説無垢称経賛 第二巻
大慈恩寺の僧侶、基が記す
経典はすべて第一の波羅蜜多を成就する。
讃えていう。これは彼岸に至る功徳を示すものであり、すなわち十種の波羅蜜多である。第一とは、この十度がすべて完全に修められ、純粋に無漏であることを示す。ただし、この十度は地前(修行の初期段階)では、一つの行の中でもただ一つの行のみを修め、すべて有漏である。七地以前では、一つの行の中で全ての行を修め、有漏と無漏が混在する。八地以上では、全ての行の中で全ての行を修め、純粋に無漏であり、前の位より勝れているため、すべてを「第一」と名づける。
十度とは、第一に布施。第二に浄戒であり、調伏・寂静と訳す。尸羅とは、すなわち浄戒である。広い律(毘奈耶)は調伏と訳され、身・語などの業を調和し制御し、諸々の煩悩を制し滅するからである。寂静とは、身・語・意を静め、六根の中の諸々の悪戒を静めることである。尸羅とは清涼の意味であり、涅槃の清涼の意味を得ること、または戒の自体能く煩悩や悪業の熱を取り除くことによる。尸羅は本体であり、調伏・寂静は戒の機能である。第三に安忍。第四に正勤。正勤とは精進である。第五に静慮。これは禅定である。第六に般若。第七に方便善巧。第八に妙願。第九に力。第十に智波羅蜜多。
古い経典には願が欠けており、第十と第六を合わせて説くことで、欠けることなく、その意味も含まれている。最初の一つの例を挙げて他の例に及ぼすべきだが、それならばなぜわざわざ別々に列挙するのか。
六度を五つの項目に分けて説明します:一に名称の解釈、二に本質の提示、三に相状の解釈、四に結果の弁別、五に諸門の適用範囲などです。
一、名称の解釈について サンスクリット語で「ダシャ・パーラミター」といいます。「ダシャ」は「十」、「パーラ」は「彼岸」、「ミター」は「離れる」「到る」という意味で、全体として「十の離れて彼岸に到る行い」を意味します。「十」とは数のことです。 彼岸には五種類あります:一に知るべき対象(所知)、二に教え、三に真理、四に実践、五に結果です。 この十の行いによって、一切の空と有の境地を完全に知り尽くすことができ、一切の五明の教えを完全に理解し尽くすことができ、一切の真諦と俗諦の真理を完全に通達し尽くすことができ、一切の福徳と智慧の修行を完全に修め尽くすことができ、一切の菩提の果実を完全に証し尽くすことができるので、「彼岸に到る」といいます。 (ここでいう菩提には、菩提そのものと煩悩を断じた状態の両方が含まれ、菩提と涅槃を併せて菩提と呼ぶのです。) 五つの境地のうち、少しでも完全でない部分があれば、それは彼岸に到ったとは言えません。 「離」とは遠く離れることで、この十の行いによって生死や五蘊などの束縛から遠く離れ、知るべき五種類の彼岸に到ることができるので、「十波羅蜜多」と呼ばれます。 『大般若経』ではこのように解釈されており、これは数を伴う説明(帯数釈)です。
それぞれの名称の解釈については次の通りです。 「布施」とは、物惜しみの心を打ち破ることができるからそう名付けられます。 (中略) 「智」とは、一切の事象と真理について確固たる判断を下すことができるからそう名付けられます。 布施そのものが波羅蜜多であり、(中略)智そのものが波羅蜜多であるという説明は、いずれも本質をそのまま述べる説明(持業釈)です。
二、体性を明かすもの
布施には三種あり。財施・法施・無畏施という。 貧苦の良田に珍物を恵み奉り、生死に処する者に正法を恵み与え、怖れおののく衆生に無畏を恵み与える。いずれも無貪と、それによって起こる三業をその体性とする。 この体性には二つある。一つは無貪、二つは思(意志)である。三業とはすなわち思であるからだ。
戒には三種あり。律儀戒・摂善法戒・饒益有情戒という。 別解脱戒は衆悪を離れることができるゆえ、律儀戒と名づける。 自利のために修める諸々の善を、摂善戒と名づける。 衆生を利楽するすべての三業を、饒益有情戒と名づける。 この三つはみな、菩薩戒を受ける時の三業をその体性とし、その体はただ思のみである。
忍には三種あり。耐怨害忍・安受苦忍・諦察法忍という。 他者が悩まし乱しても、受け容れて瞋らず、修行の逼迫に安んじて退かず、法を聞き真理を観察して確信し疑わない。 初めの忍は無瞋であり、次の忍は精進であり、後の忍は審らかな慧である。この三つはさらに総じて三業をその体性とする。 体はすなわち四法である。一に無瞋、二に精進、三に慧、四に思である。
精進には三種あり。被甲精進・摂善精進・利益精進という。 経典に「勢いあり、勤めあり、勇健にして堅猛なるものに住し、諸の善法中において、常に善き軛を捨てず」と説かれている。 これを五つの名に分けて、被甲・加行・無下・無還・無足といい、順に経典の五種の精進に対応させる。 被甲精進はすなわち初めの「勢いあり」であり、残りの四精進はみな摂善に属する。 五つをすべて含むとはいえ、みな自利のためである。 他を済度利益する時に懈倦を生じないことを、利楽精進と名づける。 この三つは、勤(精進)とそれによって起こる三業をその体性とする。 体はただ二法である。一に精進、二に思である。
静慮には三種あり。安住静慮・引發静慮・弁事静慮という。 現法楽住の定を、安住静慮と名づける。 神通を引發する定を、引發静慮と名づける。 大地を転じて金銀とし、大海を反して蘇酪とし、貧乏な者に施し与えるなどを、弁事静慮と名づける。 この三つはただ静慮をその体性とし、体はただ定のみである。
般若には三種あり。生空無分別慧・法空無分別慧・倶空無分別慧である。
方便善巧には二種あり。廻向方便善巧・抜済方便善巧という。
願には二種あり。菩提を求める願・他を利楽する巧みな願という。
力には二種あり。思択力・修習力という。
智には二種あり。法楽を受用する智・有情を成熟させる智という。
この五つ(方便・願・力・智、および般若)はみな、慧をその体性とする。 あるいは第八の願については、欲と勝解および信をその体性とし、慧とともに体性とする。
このように十波羅蜜は、合わせて九法をその体性とする。 一に無貪、二に思、三に無瞋、四に精進、五に慧、六に静慮、七に欲、八に勝解、九に信である。 遍行は一つ、思である。 別境は四つ、欲・勝解・定・慧である。 善は四つ、信・精進・無貪・無瞋である。 あるいは身業・語業の色法は、無表色を通じて含まれ、合わせて十法を体とする。
三、その相を解き明かすとは、七種の最勝を具えて摂受することを要し、初めて十種の波羅蜜多の相を成すのである。
一、安住最勝。すなわち菩薩の種姓に安住すること。種性なき修行は、波羅蜜多の相とはならない。
二、依止最勝。すなわち大菩提心に依止することを要する。もし菩提心がなければ、たとえ修行しても波羅蜜多とはならない。
三、意楽最勝。すなわち一切の有情を悲愍することを要する。有情を悲しまなければ、たとえ修行しても波羅蜜多とはならない。
四、事業最勝。すなわち一切の事業を具えて行うことを要する。たとえば布施を行うときには、信心をもって真心から、時を選ばず自らの手で如法に行うのである。 あるいは六つの意義を具える。 一、無所依施。解脱の捨てる心によるからである。涅槃に回向し、何ものにも執着しないためである。 二、広大施。手を広げて施すからである。心を込めて広く施すためである。 三、歓喜施。捨てることを喜ぶからである。施す前、施している最中、施した後も、心に悦びがあり後悔しないためである。 四、数数施。たびたび施すからである。一貫して如法であり、凶暴な手段で財物を蓄積せず、施すときにはたびたび遍く施し物を捨てるためである。 五、田器施。円満に捨てるからである。すなわち福田に対して奉献するためである。 六、摂受眷属施。恵み施す中で分け与えることを喜ぶからである。すなわち父母・妻子などのところで、時々平等に分け与えるためである。 道理に合わない方法で求めた財は人に施してはならない。物が清浄でないからである。 罠や機網を人に施してはならない。衆生を損なうからである。 刀杖や毒薬を人に施してはならない。衆生を害するからである。 音楽や女色を人に施してはならない。清浄な心を壊すからである。 要するに、一切の不如法な物は皆施すべきではない。 このようなものを事業最勝という。
五、巧便最勝。すなわち無相の智によって摂受されることを要する。たとえば施す者・施す物・受ける者を見ず、三つの事柄の本体は空であり、三輪が清浄であるからである。 すなわち『般若経』に「住する相なくして相応して布施を行ず」とある。ゆえに相に住して修行すれば、たとえ修行しても波羅蜜多とはならない。
六、回向最勝。すなわち無上菩提に回向することを要する。もしこれを求めなければ、たとえ修行しても波羅蜜多とはならない。
七、清浄最勝。すなわち二障によって間雑されず、三時に後悔がなければ、初めて波羅蜜多を成すのである。煩悩が間雑すれば、たとえ修行しても波羅蜜多とはならない。
四、果を弁ずるには、有漏の果は四つあり。一に異熟果、二に等流果、三に士用果、四に増上果である。無為を証得しないため、離繫果はない。無漏の果は四つあり、離繫果を加え、異熟果を除く。異熟果とは、有漏の善悪が感得することができるからである。もし十地などにおいて、二つが互いに資し合うならば、通じて五果を得る。この五果の相については、後に至って知ることとする。
五、諸門分別について、これについてさらに五つの観点から詳しく説明します。第一に順序、第二に障害からの離脱、第三に設立と廃棄、第四に修行の相、第五に純粋と混在です。『成唯識論』第九巻の解説をご参照ください。
経に曰く「成無所得(じょうむしょとく)の法忍(ほうにん)を起こさず」。