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title: "大方廣佛華嚴經 · 之一"
description: "大方廣佛華嚴經，又称华严经，由唐代实叉难陀翻译，是佛教重要经典之一。该经成书于印度，后传入中国，成为华严宗的根本经典。内容主要阐述佛陀证悟的无限境界，强调法界缘起、事事无碍的哲学思想，展现宇宙万物相互融通的华严世界观。经中通过善财童子五十三参的故事，揭示菩萨修行的次第与圆满境界。华严经在大乘佛教中地位崇高，被誉为经中之王，对汉传佛教思想影响深远，尤其为华严宗、禅宗等宗派所重视。其广博深奥的教义，成为研究佛教哲学与修行实践的重要依据。"
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### 十行品第二十一之一

> 十行品第二十一

爾時，功德林菩薩承佛神力，入菩薩善思惟三昧。入是三昧已，十方各過萬佛剎微塵數世界外，有萬佛剎微塵數諸佛，皆號：功德林，而現其前，告功德林菩薩言：

> その時、功徳林菩薩は仏の神力を受け、菩薩の善思惟三昧に入りました。この三昧に入ると、十方それぞれ一万仏土微塵数の世界を過ぎた彼方に、一万仏土微塵数の諸仏が現れ、皆、功徳林と名乗り、功徳林菩薩の前に現れて告げました。

「善哉！佛子！乃能入此善思惟三昧。善男子！此是十方各萬佛剎微塵數同名諸佛共加於汝，亦是毘盧遮那如來往昔願力、威神之力，及諸菩薩眾善根力，令汝入是三昧而演說法。為增長佛智故，深入法界故，了知眾生界故，所入無礙故，所行無障故，得無量方便故，攝取一切智性故，覺悟一切諸法故，知一切諸根故，能持說一切法故，所謂：發起諸菩薩十種行。善男子！汝當承佛威神之力而演此法。」

> 「善きかな、仏の子よ！よくもこの善思惟三昧に入ることができた。善男子よ、これは十方それぞれ万仏刹微塵数の同名の諸仏がそろって汝に加護を授け、また毘盧遮那如来の往昔の願力と威神の力、ならびに諸菩薩の衆善根の力によって、汝がこの三昧に入り法を演説するに至ったのである。仏の智慧を増長させるため、法界に深く入るため、衆生界を了知するため、入るに無碍であるため、行くに障りのないため、無量の方便を得るため、一切智性を摂取するため、一切の諸法を覚悟するため、一切の諸根を知るため、一切の法を説き持つことができるためである。すなわち、諸菩薩の十種の行いを発起するのである。善男子よ、汝はまさに仏の威神の力を承けて、この法を演説すべきである。」

是時，諸佛即與功德林菩薩無礙智、無著智、無斷智、無師智、無癡智、無異智、無失智、無量智、無勝智、無懈智、無奪智。何以故？此三昧力，法如是故。

> その時、諸仏は功徳林菩薩に、無礙の智、無著の智、無断の智、無師の智、無癡の智、無異の智、無失の智、無量の智、無勝の智、無懈の智、無奪の智を授けられました。なぜならば、この三昧の力は、法がこのようであるからです。

爾時，諸佛各申右手，摩功德林菩薩頂。時，功德林菩薩即從定起，告諸菩薩言：

> その時、諸仏はそれぞれ右手を伸ばし、功徳林菩薩の頂を撫でられた。すると、功徳林菩薩はすぐに禅定から立ち上がり、諸菩薩に向かって言われた。

「佛子！菩薩行不可思議，與法界、虛空界等。何以故？菩薩摩訶薩學三世諸佛而修行故。佛子！何等是菩薩摩訶薩行？佛子！菩薩摩訶薩有十種行，三世諸佛之所宣說。何等為十？一者歡喜行，二者饒益行，三者無違逆行，四者無屈橈行，五者無癡亂行，六者善現行，七者無著行，八者難得行，九者善法行，十者真實行；是為十。

> 仏子よ、菩薩の行いは不可思議であり、法界や虚空界と等しい。なぜならば、菩薩摩訶薩は三世の諸仏に学び、その修行を行うからである。仏子よ、菩薩摩訶薩の行いとは何か。仏子よ、菩薩摩訶薩には十種の行いがあり、これは三世の諸仏によって説かれたものである。その十とは何か。第一に歓喜行、第二に饒益行、第三に無違逆行、第四に無屈撓行、第五に無癡乱行、第六に善現行、第七に無著行、第八に難得行、第九に善法行、第十に真実行である。これが十の行いである。

「佛子！何等為菩薩摩訶薩歡喜行？佛子！此菩薩為大施主，凡所有物悉能惠施；其心平等，無有悔吝，不望果報，不求名稱，不貪利養；但為救護一切眾生，攝受一切眾生，饒益一切眾生；為學習諸佛本所修行，憶念諸佛本所修行，愛樂諸佛本所修行，清淨諸佛本所修行，增長諸佛本所修行，住持諸佛本所修行，顯現諸佛本所修行，演說諸佛本所修行，令諸眾生離苦得樂。佛子！菩薩摩訶薩修此行時，令一切眾生歡喜愛樂；隨諸方土有貧乏處，以願力故，往生於彼，豪貴大富，財寶無盡。假使於念念中，有無量無數眾生詣菩薩所，白言：『仁者！我等貧乏，靡所資贍，飢羸困苦，命將不全。唯願慈哀，施我身肉，令我得食，以活其命！』爾時，菩薩即便施之，令其歡喜，心得滿足。如是無量百千眾生而來乞求，菩薩於彼，曾無退怯，但更增長慈悲之心。以是眾生咸來乞求，菩薩見之，倍復歡喜，作如是念：『我得善利！此等眾生是我福田、是我善友，不求不請而來教我入佛法中。我今應當如是修學，不違一切眾生之心。』又作是念：『願我已作、現作、當作所有善根，令我未來於一切世界、一切眾生中受廣大身，以是身肉，充足一切飢苦眾生。乃至若有一小眾生未得飽足，願不捨命，所割身肉，亦無有盡。以此善根，願得阿耨多羅三藐三菩提，證大涅槃；願諸眾生食我肉者，亦得阿耨多羅三藐三菩提，獲平等智，具諸佛法，廣作佛事，乃至入於無餘涅槃。若一眾生心不滿足，我終不證阿耨多羅三藐三菩提。』菩薩如是利益眾生而無我想、眾生想、有想、命想、種種想、補伽羅想、人想、摩納婆想、作者想、受者想。但觀法界、眾生界，無邊際法、空法、無所有法、無相法、無體法、無處法、無依法、無作法。作是觀時，不見自身，不見施物，不見受者，不見福田，不見業，不見報，不見果，不見大果，不見小果。爾時，菩薩觀去、來、今一切眾生所受之身尋即壞滅，便作是念：『奇哉！眾生愚癡無智，於生死內受無數身，危󰈩不停，速歸壞滅。若已壞滅，若今壞滅，若當壞滅，而不能以不堅固身求堅固身。我當盡學諸佛所學，證一切智，知一切法，為諸眾生說三世平等、隨順寂靜、不壞法性，令其永得安隱快樂。』佛子！是名菩薩摩訶薩第一歡喜行。

> 仏子よ。菩薩摩訶薩の歓喜行とは何か。 仏子よ。この菩薩は大いなる施し主であり、所有するものすべてを惜しみなく施す。その心は平等で、後悔や惜しむ心はなく、果報を望まず、名声を求めず、利益や供養に執着しない。ただ一切の衆生を救い護り、一切の衆生を受け入れ、一切の衆生に利益を与えるためである。諸仏が本来修行されたことを学び、諸仏が本来修行されたことを思い起こし、諸仏が本来修行されたことを喜び愛し、諸仏が本来修行されたことを清め、諸仏が本来修行されたことを増長し、諸仏が本来修行されたことを保ち続け、諸仏が本来修行されたことを顕わし、諸仏が本来修行されたことを説き示し、すべての衆生を苦から離れ楽を得させるためである。 仏子よ。菩薩摩訶薩がこの行を修めるとき、一切の衆生を喜ばせ、愛し楽しませる。諸方の土地で貧しいところがあれば、願力によってそこに生まれ、豪族や大富豪となり、財宝は尽きることがない。仮に一瞬一瞬に、無量無数の衆生が菩薩のもとに来て、『尊き方よ、私たちは貧しく、頼るものもなく、飢え衰え苦しみ、命も危ういのです。どうか慈悲をもって、あなたの身の肉を施し、私がそれを食べて命をつなぐことができますように』と願ったとする。その時、菩薩は直ちにそれを施し、彼らを喜ばせ、心を満足させる。このように無量百千の衆生が乞い求めて来ても、菩薩はそれに対して少しも退くことなく、むしろ慈悲の心をさらに増大させる。このように多くの衆生が乞い求めて来るのを見て、菩薩はますます歓喜し、このように思うのである。 『私は善い利益を得た。これらの衆生は私の福田であり、私の善き友である。求めも請いもせずに来て、私を仏法の中に導いてくれる。私は今、このように学び修め、一切の衆生の心に背かないようにすべきである』と。 またこのように思う。『私が過去に行い、現在行い、未来に行うすべての善根によって、私が未来において一切の世界、一切の衆生の中で広大な身を受け、この身の肉をもって、すべての飢え苦しむ衆生を満足させることができますように。たとえ一人の小さな衆生でも満足を得られないならば、私は命を捨てず、切り取られる身の肉も尽きることがありませんように。この善根によって、私は阿耨多羅三藐三菩提を得て、大涅槃を証することができますように。私の肉を食べる衆生たちもまた、阿耨多羅三藐三菩提を得て、平等の智を獲り、諸仏の法を具え、広く仏事を行い、ついには無余涅槃に入ることができますように。もし一人でも衆生の心が満足しなければ、私は決して阿耨多羅三藐三菩提を証しません』と。 菩薩はこのように衆生に利益を与えながらも、我という想い、衆生という想い、存在という想い、命という想い、種々の想い、補伽羅という想い、人という想い、摩納婆という想い、作者という想い、受者という想いを持たない。ただ法界と衆生界、際限のない法、空の法、無所有の法、無相の法、無体の法、無処の法、無依の法、無作の法を観じるのである。このように観じるとき、自身を見ず、施す物を見ず、受ける者を見ず、福田を見ず、業を見ず、報いを見ず、果を見ず、大果を見ず、小果を見ない。 その時、菩薩は過去・未来・現在の一切の衆生が受ける身がたちまちに壊れ滅びるのを観じて、このように思うのである。 『ああ、衆生は愚かで智慧がなく、生死の中で無数の身を受けながら、危うくやむことなく、速やかに壊れ滅びてゆく。すでに壊れ滅びたものも、今壊れ滅びるものも、未来に壊れ滅びるものも、不堅固な身をもって堅固な身を求めることができない。私は諸仏が学ばれたことをことごとく学び、一切智を証し、一切法を知り、諸々の衆生のために三世平等、寂静に随順し、壊れない法性を説き、彼らが永遠に安穏な楽しみを得られるようにしよう』と。 仏子よ。これを菩薩摩訶薩の第一の歓喜行というのである。

「佛子！何等為菩薩摩訶薩饒益行？此菩薩護持淨戒，於色、聲、香、味、觸，心無所著，亦為眾生如是宣說；不求威勢，不求種族，不求富饒，不求色相，不求王位，如是一切皆無所著，但堅持淨戒，作如是念：『我持淨戒，必當捨離一切纏縛、貪求、熱惱、諸難、逼迫、毀謗、亂濁，得佛所讚平等正法。』佛子！菩薩如是持淨戒時，於一日中，假使無數百千億那由他諸大惡魔詣菩薩所，一一各將無量無數百千億那由他天女——皆於五欲善行方便，端正姝麗傾惑人心——執持種種珍玩之具，欲來惑亂菩薩道意。爾時，菩薩作如是念：『此五欲者，是障道法，乃至障礙無上菩提。』是故不生一念欲想，心淨如佛。唯除方便教化眾生，而不捨於一切智心。佛子！菩薩不以欲因緣故惱一眾生，寧捨身命，而終不作惱眾生事。菩薩自得見佛已來，未曾心生一念欲想；何況從事，若或從事，無有是處！爾時，菩薩但作是念：『一切眾生，於長夜中，想念五欲，趣向五欲，貪著五欲；其心決定耽染沈溺，隨其流轉，不得自在。我今應當令此諸魔及諸天女，一切眾生住無上戒；住淨戒已，於一切智，心無退轉，得阿耨多羅三藐三菩提，乃至入於無餘涅槃。何以故？此是我等所應作業，應隨諸佛如是修學。作是學已，離諸惡行、計我、無知，以智入於一切佛法，為眾生說，令除顛倒。然知不離眾生有顛倒，不離顛倒有眾生；不於顛倒內有眾生，不於眾生內有顛倒；亦非顛倒是眾生，亦非眾生是顛倒；顛倒非內法，顛倒非外法；眾生非內法，眾生非外法。一切諸法虛妄不實，速起速滅無有堅固，如夢如影，如幻如化，誑惑愚夫。如是解者，即能覺了一切諸行，通達生死及與涅槃，證佛菩提；自得度，令他得度；自解脫，令他解脫；自調伏，令他調伏；自寂靜，令他寂靜；自安隱，令他安隱；自離垢，令他離垢；自清淨，令他清淨；自涅槃，令他涅槃；自快樂，令他快樂。』佛子！此菩薩復作是念：『我當隨順一切如來，離一切世間行，具一切諸佛法，住無上平等處，等觀眾生，明達境界，離諸過失，斷諸分別，捨諸執著，善巧出離，心恒安住無上、無說、無依、無動、無量、無邊、無盡、無色甚深智慧。』佛子！是名菩薩摩訶薩第二饒益行。

> 仏子よ、いかなるものを菩薩摩訶薩の饒益行というのか。この菩薩は清らかな戒律を守り、色・声・香・味・触に対して心に執着せず、また衆生に対してもこのように説く。威勢を求めず、家柄を求めず、富を求めず、容貌を求めず、王位を求めず、このような一切のものに執着せず、ただ清らかな戒律を堅く守り、このように思うのである。 「私は清らかな戒律を守ることで、必ずや一切の束縛、貪り、煩悩、諸々の苦難、迫害、誹謗、乱れや濁りから離れ、仏に讃えられる平等の正法を得るであろう」 仏子よ、菩薩がこのように清らかな戒律を守っている時、一日の中に、たとえ無数の百千億那由他もの大悪魔が菩薩のもとに訪れ、それぞれが無量無数の百千億那由他もの天女を連れて来たとしても――それらの天女はみな五欲に巧みで、美しく優雅であり、人々の心を惑わすものたちで、様々な珍しい玩具を持ち、菩薩の求道の心を乱そうとしても――その時、菩薩はこのように思うのである。 「この五欲は、道を妨げるものであり、無上の菩提さえも妨げるものである」 それゆえ、一瞬たりとも欲の想いを起こさず、心は仏のように清らかである。ただ衆生を教化する方便を除いては、一切智の心を捨てることはない。仏子よ、菩薩は欲の縁故によって一人の衆生をも悩ますことはなく、たとえ身命を捨てても、衆生を悩ますようなことは決してしない。菩薩は仏を見て以来、一度として欲の想いを心に起こしたことはない。ましてやそれに従事することなど、あるはずがないのである。 その時、菩薩はただこのように思うのである。 「一切の衆生は、長い夜の中で五欲を想い、五欲に向かい、五欲に貪着している。その心は決まって耽溺し、その流れに従って転流し、自在になることができない。私は今、これらの魔や天女たち、一切の衆生を無上の戒律に住らせなければならない。清らかな戒律に住したならば、一切智に対して心に退転なく、阿耨多羅三藐三菩提を得て、ついには無余涅槃に入るであろう。なぜなら、これは私たちのなすべき業であり、諸仏のようにこのように修学すべきだからである」 このように学んだならば、諸々の悪行、我という計らい、無知を離れ、智慧をもって一切の仏法に入り、衆生のために説き、彼らが倒錯を除くようにする。しかし、衆生を離れて倒錯があるのではなく、倒錯を離れて衆生があるのでもない。倒錯の中に衆生があるのでもなく、衆生の中に倒錯があるのでもない。また、倒錯が衆生であるのでもなく、衆生が倒錯であるのでもない。倒錯は内なる法でもなく、外なる法でもない。衆生は内なる法でもなく、外なる法でもない。 一切の諸法は虚妄にして実体がなく、速やかに起こり速やかに滅し、堅固なものはない。夢の如く、影の如く、幻の如く、化の如く、愚かな者たちを惑わすのである。このように理解するならば、すなわち一切の諸行を覚了し、生死と涅槃とを通達し、仏の菩提を証することができる。自ら度され、他を度す。自ら解脱し、他を解脱させる。自ら調伏し、他を調伏させる。自ら寂静にし、他を寂静にする。自ら安穏にし、他を安穏にする。自ら垢を離れ、他を垢離れさせる。自ら清浄にし、他を清浄にする。自ら涅槃に入り、他を涅槃に入らせる。自ら楽しみ、他を楽しませるのである」 仏子よ、この菩薩はさらにこのように思うのである。 「私は一切の如来に随順し、一切の世間行を離れ、一切の諸仏法を具え、無上の平等の処に住し、衆生を平等に観じ、境界を明らかに達し、諸々の過失を離れ、諸々の分別を断ち、諸々の執着を捨て、善巧に出離し、心は常に無上・無説・無依・無動・無量・無辺・無尽・無色の甚深なる智慧に安住するであろう」 仏子よ、これを菩薩摩訶薩の第二の饒益行というのである。

「佛子！何等為菩薩摩訶薩無違逆行？此菩薩常修忍法，謙下恭敬；不自害，不他害，不兩害；不自取，不他取，不兩取；不自著，不他著，不兩著；亦不貪求名聞利養，但作是念：『我當常為眾生說法，令離一切惡，斷貪、瞋、癡、憍慢、覆藏、慳嫉、諂誑，令恒安住忍辱柔和。』佛子！菩薩成就如是忍法。假使有百千億那由他阿僧祇眾生來至其所，一一眾生化作百千億那由他阿僧祇口，一一口出百千億那由他阿僧祇語，所謂：不可喜語、非善法語、不悅意語、不可愛語、非仁賢語、非聖智語、非聖相應語、非聖親近語、深可厭惡語、不堪聽聞語，以是言辭毀辱菩薩。又此眾生一一各有百千億那由他阿僧祇手，一一手各執百千億那由他阿僧祇器仗逼害菩薩。如是經於阿僧祇劫，曾無休息。菩薩遭此極大楚毒，身毛皆豎，命將欲斷，作是念言：『我因是苦，心若動亂，則自不調伏、自不守護、自不明了、自不修習、自不正定、自不寂靜、自不愛惜、自生執著，何能令他心得清淨？』菩薩爾時復作是念：『我從無始劫，住於生死，受諸苦惱。』如是思惟，重自勸勵，令心清淨，而得歡喜。善自調攝，自能安住於佛法中，亦令眾生同得此法。復更思惟：『此身空寂，無我、我所，無有真實，性空無二；若苦若樂，皆無所有，諸法空故。我當解了，廣為人說，令諸眾生滅除此見。是故，我今雖遭苦毒，應當忍受；為慈念眾生故，饒益眾生故，安樂眾生故，憐愍眾生故，攝受眾生故，不捨眾生故，自得覺悟故，令他覺悟故，心不退轉故，趣向佛道故。』是名菩薩摩訶薩第三無違逆行。

> 仏子よ、いかなるものを菩薩摩訶薩の無違逆行というか。この菩薩は常に忍辱の法を修め、謙虚にへりくだり、恭敬の心を保つ。自らを害さず、他を害さず、両方を害さず。自ら利益を取らず、他から利益を取らず、両方から取らず。自らに執着せず、他に執着せず、両方に執着しない。また名声や利益を貪り求めず、ただこう念ずるのである。「私は常に衆生のために法を説き、一切の悪から離れさせ、貪り・怒り・愚かさ・傲慢・隠し立て・物惜しみ・嫉妬・へつらい・欺きを断ち切り、常に忍辱と柔和の中に安住させよう」と。 仏子よ、菩薩がこのような忍辱の法を成就するとき、たとえ百千億那由他阿僧祇の衆生がそのもとに来て、一人ひとりの衆生が百千億那由他阿僧祇の口に化し、一つひとつの口から百千億那由他阿僧祇の言葉を発したとしても、それらはすべて――喜ばしくない言葉、善き法にかなわぬ言葉、心に満たされぬ言葉、愛すべきでない言葉、仁賢にふさわしくない言葉、聖なる智にそぐわぬ言葉、聖なるものと相応しない言葉、聖なるものと親しむに足らぬ言葉、深く厭うべき言葉、聞くに堪えない言葉――そうした言葉で菩薩を誹謗し辱めるのである。また、これらの衆生は一人ひとり百千億那由他阿僧祇の手を持ち、一つひとつの手に百千億那由他阿僧祇の武器を執り、菩薩に危害を加える。このようなことが阿僧祇劫の間、絶えることなく続くのである。 菩薩はこのような極めて大きな苦痛に遭い、身の毛が逆立ち、命さえも絶たれようとする中で、こう念ずるのである。「私はこの苦しみによって、もし心が動揺し乱れるならば、自らを調伏できず、自らを守れず、自らを明らかにせず、自らを修習せず、自らを正しく定めず、自らを静めず、自らを愛惜せず、自ら執着を生じるだろう。どうして他者の心を清浄にすることができようか」と。 菩薩はその時、さらにこう念ずるのである。「私は無始の劫より、生死の中に住し、さまざまな苦悩を受けてきた」。このように思惟し、自らを重ねて励まし、心を清浄ならしめ、歓喜を得るのである。善く自らを調え整え、自らが仏法の中に安住するだけでなく、衆生にも同じくこの法を得させるのである。 さらにまた思惟する。「この身は空しく寂しいものであり、我もなく、我の所有もなく、真実なるものはない。その本性は空にして二つとない。苦も楽も、すべて存在しない。諸法が空であるゆえに。私はこれを解り明らかにし、広く人々のために説き、すべての衆生がこの誤った見解を滅し除くようにしよう。それゆえ、私は今、たとえ苦痛に遭おうとも、忍ばねばならない。衆生を慈しみ念うがゆえに、衆生を益するがゆえに、衆生を安楽ならしめるがゆえに、衆生を憐れむがゆえに、衆生を受け入れるがゆえに、衆生を見捨てないがゆえに、自ら覚りを得るがゆえに、他者に覚りを得させるがゆえに、心が退転しないがゆえに、仏道に向かうがゆえに」と。 これを菩薩摩訶薩の第三、無違逆行というのである。

「佛子！何等為菩薩摩訶薩無屈橈行？此菩薩修諸精進，所謂：第一精進、大精進、勝精進、殊勝精進、最勝精進、最妙精進、上精進、無上精進、無等精進、普遍精進。性無三毒、性無憍慢、性不覆藏、性不慳嫉、性無諂誑、性自慚愧，終不為惱一眾生故而行精進，但為斷一切煩惱故而行精進，但為拔一切惑本故而行精進，但為除一切習氣故而行精進，但為知一切眾生界故而行精進，但為知一切眾生死此生彼故而行精進，但為知一切眾生煩惱故而行精進，但為知一切眾生心樂故而行精進，但為知一切眾生境界故而行精進，但為知一切眾生諸根勝劣故而行精進，但為知一切眾生心行故而行精進，但為知一切法界故而行精進，但為知一切佛法根本性故而行精進，但為知一切佛法平等性故而行精進，但為知三世平等性故而行精進，但為得一切佛法智光明故而行精進，但為證一切佛法智故而行精進，但為知一切佛法一實相故而行精進，但為知一切佛法無邊際故而行精進，但為得一切佛法廣大決定善巧智故而行精進，但為得分別演說一切佛法句義智故而行精進。佛子！菩薩摩訶薩成就如是精進行已，設有人言：『汝頗能為無數世界所有眾生，以一一眾生故，於阿鼻地獄，經無數劫，備受眾苦。令彼眾生一一得值無數諸佛出興於世，以見佛故，具受眾樂，乃至入於無餘涅槃，汝乃當成阿耨多羅三藐三菩提。能爾？不耶？』答言：『我能。』設復有人作如是言：『有無量阿僧祇大海，汝當以一毛端滴之令盡；有無量阿僧祇世界，盡抹為塵。彼滴及塵，一一數之，悉知其數。為眾生故，經爾許劫，於念念中受苦不斷。』菩薩不以聞此語故而生一念悔恨之心，但更增上歡喜踊躍，深自慶幸得大善利：『以我力故，令彼眾生永脫諸苦。』菩薩以此所行方便，於一切世界中，令一切眾生乃至究竟無餘涅槃。是名菩薩摩訶薩第四無屈橈行。

> 仏子よ、菩薩摩訶薩の「不屈撓行（ふくつぎょうぎょう）」とは何か。この菩薩はあらゆる精進を修めます。すなわち、第一の精進、大精進、勝れた精進、殊勝な精進、最勝の精進、最妙の精進、上なる精進、無上の精進、比類なき精進、普遍の精進です。 その本性には三毒（貪・瞋・癡）がなく、慢心がなく、隠し立てせず、物惜しみや嫉妬がなく、へつらいや欺きがなく、自らを恥じ慎む心があります。決して、ただ一人の衆生を苦しめるために精進することはなく、ただ一切の煩悩を断つために精進し、一切の迷いの根源を抜き取るために精進し、一切の習気（煩悩の癖）を取り除くために精進し、一切の衆生の世界を知るために精進し、一切の衆生がこの世に生まれ、あの世に死ぬことを知るために精進し、一切の衆生の煩悩を知るために精進し、一切の衆生の心の楽しみを知るために精進し、一切の衆生の境界を知るために精進し、一切の衆生の諸根（能力）の優劣を知るために精進し、一切の衆生の心の働きを知るために精進し、一切の法界を知るために精進し、一切の仏法の根本の性質を知るために精進し、一切の仏法の平等性を知るために精進し、三世（過去・現在・未来）の平等性を知るために精進し、一切の仏法の智慧の光明を得るために精進し、一切の仏法の智慧を証得するために精進し、一切の仏法の一つの真実の相（実相）を知るために精進し、一切の仏法の果てしなさを知るために精進し、一切の仏法について広大で確固たる善巧な智慧を得るために精進し、一切の仏法の言葉と意味を分別し説き明かす智慧を得るために精進するのです。 仏子よ、菩薩摩訶薩がこのような精進の行を成就したとき、もし人がこう言ったとしましょう。 「あなたは、無数の世界のすべての衆生のために、それぞれの衆生一人一人の故に、阿鼻地獄において無数の劫の間、あらゆる苦しみを受けることができるか。その衆生たち一人一人が、無数の諸仏が世に出現されることに値遇し、仏に会うことを縁として、あらゆる楽しみを受け、ついには無余涅槃に入るまで。そうして初めて、あなたは阿耨多羅三藐三菩提（無上正等覚）を成就するのだ。それができるか？」 菩薩は「私にできます」と答えます。 もしさらに人がこのように言ったとしましょう。 「無量阿僧祇の大海がある。あなたは一つの毛の先でその海の水を滴り落として尽くさねばならない。無量阿僧祇の世界がある。それをすべて粉塵に砕く。その滴と塵を一つ一つ数え、その数をすべて知らねばならない。衆生のために、それほどの劫の間、念々に苦しみを受け続けなければならない。」 菩薩はこの言葉を聞いて、一瞬たりとも後悔や恨みの心を起こすことはありません。むしろさらに増上して歓喜し踊り上がり、深く自ら慶び幸いを感じます。「私の力によって、あの衆生たちが永遠にあらゆる苦しみから脱することができるのだ」と。 菩薩はこの行うところの方便によって、一切の世界において、一切の衆生をして究竟の無余涅槃に至らしめるのです。これを菩薩摩訶薩の第四「不屈撈行」と名づけます。

「佛子！何等為菩薩摩訶薩離癡亂行？此菩薩成就正念，心無散亂，堅固不動，最上清淨，廣大無量，無有迷惑。以是正念故，善解世間一切語言，能持出世諸法言說。所謂：能持色法、非色法言說，能持建立色自性言說，乃至能持建立受、想、行、識自性言說，心無癡亂。於世間中，死此生彼，心無癡亂；入胎出胎，心無癡亂；發菩提意，心無癡亂；事善知識，心無癡亂；勤修佛法，心無癡亂；覺知魔事，心無癡亂；離諸魔業，心無癡亂；於不可說劫，修菩薩行，心無癡亂。此菩薩成就如是無量正念，於無量阿僧祇劫中，從諸佛、菩薩、善知識所，聽聞正法。所謂：甚深法、廣大法、莊嚴法、種種莊嚴法、演說種種名句文身法、菩薩莊嚴法、佛神力光明無上法、正希望決定解清淨法、不著一切世間法、分別一切世間法、甚廣大法、離癡翳照了一切眾生法、一切世間共法不共法、菩薩智無上法、一切智自在法。菩薩聽聞如是法已，經阿僧祇劫，不忘不失，心常憶念，無有間斷。何以故？菩薩摩訶薩於無量劫修諸行時，終不惱亂一眾生，令失正念；不壞正法，不斷善根，心常增長廣大智故。復次，此菩薩摩訶薩，種種音聲不能惑亂。所謂：高大聲、麁濁聲、極令人恐怖聲、悅意聲、不悅意聲、諠亂耳識聲、沮壞六根聲。此菩薩聞如是等無量無數好惡音聲，假使充滿阿僧祇世界，未曾一念心有散亂。所謂：正念不亂、境界不亂、三昧不亂、入甚深法不亂、行菩提行不亂、發菩提心不亂、憶念諸佛不亂、觀真實法不亂、化眾生智不亂、淨眾生智不亂、決了甚深義不亂。不作惡業故，無惡業障；不起煩惱故，無煩惱障；不輕慢法故，無有法障；不誹謗正法故，無有報障。佛子！如上所說如是等聲，一一充滿阿僧祇世界，於無量無數劫未曾斷絕，悉能壞亂眾生身心一切諸根，而不能壞此菩薩心。菩薩入三昧中，住於聖法，思惟觀察一切音聲，善知音聲生、住、滅相，善知音聲生、住、滅性。如是聞已，不生於貪，不起於瞋，不失於念，善取其相而不染著；知一切聲皆無所有，實不可得，無有作者，亦無本際，與法界等，無有差別。菩薩如是成就寂靜身、語、意行，至一切智，永不退轉；善入一切諸禪定門，知諸三昧同一體性，了一切法無有邊際，得一切法真實智慧，得離音聲甚深三昧，得阿僧祇諸三昧門，增長無量廣大悲心。是時，菩薩於一念中，得無數百千三昧，聞如是聲，心不惑亂，令其三昧，漸更增廣。作如是念：『我當令一切眾生安住無上清淨念中，於一切智得不退轉，究竟成就無餘涅槃。』是名菩薩摩訶薩第五離癡亂行。

> 仏子よ。いかなるものが菩薩摩訶薩の「迷いと乱れを離れる行」であるか。 この菩薩は正しい念いを成就し、心に散乱なく、堅固で動かず、最も優れた清らかさを持ち、広大無量で、迷いがない。この正念によって、世のあらゆる言葉をよく理解し、出世間の諸法の言説を保つことができる。すなわち、色法・非色法の言説を保ち、色の自性を立てる言説を保ち、さらには受・想・行・識の自性を立てる言説までも保つことができ、心に迷いと乱れがない。 世の中で、死にここに生まれあそこに生まれても、心に迷い乱れがない。胎に入り胎を出ても、心に迷い乱れがない。菩提心を発しても、心に迷い乱れがない。善知識に仕えても、心に迷い乱れがない。仏法を勤修しても、心に迷い乱れがない。魔事を覚知しても、心に迷い乱れがない。諸々の魔業を離れても、心に迷い乱れがない。説き尽くせない劫の間、菩薩行を修めても、心に迷い乱れがない。 この菩薩はこのような無量の正念を成就し、無量阿僧祇劫の間、諸仏・菩薩・善知識のもとで正法を聞く。すなわち、甚深の法、広大の法、荘厳の法、種々荘厳の法、種々の名句文身を演説する法、菩薩荘厳の法、仏の神力光明無上の法、正しい希望決定解清浄の法、一切世間の法に執着しない法、一切世間の法を分別する法、甚だ広大の法、迷いの翳を離れて一切衆生の法を照らし了知する法、一切世間の共法・不共法、菩薩の智無上の法、一切智自在の法である。 菩薩はこのような法を聞いた後、阿僧祇劫を経ても忘れず失わず、心に常に憶念し、間断がない。なぜか。菩薩摩訶薩が無量劫の間、諸々の行を修める時、終に一衆生をも悩まし乱して正念を失わせず、正法を壊さず、善根を断たず、心に常に広大な智慧を増長させるからである。 さらに、この菩薩摩訶薩は、種々の音声によって惑わし乱されることがない。すなわち、高い大きな声、荒く濁った声、極めて人を恐怖させる声、悦ばしい声、悦ばしくない声、耳識を騒がしく乱す声、六根を沮え壊す声である。この菩薩はこのような無量無数の善悪の音声を聞いても、たとえそれが阿僧祇世界に満ち満ちたとしても、一念の間も心に散乱を生じたことがない。すなわち、正念が乱れず、境界が乱れず、三昧が乱れず、甚深の法に入ることが乱れず、菩提行を行ずることが乱れず、菩提心を発することが乱れず、諸仏を憶念することが乱れず、真実の法を観ずることが乱れず、衆生を化導する智慧が乱れず、衆生を清浄にする智慧が乱れず、甚深の義を決了することが乱れない。 悪業を作らないゆえに、悪業の障りがない。煩悩を起こさないゆえに、煩悩の障りがない。法を軽んじ慢らないゆえに、法の障りがない。正法を誹謗しないゆえに、報いの障りがない。 仏子よ。上に説いたようなこれらの声が、一つ一つ阿僧祇世界に満ち、無量無数の劫の間、断絶することなく、すべて衆生の身心一切の諸根を壊し乱すことができても、この菩薩の心を壊すことはできない。菩薩は三昧に入り、聖法に住して、一切の音声を思惟し観察し、音声の生・住・滅の相をよく知り、音声の生・住・滅の性をよく知る。このように聞いても、貪りを生ぜず、瞋りを起こさず、念いを失わず、よくその相を取っても染着せず、一切の声はすべて無所有であり、実に得るべきものなく、作者もなく、また本際もなく、法界と等しく差別のないことを知る。 菩薩はこのように寂静なる身・語・意の行を成就し、一切智に至って永遠に退転せず、よく一切の諸禅定門に入り、諸三昧が同一の体性であることを知り、了一切の法に辺際のないことを了知し、一切法の真実の智慧を得、音声を離れた甚深の三昧を得、阿僧祇の諸三昧門を得て、無量広大の悲心を増長する。 この時、菩薩は一念のうちに無数百千の三昧を得、このような声を聞いても心が惑わされず、その三昧を次第にさらに増大広広ならしめる。そしてこのように念うのである。「私は一切の衆生を無上の清浄なる念いの中に安住させ、一切智において不退転を得させ、究竟して無余涅槃を成就させよう」と。 これを菩薩摩訶薩の第五「迷いと乱れを離れる行」という。

「佛子！何等為菩薩摩訶薩善現行？此菩薩身業清淨、語業清淨、意業清淨，住無所得、示無所得身語意業，能知三業皆無所有、無虛妄故，無有繫縛；凡所示現，無性無依；住如實心，知無量心自性，知一切法自性，無得無相，甚深難入；住於正位真如法性，方便出生而無業報；不生不滅，住涅槃界，住寂靜性；住於真實無性之性，言語道斷，超諸世間，無有所依；入離分別無縛著法，入最勝智真實之法，入非諸世間所能了知出世間法。此是菩薩善巧方便，示現生相。佛子！此菩薩作如是念：『一切眾生，無性為性；一切諸法，無為為性；一切國土，無相為相。一切三世，唯有言說；一切言說，於諸法中，無有依處；一切諸法，於言說中，亦無依處。』菩薩如是解一切法皆悉甚深，一切世間皆悉寂靜，一切佛法無所增益。佛法不異世間法，世間法不異佛法；佛法、世間法，無有雜亂，亦無差別。了知法界體性平等，普入三世，永不捨離大菩提心，恒不退轉化眾生心，轉更增長大慈悲心，與一切眾生作所依處。菩薩爾時復作是念：『我不成熟眾生，誰當成熟？我不調伏眾生，誰當調伏？我不教化眾生，誰當教化？我不覺悟眾生，誰當覺悟？我不清淨眾生，誰當清淨？此我所宜、我所應作。』復作是念：『若我自解此甚深法，唯我一人於阿耨多羅三藐三菩提獨得解脫；而諸眾生盲冥無目，入大險道，為諸煩惱之所纏縛。如重病人恒受苦痛，處貪愛獄不能自出，不離地獄、餓鬼、畜生、閻羅王界，不能滅苦，不捨惡業，常處癡闇，不見真實，輪迴生死，無得出離，住於八難，眾垢所著，種種煩惱覆障其心，邪見所迷，不行正道。』菩薩如是觀諸眾生，作是念言：『若此眾生未成熟、未調伏，捨而取證阿耨多羅三藐三菩提，是所不應。我當先化眾生，於不可說不可說劫行菩薩行；未成熟者，先令成熟；未調伏者，先令調伏。』是菩薩住此行時，諸天、魔、梵、沙門、婆羅門，一切世間乾闥婆、阿脩羅等，若有得見，暫同住止，恭敬尊重，承事供養，及暫耳聞，一經心者；如是所作，悉不唐捐，必定當成阿耨多羅三藐三菩提。是名菩薩摩訶薩第六善現行。

> 仏子よ、菩薩摩訶薩の「善現行」とは何か。この菩薩は身の行いも清らか、言葉も清らか、心も清らかである。何も得るものがない境地に住み、身・口・意の三業も得るものがないことを示す。三業はすべて実体がなく、虚妄ではないと知るゆえに、束縛されることもない。すべての示現は自性がなく、よりどころがない。真実の心に住し、無量の心の自性を知り、一切の法の自性を知る。得るものもなく、相もなく、深遠で入り難い。正しい位である真如の法性に住し、方便によって現れながらも業報を受けない。生ずることも滅することもなく、涅槃の世界に住し、寂静の性質に住する。真実にして自性なき性に住し、言葉の道は断たれ、すべての世間を超え、よりどころとするものがない。分別を離れ、束縛や執着のない法に入り、最勝の智である真実の法に入り、いかなる世間も理解し得ない出世間の法に入る。これが菩薩の善巧方便であり、生の相を示現することである。 仏子よ、この菩薩はこのように思う。「一切の衆生は、無性を性とする。一切の諸法は、無為を性とする。一切の国土は、無相を相とする。一切の三世は、ただ言説のみである。一切の言説は、諸法の中に依る処がない。一切の諸法も、言説の中に依る処がない。」菩薩はこのように、一切の法はすべて甚深であり、一切の世間はすべて寂静であり、一切の仏法には何も増すものがないと理解する。仏法は世間法と異ならず、世間法も仏法と異ならない。仏法と世間法には乱れもなく、差別もない。法界の体性が平等であることを了知し、三世に普く入り、大菩提心を永遠に捨てず、常に退転することなく衆生を教化する心を増長させ、大慈悲心をさらに大きくし、一切の衆生のよりどころとなる。 菩薩はその時さらにこのように思う。「私が衆生を成熟させなければ、誰が成熟させるのか。私が衆生を調伏しなければ、誰が調伏するのか。私が衆生を教化しなければ、誰が教化するのか。私が衆生を覚悟させなければ、誰が覚悟させるのか。私が衆生を清浄にしなければ、誰が清浄にするのか。これは私にふさわしいこと、私がなすべきことである。」さらにこのように思う。「もし私だけがこの甚深な法を理解し、私一人だけが阿耨多羅三藐三菩提を得て解脱するならば、衆生は盲目の目を持ち、険しい道に入り、煩悩に縛られることになる。重い病人のように常に苦痛を受け、貪愛の牢獄にいて自ら出ることができず、地獄・餓鬼・畜生・閻魔王の世界を離れず、苦を滅することができず、悪業を捨てず、常に愚痴の闇に住み、真実を見ず、生死を輪廻し、出離することができず、八難に住み、多くの汚れに染まり、種々の煩悩が心を覆い隠し、邪見に迷って正道を行じない。」 菩薩はこのように衆生を観て、このように思う。「もしこの衆生が未成熟で未調伏のまま、彼らを捨てて阿耨多羅三藐三菩提を証得するならば、それはふさわしくない。私はまず衆生を教化し、説くこともできないほどの劫の間、菩薩行を行じよう。未成熟の者はまず成熟させ、未調伏の者はまず調伏させよう。」この菩薩がこの行に住する時、諸天・魔・梵天・沙門・婆羅門、一切の世間の乾闥婆・阿修羅など、もし見ることができ、暫く共に住し止まり、恭敬尊重し、承事供養し、あるいは暫く耳に聞き、一度でも心に留めるならば、そのような行いはすべて無駄にならず、必ずや阿耨多羅三藐三菩提を成就するであろう。これを菩薩摩訶薩の第六「善現行」という。

## 大方廣佛華嚴經卷第十九

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