No. 383-A地藏菩薩本願經科註序
一月普現一切水,一切水月一月攝。此言聞者故多,而知者或寡。苟知之,則知地藏菩薩以一身現多身,而多身復一身,初無所作。又經歷無量無邊佛剎微塵數劫,不間一剎那;於一剎那經歷無量無邊佛剎微塵數劫,曾無有異。如是則天堂地獄諸佛眾生苦樂逆順善惡好醜,如谷響鏡華,覓其形相,了不可得。故曰,度盡眾生,實無度者。雖然,其奈六極之類,為無明羂所覆,未出三界,不免妄嬰諸苦。繇是菩薩乘夙願轂,以種種方便而捄度之,使其離苦得樂,以至無上菩提而後已。於戲!此菩薩大慈大悲大孝大願,大威神力,悉不思議。假使以虗空為口,雷霆為舌,盡塵沙劫,讚嘆其無量功德海中一滴之相,猶不能盡,況區區筆墨乎!龍飛戊辰秋,崎陽大德真常公攜浙中運遐椉法師新編地藏經科注,將欲梓行,來謁予序。葢以常公為法檀度,恒與四部眾演說是經,意有在也。予輒然沈啟讀,嘆未曾有。乃知運法師孝德道力精進勇猛,越乎倫類。而且具般若智,獲無礙辨,得非當代教門之領袖,與資生利物,莫越於斯,鍥而傳諸不可後矣。
一月に全ての水に月が現れ、全ての水に映る月は、元は一つの月に収まる。この言葉を耳にする者は多いが、本当に理解する者は少ない。もし理解するならば、地蔵菩薩が一身で多くの身を現し、その多くの身が再び一身に帰することを知るだろう。そこには何らの作為もない。さらに、無量無辺の仏国土の微塵の数の劫を経ても、一刹那の間断もなく、一刹那のうちに無量無辺の仏国土の微塵の数の劫を経ても、少しの違いもない。このように、天堂も地獄も、諸仏も衆生も、苦も楽も、逆も順も、善も悪も、美も醜も、すべて谷の響きや鏡に映る花のようであり、その形や姿を求めても、捉えることは全くできない。だからこそ、「すべての衆生を度したれども、実に度する者はいない」と言うのである。
しかしながら、六道の衆生は無明の網に覆われて、まだ三界を出ておらず、免れずして様々な苦しみを虚しく受けるのである。そこで菩薩は、過去からの誓いの車輪に乗り、様々な方便を用いて彼らを救い、苦しみから離れさせ、楽を得させ、ついには無上の悟りを得させてから止むのである。
ああ、この菩薩の大慈大悲、大孝大願、大威神力は、すべて不可思議である。たとえ虚ろなる大空を口とし、雷鳴を舌として、塵劫の間、その無量の功徳の海の中の一滴の相を賛嘆しても、なお尽くすことはできない。ましてや、豊かな筆墨をもってしても、とても及ぶものではない。
龍飛びたる戊辰の秋、崎陽の大徳・真常公が、浙中にて運遐乗法師が新たに編んだ『地蔵経科注』を携え、これを出版しようとして、私に序文を請いに来られた。常公は法のために檀度を行じ、常に四部の衆のためにこの経を説き、その意図は深いものがある。私はすぐに巻を開いて読み、かつてない感動を覚えた。そこで知ったのだが、運法師の孝徳と道力は、精進勇猛にして、人並みを越えている。しかも般若の智慧を具え、無碍の弁才を得ている。これは当代の教門の指導者であり、生きとし生けるものを利する道は、この教えに勝るものはない。これを版木に彫り、広く伝えることを、後回しにしてはならないのである。
旹貞亨五秊無射月朔日支那嗣祖沙門高泉性潡敬題於佛國方丈