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title: "金剛經解義 · 法會因由分第一"
description: "《金刚经解义》是唐代禅宗六祖慧能对佛教经典《金刚经》的注释与阐释。慧能作为中国禅宗的重要代表人物，其解义融合了禅宗顿悟思想，强调直指人心、见性成佛。该书以通俗易懂的语言解读《金刚经》核心教义，如“应无所住而生其心”“凡所有相皆是虚妄”等，破除执着、倡导无相修行。在佛教史上具有重要地位，既是禅宗思想的重要文献，也为后世理解《金刚经》提供了权威视角，对汉传佛教发展影响深远。"
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### ○法會因由分第一

> 法会の因縁と始まり

如是我聞

> このように私は聞きました。

如者，指義。是者，定詞。阿難自稱如是之法，我從佛聞，明不自說也，故言如是我聞。又我者，性也，性即我也。內外動作皆由於性，一切盡聞，故稱我聞也。

> 「如」とは、意味を指し示します。 「是」とは、確かな言葉です。 阿難が自ら「このような教えは、私は仏から聞きました」と述べたのは、自分で説いたのではないことを明らかにするためです。だから「如是我聞」と言うのです。 また、「我」とは本性のことです。本性こそが真の「我」なのです。 内なる心も外なる行いも、すべてこの本性から起こります。すべてをありのままに聞き入れるからこそ、「我聞」と称するのです。

一時，佛在舍衛國，祗樹給孤獨園，

> あるとき、お釈迦さまは舎衛国の祇園精舎におられました。

言一時者，師資會遇，齊集之時。佛者，是說法之主。在者，欲明處所。舍衛國者，波斯匿王所居之國。祗者，太子名也。樹是祗陀太子所施，故言祗樹也。給孤獨者，須達長者之異名也。園者，本屬須達，故言給孤獨園。佛者，梵音，唐言覺也。覺義有二：一者、外覺觀諸法空；二者、內覺諸心空寂，不被六塵所染，外不見人之過惡，內不被邪迷所惑，故名曰覺，覺即是佛也。

> ある時、師と弟子が一堂に会したときのことです。仏とは、教えを説く主のことです。「在」とは、場所を明らかにするためです。舎衛国とは、波斯匿王が治める国です。「祗」とは、太子の名です。樹は祗陀太子が寄進したものなので、「祗樹」と言います。「給孤獨」とは、須達長者の別名です。園はもともと須達の所有であったため、「給孤獨園」と言います。仏とは、サンスクリット語で、中国語では「覚」を意味します。覚の意味には二つあります：一つは、外に向かって諸法の空なることを観じること。もう一つは、内に向かって心の空寂なることを覚り、六塵に染まらず、外には人の過失や悪を見ず、内には邪迷に惑わされないことです。それゆえに覚と呼ばれ、覚こそが仏なのです。

與大比丘眾千二百五十人俱。

> 大勢の比丘たち、千二百五十人と共に。

言與者，佛與比丘同住金剛般若無相道場，故言與也。大比丘者，是大阿羅漢故。比丘者，是梵語，唐言能破六賊，故名比丘眾多也。千二百五十人者，其數也。俱者，同處平等法會。

> 「与」とは、仏と比丘がともに金剛般若無相道場に住していたことを表します。「大比丘」とは、大阿羅漢であることを意味します。「比丘」は梵語で、中国語では「六賊を破る者」と訳され、多くの比丘が集まっていることを示します。「千二百五十人」はその人数です。「俱」は、同じ場所で平等の法会に参加していることを意味します。

爾時世尊食時著衣持鉢，入舍衛大城乞食。於其城中，

> その時、世尊は食事の時に衣をまとい、鉢を持って、舎衛城の大城に入り、乞食をされた。その城中で、

爾時者，當此之時，是今辰時、齋時、欲至也。著衣持鉢者，為顯教示跡故也。入者，為自城外而入也。舍衛大城者，名舍衛國，豐德城也，即波斯匿王所居之城，故言舍衛大城也。言乞食者，表如來能下心於一切眾生也。

> その時とは、ちょうどこの時、今の辰の刻、朝食の時が近づいた時を指します。衣をまとって鉢を持つというのは、教えを示すための姿を表しています。入るというのは、城外から城内へ入ることを意味します。舎衛大城とは、舎衛国にある豊かな徳のある都、つまり波斯匿王が住む都のことです。乞食というのは、如来がすべての衆生に対して謙虚な心を持つことができることを表しています。

次第乞已，還至本處。飯食訖，收衣鉢，洗足已，敷座而坐。

> 乞食を終え、元の場所に戻りました。食事を済ませ、衣と鉢を片付け、足を洗い、座を整えて坐りました。

次第者，不擇貧富平等以化也。乞已者，如多乞不過七家，七家數滿更不至餘家也。還至本處者，佛意制諸比丘除請召外，不得輙向白衣舍，故云爾。洗足者，如來示現順同凡夫，故曰洗足。又大乘法不獨以洗手足為淨，蓋言洗手足不若淨心一念心淨，則罪垢悉除矣。如來欲說法時常儀，敷施壇座，故言敷座而坐也。

> 次第とは、貧富を選ばず平等に教え導くことです。乞うとは、多くても七軒を超えず、七軒で数が満ちれば他の家には行かないことです。本処に還るとは、仏が比丘たちに、招かれない限り在家の家に勝手に行くことを禁じたので、こう言われたのです。足を洗うとは、如来が凡夫と同じ姿を示されたので、足を洗うと言われます。また大乗の教えでは、手足を洗うだけが清浄ではなく、手足を洗うよりも心を清めることが大切で、心が清らかになれば罪の汚れもすべて除かれるということです。如来が説法される時の常の作法として、座を敷いて座られたので、敷座而坐と言われたのです。