應苦空,乃至習應滅空,習應無明空乃至老死空。諸相應中,空相應最為第一,以空導行皆名波羅蜜。以得無生法忍,故佛即與記。」當知菩薩豈不觀於四諦十二緣邪?二乘雖復同觀,觀法有異。聲聞觀諸果,總作一苦諦觀。觀諸煩惱及業,總作一集諦觀。又苦之與集總是現在,所以名總相觀也。緣覺觀苦為七,現在五、未來二。觀集為五,過去二、現在三。別觀三世,別開苦集,故言緣覺別相觀也。雖復總別有殊,同是自調自度,同是析生法二空觀爾,與菩薩有異。菩薩為眾生修四等六度,觀四諦十二緣,作生法二空。今舉譬喻之。如握五指成拳,若一指一拳應有五拳;若一指無拳,五何得有?我人亦爾,攬五陰成眾生。一陰有眾生,應有五眾生;一陰無眾生,雖五亦無。即陰求眾生不得,離陰求眾生亦不得。雖求拳不得拳,不妨有皮骨之指存;雖求人不得人,不妨有五陰之法。在二乘人得生空時,未能知法空,更須析指皮肉骨髓分分推求亦不得指,地水火風窮逐隣虛亦不得色,前念後念亦無想受,求指不得指,始知指無;求法不得法,方知法虛。既不得生法二空境,亦不得生法二空智。通菩薩觀亦然,是為菩薩二乘析生法二空相,如此但有自行為他之異(云云)。若論別菩薩體空,與其永異。如見鏡拳,懸體既空,不勞尋檢。鏡拳既虛,鏡指非實。鏡內拳指既是虛,鏡外拳指亦非實。眾生亦爾,但有名字名為眾生。此之名字本來自空,非檢後空。名既假名,法亦非法。體名即體法,如《大品》云「我性如色性,色性如我性。」今世生法由無明行,五果既虛,二因寧實?下文云「本性空寂,無明故有。」無明既寂,從無明生,寧得不寂?雖不得生法二境,而能了了通達二境,不為境所染;雖不得生法二空智,而能了了通達二空智,不為智所淨。非染非淨,雙亡二邊,正入中道第一義諦,而能雙照二諦。三諦朗然,非前非後一時大覺,與此甚深法性相應,金剛寶藏具足而得,是為菩薩體生法二空觀。諸小乘師雖說析空,同外道義。何者?析色極至隣虛,或存塵不破、或破塵令盡。若存不破,秖是常見;若破塵盡,秖是斷見。斷常宛然,非邪何謂?諸大乘師雖說體空,同於小道。何者?單用體慧,不能一念空心,遊戲神通,淨佛國土,具足解釋佛之知見,何能三智一心中得,五眼具足而成菩提耶?似小乘壞法人,無三明六通願智頂等,秖是慧解脫人而已,非小何謂?今經首軸窮深極廣,〈序品〉云「遊於無量甚深法性」,〈空品〉云「求於如來真實法身」,〈捨身品〉云「求於寂滅無上涅槃」,豈可用世人邪見?豈可用小乘之析?豈可用大乘師之體解此空義邪?「善女當觀」下一行半明生空觀,初一句對告勸發、次一句指上境、次四句正作觀。善女者,菩提樹神也。諸佛說法必有對揚,寄一以訓眾,故告其人也。又時眾機緣宜在善女,若聞對告宿善發生。又男天表方便、女天表智度,欲說智度破於愚著,故告女天也。又佛在道樹得道,欲說此道,故對告樹神也。此是表四悉檀,對告非無因緣也。當觀者,勸一人以例諸。一切菩薩必須修於智度,無有菩薩不由此者,故言當觀也。諸法者,指上四諦十二因緣若假若實二空境也。名目雖略,攝法則遍,故言諸法也。如是者,正明總觀也。如是有三義,謂如事、如理、如非事非理。如事者,如助道假想不淨流濫也。如理者,如生法二空無法也。如非事非理者,如法性法身也。又事即如理、如非事非理。非事非理亦即如理、亦即如事。理即如事、亦即如非事非理。三法不一異,故言如是;三法亦一異,故言諸法。何處有人者,點出理觀也。何處者,若色處有人則不須四陰,若色處無人四處亦無人。五處都無人,故言何處有人?又果處既無人,無明行因處亦無人。因果合亦無人,離因離果亦無人,故言何處有人也。人既無,眾生十六知見等皆無,故言及以眾生也。本性空寂者,點出非事非理觀也。本性無事,亦復無空。空本空事,既其無事,空何所空?無事故事寂、無空故空寂,本性如此,非今始然,故言本性空寂也。無明故有者,點出事觀也。若其空而復空,那得此事?既有事即有空、既有空即有非事非理,此之三種悉由無明故有。以有無明癡故有行,有行即有生法,既有生法即有助事之觀,助來助正即有空理之觀,正助顯本即有非事非理之觀。是事不知,名為無明。《淨名》云「從癡有愛則我病生,病生故則有藥起。」即此義也。若知無明本性空寂,尚無無明,那得事理、非事非理?畢竟清淨,故稱空慧也。但我見深重,為學道大障。凡夫所作恒與我俱,我行我住、坐臥言語無離於我,我行施戒,乃至我行智慧。若攬他遺體而計我者,此我疏鈍;若執法塵而計我者,此我密利。如執一法,謂我知我解,於法起我,隨執一句是實,餘皆妄語,即是邊見。非道謂道,即是戒取。非理謂理,即是見取。不當謂當,即是邪見。自是陵他,即慢。撥之即瞋、譽之即愛、破之即疑、不了即癡,十使煩惱以我為根本,不自覺知日夜增長,縱令世智辯聰如長爪鍱腹,難石石裂、難樹樹折、難水水竭、難火火滅,去道彌遠。假令隨禪梵世極至非想,我心常在,將出復還。如此凡邪尚無暖法,那能破我?廣說此我即二十種身見,謂即陰計五、離陰計五、我中有五陰、陰中有五我,是為二十。若一陰是我,餘陰無我,若併是我,即有五我。是義不然。若離陰有我,既離於陰,我是誰我?是義不然。若陰中有我,是則陰盛於我,如器盛果、如屋貯人。是義不然。若我中有陰,則陰在我內。是義不然。是為破三十種身見,此約外境作如此說。而其內心猶計有我,復當反觀,即智有我、離智有我、我中有智、智中有我。是義皆不然,復破二十種身見。內外合數,即四十種身見,是名生空。《毘曇》云「我見是共等因。我見起時未動身口,因我見後生思惟時方動身口。」斷我見已,悟眾生空。《成論》明我見心即思惟,能動身口。斷我見已,即悟眾生空,亦悟法空。大乘明我見即具諸法,可不具於思惟。悟眾生空,即是悟實法空。破二十種身見,通上三句皆通用之。若即事而理,何處有人?即陰離陰,陰中無人、人中無陰,二十種見破,故言何處有人。能觀之智智即是人、離智有人,人中有智、智中有人。此計亦破,故言何處有人。若作非事非理本性空寂觀者,本性空寂,本無即陰離陰。陰人人陰既無,如此計破,故言何處有人。能觀之智本性亦寂,故言何處有人。若作助道不淨觀時,若觀惡心取境,即是污穢五陰。若善心慚愧,即是方便隱沒五陰。是見皆依色,色即不淨,以不淨故無人無我,故言何處有人。能觀觀智亦復如是,故言何處有人。若得悟為論,破二十種身見,是得眾生空無復見惑。而作二十種觀者,除於實惑,實惑若除即入修道,即應言何處有法。若未悟為論者,雖作二十種觀,見惑未除,而於假名上伏愛,度入實法計我。故《法華》云「眾生處處著,捨一取一,如屈步蟲。」須實法上更作二十種觀,使空慧分明,處處作無咎。從「如是諸大」下兩行明實法觀。上生空得悟,即解於法;為未悟故更說爾。文亦為三:初兩句即法而空、次一行一句即法本性非空非假、次一句即法而假,例如生空三意也。如是諸大者,標四大法也。一一不實者,正明空觀也。若四大各守其性者,地守堅性,不應動、不應煖。水守濕性,不應氷、不應波。火守熱性,不應貞、不應焰。風守動性,不應持、不應觸壁而止。一大既有三性,非都堅、非都濕、非都熱、非都動,失本性故,則是不實,不實故空。《請觀音》云「地無堅性、水性不住、火從緣生、風性無礙,一一皆入如實之際。」即其義也。上檢生空,故言何處有人。今檢法空,故言一一不實。不實者,即空也。本自不生者,即法本性不生不滅,非空非假觀也。體其元不生,中無和合,末亦不空。元無四大,四大何得而生,元既不生,中那和合?四大既不和合,寧得五陰和合?大陰既不和合,那得法空?本自不生不滅,非是觀智令其不生不滅。即事而理,此之謂也。以是因緣者,觀解因緣也。觀與理冥,達即空即假即中。《大經》云「亦有因緣,因滅無明即得熾然三菩提燈。」即因緣義也。和合而有者,即法而假也。既本體不實,那得大陰?此由無明業因,託今世遺體果,故有四大五陰。即是迷惑因果和合而有。此法有故,體有非有亦非有非非有,即空即假即非空非假。三觀明文在經,寧不信邪?更為鈍根人作實法惑相,或謂四大五陰是有、是無、是亦有亦無、是非有非無。四執既生、生名為有。是見依色、依色起我、我生五利。為法恚怒,復起五鈍。十使是集,方招來苦。來世不了,展轉無窮,生死大海潦水波濤,世世常為大陰所惑。惑此色法即色陰,憂喜是受陰,取相是想陰,起善惡是行陰,分別是識陰。陰心起故名為有法,非法空也。心不依色,亦復不依受想行識,寂然滅眾惡,無量眾罪除。如是尊妙人,則能見般若,亦是甚深法性,金光明中而得見我釋迦牟尼。行人若能如此觀生法二空,則是懷璧向本,一世兩世能有所辦,保不孤然矣。從「無明體相」下五行,明十二因緣生法二空觀。文為二:初三行出境相、後二行出觀相。初又二:初二行明生空境,故文云「名曰無明」,《釋論》云「誰老死」,故知是生空境也。後一行出法空境,文云「老死愁惱」,《釋論》云「是老死」,故知是法空境也。然十二因緣經論不同,或三世、或果報、或一念、或十種。三世者,過去二因破神常之見,現在五果破神我之見,現在三因、未來二果破神斷之見,常途所用。果報者,初託胎歌羅邏時為無明,一期始終論十二支也。一念者,《華嚴》云「十二因緣在一念心中」,《大集》云「十二因緣,一人一念悉皆具足。如眼見色,不了名無明,生愛惡名行,是中心意名識,色共識行名名色,六處生貪名六入,色與眼作對名觸,領納名受,於色纏綿名愛,想色相已名取,念色心起名有,心生名生心滅名死。乃至意思法亦復如是。一日一夜凡識幾許十二因緣輪網以自纏迴?」今更說其因起之相。若觀名色由行,行由無明,於無明不了,或謂有、謂無、亦有亦無、非有非無,作四句取者,皆是無明。是事實是行,是中心意名為識,識共色行名名色,一一如前說。又觀一念託胎是名色,五胞開張名六入,六入對塵名為觸,領納名為受,於此受中作四句分別,或有受、無受、亦有亦無受、非有非無受。如眼受色,於色不了是無明,愛惡之心名為行,識共色行名名色,六處生貪名六入,餘如上說。乃至意思法不了是無明,愛惡是諸行,餘如上說。如此推十二因緣大樹,枝條布濩遍覆三界,誰能識邪?誰摧伐邪?今經既是略說,不論三世一念等,但舉生法為二觀之境。宜以譬顯,如捉火爐,闇中舞之,圓輪相續團團不斷。火者,實法也。輪者,假名也。眾生長夜著於假名舞燼不息,迷於陰入薪火不息,十二因緣何由可盡?若知輪依於火,止手則無輪;火賴於薪,除薪則無火。輪火雙無,生法二空也。生空境,文例為三。無明體相兩句,明本性不有不無,是中觀境。妄想因緣和合而有,此兩句是假觀。境無所有故兩句,是空觀境。是故我說兩句,結成爾。行識名色一行明法空境,例應有三,特是文略,得意可知。「眾苦行業」下,明生法二空觀。文亦三意:眾苦行業不可思議一行,明非空非有觀。本無有生亦無和合兩句明空觀,上句本無有生是生空下句亦無和合是法空也。不善思惟兩句明假觀,前不善思惟致今名色,今不善思惟復有未來老死(云云)。雖名為生法二空觀,即空即假即中,其文炳然。明與義會,何所疑哉?更為鈍人說空觀相。若假名自生,不須實法。若由法生,非假名生。若假實合生,應有二假。若離假實,則無是處。今之假名但有名字,名字不在內外兩中間,亦不常自有。以不可得故,是名觀假名空。觀實法空者,若名色自生,不應待業。若業能生,羅漢有業,何故不生?若業果共生,各有名共,各無寧共,若無因緣生,則無是處。既不得生,亦不得不生,亦不得亦生亦不生,亦不得非生非不生。亦不得滅,亦不得不滅,亦不得亦滅亦不滅,亦不得非滅非不滅。無滅無生,名為無生,無生故假名壞,假壞故則六十二見壞,見壞故實亦壞。既不然火,是則無煙。日中舞燼,是亦無輪。是略示空觀相。中觀假觀在別記(云云)。「我斷一切諸見纏等」下十二行半偈,是第二果上生法二空用,明觀成證果。文為二:初三行半自行成、後九行化他成。自行文又二:初兩行智德滿、次一行半斷德滿。一切諸見者,六十二見八十八使等,故言一切。此是生空觀成也。以智慧刀者,譬智慧利用,上譬斷見、下譬斷煩惱。纏者,別明十纏。煩惱網者,通明十使。網有羅籠之失,舍有覆闇之過。達陰空寂,闇障不能蓋;裂網破壞,羅羂不能礙。此是法空觀成也。二乘所斷是通見纏,菩薩所斷是別見纏。《淨名》云「結習未盡,華即著身。」未斷別見,為華所著也。而言佛斷見纏者,若通若別,究竟盡在於佛也。《釋論》云「眾生無上者佛是,法無上者涅槃是。」無上假實,佛地所不惑,故言斷爾。經論不同,或言佛上上智斷下下惑,無明力大,佛智能斷,一念相應慧正習俱盡無有餘。或言有上士者名之為斷,無上士者名無所斷。斯乃隨國隨時隨人隨悟,皆有利益(云云)。證無上道者,生法二空正道滿也。微妙功德者,生法二空助道滿也。「開甘露門」下一行半明斷德滿。甘露是諸天不死之神藥,食者命長身安、力大體光。譬諸佛斷德住大涅槃,真常樂我淨用,知是斷德滿也。然此義意復欲通對《華嚴》諸位。開甘露門對十住位,初開聖道遮二邊故,故言開也。示對十行,歷別顯示也。入對十迴向,迴事入理也。處對十地,處法性室也。食味對妙覺,自食斯味,兼以被人。下地非不化他,自行未圓化亦不廣。佛地果圓,斷德已滿、慈悲力大,能為眾生開於十住、示十行、入十向、處十地,食甘露味,功用具足,斷德化他兩義皆成也。又通對般若四智,開對道慧,示對道種慧,入對一切智,處對一切種智,食味對佛住大涅槃。以大悲令眾生得此四智,於果地斷德,義亦無妨(云云)。又對《法華》開示悟入佛之知見。良由佛德圓滿,能以大事因緣出現於世,開示眾生佛知見也,於斷德義亦顯。又《涅槃》云「常樂我淨」,於果斷最便,如前釋(云云)。「吹大法螺」下九行明果地化他滿。文為二:初兩行轉法輪化他、次七行四弘誓願化他。說法又二:初一行說法、次一行神通。餘經前神通駭物開後說法,今經後神通成前說法爾。修因時生法二空之正慧,得果時智德滿,故能說法化他。修因時生法二空之助道,得果時斷德滿,故能神通化他。說法舉四譬者,聞法之益,實自無量,略舉四譬,別有所擬。吹䗍是改號,譬佛說小乘法,改凡夫苦忍之凡性,入聖人之正性。說大乘法,改凡聖之偏性,入中道之圓性。通教七地,別教初地,圓教初住皆是改號之位,從偏以入中也。擊大法鼓者,擊鼓誡進、肅眾前驅,此譬佛說法督進深行。小乘位在修道、通教在八地、別教在十行、圓教在初住,此諸位以聞法力咸進真修道也。然大法炬者,炬能自照亦能照他,譬佛說法令自他雙益,如千年闇室一燈能了,又如一燈然百千燈。聞法之力自他俱益亦復如是。通教八地、別教十迴向、圓教亦在初住,皆是道觀雙流自他俱益之位也。雨勝法雨者,雨能成熟,農夫加功,扶疎益寡。時澤一降華果敷榮,喻如眾行雖復勤修,發趣事弱。聞佛說法,增道損生任運成熟,自然流入薩婆若海。如大恒中船,不勞筋力疾有所到。此並在雙流位中,義如上說。若得此意,例《華嚴》之四位、《般若》之四智、《法華》之四知見、《涅槃》之四德,皆可解。此一法竪擬諸經之位、橫論一切諸位,一聞法音隨類各解(云云)。此中四譬皆言大者,說大法也。通途解釋,明大非小位爾。「我今摧伏」下,是神通化他也。怨結者,四住是二乘怨結,五住是菩薩怨結。魔為煩惱主,伐樹去根、化物須降主,若不降魔,化道不暢。降魔之法須用神通,譬如勝怨乃可為勇,非法王不壞。法王勝者,是時化道得立爾。竪法幢者,法幢三昧也。高出眾行,為眾行之望,如兵望麾也。三德不縱不橫,故言微妙。從「度諸眾生」下七行,是四弘誓願化他。雖復成果,本願未休,故言四弘益物,亦名四諦益物。四弘是誓願之心,四諦是所緣之境也。度諸眾生是初弘誓,亦是未度苦諦令度苦諦也。從「煩惱熾然」一行是第二弘誓,亦是未斷集諦令斷集諦也。從「我以甘露」下一行,是第四弘誓,亦是未證滅諦令證滅諦也。從「於無量劫」下四行,是第三弘誓,亦是未安道諦令安道諦也。此中指檀為四諦。檀對於慳,慳貪自蔽是集,集業招果是苦,檀能破慳是道,慳滅是滅諦。無量劫者,積功高也。遵修諸行者,攝法廣也。論云:檀義攝於六(云云)。捨身命財與後際等,得不壞常住,名波羅蜜。竪高橫廣,故言遵條諸行也。

「善女よ、観よ」以下の二十一行は、第二に生法二空観を明かすものである。文は二つに分かれる。初めの八行半は修因の生法二空観を明かし、次の十二行半は果成の起用を明かす。因中もまた二つに分かれる。初めの三行半は苦集に約して生法二空観を明かし、次に「無明体相」以下の五行は十二因縁に約して生法二空観を明かす。苦集に約する部分もまた二つに分かれる。初めに「善女」以下の一行半は衆生空を明かし、次に「如是諸大」以下の二行は法空を明かす。問う。四諦十二縁は二乗の法である。どうして菩薩の観門となりうるのか。答える。四諦十二縁は三乗に通じる観境である。たとえば大道は貴賤ともに遊ぶが、小人たちが行ったからといって民庶に属すると決めつけることはできない。通意とはどういうことか。『涅槃経』に「我は昔、汝らとともに四真諦を見ず」とある。また「凡夫には苦ありて諦なし。声聞には苦ありて苦諦あり。菩薩は苦を解して苦なくして真諦あり。諸仏如来には真ありて実あり」とある。なぜそうなのか。二乗は有量の四諦を観じ、菩薩は有量無量の四諦を観じるからである。『大経』に「十二因縁には凡そ四種あり。下智の観ゆえに声聞を得、中智の観ゆえに縁覚を得、上智の観ゆえに菩薩を得、上上智の観ゆえに仏菩提を得る」とある。また別意がある。『大品』に「十二因縁は独り菩薩の法なり。たとえば仏が昔、儒童として衆行を行えども波羅蜜にあらず。然燈仏を見て無生法忍を得、一念相応して苦空に習応し、乃至滅空に習応し、無明空に習応し、乃至老死空に習応す。諸の相応の中、空相応最も第一なり。空をもって行を導くゆえに皆な波羅蜜と名づく。無生法忍を得たるゆえに、仏すなわち記を授く」とある。知るべし、菩薩はどうして四諦十二縁を観じないことがあろうか。二乗は同じく観ずるといえども、観法に異なりがある。声聞は諸の果を観じて、総じて一の苦諦観となす。諸の煩悩および業を観じて、総じて一の集諦観となす。また苦と集とは総じて現在である。ゆえに総相観というのである。縁覚は苦を七と観じ、現在五、未来二とする。集を五と観じ、過去二、現在三とする。三世を別に観じ、苦集を別に開く。ゆえに縁覚の別相観というのである。総別に違いはあるが、ともに自調自度であり、ともに析生法二空観である。菩薩とは異なる。菩薩は衆生のために四等六度を修し、四諦十二縁を観じて生法二空となす。今、譬えを挙げてこれを示す。五本の指を握って拳とするようなものである。もし一本の指に一拳あれば、五拳あるべきである。もし一本の指に拳がなければ、五本あってもどうして拳があるだろうか。我・人もまたそうである。五陰をかき集めて衆生となる。一陰に衆生があれば、五衆生あるべきである。一陰に衆生がなければ、五陰があってもない。すなわち陰を求めて衆生を得ず、陰を離れて衆生を求めても得ない。拳を求めて拳を得ないといっても、皮骨の指が存することを妨げない。人を求めて人を得ないといっても、五陰の法が存することを妨げない。二乗の人が生空を得たとき、まだ法空を知ることができず、さらに指の皮肉骨髓を分分に推求しても指を得ず、地水火風を窮めて隣虚に至っても色を得ず、前念後念もまた想受なし。指を求めて指を得ず、はじめて指なきことを知る。法を求めて法を得ず、はじめて法虚なることを知る。すでに生法二空の境を得ず、また生法二空の智も得ない。通菩薩の観もまたそうである。これが菩薩と二乗の析生法二空の相であり、ただ自行と為他との違いがあるだけである。もし別菩薩の体空を論ずれば、これとは永遠に異なる。鏡の中の拳を見るようなものである。懸体すでに空であれば、尋ね探す労はない。鏡の中の拳がすでに虚であれば、鏡の中の指も実ではない。鏡の中の拳指がすでに虚であれば、鏡の外の拳指もまた実ではない。衆生もまたそうである。ただ名字があるだけで、これを衆生と名づける。この名字はもとより自ら空であり、検討して後に空となるのではない。名がすでに仮名であれば、法もまた非法である。名を体すればすなわち法を体する。『大品』に「我性は色性の如く、色性は我性の如し」とある。今世の生法は無明行によるものである。五果がすでに虚であれば、二因がどうして実であろうか。下文に「本性空寂、無明ゆえに有り」とある。無明がすでに寂であれば、無明から生ずるものが、どうして寂でないことがあろうか。生法二境を得ないといっても、よく了々として二境を通達し、境に染まられることがない。生法二空智を得ないといっても、よく了々として二空智を通達し、智に浄められることがない。染でもなく浄でもなく、二辺を双亡して、正しく中道第一義諦に入り、よく二諦を双照する。三諦朗然として、前後なく一時に大覚し、この甚深なる法性と相応し、金剛宝蔵を具足して得る。これが菩薩の体生法二空観である。諸の小乗師は析空を説くといえども、外道の義と同じである。なぜか。色を析いて極めて隣虚に至り、あるいは塵を存して破らず、あるいは塵を破って尽くす。もし存して破らなければ、ただ常見である。もし塵を破って尽くせば、ただ断見である。断常が宛然としてある。邪でないというなら、何を邪というのか。諸の大乗師は体空を説くといえども、小道と同じである。なぜか。単に体慧を用いて、一念に心を空ずることができず、遊戯神通し、仏国土を浄め、仏の知見を具足して解釈することができず、どうして三智を一心中に得、五眼を具足して菩提を成じることができようか。小乗の壞法の人に似て、三明六通願智頂等がなく、ただ慧解脱の人にすぎない。小でないというなら、何を小というのか。今の経の首軸は深く極まり広い。〈序品〉に「無量甚深の法性に遊ぶ」とあり、〈空品〉に「如来の真実法身を求む」とあり、〈捨身品〉に「寂滅無上の涅槃を求む」とある。どうして世間人の邪見を用いることができようか。どうして小乗の析を用いることができようか。どうして大乗師の体解をもってこの空義を解することができようか。「善女よ、観よ」以下の一行半は生空観を明かす。初めの一句は対告勧発、次の一句は上の境を指し、次の四句は正しく観を作す。善女とは菩提樹神である。諸仏の説法には必ず対揚があり、一人に寄せて衆を訓える。ゆえにその人に告げるのである。また時衆の機縁は善女に宜しい。もし対告を聞けば宿善が発生する。また男天は方便を表し、女天は智度を表す。智度を説いて愚著を破らんと欲するゆえに、女天に告げるのである。また仏は道樹において道を得た。この道を説かんと欲するゆえに、樹神に対告するのである。これは四悉檀を表し、対告には因縁がないわけではない。当観とは、一人を勧めて諸を例とする。一切の菩薩は必ず智度を修めなければならない。この道によらない菩薩はいない。ゆえに当観というのである。諸法とは、上の四諦十二因縁の仮なり実なり二空の境を指す。名目は略ではあるが、法を摂することは遍くである。ゆえに諸法というのである。如是とは、正しく総観を明かす。如是には三義がある。すなわち如事、如理、如非事非理である。如事とは、助道の仮想不淨流濫の如しである。如理とは、生法二空無法の如しである。如非事非理とは、法性法身の如しである。また事はすなわち如理、如非事非理である。非事非理もまたすなわち如理、すなわち如事である。理はすなわち如事、すなわち如非事非理である。三法は一異ならず、ゆえに如是という。三法はまた一異なり、ゆえに諸法という。何処にか人あらんとは、理観を点出する。何処とは、もし色処に人あれば、四陰を須いず。もし色処に人なければ、四処にもまた人なし。五処に都て人なし。ゆえに何処にか人あらんという。また果処にすでに人なければ、無明行の因処にもまた人なし。因果合してもまた人なし、因を離れ果を離れてもまた人なし。ゆえに何処にか人あらんというのである。人すでに無ければ、衆生十六知見等も皆な無し。ゆえに及以衆生というのである。本性空寂とは、非事非理観を点出する。本性には事無く、また空も無し。空はもとより事を空ず。すでに事無ければ、空は何をか空ずる。事無きゆえに事寂、空無きゆえに空寂。本性かくの如し。今始めて然るのではない。ゆえに本性空寂というのである。無明ゆえに有りとは、事観を点出する。もしその空にしてまた空ならば、どうしてこの事があるだろうか。すでに事あればすなわち空あり、すでに空あればすなわち非事非理あり。この三種は悉く無明ゆえに有るのである。無明癡あるゆえに行あり、行あるゆえに生法あり、すでに生法あればすなわち助事の観あり、助来りて正を助くればすなわち空理の観あり、正助本を顕せばすなわち非事非理の観あり。この事を知らざるを無明と名づける。『浄名経』に「癡より愛有ればすなわち我病生ず。病生ずるゆえにすなわち薬起こる」とある。これがこの義である。もし無明が本性空寂なることを知れば、尚お無明無く、どうして事理、非事非理があるだろうか。畢竟清淨。ゆえに空慧と称するのである。ただ我見深重にして、学道の大障となる。凡夫のなすところは恒に我とともにす。我行、我住、坐臥言語、我に離るること無し。我行施戒、乃至我行智慧。もし他遺体をかき集めて我を計るならば、この我は疏鈍である。もし法塵を執して我を計るならば、この我は密利である。たとえば一法を執して、我知我解と謂い、法に於いて我を起こし、随って一句を執して是れ実とし、余は皆な妄語とすれば、すなわち辺見である。道に非ずして道と謂えば、すなわち戒取である。理に非ずして理と謂えば、すなわち見取である。当たらずして当たると謂えば、すなわち邪見である。自ら是として他を陵ぐれば、すなわち慢である。これを撥てばすなわち瞋、これを誉めればすなわち愛、これを破ればすなわち疑、了せざればすなわち癡。十使煩悩は我を根本とし、自ら覚知せず日夜増長す。たとえ世智弁聡たること長爪鍱腹の如く、石を難ずれば石裂け、樹を難ずれば樹折れ、水を難ずれば水竭き、火を難ずれば火滅すとも、道より弥遠し。たとえ禅に随い梵世に極まり非想に至るも、我心常に在り、将に出でんとすればまた還る。このような凡邪は尚お暖法無く、どうして我を破ることができようか。広くこの我を説けば、すなわち二十種の身見である。すなわち陰に即して五を計り、陰を離れて五を計り、我の中に五陰あり、陰の中に五我有り。これをもって二十とする。もし一陰が我ならば、余陰には我無し。もし併せて我ならば、すなわち五我有り。この義然らず。もし陰を離れて我有れば、すでに陰を離るるならば、我は誰が我か。この義然らず。もし陰の中に我有れば、すなわち陰は我に盛んである。器に果を盛むが如く、屋に人を貯むるが如し。この義然らず。もし我の中に陰あれば、すなわち陰は我の内にあり。この義然らず。これをもって三十種の身見を破る。これは外境に約してかくの如く説く。しかるにその内心はなお我を計る。また反って観るべし。すなわち智に我有り、智を離れて我有り、我の中に智あり、智の中に我有り。この義皆な然らず。また二十種の身見を破る。内外合数すれば、すなわち四十種の身見。これを生空と名づける。『毘曇』に「我見は共等の因なり。我見起こる時は未だ身口を動かさず、我見の後に思惟生ずる時に方って身口を動かす」とある。我見を断じたれば、衆生空を悟る。『成論』は我見の心すなわち思惟と明かし、よく身口を動かす。我見を断じたれば、すなわち衆生空を悟り、また法空を悟る。大乗は我見すなわち諸法を具すと明かす。どうして思惟を具さないことがあろうか。衆生空を悟れば、すなわち実法空を悟る。二十種の身見を破ることは、上の三句に通じて皆なこれを用いる。もし事に即して理ならば、何処にか人あらん。陰に即し陰を離るるも、陰の中に人無く、人の中に陰無し。二十種の見破る。ゆえに何処にか人あらんという。能観の智、智すなわち是人、智を離れて人有り、人の中に智あり、智の中に人有り。この計りもまた破る。ゆえに何処にか人あらんという。もし非事非理本性空寂観を作すならば、本性空寂にして、本より陰に即し陰を離るること無し。陰人人陰すでに無ければ、このような計り破る。ゆえに何処にか人あらんという。能観の智、本性もまた寂。ゆえに何処にか人あらんという。もし助道不淨観を作す時、もし悪心取境を観ずれば、すなわちは污穢の五陰である。もし善心慚愧を観ずれば、すなわちは方便隠没の五陰である。この見は皆な色に依る。色すなわち不淨。不淨なるゆえに人無く我無し。ゆえに何処にか人あらんという。能観の観智もまたかくの如し。ゆえに何処にか人あらんという。もし悟を得て論ずれば、二十種の身見を破ることは、衆生空を得て再び見惑無きことである。しかして二十種の観を作す者は、実惑を除く。実惑もし除かれば、すなわち修道に入る。すなわち応に何処にか法あらんと言うべし。もし未だ悟を得ずして論ずれば、二十種の観を作すといえども、見惑未だ除かれず、しかして仮名の上に於いて愛を伏し、度て実法に於いて我を計る。ゆえに『法華経』に「衆生は処々に著す。一を捨てて一を取る。屈歩虫の如し」とある。須らく実法の上にさらに二十種の観を作し、空慧を分明ならしめ、処々に作して咎無からしむべし。「如是諸大」以下の二行は実法観を明かす。上の生空悟を得れば、すなわち法を解する。未だ悟を得ざるがゆえにさらに説くのである。文もまた三つに分

金光明經文句卷第四

金光明経文句 巻第四


釋讚歎品
釋四天王品

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