佛說大生義經
仏説大生義経
西天譯經三藏朝奉大夫試鴻臚卿傳法大師臣施護奉 詔譯
天竺訳経三蔵・朝奉大夫・試鴻臚卿・伝法大師・臣・施護、勅によりて
如是我聞:
このように私は聞きました。
一時,佛在俱盧聚落,與苾芻眾俱。是時,尊者阿難獨止一處,於夜分中心生思念:「諸緣生法,其義甚深,難可了解,惟佛世尊,具正徧知,善能宣說。」作是念已,至明旦時,離於本處來詣佛所。到佛所已,頭面禮足,伸問訊已退住一面,即白佛言:「世尊!我獨止一處,於夜分中心生思念,諸緣生法甚深難解,願佛世尊為我宣說。」
ある時、仏は俱盧という村の集落に、多くの比丘たちと共に滞在しておられました。そのとき、尊者アーナンダは独り静かな場所におり、夜の間に心に一つの思いが浮かびました。「様々な縁によって生じる道理(縁起の法)は、その意味が非常に深く、理解しがたい。ただ仏世尊だけが、完全な正しい智慧を備え、これをよく説き示すことができる。」こう思ったのち、夜が明けて朝になると、尊者は自分の場所を離れて仏のもとへ向かいました。仏のもとに到着すると、頭を仏の足に付けて礼拝し、安否を尋ねてから、後に退いて一方に立ち、こう申し上げました。「世尊よ。私は独り静かな場所におり、夜の間に心に一つの思いが浮かびました。『様々な縁によって生じる道理(縁起の法)は非常に深く、理解しがたい』と。どうか世尊よ、私のために説いてください。」
爾時,世尊告阿難言:「如是,如是。彼緣生法甚深微妙,難見難了復難思察,惟諸聖者具善巧智即能分別,非愚癡者之所曉解。何以故?愚癡眾生,此世他世滅已復生,如是輪迴,皆由不了緣生法故。阿難!當知諸法皆由因緣展轉相生,是故輪迴不能斷絕。緣生法者,所謂老死,由生為緣即有老死;生法若無老死何有?由是生緣展轉相生。所謂水族緣故而生水族,飛禽緣故而生飛禽,眾類緣故而生眾類,乃至人類緣故而生人類,由是緣故彼彼眾生,互相因緣而得生起。阿難!當知此生法者,是虛妄法而不究竟,此集此因此生此緣故有老死,由是老死亦不究竟。
その時、世尊は阿難に告げられた。「その通り、その通りである。縁起の法は極めて深遠であり、見ることが難しく、理解し難く、思惟し難い。ただ聖者たちのみが巧みな智慧をもって分別することができ、愚か者たちが悟ることはできない。なぜか? 愚かな衆生は、この世やあの世で滅びてはまた生まれ変わる。このような輪廻は、すべて縁起の法を理解しないことによるのである。阿難よ、知るがよい。すべての法は因と縁によって互いに生じ合うのであり、それゆえ輪廻は断ち切れないのである。縁起の法とは、すなわち老いと死である。生を縁として老いと死が存在する。もし生がなければ、老いと死がどうしてあろうか? このように生の縁によって互いに生じ合うのである。すなわち、水の生物の縁によって水の生物が生じ、鳥の縁によって鳥が生じ、様々な種類の縁によって様々な種類が生じ、さらには人間の縁によって人間が生まれる。このような縁によって、それぞれの衆生が互いに因縁となって生まれ出るのである。阿難よ、知るがよい。この生の法は虚妄なものであり、究竟のものではない。この集まり、この因、この生、この縁があるから老いと死があるのであり、ゆえに老いと死もまた究竟ではない。」
「復次,生法以何為緣?所謂有法為緣。因彼有故即起生法;有法若無生法何得?是故有法如前所說,令諸趣類展轉相生而不斷絕。阿難!當知此有法者,即虛妄法而不究竟,此集此因此生此緣得起生法,由是生法亦不究竟。
また、生まれるという現象は何を縁とするのか。それは「有(う)」という性質が縁となるのです。その「有」があるからこそ、生まれるという現象が起こります。「有」がなければ、どうして生まれることがあり得ましょうか。ですから、前に述べたように「有」という性質は、様々な存在の種類が互いに生まれ続けて途切れることがないようにしているのです。
アーナンダよ、知っておきなさい。この「有」という性質は、実は虚妄なものであり、究極のものではありません。この集まり、この原因、この縁によって生まれる現象が生じるのです。それによって生まれる現象そのものもまた、究極のものではありません。
「復次,有法以何為緣?所謂取法為緣。由取法故即起有法;取法若無有法何得?阿難!當知此取法者,即虛妄法而不究竟,此集此因此生此緣得起有法,由是有法亦不究竟。
さらに、存在(有法)は何を縁として生じるのか?それは執着(取法)を縁とする。執着があるからこそ存在が生じ、執着がなければ存在は生じえない。アーナンダよ、知るがよい。この執着というものは虚妄なものであり、究極のものではない。この集まり、この原因、この生起、この縁によって存在が生じるのだ。したがって、存在もまた究極のものではないのである。
「復次,取法以何為緣?所謂愛法為緣。因有愛故即起取法;愛法若無取法何有?阿難!當知此愛緣故即起希求,希求為緣即有所得,以所得故心不決定,由不決定無所厭足,以其內心無厭足故即生喜貪,以貪緣故即生我見,我見生已有所取著,取著為緣心即散亂,由散亂故即起妄語論訟鬪諍、刀杖相治,由是因緣即便造作諸不善業。如此諸業皆由散亂而得生起;若無散亂諸業不生。此散亂法以何為緣?所謂取著為緣。由取著故心即散亂;取著若無散亂何得?此取著法以何為緣?所謂我見為緣取著得起;我見若無即無取著。此我見法以何為緣?所謂喜貪為緣我見得起;喜貪若無即無我見。此喜貪法以何為緣?所謂內心無厭足為緣。以無厭足故即有喜貪;若內心有所厭足即不生喜貪。此內心無厭足法以何為緣?所謂不決定為緣。以不決定故即無厭足;心若決定即生厭足。此不決定法以何為緣?所謂有所得為緣。以有得故即不決定;若無所得心即決定。此有所得法以何為緣?所謂希求為緣。以希求故即有所得;若無希求即無所得。如是諸法,皆由愛與希求互為緣故展轉生起。當知愛法有其二種,所謂欲愛、有愛,由此二法生諸過失。阿難!當知此愛法者,即虛妄法而不究竟,此集此因此生此緣得起取法,由是取法亦不究竟。
「また、取法は何を縁として起こるのか? すなわち、愛法を縁とする。愛があるがゆえに取法が生じる。もし愛がなければ、取法は存在しない。阿難よ、知るがよい。この愛を縁として、希求が生じる。希求を縁として、有所得が生じる。有所得があるゆえに、心は定まらず、定まらないゆえに満足を知らず、内心に満足がないゆえに喜貪が生じる。喜貪を縁として我見が生じ、我見が生じれば、そこに取著が生まれる。取著を縁として心は散乱し、散乱によって虚偽の言葉や論議、争い、刃物による対立が生じる。こうした因縁によって、様々な不善の業が造られる。
これらの諸業は、すべて散乱によって生じる。もし散乱がなければ、諸業は生じない。では、この散乱法は何を縁とするのか? すなわち、取著を縁とする。取著があるゆえに心は散乱する。もし取著がなければ、散乱はありえない。この取著法は何を縁とするのか? すなわち、我見を縁として取著は生じる。我見がなければ、取著はない。この我見法は何を縁とするのか? すなわち、喜貪を縁として我見は生じる。喜貪がなければ、我見はない。この喜貪法は何を縁とするのか? すなわち、内心に満足がないことを縁とする。満足がないから喜貪が生じる。もし内心に満足があれば、喜貪は生じない。では、内心に満足がないという法は何を縁とするのか? すなわち、心が定まらないことを縁とする。定まらないから満足がなくなる。心が定まれば、満足が生じる。この心が定まらないという法は何を縁とするのか? すなわち、有所得を縁とする。有所得があるから定まらない。もし無所得であれば、心は定まる。この有所得法は何を縁とするのか? すなわち、希求を縁とする。希求があるから有所得がある。もし希求がなければ、有所得はない。このように諸法は、愛と希求が互いに縁となり、転々として生じる。
知るがよい。愛法には二種ある。すなわち、欲愛と有愛である。この二つの法によって、様々な過失が生じる。阿難よ、知るがよい。この愛法は、すなわち虚妄なる法であり、究極のものではない。この集まり、この因、この生、この縁によって取法が生じる。ゆえに、取法もまた究極のものではない。」
「復次,愛法以何為緣?所謂受法為緣。由受緣故即起愛法;受法若無愛法何有?阿難!當知此受法者,即虛妄法而不究竟,此集此因此生此緣得起愛法,由是愛法亦不究竟。
さらに、愛(渇愛)は何を縁として生じるのか。それは、受(感受)を縁として生じる。受があるからこそ愛が生じるのであり、受がなければ愛は存在しない。アーナンダよ、知るがよい。この受というものは、虚妄なものであり究極のものではない。この集まり、この原因、この生起、この縁によって愛が生じるのであり、それゆえに愛もまた究極のものではないのである。
「復次,受法以何為緣?所謂觸法為緣。由觸緣故即起受法;觸法若無受法何有?由是眼觸為緣內生諸受,謂樂受、苦受、非苦樂受,如是耳鼻舌身意觸為緣內生諸受。此等諸受,皆由觸法以為緣故。阿難!當知此觸法者,是虛妄法而不究竟,此集此因此生此緣得有受法,是故受法亦不究竟。
「復次,觸法以何為緣?所謂六處為緣。由六處緣即有觸法;六處若無觸法何有?阿難!當知此六處法,是虛妄故而不究竟,此集此因此生此緣而生觸法,是故觸法亦不究竟。
また、触法は何を縁として生じるのか? それは六処を縁とする。六処があるから触法があるのであり、六処がなければ触法はありえない。アーナンダよ、知っておきなさい。この六処というものは虚妄であるから究極的なものではない。この集まり、この原因、この生起、この縁によって触法が生じるのであり、したがって触法もまた究極的なものではないのだ。
「復次,六處以何為緣?所謂名色為緣。由名色故即生六處;名色若無六處何有?此名色者,謂即色法及心等法有積聚故,即此名色與彼識法,互相為緣和合得生,是為名色。阿難!當知名色法,是虛妄法而不究竟,此集此因此生此緣得有六處,是故六處亦不究竟。
「また、六処(内なる感覚器官とその対象)は何を縁として存在するのでしょうか。それは、名色(心と物質・からだ)を縁としています。名色があるからこそ六処が生じるのです。もし名色が無ければ、六処などありえません。この名色とは、物質的なもの(色法)と心的なはたらき(心など)が集まってできたものです。そして、この名色と認識(識)とは互いに縁となり合って生じるのです。これが名色です。
アーナンダよ、知っておきなさい。名色というものは虚偽の現象であり、究極の真実ではありません。この集まり、この原因、この縁があるから六処が生じるのです。ですから、六処もまた究極のものではないのです。」
「復次,此名色法以何為緣?所謂識法為緣。由識法故即有名色;識法若無名色何有?此識法者,最初受生居母胎藏依羯邏藍,識法具已無所增減,識因緣故而生諸蘊,如是名色圓滿具足,當知此識與彼名色,互相為緣而得生起。
「では次に、この名と色という現象は、何を縁として存在するのでしょうか。それは、認識(識)というはたらきを縁としています。認識があるから、名と色が存在するのです。もし認識がなければ、名と色がどうしてありえましょうか。
この認識は、最初に母の胎内に宿るとき、羯邏藍(受精卵)を依り所とします。認識はそれ自体、増えも減りもしません。しかし、認識という縁によって、様々な構成要素(蘊)が生じます。こうして名と色は完全にそろうのです。
知っておくべきことは、この認識と名と色が、互いに縁となって支え合いながら生じるということです。」
「復次,當知此識緣者即是名色,是故識為名色緣,名色為識緣。由如是故苦果生起,苦果既生即有老死相續而轉。由此集此因此生此緣,是故苦果是虛妄法而不究竟。如是因緣,識緣名色,名色緣六處,六處緣觸,觸緣受,如是即得一大苦蘊集。」
さらに、この認識(識)がよりどころとするもの、すなわち名称と形態(名色)について知るべきです。したがって、認識は名称と形態のよりどころとなり、名称と形態もまた認識のよりどころとなります。このようにして苦しみの結果(苦果)が生じます。苦しみの結果が生じると、老いと死(老死)が続いて巡ってきます。
このように、この集まり(集)が原因(因)であり、この生じるもの(生)がよりどころ(縁)であるがゆえに、苦しみの結果は虚ろな現象(虚妄法)であり、究極のもの(究竟)ではありません。
このような因果の関係(因縁)により、認識は名称と形態をよりどころとし、名称と形態は六つの感覚器官(六処)をよりどころとし、六つの感覚器官は接触(触)をよりどころとし、接触は感覚(受)をよりどころとします。こうして、一つの大きな苦しみの集まり(大苦蘊)が生じるのです。
佛告阿難:「汝今當知,諸語言及語言道,非語言及非語言道,所生及所生道,如是二種,皆不離名色。阿難!若如是了知,即住平等見,是名了達緣生法。此緣生法,即是諸佛根本法,為諸佛眼,是即諸佛所歸趣處。」是時尊者阿難作是讚言:「善哉世尊!善說此法,令我及諸苾芻皆得利樂。」
仏は阿難に告げられた。「あなたは今知るがよい。あらゆる言葉と言葉の道、言葉ではないものと言葉ではない道、生じるものと生じる道、この二つの種類は、すべて名と色(名前と形)を離れない。阿難よ、もしこのように正しく理解するならば、それは平等の見解に住むことであり、これを縁起の法を悟ったと名づける。この縁起の法こそが、諸仏の根本の法であり、諸仏の眼であり、諸仏が帰依するところである。」
その時、尊者・阿難はこのように讃嘆した。「素晴らしい、世尊よ。よくこの法を説いてくださいました。これにより、私およびすべての修行僧たちは、利益と安楽を得ることができます。」
爾時世尊告阿難言:「我今為汝說無受法,汝當諦聽諦受,如善作意記念思惟。阿難!當知離於我相即無受法。何以故?我法若有受法隨生;為由了達我法是空,何有受者?阿難!我及受法二皆滅已,即無所有,住平等見。
その時、世尊は阿難に告げられた。 「今、あなたのために『無受法(受け取りのない教え)』について説こう。よく聞き、しっかりと受け止め、心を込めて考え、覚えなさい。
阿難よ、知るがよい。 『私』という思いを離れるならば、そこには受け取るということもない。
なぜか。『私』という考えがあるからこそ、受け取ろうとする心が生まれるのだ。 しかし、『私』も、そしてすべてのものごとも、もともと空(実体がない)であると悟れば、いったい誰が何を受け取るというのか。
阿難よ。 『私』という思いも、受け取るという心も、その両方が消えてなくなるとき、そこには何もない境地が広がり、平等の見解に安住するのである。」
「阿難!受法有其三種,謂樂受、苦受、非苦樂受。言樂受者,所謂受者及所受法,於此二種,若能了達是滅壞法,即無樂受,是故無所受法。何以故?當知樂受是無常法,樂受滅已即離我相;我相既無,何為受者?
「阿難よ、感受には三種類がある。すなわち、楽しい感覚、苦しい感覚、苦しくも楽しくもない感覚である。楽しい感覚と言うのは、感じる者と感じられる対象の二つがある。この二つについて、これらが消え去る性質のものであると悟ることができれば、もはや楽しい感覚に執着することはない。だから、執着すべき対象は存在しないのである。なぜなら、楽しい感覚は無常なものであり、それが消え去れば、『私』という概念もまたなくなるからだ。『私』という概念がすでにないなら、いったい何が感じる者と言えるのだろうか。」
「復次,苦受,所謂受者及所受法,於此二種,若能了達是滅壞法,即無苦受,是故無所受法。何以故?當知苦受是無常法,苦受滅已即離我相;我相既無,何為受者?
さらに、苦しみの感覚について。感じる主体と感じられる対象、この二つが、実は消え去る性質のものであると悟れば、苦しみの感覚は生じません。したがって、感じる対象も存在しないのです。なぜなら、苦しみの感覚は無常なものであり、それが消え去れば自己という概念からも離れるからです。自己という概念がないのなら、感じる主体など、どこにあるのでしょうか。
「復次,非苦樂受亦復如是。所謂受者、受法有其二種,若能了達此二是滅壞法,即於苦、於樂及非苦樂,三法平等,即無所受。何以故?此三受法皆是無常竟無有實,此受滅已即離我相,我相既無,何有受者?
さらに、苦でもなく楽でもない「非苦楽受」もまた同じです。
「受ける者」と「受ける対象」の二つがありますが、この二つが滅びゆくものだと理解できれば、苦・楽・非苦楽という三つのすべてにおいて平等になり、何ものにもとらわれることがなくなります。なぜなら、これら三つの感受はすべて無常であり、実体がないからです。この感受が滅すれば、私という執着を離れることができます。私という執着がなければ、いったい何が「受ける者」でありましょうか。
「阿難!於汝意云何?當知諸受從心所生,心無轉故即內無受者,法無實故即外無所受。是故,阿難!如是了知住平等見,住是見者,即為了達無受法故。此無受法,即是諸佛根本法,為諸佛眼,是諸佛所歸趣處。」
「アーナンダ、あなたはどう思いますか。あらゆる感覚(受)は心から生じるものであると知るべきです。心に動きがないなら、内側に感じ取る主体はなく、現象(法)に実体がないなら、外側に感じ取られる対象もありません。それゆえ、アーナンダ、このように理解して平等の見解に安住しなさい。この見解に安住することこそが、感覚のない状態(無受法)を悟ることなのです。この無受法こそ、すべての仏たちの根本の教えであり、諸仏の眼であり、諸仏が帰依するところなのです。」
是時阿難而復讚言:「善哉世尊!善說此法!我等聞已信解受持。」
その時、阿難は再び称賛して申し上げました。「素晴らしいことです、世尊よ。あなたはこの教えを立派にお説きになりました。私たちはこれを聞いて、深く信じ、理解し、心に刻んで実践いたします。」
爾時世尊告阿難言:「我今為汝說無我法,汝等諦聽諦受,如善作意,記念思惟。阿難!了受無所有即離我見,離我見已住平等見,住是見者於相平等,由平等故即於世間無所生起,了無生已即得我生已盡、梵行已立、所作已辦、不受後有。阿難!當知我見不生住平等見,如是即得心善解脫,無知無見及無所得,離諸思惟,於得、無得、非有得非無得而悉了達。如是了達,即於語言及語言道,非語言及非語言道,所生及所生道,皆悉無知無見。如是了達已即離我見,住平等見,如實了知,是即名為達無我法。此是諸佛根本法,為諸佛眼,是諸佛所歸趣處。」
そこで、世尊は阿難に告げられた。「今、お前に無我の法を説こう。よく聞き、よく受け止め、心を込めて、思惟しなさい。 阿難よ、「受」に実体がないと理解すれば、それは我という見解を離れることになる。我見を離れれば、平等の見解に安住する。この見解に安住する者は、あらゆる相に対して平等である。平等であるがゆえに、世間に生じるものは何もないと理解する。生じるものがないと理解すれば、すなわち『我が生は尽きた。梵行は既に立てられた。なすべきことは成し遂げられた。後ろの生存は受けない』と得るのである。 阿難よ、知るがよい。我見が生じず、平等の見解に安住すれば、このようにして心は見事に解脱する。知ることがなく、見ることがなく、得るものもない。あらゆる思惟を離れ、得ること、得ないこと、有ると得ること、無いと得ることなどについて、すべてを完全に理解する。 このように理解すれば、すなわち、言葉と言葉の道、言葉にあらざると言葉にあらざる道、生ずると生ずる道について、すべて知ることがなく、見ることがない。 このように理解し終えて、我見を離れ、平等の見解に安住し、あるがままに知る。これを、無我の法に達したと名付ける。 これこそが諸仏の根本の法であり、諸仏の眼であり、諸仏が帰依し趣くところである。」
是時阿難聞佛所說又復讚言:「善哉世尊!善說此法!我等聞已信解受持。」
その時、アーナンダは仏陀の説法を聞いて、再び讃嘆して言った。「善きかな、世尊よ。よくこの法を説かれた。我々はこれを聞いて、信じ理解し、受け持ち実践しましょう。」
爾時世尊告阿難言:「我今為汝重復宣說,汝當諦聽諦受,如善作意,記念思惟。阿難!當知無有色相可得,離諸我執如實了知,既了知已觀想此身,破壞不實非所愛樂。如是觀察,離諸色相不生我執,我相滅已即了此身破壞不實,如是得住平等見。住是見者,即於諸蘊了達皆空,諸蘊既空,我及色相於何有見?
そのとき、世尊は阿難に告げられた。「今、あなたのために重ねて説き明かそう。よく聴き、よく受け止め、心をこめて念じ、考えなさい。
阿難よ、知るがよい。色という形相には、とらえられる実体はない。あらゆる我への執着を離れて、あるがままに知りなさい。そうして知ったならば、この身体を観想しなさい。それは壊れやすく、実体ではなく、愛し楽しむべきものではない。
このように観察することで、色の形相から離れ、我への執着を生じなくなる。我という思いが滅びれば、この身体が壊れやすく実体でないと知り、そのようにして平等の見解に安住する。
この見解に安住する者は、五蘊のすべてが空であると悟る。五蘊がすでに空であるならば、我や色の形相は、どこに執着の対象として見出せようか。」
「復次,阿難!當知識所住處有其七種,非識住處有其二種。七識住處者:所謂若有色有眾生,種種身種種想,是為第一識所住處。若有色有眾生,種種身一想,所謂初禪天,此為第二識所住處。若有色有眾生,一身種種想,所謂二禪天,是為第三識所住處。若有色有眾生,一身一想,所謂三禪天,是為第四識所住處。若無色無眾生,彼一切處離諸色想,都一虛空,所謂空無邊處天,是為第五識所住處。若無色無眾生,彼一切處離於空想,都惟一識,所謂識無邊處天,是為第六識所住處。若無色無眾生,彼一切處離識無邊,都無所有,所謂無所有處天,是為第七識所住處。阿難!二種非識住處者:所謂若有色有眾生,即無想天,是為第一非識住處。若無色無眾生,於彼一切離無所有處,非有想非無想,即非想非非想處天,是為第二非識住處。」
「また、阿難よ、識の住処には七つの種類があり、識の住処ではないものに二つの種類があることを知るべきである。七つの識の住処とは、すなわち、色を有し、さまざまな身体とさまざまな想念を持つ衆生がいる状態、これを第一の識の住処とする。色を有し、さまざまな身体ながら一つの想念を持つ衆生がいる状態、すなわち初禅天、これを第二の識の住処とする。色を有し、一つの身体ながらさまざまな想念を持つ衆生がいる状態、すなわち二禅天、これを第三の識の住処とする。色を有し、一つの身体と一つの想念を持つ衆生がいる状態、すなわち三禅天、これを第四の識の住処とする。色がなく、あらゆる場所で色の想念を離れ、すべてが一つの虚空である状態、すなわち空無辺処天、これを第五の識の住処とする。色がなく、あらゆる場所で空の想念を離れ、ただ一つの識のみがある状態、すなわち識無辺処天、これを第六の識の住処とする。色がなく、あらゆる場所で識の無辺を離れ、何も所有しない状態、すなわち無所有処天、これを第七の識の住処とする。
阿難よ、識の住処ではない二つの種類とは、すなわち、色を有する衆生がいる無想天、これを第一の非識住処とする。色がなく、あらゆる場所で無所有処を離れ、有想でも無想でもない状態、すなわち非想非非想処天、これを第二の非識住処とする。」
佛言阿難:「如是有色有眾生,種種身種種想,是為第一識所住處。汝等諸苾芻!當如實了知,於行坐語言,常當稱讚此等法門,廣為他人分別演說。如是乃至第七識所住處,及二非識住處法門,亦復如是,於行坐語言,常當稱讚諸佛所說,生淨信心,如實了知;若了知者,即得慧解脫阿羅漢果。
仏が阿難に告げられた。「このように、色(物質)と衆生(生きとし生けるもの)が存在し、様々な身体と様々な心のはたらきがある。これが第一の識の住処である。あなたがた比丘たちは、あるがままに知りなさい。行住坐臥(立ち居振る舞い)や言葉において、常にこれらの教えを称賛し、広く他の人々にも説き聞かせなさい。このようにして、第七の識の住処に至るまで、さらに二つの非識住処の教えに至るまで、同じように、行住坐臥や言葉において、常に諸仏の説かれた教えを称賛し、清らかな信心を起こし、あるがままに知りなさい。もしあるがままに知るならば、智慧による解脱を得て阿羅漢の果を得るであろう。」
「復次,阿難!當知有八解脫法門:所謂若內有色觀外色,是為第一解脫。若內無色觀外色,是為第二解脫。若身證清淨解脫,是為第三解脫。若得清淨已離諸色想,觀一虛空無有邊際,此觀成已,是為第四空無邊處解脫。若離空無邊處,當觀於識,識亦無邊,此觀成已,是為第五識無邊處解脫。若離識無邊處已,當觀一切都無所有,此觀成已是為第六無所有處解脫。若離無所有處已,當觀非想非非想處,此觀成已,是為第七非想非非想處解脫。若離是非想非非想處已,當滅受想住三摩地,彼身證已,是為第八滅受想解脫,如是名為八解脫法門。」
「また、阿難よ、八つの解脱の法門があることを知るべきである。すなわち、内に色の想いがありながら外の色を観ることが、第一の解脱である。内に色の想いがなくて外の色を観ることが、第二の解脱である。身をもって清らかな解脱を悟ることが、第三の解脱である。清らかさを得てすべての色の想いを離れ、一つの虚空に際限のないことを観じ、この観想が成ったならば、それが第四の空無辺処の解脱である。空無辺処を離れて、次に識を観じ、識にもまた限りがないことを観じ、この観想が成ったならば、それが第五の識無辺処の解脱である。識無辺処を離れて、すべてが何もないことを観じ、この観想が成ったならば、それが第六の無所有処の解脱である。無所有処を離れて、非想非非想処を観じ、この観想が成ったならば、それが第七の非想非非想処の解脱である。この非想非非想処を離れて、受と想を滅し、三摩地に住するとき、身をもってそれを悟る。これが第八の滅受想の解脱である。これらを八つの解脱の法門と名づける。」
佛言阿難:「汝今當知,我先所說七識住處,二非識住處,及八解脫法門,汝等諸苾芻!如我所說如實了知,常當隨喜稱讚,復當如理修行。若於此等法門圓滿通達者,是得二種解脫阿羅漢果。」
仏は阿難に告げられた。「あなたは今、よく知るべきである。私が先に説いた七つの識が常住する場所、二つの非識住処、そして八つの解脱の法門を。あなたたち比丘たちは、私が説いた通りにありのままに理解し、常に喜びをもって称賛し、さらに理にかなった修行をせよ。もしこれらの法門に完全に通達したならば、その者は二種の解脱である阿羅漢の果を得るのである。」
爾時,世尊說此經已,尊者阿難及諸苾芻,皆大歡喜,信受奉行。
その時、世尊がこの教えを説き終えられると、尊者アーナンダや多くの修行僧たちは皆、大いに喜び、深く信じ受け入れ、実践に移したのである。
佛說大生義經
仏説大生義経