摩訶般若波羅蜜経 習応品 第三
仏は舎利弗に告げられた。「菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を行じる時、このように思惟すべきである。『菩薩もただの名前にすぎず、仏もただの名前にすぎず、般若波羅蜜もただの名前にすぎない。色もただの名前にすぎず、受・想・行・識もただの名前にすぎない』と。
舎利弗よ、私(仏)もただの名前にすぎず、一切の『我』は常に得ることができない。衆生、寿者、命者、生者、養育者、衆数(多くの人)、人、作者、使作者、起者、使起者、受者、使受者、知者、見者──これらすべては得ることができない。得ることができないから空であり、ただ名前によって説かれているにすぎない。
菩薩摩訶薩もこのように般若波羅蜜を行じ、『我』を見ず、衆生を見ず、さらには知者・見者をも見ず、説かれる名前そのものも見ることができない。菩薩摩訶薩がこのように般若波羅蜜を行じる時、仏の智慧を除いて、一切の声聞・辟支仏を超えるのである。得ることができない空のゆえに。
なぜなら、この菩薩摩訶薩にとって、あらゆる名前の法、名前が執着する所も、得ることができないからである。舎利弗よ、菩薩摩訶薩がこのように行じることが、般若波羅蜜を行じることなのである。
たとえば、閻浮提いっぱいに竹・麻・稲・茅があるとする。比丘の数がそのようであり、その智慧が舎利弗や目揵連などのようであったとしても、菩薩が般若波羅蜜を行じる智慧と比べれば、百分の一にも及ばず、千分、百千億分、さらには算数や譬えでも及ぶことができない。なぜなら、菩薩摩訶薩は智慧をもって一切の衆生を度脱するからである。
舎利弗よ、閻浮提いっぱいの舎利弗や目揵連などを置いておこう。もし三千大千国土いっぱいが舎利弗や目揵連などのようであったとしても、それも置いておこう。もし十方の恒河の砂の数ほどの国土が、すべて舎利弗や目揵連などの智慧を持っていたとしても、菩薩が般若波羅蜜を行じる智慧と比べれば、百分の一にも及ばず、千分、百千億分、さらには算数や譬えでも及ぶことができないのである。」
さらに、舎利弗よ、菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を行じ、一日のうちに智慧を修めるならば、それはあらゆる声聞や辟支仏の上に優るのである。
舎利弗が仏に申し上げました。「世尊よ、声聞の智慧、すなわち須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢、辟支仏の智慧、そして仏の智慧は、これらすべての智慧に差別はなく、互いに矛盾せず、生じることのない空性を説いています。もし法が互いに矛盾せず、生じることのない空性であるなら、その法には別異はありません。それなのに、どうして世尊は、菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を行じ、一日で修める智慧が声聞や辟支仏を超えると言われるのでしょうか?」
仏は舎利弗に告げられた:「あなたはどう思いますか?菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を行じ、一日智慧を修める時、心にこう念じます:『私は道の智慧を行じて一切の衆生を益し、一切種智をもって一切の法を知り、一切の衆生を度そう』と。諸々の声聞や辟支仏の智慧に、このようなことがあるでしょうか?」
舎利弗がお答えしました。「いいえ、世尊(お釈迦様)。」
「舎利弗よ、あなたはどう思いますか。声聞や辟支仏たちが、『私たちはこの上なく完全な悟りを開き、すべての衆生を救い、完全な涅槃へと導くことができるだろうか』と考えることがあるでしょうか。」
舎利弗がお答えしました。「いいえ、世尊(お釈迦様)。」
仏は舎利弗に告げられた。「このような因縁によって、諸々の声聞や辟支仏の智慧は、菩薩摩訶薩の智慧と比較すると、百分の一にも及ばず、千分、百千億分、さらには算数やたとえを用いても及ぶことはできないのである。舎利弗よ、あなたはどう思うか。諸々の声聞や辟支仏に、このような考えがあるだろうか。『私は六波羅蜜を行じ、衆生を成就し、国を荘厳し、仏の十力、四無所畏、四無碍智、十八不共法を具え、無量の阿僧祇の衆生を救い導き、涅槃を得させよう』と。」
舎利弗がお答えしました。「いいえ、世尊(お釈迦様)。」
仏は舎利弗に告げられた。 「菩薩(大乗の修行者)は、こう思うことができる。『私は六波羅蜜から十八不共法に至るまでの教えを実践し、無上の悟りを成就して、計り知れない数の生きとし生けるものを救い、涅槃へと導こう。』と。
しかし、蛍が『私の力で閻浮提(この世界)全体を照らし、すべてを明るくできる』とは思わないのと同じように、阿羅漢や辟支仏(独覚)もまた、『私たちが六波羅蜜から十八不共法を実践し、無上の悟りを得て、無数の生きものを救い、涅槃へ導こう』とは思わない。
舎利弗よ。例えば、太陽が昇るとき、その光は閻浮提の隅々まで行き渡り、光を受けないものはない。菩薩もまた、まったく同じである。六波羅蜜から十八不共法に至る教えを実践し、無上の悟りを成就して、無数の生きとし生けるものを救い、涅槃へと導くのだ。」
舎利弗が仏に申し上げました。「どのようにして菩薩摩訶薩は声聞や辟支仏の境地を超え、不退転の地に留まり、仏道を清らかにするのでしょうか。」
仏は舎利弗に告げられた。
「菩薩摩訶薩は、初めて悟りを求める心を起こした時から六波羅蜜を実践し、空・無相・無作の境地に安住することで、すべての声聞や辟支仏の境地を超え、不退転の位に達し、仏道を清らかにするのです。」
舎利弗が仏に申し上げました。「菩薩摩訶薩は、どのような境地に住して、声聞や辟支仏の方々にとっての福田となるのでしょうか。」
仏は舎利弗に告げられた。「菩薩摩訶薩は、最初に悟りを求める心を起こしてから、六波羅蜜を実践し、ついには悟りの座に至るまで、その間ずっと、あらゆる声聞や辟支仏にとっての福田(功徳を育てる場)となるのです。なぜなら、菩薩摩訶薩がいることによって、この世に様々な善い教えが生まれるからです。では、その善い教えとは何でしょうか。それは、十善道、五戒、八斎戒、四禅、四無量心、四無色定、四念処、四正勤、四如意足、五根、五力、七覚支、八正道といったものです。これらすべてが、この世に現れるのです。また、菩薩がいることによって、六波羅蜜、十八空、仏の十力、四無所畏、四無礙智、十八不共法、大慈大悲、一切種智という、すべての悟りの教えがこの世に現れます。さらに、菩薩がいることによって、クシャトリヤの名門、バラモンの名門、長者たちのような立派な家柄の人々や、四天王天から非想非非想天に至るまでの天界が、この世に現れます。そして、菩薩がいることによって、須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢、辟支仏、そして仏といった、悟りを開いた方々が、すべてこの世に現れるのです。」
舎利弗が仏に申し上げました。「菩薩摩訶薩は、施しの功徳を清らかにし尽くすのでしょうか。」
仏陀は言われた。「そうではない。なぜなら、もともと清らかで完成しているからだ。舎利弗よ、菩薩摩訶薩(大きな悟りを目指す者)は、偉大な施主である。何を施すのか?あらゆる善い教えを施すのだ。どのような善い教えか?十の善行、五つの戒めから、仏だけが持つ十八の特別な徳目、すべてを正しく知る智慧に至るまで、これらを施すのである。」
舎利弗が仏に申し上げました。「世尊よ、菩薩摩訶薩はどのように般若波羅蜜を修習し、般若波羅蜜と相応するのでしょうか?」
仏は舎利弗に告げられた。「菩薩摩訶薩が、色が空であることを学び体得するならば、それを般若波羅蜜と相応するという。受・想・行・識が空であることを学び体得するならば、それを般若波羅蜜と相応するという。さらに、舎利弗よ。菩薩摩訶薩が、眼が空であることを学び体得するならば、それを般若波羅蜜と相応するという。耳・鼻・舌・身・心が空であることを学び体得するならば、それを般若波羅蜜と相応するという。色が空であることを学び体得するならば、それを般若波羅蜜と相応するという。声・香・味・触・法が空であることを学び体得するならば、それを般若波羅蜜と相応するという。眼界が空であり、色界が空であり、眼識界が空であることを学び体得するならば、それを般若波羅蜜と相応するという。耳声識、鼻香識、舌味識、身触識、意法識の各界が空であることを学び体得するならば、それを般若波羅蜜と相応するという。苦が空であることを学び体得するならば、それを般若波羅蜜と相応するという。集・滅・道が空であることを学び体得するならば、それを般若波羅蜜と相応するという。無明が空であることを学び体得するならば、それを般若波羅蜜と相応するという。行・識・名色・六入・触・受・愛・取・有・生・老死が空であることを学び体得するならば、それを般若波羅蜜と相応するという。すべての諸法――有為であれ無為であれ――が空であることを学び体得するならば、それを般若波羅蜜と相応するという。さらに、舎利弗よ。菩薩摩訶薩が、性空を学び体得するならば、それを般若波羅蜜と相応するという。このように、舎利弗よ。菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を実践して、七つの空――すなわち、性空、自相空、諸法空、無所得空、無法空、有法空、無法有法空――を学び体得するならば、それを般若波羅蜜と相応するというのである。」
仏は舎利弗に告げられた。「菩薩摩波訶薩が七つの空に習い応じる時、色が相应するか、相应しないかを見ない。受・想・行・識が相应するか、相应しないかを見ない。色に生じる相や滅する相を見ない。受・想・行・識に生じる相や滅する相を見ない。色に汚れた相や清らかな相を見ない。受・想・行・識に汚れた相や清らかな相を見ない。色と受が合わさるのを見ず、受と想が合わさるのを見ず、想と行が合わさるのを見ず、行と識が合わさるのを見ない。なぜか。法と法が合わさるものは何もないからである。その本性は空であるからだ。舎利弗よ。色の空の中には色がなく、受・想・行・識の空の中には識がない。舎利弗よ。色は空であるから悩み壊れる相がなく、受は空であるから受ける相がなく、想は空であるから知る相がなく、行は空であるから作る相がなく、識は空であるから感じる相がない。なぜか。舎利弗よ。色が空と異なるのでもなく、空が色と異なるのでもない。色すなわち空であり、空すなわち色である。受・想・行・識もまた同じである。舎利弗よ。これらの諸法の空の相は、生じもせず滅しもせず、汚れもなく清らかでもなく、増えもせず減りもしない。この空の法は、過去でもなく、未来でもなく、現在でもない。ゆえに空の中には色がなく、受・想・行・識がなく、眼・耳・鼻・舌・身・意がなく、色・声・香・味・触・法がなく、眼界から意識界に至るまでなく、無明もなく無明の尽きることもなく、老死もなく老死の尽きることもなく、苦集滅道がなく、智もなく得ることもなく、須陀洹もなく須陀洹果もなく、斯陀含もなく斯陀含果もなく、阿那含もなく阿那含果もなく、阿羅漢もなく阿羅漢果もなく、辟支仏もなく辟支仏道もなく、仏もなく仏道もない。舎利弗よ。菩薩摩訶薩がこのように習い応じることを、般若波羅蜜に相応するという。舎利弗よ。この菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を行う時、般若波羅蜜が相应するか、相应しないかを見ない。檀那波羅蜜、尸羅波羅蜜、羼提波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、禅那波羅蜜が相应するか、相应しないかを見ない。また色が相应するか、相应しないかを見ず、受・想・行・識が相应するか、相应しないかを見ない。眼から意、色から法、眼色識界から意法識界に至るまでが相应するか、相应しないかを見ない。四念処から八聖道分、仏の十力から一切種智に至るまでが相应するか、相应しないかを見ない。このように、舎利弗よ。菩薩摩訶薩が般若波羅蜜に相応することを知るべきである。」
また、舎利弗よ。菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を実践するとき、空は空と合わず、無相は無相と合わず、無作は無作と合わない。なぜなら、空・無相・無作には、合うことも合わないこともないからである。舎利弗よ。菩薩摩訶薩がこのように習い応じることを、般若波羅蜜と相応するというのである。
また、舎利弗よ。菩薩(摩訶薩)が般若波羅蜜を実践するとき、すべての現象(諸法)が本来、それ自体として空であることを観じる。その観じ方によって、色(かたちあるもの)に対して「合わせる」ことも「合わせない」こともせず、受・想・行・識(こころの働き)に対しても同様である。
色を過去と結びつけることもない。なぜなら、過去という実体を見出せないからである。色を未来と結びつけることもない。なぜなら、未来という実体を見出せないからである。色を現在と結びつけることもない。なぜなら、現在という実体を見出せないからである。受・想・行・識についてもまったく同様である。
また、舎利弗よ。菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を実践するとき、過去は未来と合わず、未来は過去と合わず、現在は過去や未来と合いません。過去や未来もまた現在と合いません。なぜなら、この三つの時間は本質的に空だからです。舎利弗よ。菩薩摩訶薩がこのように学び、調和することを、般若波羅蜜と相応するというのです。
また、舎利弗よ。菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を修行するとき、一切智は過去世と結びつくことがありません。なぜなら、過去世は見ることができないからです。ましてや一切智が過去世と結びつくことなどありえません。一切智は未来世とも結びつきません。なぜなら、未来世は見ることができないからです。ましてや一切智が未来世と結びつくことなどありえません。一切智は現在世とも結びつきません。なぜなら、現在世は見ることができないからです。ましてや一切智が現在世と結びつくことなどありえません。舎利弗よ。菩薩摩訶薩がこのように修行し応じるなら、それを般若波羅蜜と相応するといいます。
また、舎利弗よ。菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を実践するとき、色は一切智と結びつきません。色は見ることができないからです。受・想・行・識も同じです。眼は一切智と結びつきません。眼は見ることができないからです。耳・鼻・舌・身・意も同じです。色は一切智と結びつきません。色は見ることができないからです。声・香・味・触・法も同じです。舎利弗よ。菩薩摩訶薩がこのように習い、対応することを、般若波羅蜜と対応するといいます。
また、舎利弗よ。菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を実践するとき、仏陀と一切智者(薩婆若)は一つであり、一切智者と仏陀もまた一つです。菩提(悟り)と一切智者は別々ではなく、一切智者と菩提もまた別々ではありません。なぜなら、仏陀こそが一切智者であり、一切智者こそが仏陀だからです。菩提こそが一切智者であり、一切智者こそが菩提だからです。
舎利弗よ。菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を実践し、このように理解して修行するならば、それを般若波羅蜜と相応していると言うのです。
「さらに、舎利弗よ。菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を実践するとき、色(物質的なもの)を「有る」と捉えもせず、「無い」と捉えもしない。受・想・行・識についても同様である。色を「常である」と捉えもせず、「無常である」と捉えもしない。受・想・行・識についても同様である。色を「苦である」と捉えもせず、「楽である」と捉えもしない。受・想・行・識についても同様である。色を「我である」と捉えもせず、「我ではない」と捉えもしない。受・想・行・識についても同様である。色を「寂滅である」と捉えもせず、「寂滅ではない」と捉えもしない。受・想・行・識についても同様である。色を「空である」と捉えもせず、「空ではない」と捉えもしない。受・想・行・識についても同様である。色を「相がある」と捉えもせず、「相がない」と捉えもしない。受・想・行・識についても同様である。色を「作られたものがある」と捉えもせず、「作られたものがない」と捉えもしない。受・想・行・識についても同様である。この菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を実践しているときに、『私は般若波羅蜜を実践している』、『実践していない』、『実践しているのでも実践していないのでもない』といった考えを起こさない。舎利弗よ。菩薩摩訶薩がこのように学び、応じるとき、それを般若波羅蜜に相応するというのである。」
また、舎利弗よ。菩薩摩修薩は、般若波羅蜜のために般若波羅蜜を行うのではなく、檀那波羅蜜、尸羅波羅蜜、羼提波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、禅那波羅蜜のために般若波羅蜜を行うのでもなく、阿惟越致の境地のために般若波羅蜜を行うのでもなく、衆生を成就させるために般若波羅蜜を行うのでもなく、仏の国土を清めるために般若波羅蜜を行うのでもなく、仏の十力、四無所畏、四無礙智、十八不共法のために般若波羅蜜を行うのでもなく、内空のために般若波羅蜜を行うのでもなく、外空、内外空、空空、大空、第一義空、有為空、無為空、畢竟空、無始空、散空、性空、諸法空、自相空、不可得空、無法空、有法空、無法有法空のために般若波羅蜜を行うのでもなく、如、法性、実際のために般若波羅蜜を行うのでもありません。 なぜなら、菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を行う時、諸法の相を壊さないからです。 このように習い応じることを、般若波羅蜜と相応するといいます。
また、舎利弗よ。菩薩であり大いなる修行者である者が智慧の完成(般若波羅蜜)を実践するのは、思いのままに働く神通力のためではありません。また、天耳通(超自然的な聴力)のためでも、他者心通(他人の心を見通す力)のためでも、宿命通(過去世を憶える力)のためでも、天眼通(超自然的な視力)のためでも、煩悩を滅尽する神通力のためでもありません。なぜなら、菩薩であり大いなる修行者である者が智慧の完成を実践するとき、智慧の完成そのものさえも見ることなく捉えられないのに、ましてや菩薩の神通力など見えるはずがないからです。舎利弗よ、菩薩であり大いなる修行者である者がこのように実践するとき、それを智慧の完成と相応した行いと言うのです。
また、舎利弗よ。菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を修行するとき、次のように考えません。 「私は如意の神通力によって東方に飛び、ガンジス川の砂の数ほどの多くの仏陀のもとを訪れ、供養し敬うのだ。」 南方、西方、北方、四隅、上方、下方についても同じです。
「さらに、舎利弗よ。菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を修行するとき、こうは思わない。『私は天耳によって、十方の諸仏が説かれる法を聞くのだ』と。また、こうも思わない。『私は他心智によって、十方の衆生の心に念じることを知るのだ』と。また、こうも思わない。『私は宿命通によって、十方の衆生の過去世の行いを知るのだ』と。また、こうも思わない。『私は天眼によって、十方の衆生がここで死に、あそこに生まれるのを見るのだ』と。舎利弗よ。菩薩摩訶薩がこのように修行するとき、これを般若波羅蜜と相応するといい、また無量のアサンキエイの衆生を度すことができる。舎利弗よ。菩薩摩訶薩がこのように般若波羅蜜を修行できるならば、悪魔はその隙を得ることができず、世間の諸々の事柄も意のままになり、十方のそれぞれガンジス河の砂の数ほどの諸仏が皆、この菩薩を護持し、声聞や独覚の境地に堕ちないようにされる。さらに、四天王天から阿迦尼吒天に至るまでの天々も、皆この菩薩を護持し、妨げが生じないようにする。この菩薩の重い罪は、現世で軽く受けられる。なぜか。この菩薩摩訶薩は、あまねく慈しみの心で衆生に接するからである。舎利弗よ。菩薩摩訶薩がこのように修行するとき、これを般若波羅蜜と相応するというのである。」
「また、舎利弗よ。菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を実践する時、速やかに陀羅尼の教えや三昧の境地を得て、生まれる場所では常に諸仏と出会い、最終的に悟りを開く時まで、決して仏を見ることから離れることはありません。舎利弗よ。菩薩摩訶薩がこのように修行に応じることを、般若波羅蜜と応じるといいます。」
「さらに、舎利弗よ。菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を実践する時、次のように考えることはありません——『ある法が他の法と合わさる、あるいは合わさらない、等しい、あるいは等しくない』と。なぜでしょうか? その菩薩摩訶薩は、ある法が他の法と合わさる、合わさらない、等しい、等しくないということを、見ることがないからです。舎利弗よ、菩薩摩訶薩がこのように修行に励むことを、般若波羅蜜にかなうといいます。」
また、舎利弗よ。菩薩(大いなる目覚めを求める者)が般若波羅蜜(智慧の完成)を実践するとき、次のように考えません。『私は速やかに法性(ものごとの真実の性質)を得るべきだ。あるいは得られないかもしれない』とは。なぜなら、法性は「得る」という性質ではないからです。舎利弗よ。菩薩がこのように学び、調和するとき、それを般若波羅蜜と調和しているといいます。
また、舎利弗よ。菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を修行する時、法性を超え出るような法は見えないのである。 このように習い応じることを、般若波羅蜜と相応すると名づける。
「また、舎利弗よ。菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を実践するとき、『法性が諸々の法を区別する』とは考えません。このように習い調えることこそ、般若波羅蜜に相応するというのです。」
「また、舎利弗よ。菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を実践するとき、こうは考えません。『この法によって法性を得られる、あるいは得られない』とは。なぜなら、この菩薩は、その法によって法性を得ることや得られないことを見ないからです。舎利弗よ。菩薩摩訶薩がこのように修行に応じることを、般若波羅蜜と相応すると言うのです。」
「また、舎利弗よ。菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を実践するとき、法性は空と結びつかず、空も法性と結びつかない。このようにして修習し対応することを、般若波羅蜜と対応するというのである。」
さらに、舎利弗よ。菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を実践するとき、眼の領域は空と結びつかず、空も眼の領域と結びつかない。色の領域も空と結びつかず、空も色の領域と結びつかない。眼識の領域も空と結びつかず、空も眼識の領域と結びつかない。同様に、意の領域は空と結びつかず、空も意の領域と結ばず、法の領域も空と結びつかず、空も法の領域と結びつかない。意識の領域も空と結びつかず、空も意識の領域と結びつかない。それゆえ、舎利弗よ。この空との調和こそ、第一の調和と呼ばれるのである。
舎利弗よ。空を実践する菩薩摩訶薩は、声聞や独覚の境地に落ちることなく、仏の国を清め、衆生を成就させ、速やかに最高の悟り(阿耨多羅三藐三菩提)を得るのである。
舎利弗よ。あらゆる調和の中で、般若波羅蜜との調和が最も優れ、最も尊く、最も勝れ、最も妙であり、それ以上に優れたものはない。なぜなら、この菩薩摩訶薩が般若波羅蜜と調和するとは、すなわち空、無相、無作と調和することだからである。したがって、この菩薩はすでに悟りを授けられた者と変わらず、あるいは間もなく授けられるであろうことを知るべきである。
舎利弗よ。このように調和する菩薩摩訶薩は、無数の計り知れない衆生に対して大きな利益をもたらすことができる。しかし、この菩薩摩訶薩は、「私は般若波羅蜜と調和している。諸仏は私に悟りを授けてくださるだろう。私は間もなく悟りを授けられるだろう。私は仏の国を清めるだろう。私は最高の悟りを得て、教えの輪を回すだろう」とは決して考えない。なぜなら、この菩薩摩訶薩は、法の本性を超えた法を見ることがなく、般若波羅蜜を実践する法も見ず、諸仏が悟りを授ける法も見ず、最高の悟りを得る法も見ないからである。なぜなら、菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を実践するとき、「私」という観念も、「衆生」という観念も、さらには「知る者」「見る者」という観念も生じないからである。なぜなら、衆生は本来、生も滅もないからである。衆生には生がなく、滅もない。もし法に生の相も滅の相もないなら、どうして般若波羅蜜を実践する法があり得ようか。
このように、舎利弗よ。菩薩摩訶薩は衆生を見ないことから、般若波羅蜜を実践するのである。衆生を受け入れないから、衆生が空だから、衆生が得られないから、衆生を離れているから、般若波羅蜜を実践するのである。
舎利弗よ。菩薩摩訶薩はあらゆる調和の中で最も優れた第一の調和、すなわち空との調和を実践する。この空との調和は、他のいかなる調和にも勝る。菩薩摩訶薩がこのように空を学ぶとき、大いなる慈しみと大いなる悲しみを生じることができる。菩薩摩訶薩がこのように調和を学ぶとき、けちな心も、戒めを破る心も、怒りの心も、怠ける心も、心が乱れることも、智慧のない心も生じないのである。
摩訶般若経 巻第一