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  1. 寶鏡三昧原宗辨謬說終
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宝鏡三昧原宗弁謬説 (寶鏡三昧原宗辨謬說)

「寶鏡三昧原宗辨謬說」について

清 · 淨訥述 著

3,043 字 · 約 10 分

『宝鏡三昧原宗弁謬説』は、清代の僧侶・浄訥によって著された仏教経典の注釈書であり、主に『宝鏡三昧』の宗旨と流布中の誤りについて弁析を行ったものです。本書は清代に成立し、当時の禅宗における経典教義への厳密な考証的態度を反映しています。内容において、浄訥は『宝鏡三昧』の核心思想を深く読み解くことで、後世における禅宗の法門への誤解を明らかにし、心性の修証の重要性を強調しています。この書は仏教禅宗文献において重要な位置を占め、清代の禅学思想と経典解釈を研究する上で貴重な資料を提供しており、後世の禅修実践と理論の発展に深遠な影響を与えました。


寶鏡三昧原宗辨謬說

宝鏡三昧 原宗弁謬説

洞下衡南大義山沙門 淨訥 述

洞下衡南大義山沙門 浄訥 述

世尊凡為說法。或先舉喻。次舉法。或先舉法。次舉喻。謂之法喻相參。以曉未悟。此古今說法之恒規也。雲巖寶鏡三昧。建章二十六句。廣舉大法為案。恐人以文害義。故引嬰兒喻作證。所謂如世嬰兒。五相完具。不去不來。不起不住。婆婆和和。有句無句。下復舉重離一喻曰。如離六爻。偏正回互。疊而為三。變盡成五。此謂以喻合喻。使人了了無疑。雲巖惟取重離一卦為喻。此外竝無干涉。故曰疊而為三。變盡成五。所云三疊五變。是法數。非卦數。是藉卦之陰陽二爻。以明偏正回互之義。以疊三喻三德。變五喻五位。五本乎三。三本乎一。合上嬰兒喻。雖有五相。而具於一人。恐人於此起三五異見。乃重說二喻曰。如荎草味。如金剛杵。草雖五味。具於一枚。杵雖三相。具於一事。前後四喻皆以總攝別。以體攝用。諄諄發明三德五位。悉本乎一心。故斷章取義。專取重離為喻。即事顯理。以彰正偏妙叶之旨。何得浪談易理。認婉喻為正解乎。或曰。何謂三德。曰法身。般若。解脫。是也。何謂五位。曰正中偏。偏中正。正中來。兼中至。兼中到。此洞山之建立也。以至五位君臣。五位功勳。五位王子。皆原此爾立。名異而體同。其所本者。亦從大教住行向地等妙發來。故舉五則攝盡一切差別無餘也。

世尊が説法される際には、まず譬え話を挙げてから教えを示す場合もあれば、まず教えを示してから譬え話を挙げる場合もあります。これは、教えと譬えを互いに織り交ぜて、まだ悟っていない人々に理解させるための方法です。古今の説法における不変の慣わしと言えます。

雲巌の『宝鏡三昧』は、冒頭の二十六句で広く大法を事例として示していますが、言葉にこだわって意味を取り違えることを恐れ、嬰児の譬えを引いて証明としました。すなわち、「世の嬰児のように、五つの相が完全に備わり、去ることも来ることもなく、起こることも止まることもなく、柔らかく和らいで、有句・無句の状態にある」というものです。

続けて、重鬲(三重の離卦)の譬えを挙げて、「離卦の六つの爻のように、偏と正が回り互いに関わり合い、三つに重ねて変じて尽くせば五つとなる」と説きます。これは、譬えで譬えを補い合い、人々に疑いなく明瞭に理解させるためのものです。

雲巌は偏に重鬲の一卦を譬えとして取ったのであり、これ以外に何の関係もありません。それゆえ「三つに重ねて変じて尽くせば五つとなる」と言うのです。この「三疊五変」とは法の数であり、卦の数ではありません。卦の陰陽二爻を借りて、偏と正が回り互いに関わり合う意味を明らかにしたものです。三疊は三徳を譬え、五変は五位を譬えます。五は三に基づき、三は一に基づきます。

これを先の嬰児の譬えと合わせれば、五つの相があるとはいえ、一つの人に具わっています。しかし、人はここで三と五に異なる見解を起こす恐れがあるため、さらに二つの譬えを重ねて説きます。すなわち、「荎草の味わいのようであり、金剛杵のようである」と。

草は五味を持つとはいえ、一つの草の実に具わっています。杵は三相を持つとはいえ、一つの杵の事柄に具わっています。前後の四つの譬えは、全て「総」をもって「別」を摂め、「体」をもって「用」を摂めるものです。熱心に三徳と五位がいずれも一心に基づくことを明らかにしています。

そこで章句を断ち取り、その意味を取って、専ら重鬲を譬えとしました。事柄において理を顕わし、正と偏が微妙に調和する旨を示したのです。どうしてやたらに易の理を論じ、婉曲な譬えを正しい解釈と思い込むことがありましょうか。

ある人が問うでしょう。「では三徳とは何か」と。答えましょう。「法身・般若・解脱である」と。「五位とは何か」と問えば、答えましょう。「正中偏・偏中正・正中来・兼中至・兼中到である。これは洞山禅師の建立である」と。

さらに五位君臣・五位功勲・五位王子に至るまで、全てこれに基づいて立てられています。名は異なれども体は同じであり、その基づくところも、大乗教の十住・十行・十回向・十地・等覚・妙覚から発して来たものです。ゆえに五位を挙げれば、一切の差別を余すところなく摂め尽くすのです。

或曰。三德於重離。如何分配。曰初疊即重離初爻二爻二。二疊即三爻四爻二。三疊即五爻六爻二。每一疊取陰陽兩爻為喻。在卦乃乘承比應。是世間之道。在法乃體用回互。是出世間之道。故借喻以顯其法也。

問う。三徳(さんとく)を重離(じゅうり)に配するには、どう割り当てるのか。

答う。初めの重なりは、重離の初爻(しょこう)と二爻(にこう)の二つ。二番目の重なりは、三爻と四爻の二つ。三番目の重なりは、五爻と六爻の二つ。それぞれの重なりで、陰と陽の二つの爻(こう)をたとえとする。卦(け)においては、乗・承・比・応(じょう・しょう・ひ・おう)の関係が、世の中の道にあたる。教えにおいては、体と用(たいとゆう)が互いに回り合うことが、世を超えた道である。だから、このたとえを借りて、教えを明ら

如初疊卦義兩爻一陽一陰。首得乾之初九。為少陽而居陽位。取乾元善長之本。以喻初住之根本智。無一法當情。所謂正位也。次得坤之六二。為少陰而居陰位。取敬以直內義。以方外之德用。喻初住之普賢行。涉大功勳。所謂偏位也。智行互參。直透過五十二位而回入妙有。五位一貫。故初成般若德也。

最初の重ね卦(二爻の卦)の意味は、一陽と一陰である。初めに乾の初九を得る。これは少陽であり陽位に居る。乾の元(善の長)の根本を取って、初住の根本智に喩える。一法として情に当たるものはなく、いわゆる正位である。次に坤の六二を得る。これは少陰であり陰位に居る。敬をもって内を直くし、義をもって外を方にするという徳用を取って、初住の普賢行に喩える。大いなる功勲に関わるものであり、いわゆる偏位である。智と行とが互いに交わり合い、五十二位を直かに透り抜けて妙有へと還る。五位が一貫しているからこそ、初めに般若徳が成就するのである。

如二疊卦義兩爻純陽。初得乾之九三。為太陽而居陽位。次得乾之九四。為老陽而居陰位。剛柔互徹。理事合明。故於法喻大智。已滿大行。已圓成等正覺。故次成法身德也。

二重の卦の義は、二つの爻がすべて陽であることです。初めに乾の九三を得て、太陽となり陽位にあります。次に乾の九四を得て、老陽となり陰位にあります。剛(剛)と柔(柔)が互いに通じ合い、理と事が共に明らかになります。このため、法と喩えにおいて大いなる智慧はすでに満ち、大いなる修行はすでに円満し、等しい正覚を成就しました。ゆえに、次に法身の徳が成るのです。

如三疊卦義兩爻一陰一陽。首得坤之六五。為太陰而居太陽之位。次得乾之上九。為老陽而居老陰之位。其動而無動。靜而無靜。動靜恒如。非離非即。故於法喻五位。佛果已畢。隱勝現劣。隨類化身。非凡而凡。非聖而聖。生佛二習。悉皆融化。故末成解脫德也。

三つの卦が重なる意味においては、二つの爻がそれぞれ陰と陽となっています。最初に坤の六五を得るのは、太陰でありながら太陽の位にあります。次に乾の上九を得るのは、老陽でありながら老陰の位にあります。その動きは動くことなく、静けさは静まることなく、動静は常に一如であり、離れることもなければ即することもありません。ゆえに、法と譬えの五つの位において、仏の果報はすでに完成しています。すぐれた姿を隠して劣った姿を現し、衆生の機根に応じて身を変え、凡夫でありながら凡夫ではなく、聖者でありながら聖者ではありません。衆生と仏という二つの慣れ親しんだ執着は、すべて溶け去ります。このため、最後に解脱の徳が成就するのです。

或曰。五位於重離五變。如何分配。曰即以六爻。從下至上。而互成五變也。每一變用上下二爻陰陽交徹。以喻偏正回互之旨。首以初爻之少陽。比二爻之少陰。為⚋變⚍。陽剛而陰柔。喻初位正中偏。以明從體起用。寂而常照也。次即二爻之少陰。比三爻之太陽⚎。陰極而陽生。喻第二位偏中正。以明攝用歸體。照而常寂也。次即三爻之太陽。比四爻之老陽⚌。陽極而暗動。喻第三位正中來。以明體用圓明。功位齊彰。寂照一如也。次即四爻之老陽。比五爻之老陰⚍。為陽隱於陰。陰升於陽。隱顯自在。觸背俱非。喻第四位兼中至。以明道後普賢行。行彌法界。機彼無遺。非寂非照也。次即五爻之老陰。比六爻之老陽⚎。陰居陽位。明用無窮。陽居陰位。大功不宰。頭頭上顯。事事無礙。喻第五位兼中到。以明聖凡一際。生佛兩忘。齊與法界。而法界量滅。寂照同泯也。

ある人が問う。「五位の思想を、重離の五変に配当するとは、どのように対応させるのでしょうか。」

答えて曰く。「すなわち六爻を、下から上へと順に重ね合わせて五変を成すのである。一変ごとに上下二爻の陰陽が交わり徹する。これは偏正回互の趣旨を譬えている。

第一に、初爻の少陽を二爻の少陰と比べて、⚋変⚍とする。陽は剛で陰は柔である。これは初位の『正中偏』を譬え、体から用を起こすこと、すなわち静けさの中に常に照らす働きを示す。

次に、二爻の少陰を三爻の太陽⚎と比べる。陰が極まって陽が生まれる。これは第二位の『偏中正』を譬え、用を摂めて体に帰すること、すなわち照らしながら常に静かであることを示す。

次に、三爻の太陽を四爻の老陽⚌と比べる。陽が極まると陰が動き始める。これは第三位の『正中来』を譬え、体と用が円満に明らかになり、功と位が同時に顕れ、静寂と照らしが一つとなることを示す。

次に、四爻の老陽を五爻の老陰⚍と比べる。陽が陰に隠れ、陰が陽に昇る。隠れ顕れること自在であり、向かうことも背くこともともにそうではない。これは第四位の『兼中至』を譬え、道後の普賢行を表す。行が法界に満ち、機に応じて漏らすところがなく、静寂でも照らしでもないことを示す。

次に、五爻の老陰を六爻の老陽⚎と比べる。陰が陽の位にあり明らかな用は限りなく、陽が陰の位にあり大きな功績は主とならない。一つ一つの頭の上に顕れ、事事に障りがない。これは第五位の『兼中到』を譬え、聖と凡が一つの境涯であり、生と仏がともに忘れられることを示す。法界と一体でありながら、法界という量も滅し、静寂と照らしがともに消え去るのである。」

此雲巖所引。重離一卦。觀爻相。有如此回互之妙。乃拈來為喻。初以六爻分三疊。以象三德。次以六爻分五變。以象五位。不動本卦。而三五之體用回互。位位本自天然。有如伏羲神禹。見河洛二圖。陰陽法數。遂援數以窮理。堪為儒宗。兼可通於釋宗。作人天之眼目也。若覺範之非理變卦。非理配法。其違戾儒佛之旨。遺害於千古之後。滔滔而莫之返。可不痛乎。

雲巌がここで引用したのは、「重離」の卦です。その爻の様子を見ると、このような回互の妙があります。そこで、これをたとえとして取り上げたのです。

初めに、六つの爻を三つの重なりに分けて、三徳を象徴します。次に、六つの爻を五つの変化に分けて、五位を象徴します。本来の卦を動かすことなく、三と五の体用が回互し、位位が本来、自然のままに備わっています。これは、伏羲や神禹が河図・洛書の二つの図を見て、陰陽の法数を悟り、数を用いて理を窮め、儒教の宗とされたのと同じです。また、仏教にも通じるものであり、人天の眼目となり得るのです。

しかし、覚範が道理にかなわない変卦を行い、道理にかなわない配法をしたのは、儒や仏の宗旨に背き、後の世にまで害を残し、滔々としてそれを改めることなく、はなはだ嘆かわしいことです。

辯謬諸條不錄。莫大義以明。則諸謬自消矣。茲更錄諸師建立宗旨大意數條觀之。則不墮邪謬矣。
第一雲巖如離六爻偏正回互者。此單取爻☲相。奇偶發明。五位回互。所謂錯然則吉。不可犯忤。觀錯然二字。則知指奇偶為言。若各居本位。則滯在觸背。乃犯忤之過也。即此可知。是取奇偶。非取卦義。明矣。即如正偏五位。亦是秉華嚴住行向地等妙為宗。不然。何不停四至六。是知先德准此五位為式。乃建立五位正偏。詳而示之。初位正中偏之正者。乃的指大悟一真法界之空如來藏性為體。是道前文殊之智。舍事就理為宗也。纔入正位。不許坐著。坐著則成滲漏。故著一偏字。以遣我執。乃能從體起用也。第二位偏中正之偏者。與初位偏字稍別。謂是從體起用。五十二位大行。多涉有為。舍理就事。轉功就位。是大悟已後。證不空如來藏性為用。纔涉功勳。不許坐著。坐著則成滲漏。故著一正字。以遣法執。方能圓滿佛果。此一正字。乃道後之後得智。是以諸佛果地覺之正。本初位諸佛因地心之正。而為言也。此兩位是圓教五十二位智行互融因果一如之般若德也。如善財初見文殊。末見普賢。是智行圓滿佛果之位。無二無別也。第三正中來者。此一正字。是攝前因果一如之正。為佛果已滿。方堪垂法利生。是初住八相成道。已證法身德。而現應化二身。善赴羣機。故曰正中來也。第四兼中至者。此明道後普賢行。謂兼前三位之旨。至者周也。謂佛果之後。乃純是利他之行。一一周徧法界。而無遺矣。如華嚴現等法界身雲利等法界眾生。故曰至也。第五位兼中到者。謂到此位。兼前四位。一齊泯踪絕跡。生佛如如。依正如如。是一真法界。並無三世十方迷悟聖凡之跡。故曰到也。到者墮也。不然。則三漏齊犯。故以三墮齊收。而成解解德也。然此五位即一位。故復引荎草。而為喻也。五位皆屬建立。為方便接引。故喻如嬰兒也。三德本乎一心。故喻如金剛杵也。此略言雲巖建旨之妙。如是。

第一に、雲巌の「六爻の偏正、回互する」についてですが、これは単に爻の ☲ の形を取り、奇数と偶数で明らかにし、五位の回互を説いています。いわゆる「錯然として則ち吉」であり、犯すべからざるものです。「錯然」の二字を見れば、奇数と偶数を指していることが分かります。もし各々が本位に留まれば、触背に滞り、犯忤の過ちとなります。これにより、卦の意味ではなく、奇数と偶数を取っていることが明らかです。

例えば正偏五位も、華厳の十住、十行、十向、十地、等覚、妙覚を宗旨としています。そうでなければ、なぜ四で止めず六まで行かないのでしょうか。これにより、先徳がこの五位を基準として、五位正偏を建立したことが詳しく示されています。

初位の「正中偏」の「正」とは、大悟した一真法界の空如来蔵性を体とすること、すなわち道前の文殊の智であり、事を捨てて理に就くことを宗旨とします。正位に入ったばかりで、そこに座り込むことを許しません。座り込めば滲漏となるため、「偏」の一字を置いて我執を払い、体から用を起こせるようにします。

第二位の「偏中正」の「偏」は、初位の「偏」とは少し異なります。これは体から用を起こし、五十二位の大行が多く有為に関わり、理を捨てて事に就き、功を転じて位に就くことです。大悟の後に、不空如来蔵性を証して用とします。功勲に関わったばかりで、そこに座り込むことを許しません。座り込めば滲漏となるため、「正」の一字を置いて法執を払い、ようやく仏果を円満にできます。この「正」の一字は、道後の後得智であり、諸仏の果地覚の正が、元は初位の諸仏の因地心の正であることを示しています。

この二位は、円教五十二位の智行が互いに融け合い、因果が一如となる般若徳です。例えば善財が初めに文殊に会い、最後に普賢に会うのは、智行が円満して仏果の位に至り、二つとなく別れがないことを示します。

第三の「正中来」の「正」は、前の因果一如の正を摂めたもので、仏果がすでに満ちて、初めて法を垂れて衆生を利益できることを意味します。これは初住の八相成道であり、法身徳を証しながら応化二身を現し、様々な機に上手く応じるので「正中来」といいます。

第四の「兼中至」は、道後の普賢行を明らかにしたものです。前の三位の旨を兼ね、「至」は周くことを意味します。仏果の後は、純粋に利他の行のみとなり、一つ一つが法界を周くして漏れがないことです。例えば華厳に、等法界の身雲を現して等法界の衆生を利するとあるので、「至」といいます。

第五の「兼中到」は、この位に至ると、前の四位を兼ねて、すべての痕跡が消え去り、生と仏が如如であり、依報と正報が如如であって、一真法界そのものです。三世十方、迷悟聖凡の跡もないので、「到」といいます。「到」は「堕」のことです。そうでなければ三つの漏れをすべて犯すため、三堕をすべて収めて、解脱の徳を完成させます。

しかし、この五位は即ち一位であり、故に荎草の例えを引いています。五位はすべて方便として建立され、衆生を導くためのものなので、嬰児に例えられます。三徳は一心に基づくので、金剛杵に例えられます。これが雲巌の宗旨の建立の見事さを簡単に述べたものです。

第二洞山价祖。根正偏。復建五位功勳者。蓋恐學人坐著正偏。遂以乾慧為足。則道果難臻。故於各位下。建立功勳。以明五位進修淺深之旨。其於正中偏下。立向位者。謂念念趨向根本不動智佛。始得其正。則知初位以趨向。為功勳也。於偏中正下。立奉位者。謂五十二位階級。念念奉重佛果為宗。始得佛果圓滿。故以奉重。為功勳也。於正中來下。立功位者。謂乘前五十二位有修有證之功。而至妙覺無修無證之果。故獨以大功。為功勳也。於兼中至下。立共功者。謂道後普賢行。乃攝化無餘。必須感應道交。方堪受化。所謂賓主交光。真俗一致。故以共功。為功勳也。於兼中到下。立功功位者。謂前四位。是有為無為之道。通屬自利利他邊事。而心佛眾生。不能泯跡。於此位。乃得心佛眾生同歸實際。是以智遣智。渾合如如。故曰功功也。

第二洞山良价禅師は、「正偏」の根本を正した上で、さらに五位(ごい)における功勲(くんくん)を再び打ち立てられました。これは、修行者が「正偏」の概念に固執し、乾いた智慧(かんちえ)だけで満足してしまい、悟りの境地(どうか)に達することが難しくなることを恐れられたからです。

そこで、それぞれの位(くらい)の下に功勲を設け、五位の修行(しゅぎょう)の深さや浅さの意味を明らかにされたのです。

「正中偏(しょうちゅうへん)」の下には「向位(こうい)」を立てました。これは、あらゆる瞬間に根本的に動かない智慧の仏(ふつ)に向かうことによって、初めてその正しさを得るという意味です。つまり、最初の位では、仏に向かうこと自体が功勲であると説かれています。

「偏中正(へんちゅうしょう)」の下には「奉位(ほうい)」を立てました。これは、五十二の位(くらい)の階級(かいきゅう)において、あらゆる瞬間に仏の果(か)を重んじること(ほうじゅう)を宗旨(しゅうし)とすることで、初めて仏の果が円満に完成するという意味です。そのため、仏を敬い重んじることが功勲であるとされています。

「正中来(しょうちゅうらい)」の下には「功位(くい)」を立てました。これは、先の五十二位における修行と悟りの功(いさお)を土台とし、妙覚(みょうかく)という修行も悟りもない果(か)に至ることを意味します。そのため、ただ大いなる功(たいこう)だけが功勲であるとされています。

「兼中至(けんちゅうし)」の下には「共功(ぐうくう)」を立てました。これは、悟りの後の普賢行(ふげんぎょう)、すなわちあらゆるものを残らず教化(きょうけ)し救済(ぐさい)するという行いにおいて、必ず感応道交(かんのうどうこう)――教える側と教えられる側の心が通い合うこと――が必要であるという意味です。いわば、主人と客人が互いに光を放ち合い、真実(しんじつ)と世俗(せぞく)がひとつになることです。そのため、共に功を積むことが功勲であるとされています。

「兼中到(けんちゅうとう)」の下には「功功位(くくうい)」を立てました。これは、先の四位(しい)が「有為(うい)」と「無為(むい)」の道であり、広く自利利他(じり

第三曹山寂祖。又根功勳。而立五位君臣者。此明正偏五位尊卑主伴之德相也。故於正中偏下。立君視臣。是喻從體起用之德相也。於偏中正下。立臣奉君。是喻攝用歸體之德相也。於正中來下。立君位居中。是喻因果一如。理事互融之德相也。於兼中至下。立臣位。是喻道後普賢大行純是利他。為冥應羣生之德相也。於兼中到下。立君臣道合。是喻凡聖同泯。正符華嚴六相之壞相也。

第三の曹山寂祖は、さらに功勲に基づいて五位の君臣を立てられました。これは、正と偏の五位における、尊と卑、主と伴の徳の姿を明らかにするものです。 そこで、「正中偏」の下には「君、臣を視る」を置き、これは「体」から「用」を起こす徳の姿を喩えています。 「偏中正」の下には「臣、君に奉ずる」を置き、これは「用」を摂めて「体」に帰する徳の姿を喩えています。 「正中来」の下には「君位、中に居す」を置き、これは因果が一如であり、理と事が互いに融け合う徳の姿を喩えています。 「兼中至」の下には「臣位」を置き、これは道後の普賢菩薩の大行が、ひたすら利他の行であり、あまねく衆生に冥応する徳の姿を喩えています。 「兼中到」の下には「君臣、道合す」を置き、これは凡夫と聖者が共に消え去ることを喩え、まさに華厳の六相における「壊相」にかなうものです。

第四石霜諸祖。又根正偏功勳君臣之制。而立五位王子者。此單明五位權實二智之差別也。五位皆以生為言者。顯二智之發生也。五位皆以王為言者。顯尊卑自在之義也。五位皆以子為言者。顯智種嗣息之義也。蓋物物有智。常被五蘊八識所覆。必值佛祖啟迪。乃能開發。從始至終。權實不同。故應五位次第建立。始盡萬法源底。於初位下。立為誕生王子者。謂即根本無明。而成不動之智。此智向者隱覆。今乃初發。是根本智。故喻為誕生也。於第二位下。立為朝生者。是從真際。起大功勳。破九界無明。起十度大行。已涉有為。是差別智。故喻為朝生也。前位是夜半正明。此位是天曉不露。故名回互。於第三位下。立為末生者。是功位已滿。即補處位。唯此最後一生。即便八相成道。是後得智。故喻為末生也。於第四位下。立為化生者。是道後普賢行。乃冥應羣機之種智。而變化莫測。故直云化生也。於第五位下。立為內生者。是攝前四位。齊至法界。而法界量滅。同歸實際。是一真法界大寂滅忍。當生亦不生。故喻如內生也。
以上四種建立同異之旨。總不外始祖重離六爻一喻。所謂疊三成五天然自成之妙。是顯自性因果一周。與華嚴六相義。無二無別。故余已悉於辯謬之中。毫無可惑。今復見以曹山君臣五位之圖。前後移置者。故再為詳明之。如謂正中之君位。可移置於初位。第四臣位。可移置於二位。第一君視臣。可移置於第三位。第二臣奉君。可移置於第四位。將復謂雲巖正位之正中來。洞山正位之功位。石霜正位之末生王子。皆可移在初位乎。三種正位。斷不可移。則知三家先後各二位。皆不可移。明矣。若明此四種建立必不可移。即知雲巖重離六爻之喻詎容損益絲毫。而吾於辯謬集中。所詳三疊五變之義。彰明較著。復何疑哉。即以先代君臣五位黑白間錯之圖式。參對重離奇偶陰陽之爻象。與正偏功勳王子三種建立之法式。位位貼體。參合無不相符。如以日照日。至此則知石門所撰。巽兌中孚大過之卦義。內紹外紹之王種義。大慧所註。宰相將軍庶民之子。黑處說白。白處說黑。回互之義。豈不大相剌謬也哉。諸家隨聲逐響。而宗其說。大似謗佛謗祖。慎之慎之。
寶鏡三昧原宗辨謬說(終)

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