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  1. 華厳経持験記 (華嚴經持驗記)
  2. 晋北天竺三蔵仏度䟦陀羅 (晉北天竺三藏佛度䟦陀羅)
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華厳経持験記 (華嚴經持驗記)


晉北天竺三藏佛度䟦陀羅
華云覺賢。甘露飯王之苗裔。幼失怙恃。度為沙彌。性聰敏。博綜羣經。深達禪律。常願遊諸方以弘至化。適姚秦沙門智嚴至罽賓國。問彼國僧。誰可流化東土。皆云賢可。師甞受禪業於佛大仙。大仙時亦在罽賓國。謂嚴曰。可以振維僧徒。宣授正法。賢其人也。嚴因懇請。偕來東夏。師許之。途歷三載。晝伏宵行。備經危險。方達東萊郡。聞羅什在長安。欣然詣焉。與之上下論議。演授禪法。後遊東晉。義熈十四年。吳郡內史孟顗。右衛將軍褚叔度。別造淨室。請譯華嚴經。師乃於揚州謝司空寺(亦名道場寺。即今潤州興嚴寺是也。由興華嚴故)。手執梵文。共沙門百餘人。翻譯梵本三萬六千頌。成晉經六十卷(三十四品八會)。指文會理。通言適妙。沙門法業筆受。慧嚴慧觀潤色。故道場寺。猶有華嚴堂焉。初譯經時。堂前池內。每有二青衣童子。從池中出。捧以香花。爇爐注水。不離几席。將夕還潛沼中。舉眾皆見。以此經久在龍宮。龍王慶感流通。故令龍子給侍。又有善神。護諸左右云。後入廬山。預遠公蓮社。譯觀佛三昧諸經。永嘉六年卒。年七十有一。手屈三指。明得阿那含果。業公風格秀整。徧閱羣教。自謂未能探微照極。常怏然不足。後遇覺賢。請譯華嚴。籌諮義理。數歲。廓然通悟。顧友人曰。聖教司南。於是乎在。遂敷弘奧旨。鬱為宗首。著旨歸兩卷。慧嚴慧觀。筆格高簡。經論深博。即什公八俊之二也。

仏陀跋陀羅(仏駄跋陀羅)——人々は「覚賢」と呼んだ。甘露飯王の子孫にあたる。幼くして父母を失い、沙弥となった。生まれつき聡明で、多くの経典に通じ、禅と戒律を深く体得していた。常に諸方を巡り、広く教えを弘めたいと願っていた。

ちょうどその頃、姚秦の沙門・智厳が罽賓国に赴き、その国の僧侢に「誰か東土に赴いて教化すべき者はいるか」と尋ねたところ、皆が「仏陀跋陀羅こそ相応しい」と答えた。師はかつて仏大先から禅法を学んでいたが、大先もその時罽賓国に滞在しており、智厳にこう言った。「僧団を維持し、正法を宣べ伝えるなら、仏陀跋陀羅こそその人である」。智厳は懇願し、共に東夏へ来るよう請うた。師はこれに応じた。

旅は三年に及び、昼は隠れ、夜に進み、様々な危険を経験して、ようやく東萊郡に辿り着いた。羅什が長安にいることを聞き、喜んで訪ねた。共に議論を交わし、禅法を説き伝えた。その後、東晋へ向かった。

義熙十四年、呉郡の内史・孟顗と右衛将軍・褚叔度が、新たに静かな室を設け、華厳経の翻訳を請うた。師は揚州の謝司空寺(別名・道場寺。現在の潤州興嚴寺である。華厳経を翻訳したことに因んで名付けられた)において、梵文の経典を手に、百余りの僧侢と共に、梵本三万六千頌を翻訳し、晋経六十巻(三十四品・八会)を完成させた。文を指し示して義に会し、言葉を尽くして妙を適えた。沙門・法業が筆受を務め、慧厳と慧観が潤色した。そのため道場寺には今も華厳堂が残っている。

翻訳の当初、堂の前の池から、毎回二人の青衣の童子が現れ、香花を捧げ、香炉を焚き、水を注ぎ、几案から離れなかった。夕方にはまた池の中に戻って行った。一同皆この様子を見た。この経は長く龍宮に納められていたため、龍王が流布されることを喜び感じて、龍子に給仕させたのである。また、善神が左右を護っていたという。

後に廬山に入り、慧遠の白蓮社に加わった。『観仏三昧経』などを翻訳した。永嘉六年に亡くなった。享年七十一。指を三本曲げて、阿那含果を得たことを示した。

法業は風格が秀麗で整っており、多くの教えを広く学んだが、未だ深奥を究め尽くせていないと自ら思い、常に満たされない思いを抱いていた。後に覚賢に出会い、華厳経の翻訳を請い、教義の理を尋ね究めること数年、広く悟りを得た。友人に語って言った。「聖なる教えの導きの針路は、ここにある」。そこで奥深い宗旨を広く説き、宗門の首座となった。『旨帰』二巻を著した。

慧厳と慧観は、文筆の風格が高く簡潔で、経と論に深く通じていた。すなわち、羅什門下の八俊のうちの二人である。


東晉沙門支法領
于闐國沙彌般若彌伽薄

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